車の後部座席にうさぎと貴美で座り梶の運転で出発すれば、貴美から梶の女性に対する失敗談などを聞いて思わず笑ってしまう。ミラー越しに見えた梶は終始渋面ではあったけれども、貴美の話しは面白くて笑いを堪えることはどうしても出来なかった。
会場であるホテルには十分程で到着すると、梶は入り口に立っていたホテルの人に車の鍵を渡してしまうと三人で一緒に中へと入る。既にロビーから鮮やかなドレスがところどころに存在していて、うさぎにとっては気後れするには十分だった。
「あの、やっぱり場違いな気がします」
「あら大丈夫よ。誰も自分なんか見てないわって開き直るといいわ」
「そういうもんでしょうか」
「ほら、開き直ってるのがいるわよ」
そう言って貴美の視線につられるようにそちらを見れば、岡嶋と梁瀬の姿があり、梁瀬の手にはファーストフードのドリンクが握られていてどう見てもホテルでは似つかわしく無い。
「別にこういう場所だからって気負う必要は無いわ。思ったよりも人は自分を見てないものよ」
確かに貴美の言う通りなのかもしれない。今まで沙枝の近くにいたから、嫌でも注目を浴びていたけれども、このメンバーであれば大丈夫かもしれない。
そんな中で岡嶋がうさぎたちに気付き、梁瀬に少し声を掛けると二人してこちらへ向かって歩いて来た。
「うさぎちゃん可愛いね」
「うん、マジ可愛い。うわー、女の子って本当に可愛くていいよね」
「あ、有難うございます。梁瀬さんと岡嶋さんも格好いいです」
梁瀬の手にあるファーストフードのドリンクを除けば、体格のいい梁瀬には濃いグレーにストライプの入ったタキシードはよく似合っていた。そして梁瀬に比べて岡嶋は胸元の詰まったベストにグレーのタキシードを着ていて、とても品よく纏まっていて梁瀬とは違う意味で格好良かった。
「やっぱり、こういう格好は肩凝るよねー」
そう言って笑う梁瀬にうさぎも同意していれば、貴美が声を掛けてきた。
「それじゃあ、私と貴弘はちょっと色々挨拶してこないといけないから、三人で適当にやってて。後で連絡入れるから」
貴美は鞄から封筒を取り出し岡嶋に渡すと、続いて小さな鞄から携帯を取り出すと軽く振り、それに岡嶋と梁瀬も頷いている。そして、うさぎはその時になって携帯すら持っていなかったことに思い至る。
「携帯忘れた」
「あら、いいのよ。どうせ岡嶋か梁瀬が一緒にいるんだから。逸れたらここに電話しなさい」
そう言って貴美は一枚のメモを差し出してきて、うさぎが受け取るなり梶と共に会場へと早々に入ってしまった。その場に残されたうさぎは貴美から渡されたメモを見れば、そこには梶と貴美の電話番号が書いてあった。
「電話番号分かっても、電話は掛けられないと思うんですけれども」
「でも、公衆電話もあるし」
「お財布持って来てないんです。貴美さんが必要無いって」
「あー、それは、多分、うさぎちゃんに逃げられないようにするためかも」
苦笑混じりの岡嶋を見上げれば、目の合った岡嶋は小さく肩を竦めて見せる。
「ほら、うさぎちゃん乗り気じゃ無さそうだったから」
「……私、そんなに信用ありませんか?」
今日、会った時に言われた貴美の言葉といい、岡嶋の言葉といい、うさぎとしては信用されていないようで多少なりとも傷つく。さすがにここまで来て、逃げ出そうとは思わない。
「もう、いいじゃん。言えば。さすがにうさぎちゃんが可哀想だよ、これじゃあ」
梁瀬の言葉に岡嶋は少し困ったような顔を浮かべたけれども、次の瞬間には大きく溜息を吐き出した。
「本当は貴美さんから言われてるんだ。うさぎちゃんに変な奴近づけないようにって。うさぎちゃんの素性がバレないように携帯とか財布とか持たせないから、あんたたちできちんと守ってあげなさいって」
「オレたちも聞いたけど教えて貰えなかったんだよね。ただ、ちょっと警戒してるようにも見える」
「だったら来ない方が良かった気がするんですけど」
「そうなんだよねー、オレもよく分からない」
梁瀬はお手上げとばかりに両手を上げると、今だ手に持っていたファーストフードのドリンクに気付いたのか近くにあるゴミ箱へと捨てた。
