うさぎが逃げる Act.16:フレンドシップ 友情

パソコンを組み上げてネットに繋いでから、まず最初に調べたのは沙枝の父親がやっている会社のことだった。取引先として上げられている会社を虱潰しに探してあの男を見付けようとしたけど、大抵の会社は社長の顔は載せていても社員の顔まで載せていることは少ない。それでも藁にも縋る思いで全ての取引先を調べ終えた時には朝の七時になっていて、手掛かり無しという状況にうさぎは眼鏡を外して溜息をついた。

今日もバイトはあるので、少しでも寝ておいた方がいいと思うのに神経が高ぶってるのか、どうにも眠気が来ない。時折こういう事がうさぎにはあるから眠気が無いことは苦にならないけど、目の痛みからくる頭痛までは看過出来ない。引き出しから愛用の頭痛薬を取り出して口に放り込むと、手元に置いてあるミネラルウォーターで流し込む。そして、一旦椅子から立ち上がると、うさぎは眠気が無いままベッドに横になった。

他の人はどうか分からないけれども、うさぎにとって薬を飲んだ後にベッドで横になると薬の効きがいいように感じる。だからこそいつものようにベッドに横になったのに、机の上にある携帯が振動する音を聞いて再びうさぎは立ち上がる羽目になる。

こういう時に携帯の小さな字を見るのは厳禁だと思うけれども、うさぎがそれでも立ち上がったのはこんな時間にくるメールに思い当たらなかったからだった。少なくとも新しく携帯を変えてから迷惑メールの類いもきていないことを考えれば、あの人たちの誰かが緊急性を要するメールを送ってきた可能性も考えられる。携帯を手にしてベッドへ戻りながらメールを開けば、誰でもない昨日昼にメールを送ってきた相手だと分かり足が止まる。

『Title:調べもの?
何を調べてるの?
手伝ってあげようか?
でも、グレーなら必要ないか』

恐らく先程までうさぎがネットで彷徨っているのをハッキングされていたに違いない。突然パソコンから離れたから、接続が途絶えてからかい混じりにメールを送ってきたに違いない。だとしたら、これ以上相手を楽しませる必要もない。

返信も送らずにうさぎはメールを枕元に置くと、少しの間目を閉じる。しばらくの間メールが着信を続けていた様子だったけれども、うさぎはそれを見ることなく無視していた。

けれども、唐突にメールではない着信が鳴り響き、うさぎは慌てて携帯を手に取ると、画面に表示されているのは梁瀬の名前で慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし」
「あ、うさぎちゃん。今日はどうしたの?」

唐突に問い掛けられて意味が分からずに辺りを見回せば、壁についている時計を見て青ざめた。

「……すみません、寝坊したみたいです」
「えー! うさぎちゃんでもそういうことするんだ!」
「初めてです、こんなこと」

基本的にうさぎは短時間でも眠れるので、寝坊することは滅多に無い。ただ、今回はあの時折鳴るメールに邪魔されて上手く睡眠が取れていなかったのかもしれない。ベッドで横になりうつらうつらしながらも、うさぎは何度かメールの着信する振動に気付いたくらいだから相手も大概しつこい。

「具合悪いなら今日は休んじゃいなよ。今、そっちに梶さんが向かってるから」
「……はい?」

今、何だかおかしなことを聞いた気がする。何故梶がここへ来るのだろうか。

「いや、うさぎちゃんが時間通りに来ないの心配しててさ。メールにも返信無かったから車で迎えに行ったよ。寝坊か……うーん、怒られるようなら後で慰めてあげるから!」
「いえ、慰めは結構ですから」
「だって、寝坊とか認めてくれそうにないじゃん、あの人」

とは言われても、寝坊というのはどれくらいの罪になるのか寝坊したことのないうさぎにはピンとこない。悪い事だというのは分かるけど、果たして首になるくらいのことなんだろうか。

「取り合えず、梶さんに連絡入れてみます」
「分かった。でも、うさぎちゃん寝坊かー、寝坊、寝坊」

楽しそうな梁瀬の声に顔を顰めながらも、実際にうさぎは寝坊しているから文句を言える立場でも無い。

「梁瀬さん」
「ごめん、ごめん。具合悪いならきちんと休むんだよー。じゃねー」

そんな声と共に逃げるようにして電話を切られてしまう。小さく溜息をついたうさぎは、すぐに梶へと電話を掛けようとして画面に表示されているメールの数と着信数に肩を落とす。メールは十二通、着信に至っては六件もあり、メールはともかく着信に気付けなかった自分に肩を落とす。

恐らく横になる前に飲んだ薬がいけなかったのかもしれない。けれども、お陰で頭痛は全く無くなっているから文句は言えない。

とにかく梶の番号を電話帳から探し出すと通話ボタンを押した。ワンコールの間に梶が電話に出て、耳元からもしもしという声が聞こえてくる。何度聞いても、この人の声を耳元で聞くのは心臓悪いとうさぎは思う。

「お早うございます。あの、すみませんでした」
「……何がだ」
「梁瀬さんから聞きました。寝坊しました。ご心配掛けてしまってすみません。これから用意して会社に向かいますので梶さんも会社へ」
「もう、君の家の前だ」

