うさぎが逃げる Act.13:チェンジ 変化

試験休みから夏休みに入り、そして仕事を始めて五日目、梶に言われた通り裏口手前から梁瀬に電話を入れると迎えに来たのは意外なことに岡嶋だった。

「久しぶり」
「久しぶりです。といってもまだ二週間経ってないんですよね」
「そうだね、あの数日がやけに濃密だったから、つい久しぶりのような気がしちゃうね」

二人笑いながらビルに入り、最近あったことを話しながら岡嶋とうさぎはエレベーターへ乗り込む。たった二週間にも関わらず変化は多少なりとも起きていて、アルバイトを始めたうさぎに対して、岡嶋は今所属している劇団で秋の公演に向けてレッスンが始まっているという。

「忙しそうですけど、遊びに来て大丈夫なんですか?」

うさぎの問い掛けに岡嶋は笑いながらも肩を竦めて見せる。

「まぁ、忙しいんだけど梶さんに呼び出されてね。何か話しがあるらしいよ。一応、損は無い話しだって聞いてるけど」
「何でしょうね」

そんな会話を交わしながら部屋に入れば、既に梁瀬さんはパソコンに向かっていて挨拶だけはしてくれる。けれども、考えてる最中なのか視線はパソコンから外れない。来た早々、またしても梶に無理難題を言われて取り組んでいるのかもしれない。

梶は宣言した通りかなり厳しく、うさぎもこの四日でかなりのダメ出しをされ、組んだプログラムを幾つも没にされた。企画書に関しては一度も通ったことなどなく、たかがアルバイト、そう思っていたけど働くことがこんなに大変なことだとは思ってもいなかった。うさぎとしては考えていたつもりだったけれども、好き勝手にプログラムを組み、好き勝手にやりたいことだけをやっていたんだと自覚したのはつい昨日のことだった。

そして、この四日で既に自分の得意分野、不得意分野が浮き彫りにされてしまっているのは梶の手腕なのだろうと素直に思える。

「折角来たのに梁瀬は全然遊んでくれないんだ」
「お前、この状況で遊べると思うか!」

振り返り岡嶋さんを一睨みしてから梁瀬さんは机に積み重なっている書類を指差す。そこにある書類はプログラム設計書らしく、厚みにして軽く三センチはあるそれに岡嶋は楽しそうに笑う。対する梁瀬は苦虫を噛み潰したような顔をしていて、そんな二人にうさぎはつい笑ってしまう。

「オレもきちんとうさぎちゃんみたいにもっとプログラムの勉強しておけば良かったー」
「でも、私のは広く浅くなのでまだ勉強しないといけないことが沢山あります」
「うぅ、うさぎちゃんので浅くなら、オレ、どうしたらいいんだよ」

泣きまねをする梁瀬に岡嶋は笑い、うさぎとしてはどうしていいか分からず、部屋の片隅にある紙コップにインスタントの紅茶を淹れると、岡嶋には直接手渡し梁瀬の分は机の上に置いた。

言い方を間違えたかもしれない。そう思ったからうさぎは素直に「すみません」と謝れば、うさぎを見上げた梁瀬は少し困ったように笑みを浮かべる。いつも太陽みたいに笑う梁瀬にしては珍しい類いの笑みでもあり、うさぎは更に困惑する。

「別にそんなに気にしないでいいってば。ただの泣き言だし。それにうさぎちゃんが努力してるからそういうこと言えるのは知ってるって。だから必要以上に謝らなくていいよ。原因は元々オレの努力が足りないだけだから、泣き言零すのも間違えてるとは思ってはいるんだよね。でも、言いたいじゃん、ここまで厳しいとさ。うさぎちゃんだって言いたくならない?」
「……少しだけ」

梶の言葉は分かりやすいけど、容赦も無い。切る時にはばっさりと切られ、元々感情の起伏が乏しいうさぎでも立ち直るには数分掛かることもある。梁瀬のように感情に素直なタイプはもっときついに違いないことは、うさぎにも分かった。

「少し、少しかぁ……オレ、もうあの声を聞くのも怖くなってきたよ」
「でも、この数日で自分の得手不得手が分かるようになりましたよ」
「確かにそれはそうだけど……うさぎちゃん、ポジティブだなぁ」