「これは俺の想像だけど、多分、社長が言ってたようにお偉いさんに会わないといけないのは確かなんだと思う。でも、周りにいる人間にはうさぎちゃんのことは余り知られたく無い、ってところなのかも……ほら、例の事件の後だし」
「あの事件が今更関係あるのか? あいつは捕まった訳だし」
「梁瀬、声大きい」
思わず岡嶋の言葉でうさぎは辺りを見回したけれども、こちらに注意を向けてる人はいないように見えた。ただ、少し遠くから女性たちの一団がこちらを見ているけど、梁瀬と岡嶋に視線が釘付けになっている所を見ると問題あるようには見えない。
「まぁ、とにかくうさぎちゃんは俺か梁瀬と必ず一緒にいてよ。社長、見た目よりもピリピリしてる感じだしね」
「ピリピリしてますか?」
少なくともここに来るまではうさぎに気を遣っていただろうことを差し引いても、終止穏やかというか、いつもと変わらないように見えた。それなら、ここへ来てからのことなんだろうか。だとしたら、うさぎには貴美のピリピリした感情は読み取れなかった。いつもであれば気付けそうなことだけど、うさぎも浮足立つ感じだし、何よりもこの空気に飲まれているせいかもしれない。
「まぁ、余り表に出す感じでは無いけど、多分」
「分かりました。逸れないように気をつけます」
「そうして下さい。それじゃあ、俺たちも中に入ろうか」
岡嶋に促されて梁瀬と三人で大広間となっている会場の前で、貴美に渡された封筒を渡せば岡嶋と梁瀬は造花を胸元につけられ、うさぎは造花を手渡された。スタッフが男性だから手渡しということなのかもしれない。少し悩んだ末にうさぎは腰に造花をつけると、待っている二人と共に会場の中へと入った。
冷房が利いているにも関わらずそこは凄い熱気があった。千人規模の人間を入れそうな広間と、どうやら外も解放されているらしく、ドレス姿で庭園を歩く姿もちらほらと見える。ドレスやタキシードの合間を縫うようにして、ホテルの人たちが飲み物を運んでいる姿が見え、岡嶋が声を掛けるとそれぞれにグラスを渡してくれる。梁瀬や岡嶋はシャンパンを貰い、うさぎはワインのうな色をしたぶどうジュースを貰った。
「おっ、あっちに食い物あるじゃん」
「余りがっつくなよ、みっともないから」
たしなめる岡嶋に梁瀬は口を尖らせる。そのやりとりに笑ってしまえば、不意に声が掛かる。
「すみません、あの、業界の方ですか?」
背後から掛けられた声にうさぎが振り向くよりも先に、声を掛けてきた人物とうさぎの間に岡嶋が立ち入り、うさぎはその素早い行動に驚かされる。けれども今は、岡嶋もそれだけ周りを警戒しているらしことがうさぎにも伺えた。
「あの、なにか?」
「いえ、私こういうものですが」
そう言って差し出してきた名刺を岡嶋は受け取ると、笑顔を浮かべた。岡嶋の背後から見ていたうさぎには、それが芸能プロダクションの名刺だということだけは分かった。確かに、岡嶋の容姿であれば声を掛けられてもおかしくはないし、岡嶋の目指している方向と多少ずれてはいても全く違う訳でも無い。
「岡嶋、オレたちあっちにいるぞ」
梁瀬は岡嶋に声を掛けると岡嶋は頷きで答え、うさぎは梁瀬に促されるままに岡嶋から離れた。
「何だか凄いですね」
「ん? あぁ、プロダクション? まぁ、あいつの今回の目的はあれだったみたいだし、予定調和みたいなもんかな」
「そうなんですか」
「元々舞台に立つことに拘ってたけど、最近、演技出来るところならどこでもいいみたいな感じになってきてさ。一応、本命は劇団だけど、俳優も考えてるみたい」
梁瀬も岡嶋も大学四年生だと聞いている。だとしたら、そろそろ就職先も考えないといけない頃なのだとうさぎでも分かる。
「何か大変ですね。梁瀬さんはあそこ一本ですか?」
一応、念の為に名前は出さずに聞けば、話しの流れから梁瀬も分かってくれたらしい。
「んー、言っていいのか分からないけど、実はもう内定貰ってる」
「じゃあ、本当にあそこで就職なんですね」
「そういうこと。そういえば、うさぎちゃん足、大丈夫?」