思わずベッドから立ち上がりカーテンを開ければ、丁度梶の車が家の前に止まる所だった。慌てて部屋を飛び出し階段を駆け下りると、玄関まで一直線に走り扉を開けた。そこにいたのは携帯を片手に車を降りてくる梶で、うさぎと目が合った途端苦笑されてしまう。

「すみません、本当にすみません」
「いや、それは平気だが……あぁ、そうだ」

梶は後部座席の扉を開けると、小さな紙袋を取り出しうさぎへと差し出してきた。

「これは麻紀からだ。少し遅かったみたいだがな」

苦笑をそのままに言う梶から紙袋を受け取ったうさぎは、中を見て化粧水やら乳液やらが入っていることを知る。そして、遅かったという梶の言葉で吹き出物が出来た自分の顔を思い出して赤面する思いで俯いた。好きな人の前で吹き出物なんて出来た顔を見せるのは、さすがのうさぎでもかなり恥ずかしいものがある。出来る事なら、やっぱり好きな相手であれば、化粧までせずとも吹き出物なんて無い顔を見て貰いたいという気持ちはある。

「あ、あの、これは」
「昨日にでも渡しておくべきだったな」
「いえ、麻紀さんに注意されていたのに化粧落とさず寝てしまった私が悪いので……あの、用意出来たらすぐに会社に行くので梶さんは戻っていて下さい。仕事もあるでしょうし」
「どれくらいで出られる」

昨日、結局風呂にも入っていないからシャワーくらいは浴びたい。それから用意しても恐らく三十分くらは見ないと落ち着かない。

「多分、三十分くらいです」
「それなら車で待っている。ここだと迷惑になるからあっちの少し広い通りに車を止めておく」
「でも」
「三十分厳守。守れなかったら今週中の予定だった設計書を今日中だ」

時計を見て今の時間を伝えてくる梶に、慌てながらもうさぎはもう一度頭を下げた。

「本当にすみませんでした。今後は気をつけます。そして三十分で出て来れるように死ぬ気で頑張ります」

それだけ一気に言うとうさぎは踵を返して家の中へと駆け込もうとした。

「桜庭」

名前を呼ばれて勢いよく振り返ってしまったのは、初めて名前を呼ばれたからだ。視線の合った梶が携帯を軽く持ち上げると微かに笑う。

「切るぞ」
「え?」

言われている意味が分からず問い掛けたけど、よく考えてみればうさぎが持っている携帯もまだ通話中のままで、どれだけ慌てていたのかと恥ずかしくなってくる。

「度々すみません」
「いや、構わん。一分過ぎたぞ」

楽しげな空気で言う梶に、慌てて携帯を切ってからもう一度頭を下げて玄関へと駆け込んだ。遅刻の件はうやむやになってしまったものの、三十分で梶の車へ行かなければ本気で設計書を今日中に提出と言い出すに違いない。

先週から言われていた設計書は、殆ど白紙に近く、書類に慣れていないうさぎにとっては今一番の難関でもあった。学校で取るノートとは違う書類にここ数日は辟易している。勿論、やることはそれだけでなく、プログラムの作成依頼だって回ってくるから変に手抜きなんてしている時間は無い。いいところ三時のお茶がいいところで、それ以外はただひたすら黙々と作業を続けているのが現状だった。一緒にいる梁瀬は「あー」とか「うー」とか色々独り言を零しているけど、それでもやはり自分のことに手一杯なのかうさぎに声を掛けてくることは滅多に無い。

手早くシャワーを浴びて髪を乾かすと、梶に渡された化粧水と乳液をつけるとヒンヤリして気持ちよかった。それから部屋に戻り、荷物を適当に詰め込むとバッグを肩に掛けてから階段を駆け下りた。

家を出て広い通りへと出れば、梶の車は路肩に止まっていて、外に出た梶は誰かと電話をしているように見える。うさぎが近付けば梶は気付いたのか、幾つか電話相手と言葉を交わした後に電話を切ってしまう。

「すみません、邪魔でしたか?」
「いや、別に仕事の電話では無いからな」

それだけ言うと梶は運転席の扉を開けてロックを解除してくれる。うさぎはいつものように助手席へと腰を落ち着けたところで、運転席で梶が喉で笑う。

「……何かしましたか?」
「いや、まだ十五分だ。余程設計書に手こずっているんだと思ってな」
「実際難しいです。知らない言葉が多いので勉強にはなるんですけど、期限を短くされるのは困ります」
「そうか。何かあれば言えばいい」

そんな梶にうさぎは返事をすると、梶はキーを回して車を走らせた。ゆっくりと回りの風景が動きだし日影から出た途端、夏の強い日差しで少し目が眩む。

そんな中、運転する梶の横顔を伺えば、いつもと変わらない様子にホッとする。いつも通りにしていれば問題は無い、そんな思いでうさぎは手にしていたバッグの持ち手を握りしめた。