そんなことを言われたのは始めてで、思わずうさぎは梁瀬をマジマジと見てしまう。けれども、言った梁瀬は然程気にした様子もなく、うさぎの淹れた紅茶をすすっている。

「俺、アルバイトしなくても良かったかも……」

ポツリと零した岡嶋の言葉に、梁瀬は溜息をつき、うさぎとしてはどう返せばいいか分からず自分の分の紅茶を淹れた。

梶の仕事場だった部屋は、アルバイト二日目には様変わりしていて、机が新たに追加されそれぞれうさぎと梁瀬の机となった。それぞれの机の上には最新型と言われるパソコンが二台用意され、壁の一部には新たに書棚が設けられて中にはプログラムやセキュリティー系の本がずらりと並ぶ。そしてその書棚の横にも棚が新たに用意されコーヒーサーバとポットが用意され、引き出しには色々な種類の紅茶やお茶が用意されていた。

貴美の話しではマグカップも用意しようと思ったらしいけれども、趣味もあるだろうから各自用意すること、ということになったらしい。いずれうさぎもカップを用意しようと思っていたけれども、正直、そういう雑貨屋が開いてるような時間に家へ帰れないという現状が続いていて用意が出来ていなかった。

「そう言えば、お前、今日なんでここにいるの?」
「だから梶さんに呼ばれたんだって、言っただろ」
「悪い、聞いてなかった」
「……お前ってそういう奴だよ」

二人のテンポ良い会話を聞いていると、ある意味付き合いの長さがうさぎの目にも垣間見える。どちらかというと動と静という感じに見えた二人だけど、こうして二人一緒に話している姿を見ると余り違いのある二人には見えない。

「そんなこと美樹ちゃんにしてたら、今にふられるぞ」
「あのなぁ、それくらいで美樹ちゃんはオレを嫌いになったりしないっての。美樹ちゃんはオレのこと本当によく分かってくれてるんだから」

不意に聞こえてきた聞き慣れない名前に、うさぎはこれ以上二人の会話を聞いているのも悪い気がしてきてパソコンに顔を向ける。途端に扉が開く音がして振り返れば、丁度扉から梶と貴美の二人が入って来るところだった。

「あぁ、岡嶋も来てるわね。ちょっとあんたも含めてお願いがあるのよ。今週末土曜日、開けられない? というか開けなさい」
「いきなりですね。一応、レッスンが入ってるんですけれど」
「休みなさい。面倒ではあるけど、その業界で生きて行きたいなら顔繋ぎ的な意味で損はさせないわ」
「どういう意味ですか?」
「三人には悪いけどパーティーに出て欲しいのよ。一応うちにも隠れスポンサーがいて、今回の件含めて報告しないといけないから。業界人も来るから岡嶋にとっては顔売るチャンスね」

週末二十五日にあるパーティーに嫌な予感がしないでもない。この世の中にどれくらいパーティーと言われるものがあるのかうさぎは知らないけれども、そうそうあるものじゃないような気がしないでもない。

「長谷部コーポレーションって知ってる? 一応上場企業なんだけど、そこでやるパーティーにうちのスポンサーが来るのよ。招待状もきっちり五人分、既に用意されているわ」

長谷部は沙枝の名字で、どうやら気のせいではすまないことにうさぎは内心溜息をついた。

「そんな訳でパーティー参加強制という流れ、強制だから拒否は受け付けないわ。でも、強制するからには服や小物は全てこっちで用意するわよ」

きっぱりと言い切る貴美にうさぎは異を唱えることは出来ない。少なくともここでアルバイトをしている以上、パーティーは嫌いという理由くらいで断れないことは分かっていた。逆に梁瀬と岡嶋は乗り気な様子で、更にうさぎとしては言い出せなくなる。