唐突とも言える梁瀬の言葉にうさぎは訳も分からずにいれば、逆に困った顔をされてしまう。
「何か、足、ちょっと辛そうだから」
「あ、大丈夫です。ちょっと穿き慣れない靴だから歩きにくいだけで。それよりも梁瀬さんこそ足大丈夫なんですか? ギプスは」
「昨日取れた! もう超快適」
本当に嬉しそうに笑う梁瀬にうさぎもホッとした気分になる。正直、あの事件以来、梁瀬がギプスをした状態で会社に来るのを見てずっと気にはなっていた。だからこうして徐々に治っていくのを目にすると本当にホッとした気分になる。
「良かったです、本当に」
「えっと、別にうさぎちゃんが気にする必要は全く無いからね。あれはオレの自業自得だし」
「でも」
「いいの、あれは梁瀬の自業自得、だよね?」
背後からの声に振り返れば、穏やかに笑う岡嶋がそこにいた。どうやら話しは終わったらしく、既に手には二つ目のグラスを持っていて、グラスの中では泡がパチパチと弾けている。
「ちぇっ、どうせ自業自得だよ。何かお前に言われるとムカつく」
「だって、そうだろ?」
笑う岡嶋とすねる梁瀬を微笑ましい気分で見ていれば、視線を感じて振り返る。そして目が合った途端、二人の顔は驚きに変化してから笑顔になると足場早に駆け寄ってきた。
「うさぎ、来てたの!」
駆け寄るなり手を掴む利奈は、やっぱりドレスが似合っていて、続く沙枝もとてもドレスが似合っていた。
「ちょっと別件で」
「それにしてもうさぎちゃん可愛い」
「うん、本当に可愛い。それどうしたの?」
「まぁ、色々あって」
どこまで話していいのか分からず、曖昧に誤魔化せば二人はそれ以上聞いてくることも無い。それどころか、利奈の興味は既に後ろにいる二人に注がれている。
「ちょっと、何でいい男二人と一緒なのよ!」
「バイト先の人なの」
「うさぎちゃん、知り合い?」
今度は後ろに立つ梁瀬から声を掛けられて、少し逡巡した後、うさぎは利奈と沙枝に手を向けた。
「えっと、学校の友達で穂積利奈と長谷川沙枝」
「穂積です、どうぞ宜しく」
「長谷川と申します」
軽く手を上げただけの利奈に対して、沙枝は深々と二人に頭を下げる。そしてうさぎは逆に梁瀬と岡嶋に手を向けると、今度は二人を紹介する。笑顔を見せた二人だったけれども、次の瞬間、岡嶋はちらりとしまったなという顔を見せた。けれども、それは本当に一瞬だけで、笑顔に消されてしまいもう見る影も無い。
「長谷川さん、ということはこの会社のお嬢さんですか?」
「あ、はい。このパーティーは父の主催になります」
「そうですか。とても盛大なパーティーで素晴らしいと思います」
どちらかといえば、余り距離を感じさせない話し方をする岡嶋にしてはどこか他人行儀な物言いで、うさぎとしては不思議な感じがする。どうして岡嶋がそんな対応をするのか考えていれば、続く声に思考は遮られた。
「岡嶋、何で電話しても出ないのよ」
その声に全員が振り返れば、そこにいるのは貴美と梶で、こちらへ近付いてきたにも関わらず一瞬足を止めた。一体何があったのかと思えば、もう二人とも普通の顔をしていて岡嶋同様に何かがおかしい。
「貴弘さん、いらして下さったんですね」
珍しく浮かれた沙枝の声にも驚いたけど、沙枝が梶を名前で呼ぶことにも驚いた。
「えぇ、会社の方に招待状が届いたものですから。沙枝さんは何故こちらに?」
「友人がここにいるので」
そう言って沙枝がうさぎを手で差し示すと、どういう訳かその場の空気が微かに凍った。少なくとも利奈と沙枝は気付いていない様子だけど、確実に梶や貴美の空気は変わったし、岡嶋や梁瀬も困惑しているように見えた。
「さーえ、もしかして、例の噂の」
「えぇ、貴弘さんは私の婚約者なの」
好きかどうかなんてまだ自覚したばかりで分からなかった。それこそ好きかと問われたら「たぶん」と答えてしまいくらい曖昧なものだった。けれども、受けるショックは大きなもので、一瞬にして血の気が引いて、足元が無くなったように感じた。胸が鼓動と同じくらいざわめいていて、掌を握り締めればようやく周りの風景が戻ってきた。
