うさぎが逃げる Act.15:リーズン 理由

梶に任せて辿り着いた場所は、個室のある鍋料理の店だった。男三人で鍋をつつきお腹を満たしてのんびりした時間になると、岡嶋は本題を切り出すタイミングを窺っていた。いつまでも続きそうな雑談タイムに終止符を打ったのは、意外なことに一番雑談に興じていた梁瀬だった。

「それで、今日のあれは何ですか? 連れて行かれて説明も無し、一番訳分かんないのはうさぎちゃんの扱いですよ。説明して貰えるんですよね。ここまできて隠し事はごめんですよ。何か面倒なことになってるのはオレでも分かりますけど」
「……どこから話せばいいか少し迷ってる」
「だったらドーンと最初から話せばいいじゃないですか。どうせ時間もあるんだし、明日は仕事も休みな訳だし」

まるで何でも無いようにこういう時に言えてしまうところが梁瀬らしいと思う。そして言われた梶も、一瞬、唖然としたような顔をしていたけど、すぐに苦笑へと変化させる。

「お前らの中で一番素直なのは梁瀬だな」
「え? そうですか? うさぎちゃんの方が素直で可愛いじゃないですか」

確かに彼女は素直ではあるけど……恐らく梶も岡嶋と同じことに気付いているに違いない。チラリと梶が苦笑のままこちらを見るので、岡嶋は肩を竦めて見せた。

「まぁ、素直は素直だけど、言いたいこと全て言うタイプじゃないから」
「そうなの?」
「内気なのか、色々考えすぎてるのか分からないけど、あれ位の年にしたらちょっと変わってるかもね。大人びてると言えば聞こえはいいけど」

時折、あの冷静さが年相応には見えなくて怖くなる、という言葉は辛うじて飲み込んだ。けれども、梁瀬は全く気にした様子もなく腕など組んでうんうんと頷いている。

「まぁ、あの年でネットあれだけ触れるなら、色々見なくていいもの見すぎちゃったんじゃないの?」
「まぁ、そうかもしれないけど」
「家庭環境もあるだろうな。両親共働き、家には常に一人が当たり前の様子だった」

光輝の件があって梶が送り迎えをしていたことは岡嶋の記憶にも新しい。バイトが始まってからも梁瀬が言うには、いつも梶がうさぎを送っていたことも聞いている。恐らく、うさぎの家はいつ梶が送って行っても誰もいなかったのかもしれない。

「あ、そっか、あの時も両親が家にいないって言ってたか。年頃の女の子家に置いて心配じゃないのかね」
「慣れ、じゃないかな。そういうのって続けば続くほど普通になるから」
「それって、結構寂しいよな……」

恐らく寂しいことは確かだとは思う。時折、岡嶋が頭を撫でれば驚いた後に、とても嬉しそうにうさぎは笑う。だからこそ、岡嶋としてはうさぎが気になって仕方ない。寂しさを受け止めて、尚且つ自分を下に置こうとするうさぎを岡嶋としてはどうしても見て見ぬ振りが出来なかった。

他人に思い入れが強い方かと聞かれたら、岡嶋としては間違いなく否定する。けれども、一度うさぎが嗚咽すら押し殺して泣く姿を見てしまったら、もう岡嶋には放っておくことが出来なかった。

「まぁ、それは置いておくとしても、俺たちがあのご老体に会う理由は分かるんですよ。でも、何故あそこまで警戒しないといけなかったのか、それからうさぎちゃんのお友達とあそこで会ってしまって何故不味かったのか、いや、もしかしたら逆かな。梶さんの婚約者にうさぎちゃんを会わせたく無かった、ですか?」
「順番に話す。まず、岡嶋の言うあのご老体は社長である貴美の大おじ、ようは貴美のじいさんの姉弟ってことだな。私と貴美の両親は子連れ結婚だった為に、血の繋がりは無い」
「血の繋がり無いんですか! あんなに似てるのに? っていうか、名前だっていかにもな名前じゃないですか」
「たまたまだ」

始めて聞いた話しだけに岡嶋としても驚きはしたものの、本題はそこでは無い。

「梁瀬、驚きは分かったけど少し黙っててよ、うるさい」
「お前、本当に容赦ねーな」

拗ねる梁瀬は放っておいて、岡嶋が梶へ話しの続きを促せば梶は小さく頷いた。

「前にも言った通り、うちへ出資して貰っている関係で基本的に社内で起きたことは報告義務がある。特にあの時は警備部まで動かしているから報告しない訳にもいかなかった。そしたら寒河江氏が君たちをうちに入れろと言い出した。まぁ、それに関しては私も貴美も反対では無かったし、むしろ寒河江氏に言われるまでも無く、というところだった」

そこまでは岡嶋にだって話しは分かる。聞きたいのはその先で、それは梁瀬も同じなのかビールに口をつけながらも言葉を挟むことはしない。

「だが寒河江氏は事もあろうに君たちの、正確に言えば岡嶋と梁瀬の身辺調査を身内に出した」
「え? うさぎちゃんは?」

岡嶋が問うよりも先に梁瀬が口に出せば、梶は明らかに眉根を寄せた。

「……彼女のことはその時点で寒河江氏には伏せてあったんだ。高校生ということもあったし、知られたら危険だということもあって。だが、身内の調べでグレーのことが公になった。どうなったと思う」
「え? どうだろう……確かにうさぎちゃんの腕は確かだけど高校生だし」
「梁瀬、腕が確かだからこそ年齢は関係無いんだよ。でもこの場合、調べがつかなかったって方が正しいかもしれない」