「あと十分もしたらテイラーから寸法計りに来るから、三人とも計って貰いなさい」
「その服って貰っちゃってもいいんですか!」

貴美の呆れた声も気にならないのか、梁瀬は嬉しそうで岡嶋もまんざらでは無さそうに見える。テイラーというくらいだから、それなりのものが出来上がるのはうさぎにも分かる。けれども、あのパーティーに着ていくくらいのドレスとなれば、うさぎは貰っても困る。貰ったところで着ていく宛てが無い、という理由も大きなものだった。

「うさぎちゃんのメイクは私と麻紀でやるから、期待しててね」

貴美に楽しそうにウィンクまでされてしまうと、うさぎとしては一体何をされるのかと不安にもなってくる。

利奈と沙枝に別口からパーティーに出ることになったと伝えるべきか、少し悩んでいる間にテイラーは到着してしまい、うさぎもぐるぐるとメジャーを回される羽目になった。

* * *

結局、うさぎは沙枝と利奈に連絡を入れることなく当日になってしまい、梶の車で梶の家へと向かっている最中だった。

うさぎの記憶では沙枝の家でやるパーティーは大きなものであり、一度逸れたら再開するのも大変ということもあって、会ったら声を掛けよう、会わなければ別に言う必要も無いかと思い結局連絡を入れることはしなかった。

最初は貴美の家で着替えやメイクをするという話しになっていたけど、どういうことでそうなったのか分からないけれども梶の部屋にといつの間にか変更になっていた。

そしてうさぎは梶の車に揺られている。梶の車には何だかんだと、ほぼ毎日乗っている。バイトの帰りが遅くなると梶が送ってくれるので、必然と毎日になってしまっている現状だった。それが嬉しく無いと言えば嘘になるけど、期待したくない一心で必死にその気持ちを否定していた。

「パーティーは嫌いか?」
「余り好きじゃありません」
「貴美と麻紀にいじられるのは諦めてくれ。私には止められない」

本当に申し訳無さそうな梶の声にうさぎは自然と笑いが零れる。貴美もそして一度しか会っていない麻紀も、どちらもうさぎから見てもパワフルな女性で梶が止められないのも理解出来る。

「それは分かります」
「基本的に会場では梁瀬か岡嶋と一緒に行動するといい。二人にもそう伝えてある」

確かにパーティーに行って一人ぽつんでは、身の置き所が無くて困るのは目に見えている。

「助かります、有難うございます」
「礼を言われることはしていない。元々、こちらが無理強いしていることだからな。全く、あの大おじには困ったものだ」
「大おじってことは、スポンサーは梶さんの身内なんですか?」
「正確に言うと貴美の身内だ」

貴美の大おじということなら、梶の大おじではないのだろうか。姉弟だから血の繋がりを疑ったことは無かったけれども、そういうことなんだろうか。うさぎは色々と考えてみたけど、さすがに詮索する言葉を口に出すことは出来ずに黙り込めば、運転する梶が笑う気配がある。

「私と貴美の両親は連れ子同士の再婚なんだ。だから、実際に貴美とは姉弟ではない」
「そうなんですか……すみません」
「別に構わない。それに君は謝りすぎだ。何にでも謝るのは悪い癖だ」

少なくとも、たかがアルバイトであるうさぎが聞いていい話しでは無いだろうし、今のは謝るべきところじゃないのかとうさぎは思う。恐らく自分が興味がある態度を取ってしまったからこそ、梶はうさぎに教えてくれたのだろう。

「君が思う程気にしていない。だから君が気に病む必要は全く無い」

先回りして言われてしまうと、それ以上うさぎも口を挟むことは出来ず視線を窓の外へと移した。同じ道をそれほど多く取った訳でも無いのに、この風景も徐々に見慣れてきている自分に気付きうさぎは何とも言えない気分になる。

アルバイトをして近くにいられることはいいけれども、やっぱり、近付きすぎるのは危険なのかもしれない。昼の光を乱反射するビルをぼんやり眺めながら、そんなことをうさぎが考えていれば隣から声が掛かる。

「今、何を見てる」
「……ビル、ですけど」
「見ていて面白いものか?」
「面白い……面白くは無いですけど、光が窓に反射して綺麗だとは思ってました」

どういう意図があっての質問なのか、うさぎにはよく分からない。だからこそ梶を見つめれば、視線がチラリと一瞬だけこちらへ向けられたけど、再び前を見て運転している横顔は普段見るものと違いは無い。