うさぎは生まれて初めて、感情が表に出ない自分に感謝したい気持ちになれた。
「あれ? じゃあ、沙枝の婚約者の会社でうさぎは働いてるってこと?」
「正確にはお姉さんの会社」
自分でも驚く程いつもと変わらない声だったと思う。
「凄い偶然ねー。そうか、バイト先であればうさぎもパーティーに来ない訳にも行かないわよね。ん? でも、バイトでパーティー? 普通、社員の人間が来るもんじゃないの?」
「あぁ、それはね、うちの社員、都合のつく人間がいなかったのよ。だから暇そうにしてたうさぎちゃんを誘った訳。折角のパーティーだから着飾らせたけど、どう?」
貴美の言葉を聞いていると、やっぱりここにうさぎがいる内容は例え友人であっても言うつもりは無いということらしい。サラリと話題転換を計った貴美に利奈はうんうんと頷いている。
「もの凄く可愛くなってます。もう、前に来た時にもこうして着飾ってればもっと声掛けられたのに」
「私は別に声掛けられたくないし」
不意に利奈に腕を強引に引かれてうさぎの耳元に囁きを落とされる。
「で、本命どれ?」
利奈の言葉に一瞬、呼吸を忘れる。うさぎが気になるのは確かに梶であるけど、梶は沙枝の婚約者であることを考えれば今更それを言える筈も無い。
「えっと」
「岡嶋さん? 素敵だもんねぇ、岡嶋さん」
「分かっちゃった?」
思わず嘘をついてしまったうさぎに利奈はテンションを上げると岡嶋へと視線を向ける。思わず、同じようにうさぎも岡嶋に視線を向ければばっちりと目が合ってしまい、罪悪感から慌てて目を逸らしてしまう。
「うーん、折角紹介して貰おうと思ってるのに、うさぎのお手付きじゃ割り込めないなぁ。因みに梁瀬さんは?」
問い掛けられると同時に、昨日、梁瀬と岡嶋の会話に出てきた美樹という名前を思い出す。
「彼女いるみたいよ」
「あーあ、残念。いい男は目の前にいるのに紹介して貰えないなんて拷問だわ」
嘆く利奈を笑いながらもうさぎは肩を軽くポンと叩く。けれども、その手が震えていることに初めて気付いた。
隠すように手を下ろすと、顔を上げた利奈は沙枝へと視線を向ける。少し離れていることもあって、沙枝と梶が話しをしている姿がそこにはある。いつもと変わらない顔をした梶と、自分たちには見せないような笑顔で話す沙枝を見ていると胸は痛む。
「やっぱり沙枝、嬉しそうだね」
「だね。ずっと好きだって言ってたし」
「上手くいくといいね」
そうだね、というたった一言がうさぎには言えなかった。
気付いた途端に失恋、というよりか、沙枝と梶の関係を知ったことで気付かされたとうのが正しいかもしれない。二人を見ているだけで胸は痛み、うさぎはそっと二人から目を逸らした。これ以上二人を見ていたら泣いてしまいそうな自分にかなり驚いた。そうか、好きという気持ちで自分は泣けるんだ、そう思ったらうさぎは胸が痛いにも関わらずホッとした。
感情がきちんとあった……。
安心すると同時にやっぱり泣きたい気分になってくるのは、その感情を教えてくれた人が他人の、しかも友達のものである事実が辛かった。けれども、友人の婚約者だと知ればいつまでもうさぎが梶を好きでいられる筈も無い。元々そういう梶と沙枝のような関係を望んでいた訳では無かったけれども、梶に相手がいるのといないのとでは大きく違う。
「そういえば、うさぎはこれからどうするの?」
利奈の明るい声で我に返ったけど、うさぎが思う程感情に表情は引きずられていなかったらしく、利奈は笑顔でうさぎを見ている。
「私は会社の人と一緒に行動だから」
「そっか。じゃあ、また連絡するから」
「ん、宜しく」
利奈と共に一団へと戻れば、梶は穏やかに沙枝との話題を打ち切る。大人っぽい格好をしているにも関わらず、沙枝の表情は残念で仕方ないとう言わんばかりの顔をしていて、沙枝がどれだけ梶を好きなのかうさぎにも分かる。
「何の内緒話しをしていたのかな」
穏やかに聞く岡嶋に利奈は「女同士の内緒話しです」と言い切ると、岡嶋だけでなく皆が笑う。
「さてと、私たちはちょっと挨拶に行かないといけないの。沙枝ちゃん、また今度遊びに行くから」