* * *

窓の外を眺めていた彼女だったが、電話のバイブレーションで鞄から携帯を取り出すと、指先で操作しているのが視界の端に見える。しばらく携帯を操作していた彼女だったけれども、返信する様子もなく鞄の中へと再び仕舞ってしまう。

もしかしたら、岡嶋辺りからのメールなのかもしれない。別に詮索するつもりは無いが、昨日も岡嶋と楽しそうに話していたという報告は受けていたし、岡嶋が言うような問題は何も起きていないらしい。彼女が岡嶋を好きなことをは知っているが、あの反応からすると岡嶋も悪い気はしていないに違いない。もしかしたら、昨日は岡嶋と一緒だったのかもしれない……と、そこまで考えて梶は関係無いと思考を振り払う。

いや、けれども関係は無いとは言いきれないのかもしれない。実際に彼女は遅刻している訳だし、多少、彼女にも岡嶋にも言っておかないと仕事に支障をきたされては困るのは梶だ。

「寝坊は今回しか見逃さない。遅れる時はきちんと連絡を入れろ」

途端に彼女の視線がこちらへと向いたけど、すぐに俯いて視線を落としてしまう。髪はきちんと三つ編みにされているからその表情が隠されてしまうことは無いが、その顔が幾分引きつっているのは脅かしすぎたせいかもしれない。

「分かりました。今後は無いように気をつけます」

反省した様子で言われてしまうと、それ以上強く言うのは逆効果だと思い梶もそこで引く。

「そうしてくれ。岡嶋と出掛けたそうだが、帰りが遅かったのか?」
「いえ、八時には家に帰りました」

ということは、やはり岡嶋からの電話もその頃だったし、恐らく二人が一緒だったということは無いのだろう。幾ら岡嶋でも彼女に嘘をつかせるとは思えないし、彼女も嘘をついているようには見えなかった。ただ、彼女の場合、表情からは読み取れないこともあるので一概にそうでは無いと決めつける訳にもいかない。

「寝坊するほど何かをしていたのか?」
「いえ、大したことはしてません。多分、疲れていたんだと思います」

一応、昨日は休みだったのだから具合が悪ければ岡嶋と出掛けたりせず家で休んでいればいいものを、と梶は思わずにはいられない。まぁ、岡嶋が好きなのだから多少具合が悪くても誘われたら、彼女は断る筈もない。やはり、ここは彼女にではなく岡嶋に注意しておくべきかもしれない。実際に彼女の顔色は青白く、調子は余り良さそうには見えない。

「具合悪いのか?」
「え? 別に悪くないです」

驚いた様子でこちらを見る彼女をちらりと見れば、彼女と視線が合ったけれどもすぐに逸らされてしまった。随分と怖がられたものだと苦笑していれば、再び彼女の鞄の中にある携帯が鳴り出す。すぐに切れてしまったことからもメールということは分かったけれども、一瞬、肩を揺らしただけで彼女は携帯を鞄から取り出す様子は無い。

「見ないのか?」

問い掛けに先程よりも大きく揺れた身体がゆっくりと梶の方へと振り返る。

「いえ、本来であれば仕事時間ですし」
「今は車に乗ってるだけだし、仕事中でも息抜き程度には構わない。ただ、頼んだ物が遅れるようなことがあれば困るが」
「大丈夫です」

一体、何が大丈夫なのか話しに脈略が無い。けれども、話しの脈略が無いのは彼女だけでもなく、梁瀬も話しが飛びすぎてついていけない時がある。そういう脈略の無さについていけないのは年を取った証拠なのかと思うと、梶としては内心苦笑するしかない。

「あの、ずっと気になっていたことがあるんですけれども、聞いていいですか?」
「あぁ、構わん」
「今、ラストってどうなってるんですか?」

彼女の口からラストの事が出てくるのは意外ではあったが、けれども、あんなことがあった後なのだから気にならない訳も無い。別に隠し立てするようなことでもないから、梶は知ってる範囲で答える。

「奴は今海外だ。ルナスペースから訴えられて刑務所の中だろう。何か気になるのか?」
「いえ、ただどうなったのか気になっただけで……」

そのまま言葉を濁した彼女は、再び窓の外へと視線を向けてしまった。

確かに岡嶋が言うように、少しおかしいかもしれない。どちらかといえばきっぱりとした物言いをすることが多いだけに、今のように言葉尻をすぼめるようなことは滅多に無い。再び彼女の携帯がメールの着信を伝えていたけれども、彼女が携帯を開くことは無い。

……接触してきたのはリアルか、ネットか。

窓の外に視線を向けた彼女の空気は、話し掛けるなという、一種緊張したものが張り巡らされていて、先程の態度といい聞いた所で素直に答えるとは思えない。ついこの間までは、それなりに会話もあり、上手くやっていると思っていたが、彼女に対する対応を梶は何か失敗したに違いない。年頃の女の子は難しいと聞くが、こういう移り気な所が難しいのかもしれない。

少し手があいた時に彼女が使っている携帯の履歴を確認しようと梶は考えながらも、会社の駐車場に車を入れた。車を止めた後、彼女と共に裏口からビルに入れば、今度は梶の携帯が鳴り出しポケットから携帯を取り出す。