「君の思考に興味がある」

一瞬、息を飲み損ねて派手に咽せれば、梶が謝ってくる。

「すまない、その……変な気持ちでは無く、君の組むプログラムが面白くて、どういう発想でああいうプログラムを組むのか興味を持った。大丈夫か?」

本気で驚いた。だからといって、それを梶に言う訳にもいかずうさぎは「大丈夫です」と答えながら、鞄に入れてあったペットボドルの水を飲むとようやく一息ついた。途端に梶の言葉を勘違いしそうになった自分が恥ずかしくなってくる。

「そういう意味であれば、私も興味あります」

嘘では無いけど、そういう意味以外でも興味があると言える訳も無い。

「梶さんのプログラムは精密で、いつも遊びがなくて、ソースは秩然としていて、どこにも穴が無い。設計書も読みましたけど、無駄がなく、凄くストレートな表現で分かりやすかったです。だから、結構生真面目な性格かと思っていたんですけど……先日、机にあったメモ書きみたら、その……」
「雑多で汚い、か」
「そこまでは言いませんけど、少し意外でした」
「メモは誰かに見せるものでは無いからな。ただ、貴美に言わせると生真面目らしい。だから君の見る目も間違えてはいないのだろう。私から見た君のプログラムは、時折わざと悪戯を組み込んでいる気がする。分かっているのに遠回りして見せたり」
「いえ、そこは分かってなくて遠回りしてるんだと思います、単純に」
「そうか? 実際、君の言動は単純そうに見せているだけで、どれだけ言葉を飲み込んでいるのか気になる所だ」

梶の声にうさぎは膝の上に置いていた掌に力が籠る。まるで、梶への気持ちも見透かされているような気持ちで酷く落ち着かない。

「別にそんなことありません」
「不思議だな。プログラムだけ見ていると時折強気にも見えるのに、実際の君は強気な部分は余り無い」

何だか会話がうさぎの触れられたく無い部分へ進んでいる気がして、うさぎは小さく溜息をついた。

「梶さん、考察は辞めましょう。凄く不毛に思えてきました」
「……そうかもしれないな」

会話はそれで途切れてしまい、車は丁度梶のマンションへ到着したところだった。駐車場に車を止め、梶と二人でエレベーターに乗り込んだけれども、二人に会話は無かった。うさぎは元々無理に会話を繋げるタイプでも無いから話しかけることはしない。ただ、胸はざわめいて酷く落ち着かない気分でうさぎはエレベーターを降りた。

梶の部屋に足を踏み入れた途端、貴美と麻紀に迎え入れられ手放しで何故か喜ばれてうさぎは困惑する。

「だって、余り気乗りしてないみたいだったから来ないかと思ったの」
「でも強制って貴美さんが」
「仮病もありかと思ってたから、ドキドキして待ってたのよ。正直、就職考える梁瀬は強制的に出るだろうし、岡嶋には旨味があるけど、うさぎちゃんにとって何もプラスになること無いから断られるか、むしろドタキャンくらい予想してたのよ」

さすがにアルバイトとは言えども、梶や貴美のお願いを断れるほどうさぎも強くなく。いや、この場合は強い弱いという問題ですら無いけど、うさぎには断るという選択は全く無かったから、貴美の言葉は凄く意外でもあった。

「私はズルしそうですか?」
「ズルっていうか……気乗りしないことはすぐに断られそう」

貴美の言葉はある意味間違えていない気がして、うさぎは少しだけ笑う。

「とにかく、今は時間が足りないくらいだからすぐ行くわよ」

梶と麻紀をリビングに置いて、貴美は前にうさぎが泊まらせて貰った部屋に入ると鍵を掛けた。部屋の真ん中にはトルソーが置いてあり、そこには黒と赤の丈の短いドレスが存在感をきらびやかに演出していて、うさぎは思わず腰が引ける。