最初、岡嶋と梶が合流してからグレーについて色々調べてみたけれども、年齢どころか、男か女かすら分からなかった。チャットを思い返しても、どちらとも取れるような言動も多く、結局携帯に連絡が入るまで調べはつかなかった。岡嶋から見ても梶のハッキングレベルは、かなり高いものであることをもう知ってる。けれども、その梶にして尻尾すら掴ませなかったのだからうさぎの腕も確かなものだろう。

「岡嶋の言う通り、見つけられなかったが正しい。だがあの腕は手に入れたい、という訳でうちに依頼が殺到した」
「灯台下暗しって、こういう時使うんであってる?」
「正しいと言えば正しいかもね。ただ、こちらとしては楽しい状況では無いけど」
「だな……で、梶さんたち、どうしたんですか?」

梁瀬の問い掛けに答える前に梶は少し悩んだ様子を見せたけど、梁瀬の前にある瓶ビールを掴む。梶にビールをは注ぐため瓶に手を伸ばしたけれども軽く手で制されて、梶は手酌で空いてるグラスにビールを注ぐと口をつけた。

クーラーがきいているにも関わらず、鍋をやった後だからなのか部屋の中はやけに熱い。先から岡嶋と梁瀬はビールが進んでいたけれども、梶は一口も飲んでいなかったから車で帰るつもりだったに違いない。だとすれば、車で帰ることを諦めた、ということなのだろう。

「貴美と相談して二人で原因である寒河江氏に直談判に行った」
「それでどうなったんですか?」
「一応、来ていた依頼は全て取り消された。ただ、逆に寒河江氏にグレーの存在も明らかになってしまい、パーティーが近いこともあってそこで君たち含めて顔合わせをすることになった」

そしたら、あの騒動になったから梶としても頭が痛い、ということなのだろう。

元々他人の視線に敏感な岡嶋は、かなり色々なところから注目されていることは分かっていた。若い男女からの注目であれば気にもならなかったが、やけに年配の人たちからの視線が多くは訝しく思っていた。そこにうさぎの友人二人が現れた途端、注目度は半端無く高くなったのが岡嶋にも分かった。

「あの時点で、俺と梁瀬の顔は知られてたんですね」
「そういうことだ。だが、君たちと一緒に彼女がいたところで大した問題にはならないだろうと踏んでいた。少なくとも私や貴美といるよりも注目は浴びないと思っていたのだが、沙枝さんの登場で一気に空気が変わった」
「あぁ、婚約者! っていうか、高校生の婚約者って詐欺じゃありません?」

声を大にして言う梁瀬に、梶は珍しく本気で嫌そうに顔を歪める。ここまで表情を露わにする梶は本当に珍しいし、少なくとも短い付き合いではあるが岡嶋はそこまであからさまな表情を見るのは始めてのことだった。

「寒河江氏に勧められて仕方なくだ。高校生の熱病だから婚約だけでもと言われてな」
「でも、彼女がうさぎちゃんと同じ学校に通ってるのは分かっていたんですよね」
「あぁ、知ってた。だが、彼女たちが友人ということにまで気が回らなかった。正直、時折婚約していることすら忘れるくらい彼女との接点は無いんだ。それこそ年に一度会うか会わないかくらいで」
「それでよく婚約しましたね」

つい呆れた声になってしまったけど、梶はそれに対して憮然としている。

「会社の金を引き上げられると寒河江氏に脅されてたんでな」
「じいさん、えげつねー」
「狡猾な年寄りっていうのはそういうものだよ。でも、梶さんにしては随分な手落ちで」

それは梶も感じてはいたのか言い訳はしない。

少しの間沈黙が落ち、それぞれがグラスに口をつける。けれども、生温くなったビールほど美味しく無いものは無い。岡嶋は瓶ビールを改めて二本頼むと、到着したビールで梶と岡嶋のグラスに注ぐ。

「一応、言い訳聞きたいんですけど。うさぎちゃんと婚約者の関係洗い出しが手落ちになった理由」
「正直、あの事件以来忙しくてな。実はルナスペースから彼女の引き抜きオファーが来たり、どこから聞きつけてきたのか他の企業からも声が掛かったりでそちらに手を取られていたのが現状だ」
「すげー、ルナスペースからって……うさぎちゃんって、滅茶苦茶凄い人?」
「本人に自覚無いのが難点だけどね」

そう、恐らくうさぎ本人は自分がどういう立場に立っているのか全く分かっていないに違いない。

「それから嫌がらせだな」
「うさぎちゃんを囲い込んだからですか?」
「いや、そこはまだ知られていないから問題は無い。どちらかといえば婚約者だ」
「あー、あのパーティから考えても滅茶苦茶グループでかそうですもんね。面倒くさそう」

恐らくあのパーティの何割が一族の人間だったのか考えるだけでも頭が痛い。そして、寒河江の後がまを狙っているとすれば面倒には違いない。しかも梶は脅されて婚約しただけなのだから、楽しい立場では無いだろう。

「婚約については同情しますよ、一応」
「一応、か」

苦笑する梶に対して、岡嶋の目が冷たくなってしまうのはうさぎの気持ちを知ってしまったからというのが大きいのかもしれない。今頃、誰もいない家でうさぎは一人でどうしているのか心配ではあった。

「避けようはあった筈ですし、今、あの会社がそこまで資金提供を必要とは思えませんし」
「会社というのは少し金がある程度では動かせない。特にうちみたいなグレーな所が多い会社はな」
「まぁ、そのグレーな所に助けられた俺としては大きなことは言えませんよ。それで、今後はどうするつもりだと」
「一応、外部からの引き抜きは寒河江氏がお断りしてくれることになったので負担は減った。まぁ、元を正せば寒河江氏ではあるがな」