貴美の声で利奈と沙枝は改めて挨拶をすると、二人は再び人波に消えていった。友達なのに離れたことにホッとした自分がうさぎは嫌で仕方ない。
けれども、何気なく見上げた貴美の笑顔が無表情になるのを見て、うさぎの感傷的な気分は消え失せてしまう。初めて見る貴美の無表情さに、うさぎの身体は自然と強張った。
「貴弘、どういうこと? こんなの聞いてないわよ」
「俺も知らなかったんだ」
「学校一緒なんだから調べなさいよ!」
「無茶言うな。普通は考えないだろう」
「考えられなくても石橋叩いて渡るくらいの用心してよ。冗談じゃないわ」
二人の間に険悪とも言える空気が流れ、うさぎとしては口を挟めない。ただ、周りの視線を集めているのは確かなことで、声を掛けようか迷っていれば、先に口を開いたのは岡嶋だった。
「取り合えず、そういう内輪揉めは後にして貰えませんか? 彼女の登場で注目集めてますし」
「……そうね。悪かったわ」
「すまない」
謝る二人に岡嶋は溜息をつくと天を仰ぐ。ただ、うさぎと沙枝の繋がりを知らなかったことが二人にとって問題だったことは分かる。それの何が問題なのか、まだ何も聞いていないうさぎには分からない。
まだ多くの注目を集める中で、今度は沙枝たちと同じくらい注目を集める一人の老執事が近付いてくると貴美の表情は強張った。
「申し訳ございません。旦那様がお呼びです」
貴美へ声を掛けた老執事はそれだけ言うと踵を返してしまい、残されたのは集まる視線でうさぎにとっては居心地が悪い。そんな中で再び貴美は大きく溜息をついた。
「全くタイミング最悪ね。こんなに注目されてるのに」
「言っても仕方ない。お前たちも行くぞ」
梶の声に促されてぞろぞろと会場を出たけど、誰も口を開かない。ただ、重い空気の中、ホテルのエレベーターに乗ると最上階へ到着する。最上階にはロビーが設けられていて、受付のようなカウンターがあり、貴美がそこへ声を掛ければカウンター内に立っていた女性が電話を取る姿が見える。
「取り合えず、色々混乱してるので後で説明して貰えますか?」
いつもより少し冷たさを含むその声にうさぎは岡嶋を見れば、その顔は無表情で感情は読めない。隣に立つ梁瀬も似たような表情で梶を睨んでいて、睨まれた梶は「分かった」と一言だけ言うとそのまま視線を窓の外へと移してしまった。
既に夜になった窓の外は、あちこちで街の灯りが瞬いていて綺麗だった。けれども、今は何の感情も揺さぶられずにうさぎはその風景をぼんやりと眺める。
「行くわよ」
貴美の声でそれぞれが歩き出すと、うさぎも一緒について歩く。足下にあるフカフカの絨毯はうさぎにとって歩き辛くつい遅れがちになる。それに気付いたのは岡嶋で、足を止めるとうさぎを待っていてくれる。
「すみません」
「大丈夫。謝らないでいいから」
先程とは違い、穏やかな笑みで言われてしまえば、うさぎは謝罪の言葉を飲み込むしかない。申し訳ない気持ちになりながらも、歩調を合わせてくれる岡嶋と並んで歩いていれば、既に三人は扉の前に立ってうさぎたちを待っている。
待たせてしまったことに謝罪しようとしたうさぎの言葉を遮るように貴美は手を上げると、扉を二回ノックした。そうしてから貴美はうさぎに笑い掛けてくる。うさぎの謝罪は故意に消されたのだと気付くと同時に、中から扉が開かれて扉脇には男の人が黒いスーツを着て立っていた。鋭い目つきに怖々と部屋に足を踏み入れると、そこはかなり広い部屋でダイニングテーブルやソファまであり、とてもホテルとは思えない作りになっていた。
「梶です、大おじ様。先日の件では大変お世話になりました」
「挨拶はいい。誰が誰だ」
幾らか顔に出ないうさぎでも、貴美に大おじと呼ばれた人物を見た瞬間に顔は強張った。
「彼が岡嶋、その隣がうちに入社が決まった梁瀬、その隣にいるのが桜庭です」
それぞれ名前を言われて頭を下げたけど、うさぎは下げた頭を上げることが出来なかった。
誰かに会うことは事前に聞いていた。けれども、まさかこの人だとはうさぎは考えてもいなかった。そう、うさぎはこの人を知っている。知っているどころか一度ならず、二度、三度話しをしたことがある。