「これ、私が着るんですか?」
「うさぎちゃん以外誰が着るのよ」

そうは言われても、こんな可愛らしくきらびやかなドレスが自分に似合うとはうさぎには到底思えず、大きく溜息をついた。

「多分、似合わないと思います」
「大丈夫、絶対似合うから。ほら、洋服脱いで」

すぐに貴美の手が伸びてきて、うさぎの着ているボレロに手を掛ける。

「じ、自分で脱ぎます!」
「あら、別に女同士だしいいじゃない」

正直、自分の貧相な身体を見られるのは恥ずかしいけれども、貴美は反論は受け付けないとばかりに手を離そうとはしない。うさぎは早々に諦めると、着ていたボレロとキャミソールを脱いでしまう。

「うさぎちゃんは、自分が可愛くなるのは嫌い?」
「別に嫌いじゃないですけど……」

うさぎだって年頃の女の子ではあるから、可愛いくなることに憧れが無い訳ではない。けれども、自分が可愛くなれるとは到底思えず、努力したことは無い。

「私から見ると、うさぎちゃんはわざと可愛くなる努力をしてないように思えるわ。だって、素材は悪く無いもの」

話しながらも下着だけになると、貴美はトルソーからドレスを外してうさぎへと渡してくる。そしてうさぎは差し出されたその手からドレスを受け取れずに、ただ貴美の顔を凝視する。

「悪く無い、ですか?」
「うん、どっちかというと可愛い顔してると思うわよ。目も大きいし、色も白いし、何よりも肌が綺麗」

貴美は一旦差し出していたドレスを引くと、空いた手でうさぎの頬を撫でる。貴美の手が触れた途端にうさぎの身体はビクッと竦んでしまったけれども、貴美は気にした様子も無い。

「大丈夫よ。貴弘はあてにならないかもしれないけど、今日はナイトが二人も一緒にいるんだから」
「岡嶋さんと梁瀬さんですか?」
「そうよ。大丈夫、うさぎちゃんのこときちんと守ってくれるから」

そこまで言われて、うさぎは貴美が過去を知っているのではないかと思いつき複雑な心境になる。

小学六年生の頃、うさぎは見知らぬ男に悪戯をされた。それを親に言えば、両親は気のせいだとうさぎの訴えを退けた。結局、それ以来、男の人は苦手になったし、親との距離は出来たし、人と深く付き合うことも拒絶気味になった。それこそ、中学三年間は友人と呼べる人はただの一人もいなかった。

今だから両親が悪戯された事実を退けた理由も分からなくもない。世間体も大事だっただろうし、面倒を避けたかったのだと思う。酷い両親かと聞かれたら、うさぎはそんなことは無いと答えるけれども、傷ついていない訳では無かった。

「今日は凄く可愛くなって、男たちを驚かせましょう」

明るい声で言う貴美に、うさぎは複雑なまま差し出されたドレスを今度こそ受け取った。後ろあきのドレスを足下から着ると、黒いシースルーの半袖に腕を通す。肩口で大きく膨らんだシースルー部分は、胸元から首もとへと続いている。胸元から下は赤い艶やかな布で、裾は黒い布に切り替わっていて、そこには同じ黒で花の刺繍が咲き乱れている。

「短く無いですか、これ」
「フレアーがきいてるからそう思うだけで、うさぎちゃんの制服と余り変わらないわよ。ほら、これも穿いて」

差し出されたのは黒い薄手のストッキングで、タイツしか穿いたことのないうさぎにとってはかなり難儀なものだった。しっかりと買い置きを用意していた貴美に電線させてしまい二本返し、三本目でどうにか穿くと、うさぎはもうそれだけで疲弊していた。

背後に回った貴美が後ろのチャックを上げてくれて、最後にリボンを結んでくれる。一体、自分がどんな姿になったのか気になったけれども、この部屋に鏡は無くて確認すら出来ない。

「あとは麻紀がメイクとか髪とかやってくれるから」

それだけ言うと、貴美は扉の外から麻紀を呼ぶとうさぎを椅子へと座らせた。ドレスのスカート部分がゴワゴワしていて、うさぎとしてはどうにも落ち着かない気分でいると、横から伸びてきた貴美の手がうさぎの眼鏡を外してしまう。