「貴弘、お客さん来てるわ。今どこに?」
「会社に到着した」
「そう、あんたの所にお客さん二人通してあるから」

いつもの貴美にしては随分と不用心な対応に自然と表情も険しいものになる。基本的に貴美が梶の断りも無く部屋まで通したことは今までに一度も無かった。それだけに相手が誰なのか気にもなる。岡嶋あたりであれば貴美も最初から言ってくるだろうし、二人というのが解せない。

「勝手に通すな、一体誰だ」
「沙枝さんとお友達」

途端に頭痛を覚えたのは気のせいではないだろう。お嬢様たちの遊び場にされては梶としては困る。

「まさか」
「一応これでも私の方もお茶してたりしたけど、もう打ち合わせに出ないといけないのよ。今連れて行ったから梁瀬が困ってる筈よ。早く行ってやって。じゃあ、後宜しく」

言いたいことを言った貴美は一方的に電話を切ってしまい、切られた梶としてはもう溜息を吐き出すしかない。

「どうかしたんですか?」

微妙な空気を読み取ったのか、隣を歩いていた彼女が梶に問い掛けてくる。梶は恐らく何とも言えない顔をしている自覚をしながらも、もう一度小さく溜息をついた。

「君の友達が来ているらしい」
「友達って、沙枝と利奈が? どうしてですか?」
「さぁな、私にも分からん。部屋にいるそうだ」

足早に廊下を曲がり部屋の前へ到着すると、梶は内心でもう一度溜息をついてから扉を開けた。部屋の中は仕事場とは思えないくらい和やかな空気で、梁瀬と共に沙枝やその友人が歓談していた。

「あ、うさぎ!」
「利奈、沙枝もどうして?」
「社会勉強よ。仕事ってどういう感じでしてるのかと思ってさ。うさぎは気にしないで仕事して、仕事」

彼女も事前に聞いていなかったのか、困惑している様子は伝わってくる。この状況についていけないのは何も自分だけではないと思えば、逆に梶も冷静になってくる。

「あの、すみません。どうしても梶さんの仕事場を一度見てみたかったので、本当にすみません」
「今度から事前に連絡を入れて下さい。正直、遊び場では無いのですから」
「……すみません」

申し訳無さそうな彼女に再び内心で溜息を零す。沙枝は基本的にお嬢様で、大抵のことは願えば叶う立場にある。梶としても無理を言われたら逆らえる立場ではなく、余りうるさく言いたくはない。言えばバックにいる寒河江が黙っているとは思えない。

貴美もその辺りを汲んで、今回だけは、という気持ちであることは分かった。だからと言って、仕事場まで安易に足を運ばれては困る。

「梁瀬、例のは出来たのか?」
「出来ました、サーバに上げてあります」
「今度失敗した場合は?」
「……問題集二十問、あー、もう一度確認してからにします」

先日入れたばかりの応接セットのソファから立ち上がると、そそくさと自分の机へと戻る。梶はすぐに自分の机に座ると、流れて来ているファックスを幾つか確認すると、その内の一つをいまだ困惑から抜けられずにいる彼女へと差し出した。

「こちらの設計書も君に任せる。基本設計のみで構わない、期限は二週間」
「分かりました」

梶の手から彼女は数枚綴りのファックス用紙を受け取ると、友人二人へと視線を向ける。果たしてこの二人が大人しくしているのであるかは分からないが、見学というのであれば黙って見学して貰うまでだった。実際に、余り遊んでいられるだけの余裕は無い。

「うさぎ、頑張ってねー」

気楽な声が飛び、彼女は笑ってみせると椅子に座りすぐにパソコンへと向き直る。彼女に渡したユーザからの要望書は彼女が設計書に書き起こしたら、開発班に投げるつもりでいた。他にも設計書を持っている彼女にも遊んでいる時間は余り無い。けれども、彼女は友人たちが気になるのか、いつもより集中していないのは明らかだった。十五分もすれば彼女の手から聞こえるキーを叩く音が止まり、梶は自分の書類から顔を上げた。

梁瀬は分からないことがあるとパソコンを前に唸っているタイプだが、彼女は分からないことがあればすぐに動くタイプだ。分からない所が分からないということも無く、すぐに調べるべき内容が分かるということは、梁瀬よりも知識があることの裏付けでもあった。

けれども、珍しく動く様子の無い彼女に梶は椅子から立ち上がるとうさぎの背後に回る。

「どうした」
「すみません、ここなんですけどユーザ側の意見がぶつかってるように思えるんです。こちらを立てたら、こちらが立たない的な感じに読めるんです」

確かにこの文章を書いた人間が下手なのか、彼女が言うように読み取れないことも無い。けれども、いつもの彼女であればどちらも立てることが出来る案はすぐに出てくる筈だ。気が散ってるのか、それとも具合が悪いのか、梶の目から読み取ることは出来ない。

「……もう、いい。今は彼女たちと昼食に行ってくるといい」
「でも、まだ来たばかりですし」
「集中出来ないのであれば気分転換してくるのも一つの方法だ。外に出て食事してくるといい」