そして、相手も顔を上げないうさぎに気付いたらしい。
「君は沙枝の……」
「色々迷惑をお掛けしてしまい申し訳ありませんでした」
「そうか、君がグレーか……沙枝は知ってるのか?」
「いいえ、知りません」
「それならあの子には言わないでくれ。あの子は君を気に入っている。ハッキングについて何も言わないのであれば、沙枝の傍にいても構わない」
正直、もう近付くなという言葉すら予想していたから、寒河江の、沙枝の祖父である人からの言葉は意外でもあった。
「報告が無かったということは、沙枝の友人であることは君たちも知らなかったのか?」
「はい、今先程下でお嬢さんにお会いして初めて知りました」
「そうか……まぁ、仕方ないことだろう。桜庭さん、君は先日ある契約書に会社で署名した、覚えているかな?」
貴美や梶に対する声とは違い、うさぎに対する声は沙枝の祖父という位置で随分と優しいものだった。
「はい、今後一切ハッキングを行わない旨の書類に署名しました」
「それを必ず守って欲しい。君が逮捕されたとなれば沙枝も酷く傷つくに違いない。前回の件はどうにかなったが、今度もそうとは限らない。じいさんに出来ることにも限度があるからなぁ」
声こそ穏やかな響きではあるものの、沙枝を傷つける者であれば許さないという含みもあって、うさぎはヒヤリとする。
「手を煩わせてしまい申し訳ありません」
使い慣れない言葉に舌を噛みそうになりながらもうさぎが頭を下げれば、寒河江は「うむ」と小さく返事をした。うさぎが頭を上げた時には既に寒河江の視線は梁瀬に移っていて、内心で安堵の溜息を零した。
「梁瀬さん、君は貴美から優秀だと聞いている。会社の為にこれからも貢献してくれたまえ」
「はい、今後も誠心誠意勤めさせて頂きます」
「そうか。それなら桜庭さんと梁瀬さんは一度出て貰えるか。岡嶋さんに話しがある」
うさぎは一度貴美に視線を向ければ、貴美が小さく頷くのを見て頭を下げてから梁瀬と共に部屋を出た。扉が背後で閉じた途端、うさぎとしてはフカフカとした廊下に座り込みたい気分だった。それは梁瀬も同じだったらしく、首もとに指を入れるてタイを緩めると大きく溜息をつくと視線の合った途端に苦笑する。
「すげーな、貫禄」
「いつ会っても緊張します」
「そっか……でも、これで周りにバレちゃったかもなぁ、うさぎちゃんの正体」
そういえば、周りに正体がバレないように貴美は随分気を使っていると言っていたけど、沙枝と友人と分かれば調べるのは簡単に違いない。
「そうですね。私も先に言っておけば良かったです。でも、まさか出資者が沙枝の、友達の祖父なんて考えてもいなくて」
「まぁ、そりゃあそうだよな。それにしても岡嶋に用事って何だろうな」
「分かりません。これからどうします? ここで待ちます?」
「いや、ロビー行こう。何か緊張して喉乾いたし」
梁瀬と共にロビーへと戻れば、ロビーの片隅には二人掛け用のテーブルが幾つか用意されていて、席についた途端にホテルの人間がやってきてオーダーを取っていく。梁瀬はコーヒーを頼み、うさぎは紅茶を頼むと、二人して大きく溜息をついた。
「えっと、色々と混乱してるんだけど……一体、どういう関係なんだ?」
「取り合えず、沙枝の祖父が今の寒河江さんと言うんですけど、貴美さんからすると大おじらしいです」
「大おじって叔父さんってこと?」
「いえ、大おじということは貴美さんの祖父の兄弟ってことだと思います。で、私の友人の沙枝の祖父です」
「……ごめん、ちょっと家系図が欲しいかも」
遠い目になる梁瀬にうさぎは苦笑すると、丁度そこへコーヒーと紅茶が運ばれてくる。口をつければ少しだけ落ち着いた気分になる。
「それにしても梶さんが高校生と婚約してるとは驚きだよなー。しかも、身内だろ?」
うさぎとしては、余りその話題には触れたくないけど、梁瀬の驚きが分からない訳でもない。
「私も知らなかったんで、正直、かなり驚きました。彼女から婚約してることは聞いてはいたんですけど」