梶の言い方を聞いていると、そこはかとなく寒河江に対して不満があることが見え隠れする。確かに身内の揉め事ほど面倒なものは無く、幾つもの婚約を親の押しつけでさせられた岡嶋にも分からないでもない。

「大きい家って面倒だな。オレ、普通の家で良かった」

そう言って笑う梁瀬の家も、普通とは言えない旧家なのだが、親の方針なのか親類関係の付き合いは余り無いことを岡嶋は聞いている。それこそ、旧家レベルで言えば岡嶋の家よりも梁瀬の家の方が古くからある家だし、一応親類には政治家にもなった家もあると知っている。ただ、梁瀬がそれを知っているのかどうかまで確認したことは一度たりとも無かったが……。

「まぁ、色々事情は分かったけど、オレは何すればいいんですかねー」

梁瀬のこの緊張感の無さは、いつものことながら聞いているだけで気が抜ける。

「一応、彼女にはうちの警備をつけてあるから何かあれば連絡があるだろう。君は普通に仕事をしてくれたらいい」
「仕事、仕事かー。また明後日からは地獄の日々が~」
「あれくらいで音を上げられたら困るんだがな」

苦笑する梶に対して梁瀬は完全に萎れていて、その対比を見ていると少しおかしい。確かに今日見た限りでは、かなり厳しく梶にやられているに違いない。うさぎも少しとは言っていたけど、うさぎが少しというくらいであればかなりザックリとやられている可能性はある。

「もう、夢にまでプログラム言語が追いかけてくるんですけど」
「梁瀬なら、それくらい頭使っておいた方がいいよ。普段頭なんて使ってないんだから」
「酷すぎる……」

すっかりテーブルと仲良くなった梁瀬を慰めることもせずに梶に視線を向ければ、視線に気付いた梶がこちらを向いてその視線が合った。

「もし婚約が結婚になったらどうするつもりですか? 少なくとも、あの子は梶さんに本気だった様に見えましたけど」
「するしかないだろうな。婚約というのはそういうものだ」
「えー、好きでもないのに結婚しちゃうんですか!」

ガバリと勢い良く起き上がった梁瀬の顔は結構真剣だ。まぁ、今結婚を考えている相手がいる梁瀬にとって、梶の言葉は信じられないに違いない。岡嶋としてはそれはそれでありだと思うが、ただ、そうなればうさぎは泣く事になるだろう。うさぎが彼女たちを大切にしているのは遠慮無い会話からも分かったし、もし梶の気持ちを知れば友人の為にやっぱり傷つくに違いない。

「何かもしそういうことになったら、あの子に同情しちゃうなー」
「私に同情は無しか?」
「こういう時、傷つくのは絶対に女の子の方ですから! それにあの子、そういう理由で婚約してるって知らないんじゃないんですか?」
「あぁ、寒河江氏に口止めされてるからな」
「うわー、ますます可哀想ですよ。やっぱり梶さんには同情無理ッス。やっぱり結婚するなら好きな子と一緒に暮らして、家に帰ったらホッとするような家庭が一番ですよ。どうせなら自分が幸せにしてあげたいじゃないですか」

どうやら梁瀬は酔っぱらいに片足を突っ込んだらしい。

そもそも同情の度合いとしては好きな子云々では無く、事情を知ってるか、知らないかということだけで大きく違う。梶と彼女の二人だけを対象にするのであれば、この場合、同情されるのは間違いなく彼女であって梶では無い筈だと岡嶋は酔っぱらいである梁瀬の言い分に呆れながらも考えてみる。

そのままのろけに走るだろう梁瀬を横目で見ながら、岡嶋は先より多少マシ程度のビールを口に含む。先程よりも苦く感じるのは、あの動揺したうさぎの顔を思い出してしまったせいかもしれない。

梁瀬ののろけを聞かされている梶は辟易した様子だったが、それでも相槌を打っている辺り悪い人では無いのだと思う。

「梶さん」

梁瀬に向けていた顔をこちらに向けた梶に、岡嶋は一言だけ言った。

「婚約、余り甘く見ない方がいいですよ」
「どういうことだ?」
「本気になった女の子は怖いってことです」

意図が読めない様子の梶に岡嶋はそれ以上言うことはせず、手にしていたグラスを再びあおった。

* * *

目が覚めた瞬間、頭も目も顔も痛くて部屋の姿見で見ればどうにもならないくらいぐちゃぐちゃな顔をしていて、うさぎは苦く笑うしかない。昨日、帰ってきて化粧も落とさず泣きながら寝たものだから、顔は全体的に赤くなってるし、目は完全に腫れている。着替えを持って階下へ降りてもやっぱり誰もいなくて、風呂の掃除をしてお湯を溜める。

洗面所で改めて鏡を見たけど、顔は赤くなっているだけじゃなくあちらこちらに吹き出物まで出来ていて大きく溜息をついた。夢の時間が本当に終わったんだと、鏡の中にいる自分に突きつけられた気がした。

お湯が溜まる間にキッチンで水を飲むと、リビングのカーテンを開けた。既に昼の日差しになっていて、どれだけ寝ていたのか考えればこの頭の痛みの理由も分かる。温かいを通り過ぎて夏の暑い日差しを避けるように日陰へ退避すると、うさぎは手にしていたグラスに残っていた水を一気に飲み干す。冷たい水は身体を冷やして少しだけ気分が上向きになった気がする。

とにかく風呂に入って、身体もすっきりしたら荷物を片付けないといけない。それから気分が向いたら秋葉原にでもいって先日父親から貰った残りのお金でパソコンのパーツを買って来よう。そうすれば、いつもと変わらない日常になる筈。それに昨日会ったあの男についても調べないといけない。

気持ちを切り替えて一歩踏み出したところで、うさぎは先日書いたばかりの誓約書を思い出して足を止める。

……ハッキングしないで調べるって一体、どうやって調べる?