それだけ言うと梶は再び自分の椅子へと腰掛けると、立ち上がったうさぎは梶の前に机を挟んで立つと頭を下げた。

「申し訳ありません」
「別に構わない。そういう日もある。ただ、きちんと気持ちを切り替えてこい」
「はい」

生真面目な顔をしていた彼女だったが、友人二人に顔を向けた途端、その表情が柔らかいものへと変化する。

「お昼、行こうか」
「うさぎ」
「とにかく行こう」

彼女の言葉で促されたのか二人はソファから立ち上がると、梶の前で沙枝だけが立ち止まる。

「お仕事のお邪魔をしてしまい、すみませんでした」

一層のことそうですね、と返したいところではあったけれども、それも大人げ無さ過ぎる気がして不快さを隠しながらも、沙枝へと視線を向けた。

「先程も言いましたが、事前に連絡を下さい」
「はい、本当に申し訳ございません」

決して嫌いな相手では無い。ただ、面倒と思うだけで……。

「仕事場は遊び場ではありません。そのことだけはよく分かっておいて下さい」
「はい」

もう一度深々と頭を下げると、扉前で不安そうにしている二人に駆け寄った沙枝は、そのまま三人で扉の向こうに消えた。途端に静かになった部屋に溜息を零したのは梶が先だったか、梁瀬が先だったか微妙なタイミングであった。

「梶さーん、一応婚約者ならもう少し優しくしてあげるべきじゃないですかー」
「外ではそれなりに優しくしてるんだ。仕事場まで来る方が悪い。少なくとも遊びで仕事してる訳では無いからな」
「そりゃあそうでしょうけど、彼女だって婚約者がどうやって仕事してるかくらい見たかったんでしょ。微妙な女心が分からないと嫌われますよ」
「望むところだ」

別に望んで婚約した訳では無いのだから、沙枝から断ってくれるのであればそれに越したことは無い。恐らく今回沙枝がここへ来たのは、確かに梁瀬が言うように仕事をしているところを見たかったに違いない。けれども、それによって彼女の効率が下がるのでは困る。
そんな梶に対して、梁瀬はいつも以上に真剣な顔で口を開く。

「彼女だけじゃなくて世の女性全てに」
「別に構わないだろ」
「うさぎちゃんも女性ですよ」

さらりと言われて、彼女が女性という枠に入ることにようやく思い至る。

「逃げられても知りませんからね、オレは」

最後には呆れた顔をした梁瀬は、そのままパソコンへ向き直るともう梶を見ようとはしなかった。

うさぎが逃げる、か――――。

微妙な語呂の良さに梶は苦笑すると、視線を書類へと落とした。

* * *

三人で廊下に出た途端、とにかく申し訳ない気分で沙枝はうさぎに頭を下げた。

「ごめん、うさぎちゃん」
「私もごめん。私が無理矢理沙枝誘ってここに来たの」
「いいから二人とも顔上げて。謝られても困るから」
「でも」

顔を上げて言い募る沙枝にうさぎは微かに笑みを浮かべた。

「沙枝と利奈のせいじゃないから。集中出来なかった私が悪いだけだし」
「でも、邪魔しちゃったから」
「大丈夫、午後からきちんと挽回する」

だから大丈夫だといううさぎに沙枝としては、それでも申し訳ない気分は拭えないし、梶も余りいい顔をしていなかったのが心に痛い。

「でも、本当にきちんと仕事してると思わなかった。正直、バイトだって言ってたからもっと和やかムードなんだと思ってた。いつもあんな感じ?」
「まぁ、大抵の場合は。でも、勉強になるしためになる」
「そっか、何かうさぎがちょっと凄い人に見えた」
「うん、私も」

もし沙枝がうさぎの立場であれば、今日みたいに「もう、いい」なんて言われたらしばらく立ち直れない気がする。特に梶相手だからそう思うのかもしれないけど、それでも、ああ言われても落ち込んだ様子を見せないうさぎが改めて凄いと思う。

「さてと、お昼どこに行こうか。ここビル内に食べるところ無いから駅前に出ようか」

うさぎに言われて廊下を歩き出した途端に、背後で大きな音を立てて扉が開く。

「うさぎちゃん、緊急!」

梁瀬の声にうさぎは振り返るなり、扉に向かって走り出す。思わず利奈と顔を見合わせると、どうしていいか分からず、けれどもここに立ち止まってる訳にもいかずに扉が締まる直前に二人で今出て来た部屋へと入り込む。

「梁瀬さん、そっちお願いします」
「了解、梶さんの方はどうですか?」
「あぁ、大丈夫だ。ロック掛けるぞ」

三人しかいない空間にも関わらず、部屋全体が緊張に包まれているのが分かる。思わず利奈と声を交わすことも出来ず、ただ、三人の様子を沙枝は見ていることしか出来ない。三人の指が先程よりも更に早くキーボードを叩く音が聞こえるし真剣な表情は見えるけど、低いパーテーションで区切られていて、ここからうさぎや梁瀬、梶のしていることを見ることは出来ない。