「お化粧するからこれは外しておくわね。うさぎちゃん、眼鏡しなくても私が分かる?」
「大丈夫です。パソコンに向かう訳じゃなければ基本的に眼鏡必要無いんで」
「それは良かった」

答えたのは部屋に入ってきた麻紀で、手には大きな銀色の箱を持っていた。麻紀は一旦床に箱を置くと、すぐにうさぎの顔を見て、うさぎの頬に指先で触れる。

「うわー、綺麗な肌。いいわよねー、こういう肌」
「私たちにはもう無理よね。本当に羨ましい。だから、余り派手に化粧しないでよね」
「分かってるわよ。コンセプトは可愛く」
「そういうこと」

化粧されるのはうさぎの筈なのに、何故か二人の間で会話は進み、うさぎは口を挟むことすらできない。梶が言っていた通り、本当に二人揃うとパワフルだとうさぎでも思う。
麻紀の手が銀色の箱を開けると、そこには所狭しと化粧道具は入っていて、思わずそれを目にしたうさぎは驚きを隠せない。

「……それ、全部使うんですか?」

顔に色々塗りたくられる自分を想像して、つい嫌そうな声になってしまえば、貴美と麻紀に盛大に笑われてしまう。

「全部は使わないわよ。こんなの全部使ったらどんなお化けって話しよ」
「大丈夫、麻紀の腕は確かだから」

会話しながらもうさぎの背後に立つ貴美に三つ編みを解かれ、ヘアクリップで顔に掛かる前髪やサイドの髪は麻紀によって止められる。

「取り合えず、うさぎちゃん、目を閉じてくれる」

麻紀に促されてうさぎは素直に目を閉じれば、ひんやりとしたものが顔に塗られる。他人に触れられるのは、今でも少し怖い。けれども、その指先はとても優しいもので、落ち着かなかった気持ちが少しずつ落ち着いてくるのが分かる。

長いように感じた化粧が終わると、麻紀は背後に回り込みブラシで髪を梳かしてから霧吹きで髪を湿らせると、貴美が用意していたドライヤーで髪を整えられる。それで終わりかと思えば、うさぎの髪はアップにされ、その髪をヘアアイロンで形づけられていく。

慣れない作業に終わりが見えなくて、うさぎはもう本格的に疲れきっていた。元々、美容院という場所も好きでは無いのに、こうして自分を他人の手に委ねることにうさぎは慣れていなかったことも疲れる原因の一つだったに違いない。

それでも、終わりはくるもので、麻紀の「出来た」という声にうさぎは心底ホッとした。

「どれだけ変身したか見たく無い?」
「見たいです。恐いもの見たさですけど……」

そう返したうさぎに貴美と麻紀はお互いに目を合わせてから大笑いすると、リビングに続く扉を開けた。

「貴弘も絶対に驚くわよ」

貴美のその言葉にうさぎの心臓は一瞬にして早くなる。恥ずかしいから見られたく無い、そう思うのに期待する自分がいて、でも可愛いと思われたいのは確かで、色々とぐちゃぐちゃになったまま麻紀に促されてリビングへ出た。梶はリビングのソファに腰を落ち着けて新聞を読んでいたが、顔を上げたその瞬間に固まったのが分かる。その顔を見た瞬間、うさぎはこの場から逃げ出したい気分になる。

「ちょっと貴弘、何か言うことは無い訳?」
「あ、いや……」

言葉を濁されると余計に居たたまれない気持ちになって、うさぎは足早にリビングを通り抜けて洗面所にある鏡の前に立つ。梶が絶句するぐらいだから、やっぱりドレスは似合わなかったのかもしれない。そんな思いで鏡の中の自分を見れば、もうそこに映っているのは自分が知らないうさぎの姿だった。

「……別人?」

思わず一人呟いてみたけど、鏡の中にいるうさぎの唇も同じように言葉を形作る。そんな鏡に麻紀と貴美が入りこみ、非常に満足そうな笑みを見せた。

「可愛いでしょ。私が化粧したんだから」
「まぁ、うさぎちゃん、元もいいし」
「あとはこれにパンプスといきたいところだけど……うさぎちゃん、穿いたことある?」
「ありません」