「高校生が婚約かー、もう何か想像つかない世界って感じ。あぁ、でも岡嶋も高校の頃に見合いとかさせられてたなぁ」
高校生でお見合いと聞くと、うさぎには良家の子息、子女というイメージが強い。あの事件の後、皆で集まった時には、女の子を呼べないような古いアパートに住んでいるとか、1週間、カップラーメンを毎食たべて倒れそうになったことがあるなどと話していて、それを聞いていたからこそ、うさぎには意外に思えた。
「え? そうなんですか?」
途端にしまったという顔をした梁瀬だったけれども、コーヒーを口にしてから肩を竦めて見せた。
「まぁ、いっか。別にあいつも隠してる訳でもないし。あいつの家、結構旧家でさ、すげー窮屈な学生時代過ごしてたんだよね。お見合いとか中学くらいから当たり前みたいな所があって、正直、そういうところは同情してた」
「あの……聞いちゃってもいいんですか?」
「まぁ、うさぎちゃんなら構わないと思うよ。岡嶋が女の子に優しくしてるのあんまり見たことないし。あいつ外面いいから騙されがちだけど、基本的に身内扱い枠が狭いんだよね。だから、うさぎちゃんはあいつにとって特別だと思うし。あ、別に変な意味じゃなくて……多分、妹みたいなものなのかなぁ。実際、オレも似たような感覚だし」
少し照れたように言う梁瀬には弟しかいないと聞いていた。
「妹ですか。それはちょっと嬉しいかもしれません」
「えー、ちょっと?」
途端に口を尖らせる梁瀬にうさぎは穏やかな笑いを誘われてしまう。
「凄く嬉しいです」
「よし!」
満面の笑みを浮かべる梁瀬にうさぎもつい笑ってしまう。梁瀬も岡嶋もうさぎに優しい。それが今のうさぎには凄く嬉しかった。
「だからさ、困ったことがあったら言ってね」
「分かりました」
しばらく話しながらお茶をしていたけれども、梁瀬がトイレに席を立つとうさぎは一人で紅茶を飲む。ホテルの人はいるけれども、知らない場所で一人でお茶を飲むという行為は、うさぎにとって酷く落ち着かない気分にさせられる。
早く梁瀬が帰ってこないかと願っていれば、背後から「桜庭うさぎさん?」とフルネームで名前を呼ばれて勢い良く振り返る。見覚えの無いその顔にうさぎは緊張しながらも答えずにいれば、男は梁瀬が座っていた椅子に腰掛けた。どこか生真面目なサラリーマンを思わせる面相は、やはりうさぎには見覚えが無い。
「どちらさまでしょうか?」
けれども目の前に座る男は答えることなく、うさぎのことを舐め回すように上から下まで見るとようやく口を開く。
「君がグレーか。随分若いな」
あえて無表情を装いうさぎは何も答えずに紅茶を口に含む。先程まで美味しいと思った紅茶は、全く味がしない。
「グレーと公表されたくなければシステムセキュリティーのデータを引き出せ」
「……お断りします」
「それならそれで構わない。システムセキュリティーは犯罪者を匿ってると公表するだけだ」
間違いなく脅迫されていることは分かる。ただ、どちらに転んでもうさぎにとって得にならない脅迫に眉根を寄せる。まさか、今更グレーについて言及する人間がいるとは予想していなかった。けれども、これも自業自得というのかもしれない。
「そういうことであれば、私はシステムセキュリティーを去るだけです」
「そうか、その手もあったな。次の手を考えることにしよう。……ラストに何か伝言は?」
その言葉で初めてうさぎは手にしていたカップをビクリと揺らした。ラストに伝言が出来る立場にいるらしいこの男は一体何者だろう。うさぎは改めて男を見上げたけど、男の顔は無表情でうさぎの言葉を待っている様子でもあった。
「特に何もありません」
「そうか。また近い内に連絡を入れる」
「必要ありません」
「こちらは必要なので。失礼する」
それだけ言うと男は立ち上がりエレベーターに乗り込んでしまいその姿はすぐに見えなくなった。名乗りもしない男は一体誰だったのか、少なくともうさぎには調べないと分からないことばかりだ。
実際、うさぎはラストがどうなったのか詳しいことは聞いていない。気にならないと言えば嘘になるが、もう終わったことだ、とうさぎ自身が思いたかったこともある。