ただ、空気だけが張り詰めていて否応なしに緊張感が高まっていくのが分かる。

「回線、遮断します」
「こっちはオッケー」
「こっちもだ」
「回線、遮断しました」

うさぎの声を最後に部屋の中から緊張感が霧散してしまい、誰ともなく溜息の音が聞こえた。

「ったく、どんな馬鹿だよ、こんな時間に」
「余り時間は関係無いと思うがな」
「そりゃあそうですけど、あー、もう、色々考えてたこと飛んだ!」
「頑張って下さい」

そこには遠慮の無い会話があって、年齢差を感じさせない空気があった。

梶は立ち上がるとうさぎと梁瀬の背後に立つと、梁瀬の頭を軽く小突き、それからうさぎの頭をくしゃりと撫でる。その手を羨ましいと思いつつ眺めていれば、梶を見上げたうさぎが微かに笑った。その笑顔は沙枝たちに見せるものとは違い、照れたような嬉しそうな笑顔だった。

途端、沙枝の胸はざわめき、心臓がうるさいくらいに早鐘を打つ。

「何でオレは小突かれるんですかー」
「当たり前だ。お前はミスしただろ。ここのログ見ろ」

梶が屈み込んでパソコンの画面を指差していて、それを見た梁瀬は机に突っ伏した。

「うー、確かに少し失敗しましたけど」
「お前には小突く程度で十分だ。力一杯の拳で無いだけ感謝しろ」

そんな梶に梁瀬はブツブツ言っていたけど、矛先を変えるかのようにうさぎが口を挟む。

「梶さんはさすがに早かったですね」
「慣れてるからな。けれども、今まで一人でやってた分、分散出来るから随分と楽だ」

聞こえて来た梶の声にも、沙枝の胸が痛んだ。うさぎや梁瀬は梶に必要とされていて、沙枝とは全く違う。沙枝の居場所はここにないけど、うさぎにはある。

それが、醜い感情だと分かっていても沙枝には止めることが出来なかった。三人で話す声を聞きながら、沙枝は利奈の服を軽く握る。

「どうしたの?」
「行こう。もういいから」
「でもうさぎは?」
「今はいいから」

ここに自分の居場所は無い。そう突きつけられた気がして、沙枝は利奈を促して静かに扉の外へと出た。

途端に辺りの空気が増えた感じがして、大きく息を吸うと吐き出した。

「何があったのか分からないけど、凄かったね」
「うん、でも、ちょっと羨ましいな、うさぎちゃんが」
「あー、正直オタク、オタクってからかってたけど、ああいう姿見ちゃうともうからかえないな。本当に仕事してるって感じだし」

沙枝も単純にアルバイトだと思っていたからここへ来たけど、まさかこんなに本格的な仕事をしているとは思ってもいなかった。それに答えようとしたけど、喉の奥から言葉が出て来なくて鼻の奥が痛い。

じわりと視界が滲み、堰を切ったように涙が零れてきた。

「え? どうしたの、沙枝」
「こんな自分、嫌い」
「取り合えず、移動しようか」

涙声で言った沙枝に利奈は肩に腕を回して促すように二人で歩き出す。

梶は大人で、近付く大人の女の人を羨んだり、妬んだりしたことは確かにあった。けれども、ここまで嫉妬で苦しくなったことは無い。しかも、その相手がうさぎだと思うと、醜い感情にどうしていいか分からなくなる。

少なくとも沙枝はあんな風に頭を撫でられたことは一度も無い。あんな風に気さくに会話を交わしたこともない。ずっと好きだったから、好きすぎて、妬みでいっぱいになる心が気持ち悪い。

利奈に促されるままにビルから出ると、手近にあるカフェに入ってもしばらくの間沙枝の涙は止まらなかった。

醜い感情だと分かってるのに、嫉妬する自分がいる。

そして、気付いたことが一つ。沙枝と同じ感情でうさぎは梶を見ている。

気付いた時の衝撃をどう表せばいいのか沙枝には分からない。ただ、うさぎの梶を見る表情を見て、身体中に震えが走った。

ずっとずっと好きだったのに、どうしてうさぎの方が近くにいるんだろう。ずっとずっと好きだったのに、どうして梶の近くにうさぎの居場所があるんだろう。

うさぎにだけは盗られたく無い。

ようやくあの人は私の物になったのに。

こんな感情醜いと思うのに、それでも感情が止められない。

「私……うさぎちゃんが……嫌いになりそう」
「何で急に? どうしたの沙枝。そういうこと言うタイプじゃないでしょ」
「だって、梶さん……うさぎちゃんの方が、私よりも……大切そう」

どうにか嗚咽混じりにそれだけ言えば、利奈からの言葉は無い。ただ、沈黙が落ちる。
酷いことを言ってる自覚はある。でも、こんなに苦しくてドロドロした感情を自分自身に突き付けられたことなど、一度だって無い。

「うさぎちゃんが、いなければ……こんな気持ちに、ならなかったのに」
「馬鹿ね、沙枝。それは違うでしょ。うさぎのせいじゃないわよ」

いつも以上に真剣な強い声で言われたけど、胸の中に沸き起こるドロドロとした感情は納まらない。

「でも、うさぎちゃんがいなければって……先から、ずっと思ってる」

言葉も醜いけど、もの凄い醜い顔をしてるに違いない。それこそ、この間パーティで沙枝たちが梶に近付いた途端に、回りで梶に声を掛けようとしていた女の人たちみたいに醜い顔を……。