そんなこと、うさぎには分からない。思い出そうとしても、うさぎは高校生になる前からハッキングを日常としていたから、ネットである程度調べると最終的にハッキングして調べることが普通になっていた。

折角浮上した気分も再び下向きになり、うさぎは気落ちしたまま風呂に入った。洗顔フォームで顔を洗うと多少染みたけど、これでもかというくらい身体を洗い、風呂に浸かると冷たい水で冷やしたタオルを目元に当てた。冷たさにゾクリとしたけどそれは一瞬のことで、熱いお湯の中で冷たいタオルは気持ちがいい。

自然とうさぎの口から溜息が漏れた。

これはさすがに梶に言うべきなんだろうか。恐らく、あの男を使ってラストが接触してきた事実だけは分かるけど、その意図が読めない。
一体何を考えているんだか……。

考えたところで分からないものは分からない。けれども調べることも出来ないのは酷くもどかしく、うさぎとしては溜息をつくしかない。

手段はあるのに使えないというのは一番腹立たしい。けれども、沙枝の友人という位置を捨ててまでハッキングに手を出そうとは思えなかった。それくらい、うさぎにとっては沙枝の友人としての位置は上位でもあった。ハッキングも恋心も捨てられるくらいには――――。

とりあえず、今日は秋葉原にでもいってパーツ買って来て、パソコン直してハッキングしないでも調べられる程度のことはしておきたい。例え無駄足になったとしても、今のうさぎにはその方法しか取りようが無かった。

少しのぼせ気味になりながら風呂から上がると、下着姿のままドライヤーで髪を乾かす。もう昨日の名残はどこにもない、いつものうさぎが鏡に映る。

振り切るように鏡の前から移動すると、デニムとキャミソール、前開きタンクトップを重ね着すると部屋に戻りいつも持ち歩いているバッグを開けようとしたところで、昨日、ドレスと合わせて用意して貰ったバッグも目に入る。何の気無しに赤と黒のツートンカラーのバッグを開ければ、昨日貴美が言った通り、その中にはハンカチ、ティッシュ、ウエットティッシュが入っていて、一番奥底に麻紀から貰ったピンクの口紅が出て来た。

少し悩んでからうさぎはそれを手にすると、姿見の前でキャップを開けて唇に塗ってみる。でも、麻紀がやったように上手くいく筈もなく、しばらく自分の唇を眺めていたうさぎだったけれども溜息をついて口紅を机の上に置くと、ティッシュで唇を拭った。昨日はあれだけ似合ったのに、今日は何だか似合わない気がした。でも、始めての口紅はうさぎにとって特別で、一番上の引き出しを開けるとその中に大切にしまった。

それから小振りのショルダーバッグを用意すると、財布やあと数日で切れる定期や小物類を詰め込む。日差しの強さを見て、しっかりと日焼け止めを塗るとうさぎは部屋を後にした。下駄箱の上にある鍵置場から家の鍵を手にすると、少し悩んでから踵が余り高く無いミュールに足を入れると玄関に出しっ放しになっていたパンプスを下駄箱の中に入れた。次に履く機会があるのかは分からないけど、でも、あのパンプスを見る度に梶のことを思い出すに違いない、そう思うとうさぎは苦しくおもいながらも下駄箱の扉を閉めた。

玄関のを開けた途端、夏特有のむわりとした空気が纏わりつき汗が滲む。手にしていたキャスケットを被ると、余りの熱さに負けて結んでいなかった髪を一つに纏めると門から出ようとしたところで、一人の男が立っていることに気付き足を止める。

「桜庭さん」
「……どうしてここへ?」

驚きながらも普段と変わらない声で聞けば、少し困ったような顔で笑う。こうして見ると、やっぱり兄弟だけあって梁瀬によく似ていた。

「あの……実は、相談があって」
「私に相談ですか?」

少なくとも一つ上の光輝に相談されるようなことはうさぎに一つも思いつかない。

「実は兄貴のことで……」

梁瀬のことだと言われると、揺らがないと思っていたうさぎの気持ちが多少なりとも揺らぐ。思っていたよりも、もう自分の中で梁瀬は大切な人に入っていたらしく、そんな自分の変化にうさぎは内心苦笑するしかない。確かに、梁瀬はいい人だと思う。

「少しだけ時間貰ってもいいかな。だって、桜庭さん多少なりとも兄貴と付き合いあるでしょ?」

警戒しない訳では無かったけど、梁瀬の名前を聞いて放っておけるほどうさぎも無関心にはなれなかった。しかし、あれだけ警戒心を露わにしていた梁瀬が光輝にうさぎとの付き合いを言うだろうか。納得しかねる状況ではあったけれども「外でなら」といううさぎの言葉に光輝は笑顔を見せた。

家から駅前まで歩く間、光輝は浮かれたように幾つも幾つも質問を投げかけてくる。それを適当に答えながらも、うさぎは選択を誤ったのではないかと徐々に後悔し始めていた。

「あの、駅前のカフェでいいですか?」

遮るようにうさぎが聞けば、笑顔で光輝は答えたけど落ち着いた微笑みは梁瀬とはまるで違うものだった。先程の困ったような笑みは確かに梁瀬と似ていると思ったに何だか不思議な気がする。正直、あの梁瀬と同じ兄弟とは思えないくらい明るさとは遠いものに見えた。