……全然、終わってない。
あの事件はあれで終わったと思ってたのに、どうしてこうなっているのか、うさぎは震える手でどうにかカップをソーサーへ戻すと小さく息を吐き出した。
「あれ、うさぎちゃん一人?」
問い掛けに顔を上げれば、意外そうな顔をした岡嶋と視線が合った。
「トイレに行ってます」
「……何かあった? 顔色が悪い」
「大丈夫です。ちょっと疲れたのかもしれません」
岡嶋は先程まで男の座っていた椅子に腰掛けると、従業員にコーヒーを頼むと再びうさぎの顔を覗き込んでくる。
「あのさ、こういうこと口出すのは余りよくないことかもしれないけど……うさぎちゃん、先、嘘ついた?」
岡嶋のいう先が先程の男の存在を伝えなかったことに掛かるのかと思って、思わず身を強張らせる。
「ごめん、余計なお世話かもしれないけど……友達に俺のこと好きだって言ったでしょ」
その言葉を聞いて、ようやく利奈との会話に思考が辿り着く。けれども、想像と違ったことに内心ホッとしながらも、再び違う意味で緊張を強いられることになった。
「あ、あの」
「違うよね、うさぎちゃんの好きな人」
「あ……」
そこから続く言葉は無く、岡嶋は真面目な顔でうさぎを見ている。何を言えばいいか分からずに俯いてしまったうさぎに、目の前に座る岡嶋が大きく溜息を吐き出した。
「うさぎちゃんの友達がね、すれ違いざま、うさぎを好きになって下さい、って」
利奈め、余計なことを……。
そう思うけど、今は利奈云々の話しじゃないことは分かってる。
「厄介な恋しちゃったね」
どこか同情混じりの声に顔を上げれば、岡嶋は困ったような顔で笑う。でも、その顔が優しくて、胸の痛みまでぶり返してくる。色々とありすぎて、感情がうさぎの容量を超えてしまいそうなことろを寸でで堪える。
「大丈夫です」
「うん、無理しないでね」
岡嶋の言葉に頷きながらはいと返事をすると、うさぎはすっかり冷めてしまった紅茶を飲む。
それからすぐに梁瀬と共に梶たちも戻ってきて、これから食事に行こうという貴美に断りを入れてうさぎは家まで送って貰った。うさぎが食事に行かないのであればと貴美は会場に残り、岡嶋や梁瀬はうさぎと共に会場を出てしまった。
この後、食事に行くという三人に挨拶して家に入ると電気を点けた。誰もいない家の中でうさぎはどうにか靴を脱ごうとしてストラップに触れる直前にその動きを止める。つけて貰った時にはあれだけ緊張してドキドキしてたのに、今はそれを思い出すのも辛くて、うさぎはストラップを作業的に外すと初めて履いたパンプスを脱いだ。その足で自分の部屋である二階に上がると鞄を机に置きそのままベッドへと倒れ込んだ。
着ていたドレスは貴美がクリーニングに入れて自宅へ届けてくれるとのことだったので、今のうさぎはデニムにキャミソール、半袖ボレロという普段の、いつもと変わらないうさぎでもあった。着飾って夢のような時間でもあったけど、やっぱり夢は夢でしか無くうさぎは掛けていた眼鏡を外して枕元に置くと腕で顔を覆う。
好きだと自覚したのはつい最近だったけど、やっぱりショックはショックだった。しかも相手が沙枝では、うさぎにとってどうしようも無い。ずっと好きだったと言った沙枝に、うさぎが何か言える筈も無い。
別に片思いの時間が長ければ長いほど必ず付き合える訳では無いけど、それでも付き合いの長さというのは相手を知る時間の多さであって、その時点でうさぎは沙枝に敵わない。というか、沙枝相手では勝負をしようという気にもなれない。
大切な友達だからこそ幸せになって欲しい。そう思うからこそ、うさぎにはどうすることも出来ない。ただ、うさぎにはようやく育った恋心を捨てるしか選択肢が無かった。
そして、ラストに繋がりのある男――――。
もう終わって過去になったのだとばかり思っていたけれども、ハッキングという遊びの代償は随分大きな物になったらしい。
「何か疲れた、な……」
自分の涙声に更に泣けてきて、うさぎは声を殺して一人しかいない家でただ泣いた。頭の中が真っ白になるまで声を殺して泣いて、そして、そのまま眠りに落ちた――――。