「沙枝は梶さんが初恋?」

穏やかなその言葉に俯きながらも頷けば、利奈がどこか楽しそうに笑う。けれども、沙枝にとっては笑い事では済まない。

「利奈ちゃん、笑うなんて酷い」
「ごめん、ごめん。だって、恋に嫉妬はつきものって沙枝は知らなかったんでしょ」
「知らなかった訳じゃないけど」
「うん、でも、安心しなよ。うさぎが好きなの岡嶋さんだから」
「うそ……それ、絶対嘘よ」

だって、うさぎが梶を見る目が好きという感情で無いなら、あの表情は何だというんだろう。絶対にうさぎが沙枝と同じ意味で梶を好きだという確信が沙枝にはあった。そうでなければ、あのうさぎがあんな表情をする筈が無い。

「だって、うさぎが言ってたもん」
「それ、いつ聞いたの?」
「あのパーティの時。ほら、沙枝が梶さんと話している間にさ」
「だったら、やっぱり嘘だよ」

あのパーティでうさぎ達と会わなければ、お互いに好きな人を知らないでいられたかもしれない。けれども、梶が沙枝の婚約者だと知ってうさぎは嘘をついた。

「まさか、だってあのうさぎが……」

途端に利奈の勢いが無くなって、僅かに顔を上げれば利奈の表情は難しそうなものへと変化している。恐らく、利奈にも思い当たる節が何かあるのかもしれないし、うさぎに嘘をつかれたことがショックなのかもしれない。けれども、利奈はそれ以上何も言わないからから、利奈の考えていることは沙枝には分からない。

「行かなければ、良かったな」

自然と零れたのは、溜息混じりのそんな言葉だった。

「ごめん……私が無理に誘ったりしたから」
「利奈ちゃんは悪く無いから、ごめんね、責めるつもりは全然無いの」
「でも、うさぎも悪く無いからね」

そう言い募る利奈に沙枝はどうにか止まりつつある涙をハンカチで拭うと、微かに笑顔を浮かべて頷いた。胸の内は嫉妬で渦巻いているけど、利奈の言うようにうさぎが悪い訳じゃないのは分かってる。分かってはいても感情は別物で、今は嫉妬する心を止められない。

「分かってる……分かってるけど……ごめんね、今日はもう帰る」
「うん。余り考えすぎないようにね」

多分、考えないことは無理だと思う。だからそれには返事をせずに、利奈が頼んでくれた紅茶には一度も口をつけないままカフェを後にした。

* * *

夕方になり梶に強制退去させられたうさぎは、システムセキュリティーの入ったビルを眺めて溜息をついた。

今日は何だか散々だった。寝坊して遅刻する、沙枝たちが来て集中力を欠いたかと思えば、今度は沙枝たちがいなくなって集中力を欠くという、一日どうにも立て直しが利かなかった自分に溜息しか出て来ない。梶に帰れと言われるのも当たり前だと思う。

ビルを出て、沙枝と利奈に連絡を取ろうと電話を手にしたけど、画面に表示される新着メール三通という文字にうさぎはそのまま携帯をバッグに入れた。

精神的にかなり疲れているのに、これ以上疲れる物に触れたく無い気分でいっぱいだった。家に帰って沙枝と利奈に電話して、それからメールを確認しよう。疲れてるからお風呂にゆっくり浸かって、今日は〇時まであの男について調べて分からなかったら、もう梶に相談しよう。

そこまでうさぎは決めてしまうと、ゆっくりと駅に向かって歩き出した。アルバイトを始めてから、これだけ早く帰るのは初めてのことだった。

正直、沙枝と利奈が会社に来たことで動揺が無かった訳じゃない。梶と沙枝が一緒にいる所を見るのは辛かったし、もう二度と見ることは無いとばかり思っていた。けれども、梶と沙枝に甘やかな空気は無く、昼食へ一緒に行くと約束していたにも関わらず二人は消えてしまった。うさぎとしては、何かしたんじゃないかと気が気じゃなくて、集中力を欠いてしまった。そして、それを見逃してくれる梶である筈も無い。

とにかく全ては明日。

気持ちを切り替えて改札を抜けたところで、再び携帯が鳴り出した。またメールかと思っていれば、それは思っていたよりも長い呼び出し音で電話だと分かる。慌てて人波から外れて端によると、バッグから携帯を取り出して確認もせずに通話ボタンを押した。

「もしもし」
「桜庭うさぎさんですか」

聞き慣れない男の声に、うさぎは返事が出来なかった。けれども、相手は全く気にした様子も無く話しを切り出した。

「ラストからの伝言です。今の居場所は楽しい? だそうです」
「……あなたは誰ですか?」
「答える必要性を感じないな」
「ラストとはどういう関係ですか?」
「それも答える必要性を感じないな」