手近なカフェに入れば、店内はクーラーがきいていてかなり涼しい。汗ばむ肌には気持ちよくて、窓際の席に腰を落ち着けるとうさぎはアイスティーを、そして光輝はアイスコーヒーを頼んだ。会話する間もなく運ばれてきたアイスティーは、味はともかく冷たくて喉越しの良いものだった。グラスをテーブルに置けば、カランと氷のあたる涼しげな音がうさぎの耳に届く。

「それで、何の相談でしょうか」
「実はこれが家のポストに投函されて」

そう言って光輝は小さな茶封筒をテーブルに置くとそれをうさぎに差し出してきた。

「中を見ても?」
「えぇ」

中に入っていたのは写真らしく、裏返しにされた写真を見た途端、うさぎは再び写真を裏返しにしてからテーブルの上に置いた。

「……そういう写真であれば事前に教えて下さい」
「あぁ、すみません」

光輝は謝っているものの、どうにも本気で謝っているようには見えない。どこか楽しまれているような雰囲気すら感じて、うさぎとしては嫌な感じだった。

写真に写っていたのは梁瀬と見知らぬ女性のベッドシーンだった。局部が映っていた訳では無かったけれども、うさぎには刺激が強すぎるものに感じた。別にネットにいればこういう映像を見ることは少なく無い。けれども、知人のそういう写真ともなれば話しは全く別だ。

「実は兄貴には結婚を考えている彼女がいるんですけど、その写真に写ってる彼女とは別人で……女の子からしたらやっぱりそういうのって嫌だよね」

嫌かと聞かれたところで、うさぎは梁瀬の彼女では無いのだから答えるには困る。

「人それぞれじゃないですか、私は嫌ですけど。それでこの写真がポストに投函されたから何ですか? お兄さんに伝えればいいと思いますけど」
「実は兄貴、親と折り合いが悪くて家には何年も戻ってなくて、俺ももうしばらく会ってないから最近の様子が聞きたくて」
「最近の様子、と言えるほど梁瀬さんとの付き合いはありませんけど」
「でも、一緒に食事に行ったりしてるよね」

……何故、光輝がそのことを知っているのか。そう考えた時に背筋に汗が伝い、ゾクリとして思わず小さく身震いする。

「私、どこかで先輩と一緒になったことありましたか?」
「……噂でね」

何だかうさぎは目の前に座って大人びた笑みを浮かべる光輝を前にして徐々に落ち着かない気分になってくる。

「別にそんなに付き合いありませんよ」
「本当に?」
「……私が梁瀬さんと食事に行こうと先輩には関係無いと思うんですけれども」

うさぎがそう言った時の光輝の表情は何とも言えないものだった。多分、こういうのを薄ら笑いというのかもしれない。

「それにそういう問題であれば、私に言うのは筋違いです。これから出掛けなければいけないので失礼します」

立ち上がったところで名前を呼ばれて、座ったまま薄く笑みを浮かべる光輝を見下ろす。

「この間の彼、本当に付き合ってるの?」

その問い掛けにうさぎは何も答えず、鞄から財布を取り出し千円札をテーブルに置くとそのままカフェを後にした。先輩に対して失礼な態度だとは思いはしたものの、うさぎとしては謝りに引き返す気分にはなれなかった。先まで外にいれば暑かった筈なのに、外に出てホッと息をつくと腕には鳥肌が立っていたことに気付く。確かにクーラーも随分ときいていたけど、光輝と話していたことで寒気が襲ったのは確かだった。

何故うさぎが梁瀬と食事に行ったりすることを知っているのか、そして何故あの写真をあえてうさぎに見せたのか、思考すらもモヤモヤとしていて気持ち悪くて腕を擦りながら足早に電車へ乗り込んだ。

今度、光輝に梶が恋人であるか聞かれた時どう答えるのか、うさぎは考えただけで気が重くなる。今の状況を考えれば梶の名前を借りていたいけれども、沙枝の気持ちを考えたらそんなことは出来る筈もない。

電車に乗ってすぐ携帯が鳴り出し、また光輝だったら嫌だと思っていれば振動はすぐに止まった。メールを確認するためにうさぎは携帯の画面に視線を落とせば、そこに表示されているのは岡嶋の名前だった。

タイトルは夕飯一緒にどうという誘いの言葉で、本文を開けばうさぎの最寄り駅で構わないから一緒に夕飯を取らないかという誘いだった。うさぎは少し悩んでから岡嶋に秋葉原に向かっている所なので、秋葉原でも最寄り駅でもどちらでも構わない旨を書いてメールを送る。すぐにメールは返って来て、一度レッスン場を出る時に連絡を入れるということだった。

ラストのことはともかく、梁瀬のことは岡嶋に相談するべきか悩んでいる内に秋葉原へと到着してしまい、うさぎは一旦そのことを保留にするとパソコンの中身を買う為に改札口を抜けた。

色々な店を回り必要な物を買いそろえれば、荷物は紙袋二つと結構な量になっていた。中身が小さくても箱が大きいのがパーツの難点かもしれない。それでも、この間のようにすぐにパソコンに組み込める訳でも無いので箱を捨てる訳にも行かず、足を休めるためにパーツ屋から程近く、駅から少し離れたファーストフードに入った。別にお腹は空いてないこともあって、珍しくコーラを頼むとうさぎはストローのささったカップを持って二階席へ上がった。

カウンターになっている窓際に落ち着くと、車通りの多い通りをぼんやりと眺めながらコーラを飲んだ。久しぶりに飲んだ炭酸ものは喉に痛くて、けれども少しだけ涼しくなったように思えるから不思議だ。