即答すれば、貴美は少し考える様子を見せてから洗面所を出て行ってしまう。髪にリボンつけた方が華やかかなぁ、でも、これくらいの方がうさぎちゃんの可愛さが際立つ気がするし、などとブツブツ言う麻紀はうさぎの背後から髪を弄っている。ここまで変化してしまうと、うさぎにとっては別人の仮面をつけてるようなもので、落ち着かないのを通り過ぎて冷静にすらなってきた。

「リボンはいいです。落としたら二度とつけられそうにないですし」
「そっか、まぁ、その方がいいかもしれない。そうそう、これだけは鞄に入れていってね」

そう言って麻紀はうさぎの手を取ると、掌に口紅を一つ落とした。それは化粧に興味が無いうさぎでも知ってるブランドのもので、うさぎは麻紀を見上げる。

「なくても大丈夫です。それに落としたら困ります」
「これはうさぎちゃんにあげる。もう、私の年になると使わない色だから」

鏡に映ったうさぎがしていた口紅は少しパールがかった淡いピンク色で、然程どぎつい色では無かった。改めて麻紀を見れば、麻紀の唇に塗られた口紅はベージュに近い赤で、使わないと言った理由がうさぎにも少し分かるような気がした。

「この色はね、学生時代にしか使えない色なの。だから、気が向いた時だけでいいからうさぎちゃんが使ってくれる?」

今後、口紅なんて使うかどうかはうさぎにも分からない。けれども、口紅というのはやっぱり女の子の基本アイテム的なもので、うさぎは素直に頷いた。リップクリームならまだしも、口紅を自分で買うとは思えなかったという気持ちが働いたのも確かだったと思う。

「有難うございます」

頭を下げて改めてお礼を言えば、麻紀は豪快に笑い「いいの、いいの。よく似合ってる」と褒めてくれる。

鏡に映る自分が確かに別人のようだったけれども、瞬きをすれば鏡に映るのは確かに自分だと実感する。そして、褒められることは嬉しくて、うさぎは自然と口元に笑みが浮かぶ。

「さてと、そろそろ行くわよ!」

貴美の声にうさぎは洗面所から出て行けば、出入り口で待ち構えていた貴美がうさぎの手にバッグを握らせる。黒と赤で彩られたバッグは丸い形をしていて、今のうさぎの格好には確かに合うものでもあった。

「あの、これ」
「今日はそれでお出かけ。ノートパソコンの持ち込みは許しません」
「それなら財布とハンカチだけでも」
「ハンカチ、ちり紙、ウエットティッシュは入ってるから、それを使って。ついでに財布は必要無し。帰りも送るし何かあれば私が全責任を持って出すから」
「そんな……ここまでして貰ってるのに申し訳ないです」
「大丈夫、梁瀬や岡嶋も財布なんて今日は持って来ないわよ。だからうさぎちゃんも気にしない。さて行くわよ」

貴美も既に着替えたらしく、チャイナドレスのようなぴったりした光沢のある緑色のドレスを身につけている。ウエストラインが綺麗で、思わずうさぎとしては惚れ惚れしてしまう。うさぎもいつかあんな風になれたら、と思わずにはいられない。

「ほら、運転手。早くしなさい」

貴美に促されるように玄関先まで来た梶は、既にジャケットを着込み胸元にはタイも止められていて裾の長い黒に近いグレーのタキシードは梶の身長にもとても似合っていた。思わずそんな梶に見とれていたけれども、不意にこちらを見た梶は何とも言いがたい顔をしてうさぎを見下ろしてくる。

「……似合ってるから大丈夫だ」

一体何が大丈夫なのか、うさぎにはさっぱり分からない。けれども、褒められていることだけは分かったから素直にお礼を言ったけれども、微妙な空気がそこに流れていて、そんなうさぎと梶を見て貴美と麻紀が大笑いしている。