淡々とした話し方とラストの名前で、先日会った人だと分かった。けれども、それが分かっただけで、結局は何も分からないのと同じだ。

「……目的は何ですか?」

男が黙り込むと電話向こうからは駅のホームにいるのか、聞き覚えのあるアナウンスが聞こえる。途端にうさぎは走り出すと階段を駆け上がる。

「目的、知りたいですか?」
「知りたいです」
「……崩壊」

その言葉を最後に電話は切れてしまい、ホームへ駆け上がったうさぎは辺りを見回す。丁度、電車が入ってきて人波に揉まれる中、うさぎは見覚えのある男の姿を見つけた。うさぎも同じ電車に乗り込もうとしたところで、扉が閉まり、二つ離れた扉に立つ男が振り返りうさぎと目が合う。

一瞬驚きの表情を見せたが、そのまま口元に挑戦的とも言える笑みを浮かべた男を乗せて電車は走り出す。男は最後までうさぎから視線を外すことなく、男を乗せた電車は走り去ってしまい、うさぎは大きく息を吐き出した。

元々、余り運動は得意じゃないから、こうして走っただけでも息切れする。荒い息を吐き出しながらも、うさぎは走り去った電車を睨みつけた。

うさぎ自身、何がしたかったのかはよく分からない。男を捕まえたところで、何かを言うとは思えない。少なくとも、こちらには男のデータは全く無いのに対して、男の手には脅迫に向くだけのデータがあることを考えれば、むしろうさぎは返り討ちに合うのが関の山だったに違いない。

なら、なにをしたかったのか……ただ、うさぎは追い掛けたかった。それだけ、今、物事を落ち着いて考えるだけの余裕がない自分に気付いて、うさぎはもう一度溜息を零す。

男の反応からうさぎがここにいることを知っていた訳では無さそうな雰囲気だった。けれども、男が最後に言った崩壊という言葉だけが酷く気になる。その崩壊という言葉は一体何に掛かるのか、崩壊させたいものは一体何なのか、謎掛けのような言葉が頭の中でぐるぐる回る中、うさぎは手にしていた携帯の着信記録を確認する。けれども、そこに表示される非通知設定という文字に今度こそ大きな溜息を零した。

本当に今日は一体何の厄日だと思わないでも無い。ついでとばかりにメールも開いてしまえば、全て同じアドレスからのもので本文は無く、タイトルに内容が書かれている。

「遊ぼう」
「いつも見てるよ」
「返事して」
「電話鳴ってるよ」
「無視しないで」
「遊ぼう」
「仕事行くの?」
「見てるよ」
「返事して」

並ぶ言葉に頭が痛くなってくる。けれども、その中で気になるものが一つだけあった。そのメールを来た時間を確認すれば、確かにうさぎが家を出る時間で、その時に送られて来た「仕事行くの?」というメールが引っかかる。

今朝、うさぎは頭痛のためにベッドで横になったあと、パソコンには触れていない。それ以降ハッキングされたとしてもパソコンには触れていない、イコール、ネットに繋げていなかったのだから相手はハッキング出来る筈も無く、仕事に行くことが相手に分かる筈もない。電話のログをハッキングしたところで、ログはログであって電話の内容までは知られる筈もない。 少なくとも、うさぎは遅刻について梶や梁瀬とメールの遣り取りすらしていないから、携帯をハッキングされたとしても仕事に行くタイミングまで相手には分からない。

なのに、何故、このメールを送ってきた相手はうさぎが仕事に行くと知ったのか。

途端に足下が崩れそうになって、うさぎは慌てて近くにある椅子に腰掛けた。そうでもしないと、貧血で倒れそうだった。

……近くで自分を見ている人間がいる。

それは限りなくうさぎにとって恐怖だった。もし見ていなかったとしても、うさぎの電話は盗聴されていて、盗聴出来るほど近くに相手がいるということだ。

タイミングから考えてもあの男という可能性も捨てきれないが、どうにもメールと電話のイメージが違いすぎる。だとすれば、今、うさぎに声を掛けてくる人間は二人居ることになる。いや、光輝も入れたら三人……それはうさぎの疲労度を高めるには役立つ情報だったけど、うさぎとしては全くもって嬉しく無い。

家に帰るのが怖いけれども、うさぎにとって帰る家はあそこしかない。うさぎが夏休みに入った今、両親は今日も戻って来ないに違いない。一層のこと、梶に報告して匿って貰うことも考えたらけど、今日のグダグダな仕事っぷりを考えると甘えるのは都合良すぎな気がした。何よりも、梶に匿って貰ったことを沙枝が聞けば、どんな気持ちになるかを考えると、うさぎは梶に連絡する気持ちも失せてしまう。

持っていた携帯の電源を切ったうさぎは、フラフラしながらも電車へと乗り込んだ。

とにかく、もう少し調べてみて梶にきちんと報告しよう。沙枝と利奈にも電話しなきゃいけないけど……今日は無理かも。

既にうさぎの手には余る状況に、空いてる席に腰を落ち着けると目を閉じる。手の中にある携帯が鳴らないことに安堵しながら、うさぎは短い眠りに落ちた。

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