そこで再び携帯がメールの着信を知らせ、携帯を取り出しメール画面を表示させれば見覚えのないアドレスがあり、そのタイトルに微かに眉根を寄せる。「グレーへ」となっているそのタイトルだけで十分に不穏な空気を孕んでいた。

まだ沙枝や利奈にも携帯が壊れてるからとアドレスも教えていないし、知っているのは梶と貴美、そして岡嶋と梁瀬の四人のみだった。

メールを開けば本文には、遊ぼう、という一言と共に、例のチャットのアドレスが表示されていた。もうハッキングはしないと決めた。だから、あのチャットへ行くつもりは無い。けれども、果たしてこのメールを送りつけてきた人物は、一体どうしてこの携帯をうさぎのものだと知ったのか、考えるだけで憂鬱になってくる。

光輝だけでも面倒に感じているのに、更に謎の男が現れて、今度はメールとくればうさぎとしても気持ちが落ち着かない。別にあの四人を疑うつもりはないけど、あの四人にこのことを言うべきか考えるだけで気が重くなってくる。

携帯の画面を見ていれば、新着メールのお知らせがあり、今度こそ岡嶋からのもので本文を開けた。

『Tiltle:到着
今、秋葉原にいます、電話下さい。』

そのメールにホッとしながら、うさぎはメールを全て閉じると岡嶋の携帯に電話を掛けようとして、その指が止まる。もし、ハッキングされているのだとしたら、うさぎからメールを送れば岡嶋にも害が及ぶのではないか。それを考えるとボタンを押す指は躊躇したけれども、既にハッキングされているのであればもう今更でもあった。ログを見られたら、誰と連絡しているかなんてことは既に知られているに違いない。

追いつめられて余裕が無いことを自覚しながらもボタンを押せば、コール二回で岡嶋は電話に出た。

「もしもし、うさぎちゃんどこにいるの?」
「岡嶋さんこそ、今どこにいます?」
「俺は駅にいるけど、どうする」
「そしたら一旦駅に戻ります。五分ほど待ってて貰えますか」

それに対して岡嶋は今いる場所を伝えてくると、うさぎは返事をして電話を切った。

今、一人でいるのが怖かった。だからこそ、まだ二、三口しか飲んでいないコーラを分別してゴミ箱へ捨てると、すぐに店を出て駅に向かう。人通りが多いから大丈夫だと思っているのに、暑さではない汗が滲んでくる。紙袋を握りしめる手にも汗がにじみ、どういう訳だか分からないけど……振り返りたく無い――――。

ただひたすら前を見て駅に向かって歩けば、いつの間にか足早になっていたのか予想していたよりも早く駅についた。岡嶋の姿を見つけて近付けば、笑顔だった岡嶋の顔が困惑げなものへと変化する。

「具合悪い? 顔色悪いけど」
「いえ、少し暑かっただけで……」

そう、多分暑かったら汗をかいているだけで、別に具合は悪く無い。ゆっくりと岡嶋の手が伸びてきていつものように触れようとした瞬間、うさぎはつい自分の頭を庇うように腕を頭上で交差させた。

「え?」
「……え?」

困惑した顔で見下ろす岡嶋に対して、うさぎも変な顔をしていたかもしれない。どうしてこんな反応をしたのか自分でも分からず、ただ呆然と岡嶋を見上げる。

「あ、あの」

上げていた手を勢いよく下ろすと、うさぎは岡嶋に声を掛けたけど何て言えばいいか分からず、でも、何かを言いたいけど言葉にならない。別に岡嶋に触られたく無いとかそういうことではなく、ただ……何だろう、モヤモヤしてて分からない。

「うん、大丈夫だから」

言葉を探せないうさぎに、岡嶋はもう一度手を伸ばして頭に触れる。優しく撫でられて、うさぎは小さく息を吐き出した。

大丈夫、この人は大丈夫。

呪文のように唱えてから、岡嶋を見上げれば穏やかな笑みで笑っている。その笑顔を見て、うさぎは更にホッと安堵の溜息を漏らした。

「買い物に来てたんだ」
「はい、家のパソコン、あれ以来きちんと直してなくて使えないからパーツを揃えに来たんです」

ラストが家に押し入ったことで部屋中ぐちゃぐちゃにされたことは、岡嶋も梁瀬も知っている。だから暗にそのことを言えば、どこか納得した顔をして岡嶋は頷いた。

「そっか。じゃあ、家に帰ったらこれから作業?」
「多分そうなると思います」
「夕飯、一緒に食べたら遅くなっちゃうんじゃないかな」
「大丈夫です。あれくらいなら三十分も掛かりませんから」

笑顔で答えたうさぎに岡嶋は淡い笑みを深いものへ変化させる。

「じゃあ、何食べに行こうか。ここなら何でもあるけど」
「それならパスタでもいいですか? ここの上にありますし」

上階をうさぎが指差せば、岡嶋はちらりと天井を眺めてから頷いた。

「じゃあ、行こう」

言うが早いかうさぎが持っていた紙袋は岡嶋の手に渡ってしまい、慌てて取り戻そうとするるうさぎを岡嶋は笑顔でかわしてしまう。

「重いですから」
「重いなら俺が持った方がいいでしょ」
「でも、自分の物だから自分で持ちます」
「うさぎちゃん、こういう時は甘えておくといいよ。そしたら俺も気分が良いし」

そう言われてしまうとうさぎとしてはそれ以上言い募ることも出来ず、隣を歩きながらも「有難うございます」とお礼を伝える。うさぎを見た岡嶋は楽しそうに笑うと、二人で大型
店舗へと足を踏み入れた。