「あんた、本当に人の容姿褒めるの苦手よねー、昔からそうだったけど」
「唐変木の貴弘がここまで言ったんだから、そこは褒めて上げるべきよ」

呆れたような麻紀に対して、貴美はどこか満足そうな笑みを浮かべると玄関先に赤いパンプスを並べた。

「うさぎちゃん、今日はこれ。一応、ローファーくらいの高さしか無いから大丈夫だとは思うけど、ダメだったら会場で言って。靴くらいすぐに手配するから」
「有難うございます。多分、大丈夫だと思います。でも、こんなに色々用意して貰ったら困るというか……」

困るという程のものでは無いけれども、うさぎとしてはもうどうすればいいのか分からないというのが正しい。お礼を言うのは確かなことだけど、ここまでして貰うだけの何かをうさぎはまだしていない。だから、ここまで盛大にあれこれして貰ってしまうと気後れしてしまって、自分の不甲斐なさに謝りたくなってしまう。

「別にうさぎちゃんが気にする必要は全く無し。どうせ梁瀬や岡嶋にも靴からスーツ、ハンカチまで一式送りつけてるんだから」
「でも、化粧までして貰ってます」
「別にそれは麻紀がしたいって言うから手伝って貰っただけよ。麻紀はね化粧おたくなのよ」

悪戯めいた笑みを浮かべた貴美をうさぎはマジマジと見てから、思わず噴き出してしまった。

「化粧におたくってあるんですか?」
「あら、あるわよ。麻紀のメイクボックス見たでしょ。化粧品なんて種類が沢山あるんだから、コレクターになってもおかしくないの。今にうさぎちゃんにも分かるから」
「そうそう、分かると思うわ。あぁ、もし化粧したくなったら私に連絡頂戴。それはもう懇切丁寧に教えてあげるから」

笑顔の貴美と麻紀にうさぎは笑みを浮かべてから「その時は宜しくお願い致します」と頭を下げる。うさぎとしては久しぶりに笑ったかもしれない。

「さて、行きましょう。時間も無いわ。ほら、うさぎちゃんも靴穿いて」
「貴美、これ持って行って。うさぎちゃんの着替え」
「ありがと。麻紀はこれから仕事?」

二人が会話を交わす間に、うさぎは靴に足を入れる。鮮やかな赤だけど、子供っぽく見えないのは足首辺りにストラップがついているせいかもしれない。思っていたよりも柔らかい穿き心地に安堵すれば、すぐ横で靴を穿いていた梶が屈み込むとうさぎのストラップに触れる。

途端に顔に熱が集まってきて、もうどうしていいか分からない。ストラップを止めようとしてくれるのは分かるけど、顔から火を吹きそうな状態でうさぎは僅かに一歩下がる。途端に梶の指先からうさぎの穿いているパンプスのストラップがするりと抜け落ちた。

「あ、あの、自分でやります」
「その格好で屈むのは大変だろう」

確かに中にパニエも入っていて、屈むのに多少難点はあるけど別に大変というほどでもない。

「大丈夫ですから」
「あら、いいじゃない。珍しく貴弘が女性に対する気遣い見せてるんだから甘えておきなさい」

そう言われても、うさぎとはしては落ち着かないし、女性とか言われてもピンとこないし、何よりも見た事もない位置に梶がいて気が気では無い。

「大人しくしてろ」

それでも梶にぴしゃりと言われてしまうと、うさぎとしてはもう硬直するしかない。

梶の節くれ立った長い指がストラップを掴み、くるりと足首を回してからパチンと音を立ててストラップを止める。けれども、うさぎはその音よりも心臓の音が大きすぎて色々な音が聞こえなくなりそうだった。ストラップを足首に回す際に、時折梶の指が触れて逃げ出したくなるのに、うさぎの身体は完全に機能を止めたかの如く動くことも出来ない。もう片方のストラップも止めると梶は立ち上がり、うさぎを見下ろして微かに笑みを浮かべた。

「行くぞ」

梶は玄関を大きく開けると、うさぎの背中を押して外へと促す。背後ではまだ貴美と麻紀が会話していて、うさぎはゆっくりと廊下へと出た。三時頃に迎えに来てもらったのにも関わらず、もう既に外は夕方の風景になっている。もっぱらうさぎは聞き役ではあったものの、女三人で色々な話しをしなかがら駐車場まで来ると、仕事のある麻紀とはそこで別れた。

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