エレベーターに乗り込むには人待ち状態ということもあり、店舗中央にあるエスカレーターに足を向ける。時折、携帯電話やパソコンの場所で足を止めてうさぎは岡嶋と雑談を交えながら、のんびりと上階にあるレストラン階へと向かった。夕食時間にはまだ早いからなのか、カフェなどは混雑しているけれども、パスタの店は並ぶことなく店内に入ることが出来た。

テーブルに案内されて椅子に座ると、早々にオーダーをしてしまい持って来てくれた水を飲むと自然に溜息が零れた。

「何時からこっちにいたの?」
「岡嶋さんから連絡貰った時には電車に乗ってたんで、五時間くらいです」
「五時間……目当てのものは全て揃えられたの?」
「勿論です。ただ……パソコン直して、何をやるつもりなんでしょう」

口に出すつもりは無かったし、岡嶋に問い掛けたい訳でも無かった。ただ、うさぎにとってハッキングをしないパソコンというのは何をしたい物なのか分からない。確かにネットに繋いで情報収集するのも使い方の一つではあるけど、今まで必要だった情報はもう何年もハッキングやプログラムを組むための情報収集で、プログラムだって結局はハッキングに使うために組んだものだ。

パソコンを直したところで、ハッキングをしなければただの物なんじゃないかと、うさぎは思う。実際に、この土日、うさぎは使える筈のノートパソコンに一度も電源を入れていない。

「梶さんのところで、色々やらされてるんじゃないの? そういうこと調べたりは?」
「基本的にその場で調べてるから、家に帰ってまでは……すみません、何か変なこと言ってる気がします」
「いや、別にそれは構わないけど、もしかして友達のことで色々と考えすぎてる?」

そういえば、岡嶋に言われるまですっかり忘れていたけど、その問題もあったことを思い出してうさぎは頭を抱えたくなる。

「そういえば、それも問題ありでしたね」
「そんな他人ごとみたいに」

呆れた顔をする岡嶋にうさぎは力無く笑う。色々なことが起きすぎて、状況に振り回されて気持ちが置き去りになりつつある状況はうさぎもまずいとは思う。こういう気持ちになった時は、大抵状況に負けてしまうことが多い。

丁度、頼んだパスタが出来上がり、テーブルの上に並べられて行くのを眺めてから、岡嶋と二人「いただきます」と手を合わせてからパスタに手をつけた。心の中で今一度気合いを入れ直すと、改めて岡嶋へと向き直る。

「そういえば、この間梁瀬さんが美樹さんとか言ってましたけど、恋人がいるんですか?」
「ん、何で?」
「あー……実は、あの時の友達が梁瀬さんのことが気になってるらしくて」

思いつきにしていは上手い言い訳だとうさぎは自画自賛してパスタを口に入れた。口の中にピリッとした辛みのあと、魚介の風味が広がって意外と美味しい。

「そういうことか。あいつ彼女どころか結婚真面目に考えてるくらいだから、お勧めしないかな」
「結婚、ですか」
「まぁ、付き合って長いし、卒業したらすぐにでも結婚するんじゃないかな。就職先も決まったようなものだし」

沙枝の話しといい、梁瀬の話しといい、どうにもうさぎには遠すぎる話しで実感が湧かない。

けれども、結婚まで考えてる彼女がいるんだとしたら、あの写真は不味いんじゃないだろうか。いや、そもそもあの写真自体が本物である可能性も低いから、うさぎの心配は杞憂かもしれない。もし光輝が梁瀬にあの写真を見せたところで、梁瀬が否定すればそこで話しは終わる筈、そう思うのに何だか落ち着かない。

こういうのを嫌な予感というのかもしれない。

「あのさうさぎちゃん、梶さんの婚約者の長谷川さんだっけ?」
「はい」
「本当に梶さんのこと好きなのかな」

不意をつくように切りに出された話題に僅かに手が止まる。けれどもこういう事はこれからも数多くあるから、慣れなきゃいけないとうさぎは思う。

梶のことを話していた沙枝は、とても嬉しそうで幸せそうに見えた。あれが嘘だとしたらうさぎは本格的な人間不信になるに違いない、そう思えるくらい沙枝の表情や言葉からも梶への思いが溢れていた。思い返せば胸が痛くなるくらいには……。

「ずっと片思いだったって言ってましたし、婚約の話しも喜んでましたよ。それがどうかしましたか?」
「そっか、うさぎちゃんはどうするの?」
「どうするって……」

どうするもこうするも、既に婚約までしているのであれば、もう後は結婚するだけなのだからうさぎにはどうすることも出来ない。好きな気持ちだけで全てが上手くいく訳じゃないことはうさぎにだって分かる。

「どうもしませんよ」
「告白とかしないの?」
「困らせたく無いですから。それに抜け駆けするみたいで何か嫌なんです」
「別に抜け駆けでも何でもないと思うけどね。知らずに好きになった訳だし」

さらりと岡嶋はそれだけ言うと、空になった皿にフォークを置いた。何だか岡嶋の話しを聞いていると、うさぎに告白することをけしかけているようにも聞こえる。

「振られるの前提で告白するって、かなり勇気がいると思うんですけど」
「でもすっきりすると思うよ。それに、もしかしたらうさぎちゃんは好きだと思い込んでいるだけかもしれないし」

思い込んでると言われるとうさぎとしては困惑するしかない。人を好きなんて、そんなこと簡単に思いこめるものなんだろうか……。

「あのさ、吊り橋効果ってあるじゃない」
「恐怖体験中に男女が一緒にいると相手に好意を持つ確率が高いっていうあれですか?」
「そう、それ。うさぎちゃんの場合は、その可能性もあるんじゃないかと思ってさ」

確かにあの事件があったからこそ梶を好きになり、好きという気持ちも自覚した。それは果たして吊り橋効果故なのかと問われるとうさぎには答えられない。ただ、守られたから好きになった、という訳では無いと思う。

「どうでしょう、考えてみます」
「あ、今話しを流したでしょ」
「そういうつもりは無いですけど……」
「まぁ、俺としてはそんな辛くなるのが目に見えてる恋なんて捨ててしまえという気分ではあるけどね」

辛くなるのが目に見えてる恋、というのは確かかもしれない。これからバイトを続けるのであれば、近くにいるだけに色々な面を見てもっと好きになる可能性だってある。

「そう簡単に捨てられるものでもないけどね」

苦笑する岡嶋に、うさぎも同じように笑うと最後のパスタを口に入れるとフォークを皿に置いた。

「何かあれば言ってよ。愚痴くらいは聞くから」
「どうにもならなくなったら」
「うん、だからどうにもならなくなる一歩手前でお願いします」

恭しく頭を下げる岡嶋にうさぎは笑いながらも「分かりました」と答える。そんな遣り取りをかわした後も、少し雑談をして店を後にした。反対方向になるから駅で別れようとしたのに、岡嶋は送ると言って結局家の前まで送ってくれてその場で別れた。

何だか色々考えすぎて疲れてはいたけど、部屋に戻ったうさぎはパソコンを組み立て始めた。

取り合えず、するべきことが一つある。ハッキングしないでも、ホテルで接触してきた男については多少なりとも調べておくべきだと思う。

だからこそ、一人静かな部屋でうさぎは紙袋からパーツを取り出してパソコンへと組み込んでいった。

* * *

家の中へ入り鍵が閉まる音を確認すると、岡嶋はようやくうさぎの家に背を向けて駅に向かって歩き出した。歩き出してすぐにポケットから携帯を取り出すと、リダイヤルの最初にある電話番号を表示して通話ボタンを押した。

「もしもし」
「岡嶋です。確認ですけど、うさぎちゃんに警備ってついてるんですよね?」
「あぁ、ついてる筈だが……それがどうした」

途端に訝しむ口調になった梶に、岡嶋は電話向こうの相手に悟られないように薄く微笑む。一応、うさぎを心配しているらしい梶にホッとしてしまったのは、会社のために結婚までしてしまいそうな梶への不信感もあったからに違いない。勿論、うさぎ自体会社の駒の一つと考えている可能性も皆無では無いけど、心配する態度を見せるのであれば今のところ岡嶋としては文句を言うつもりは無い。

そんなことを考えながらも、梶に説明するべき言葉を探す。まさかうさぎとの会話全てを話す訳にはいかない。

「いえ、確認です」
「……何かあったのか」

余程切羽詰まっているのであればともかく、状況はそこまで危機的状況ではないのだから、うさぎの気持ちを梶に伝える必要は全く無い。人の恋心を本人に伝える程、岡嶋も機微に疎い訳でもない。

「今日、一緒に夕飯を取ったんですけど少し様子がおかしかったので」

岡嶋が気付いた感じでは、うさぎの身に何かが起きているのは確かだと思えた。

つい昨日、うさぎの友人に梶が婚約者だと聞かされた時はかなり落ち込んでいた。それなのに、その事については「それも問題」だと言っていた。それも、というくらいに何か問題は起きているのだと思う。少なくともあれだけショックを受けていた婚約者の件について、投げやりに言う程度には何かがあった筈だと岡嶋は踏んでいた。

何よりも今日、会った時の顔色の悪さと触れようとした時のあの態度は無視できるものではない。うさぎ自身、手を伸ばした岡嶋を避けてしまい訳が分からないという顔をしていた。けれどもあれは警戒心の現れだったのだと思う。もし、岡嶋に会う前に誰かと会っていたのであれば、警護についていた人間が誰かしらを見ている可能性は高い。

「何があったのか聞かなかったのか?」
「そんな子供じゃないんですから、微妙に隠してるみたいでしたし本人が言うまでは聞きませんよ」
「まだ高校生なんてまだ子供だろ」
「そんな子供相手に婚約するんですから梶さんも凄いですよねー」

棒読みでそれだけ伝えれば、電話向こうにいる梶は黙り込んでしまう。

「それから、一応ですけど梁瀬にも」
「梁瀬に? 何か問題あるのか?」
「こっちは完全に勘なんですけど、うさぎちゃんが梁瀬のことを気にしていたんで。元々、うさぎちゃんがそこまで他人に興味あるとは思えないですし、だとすれば、何か梁瀬に関わるようなことがあったのかな、と」

岡嶋はうさぎの口から美樹の話しが出て来た瞬間におかしいと思っていた。梶にも言った通り、うさぎは基本的に他人に余りあからさまな興味を示すようなタイプでは無い。こちらから言い出せばそれなりに質問してきたりもするけど、ああいう風にいきなり質問を投げてくることは無かった。友達の為だとは言っていたけれども、その当の友達はそこまで梁瀬に興味を持っているようには見えなかった。

「分かった、梁瀬にも一応警備をつけておこう。岡嶋はどうする」
「俺は……どうしましょうかね」

別に相手が一人、力づくできたくらいで岡嶋自身は負ける気はしない。ただ、一応秋に舞台を控えている事を考えると怪我などは勘弁して貰いたいところでもある。

「一応、お願いしておきます。今は何かあると困るんで」

それに対して梶は了承の意を貰うと、短く挨拶をして電話を切った。携帯の時計を見れば、既に二十時を回っていて岡嶋は小さく苦笑した。少し心配しすぎなのかもしれない。

一応梁瀬にも言っておくか……。

手にしていた携帯から梁瀬の番号を呼び出し通話ボタンを押した。

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