うさぎが逃げる Act.12:ワーク 仕事

校長の長く有難みもない話しも終わり、後は担任が来て注意事項を聞けば帰れるという中休み中に前に座る利奈が振り返る。いつもなら一緒にいる沙枝は日直ということで、担任に呼ばれていてこの教室にいないこともあり、自然と利奈と二人会話をすることになる。

「ねぇ、今日、用事ある?」
「夕方からはあるけど」

昨日、梶から電話がり書類を持って今日はシステムセキュリティーに行くことになっている。聞いた話しでは岡嶋と梁瀬も来るらしく、まだ数日しか経っていないのにうさぎは懐かしく感じてもいた。

「それまででいいから、一緒に買い物付き合って」
「なに買うの?」
「ドレス」

その一言で、何のための買い物なのかうさぎはすぐに分かった。確か沙枝が言っていたパーティーがこの月末にあるから、その為のドレスに違いない。

基本的にお嬢様の多くいるこの学校では、かなり校則が厳しくうさぎの親がそこが気に入り、うさぎも勧められるままにこの学校を受験した。うさぎとしては高校であればどこでも良かったし、制服が可愛かったのは魅力的でもあった。似合う似合わないは別としても、やっぱりどうせ着るなら無難なものより、可愛いものの方が好きだし、実際に似合っている利奈や沙枝を見ていると心は和んだ。

「やっぱり行くの?」
「っていうか、うさぎは行かないの? 折角、美味しい食事といい男にエスコートなんて夢みたいな世界を拝めるのに」

利奈もお嬢様ではあるけれども、親の勧めで中学まで公立校へ通っていた為にうさぎに感覚は近い。けれども、うさぎがネットサーフィン中に知った限りでは、利奈の親はかなりの資産家であるにも関わらず、親の方針なのかお小遣いはうさぎと大差ない。それでも凄いところは、パーティーなどにお呼ばれされたと利奈が言えば、ドレス代をポンと三十万くらい用意してくれるところだ。

「興味無し。っていうか、ああいうのは面倒だから好きじゃないの」
「でも、料理美味しいって言ってたじゃん」
「料理は確かに美味しかった。でも、色々な人が挨拶に来て落ち着いてられないし」
「面倒だったら無視しても問題ないと思うけど。どうせ御大お気に入りの沙枝へのゴマスリの一環だろうし」

利奈が言う御大は沙枝の祖父でもある、寒河江一郎のことで、政治家の家系でも無いのに国の重鎮の一人とされている。国一つ買えると言われる莫大な資産を持ち、その息子夫婦は会社を起こし一流企業となっている。祖父である寒河江は昔こそ息子とうまくいっていなかったらしく妻の籍に入ってしまったが、既に和解して可愛い孫である沙枝を溺愛しているのを知っている人間は多い。だからこそ、沙枝の友人と言うだけで取り入ろうとする輩がわんさかと湧いてくるあの場をうさぎは好きじゃなかった。

利奈はそういうことはよくあることだし慣れたと言っていたけれども、庶民であるうさぎには面倒で落ち着かないものだ。会社のパーティーとはいえども、御大が来るようなパーティーは人も多く集まるし遠慮したいというのがうさぎの気持ちでもあった。御大自身はうさぎや利奈の前では気のいいおじいちゃんという感じではあったけれども、やはり国の重鎮ともなれば緊張するなというのが無理な話しだ。

「買うのがドレスなら行かない。ああいう所は落ち着かないから」

前回、クリスマスパーティーの時にも利奈のドレスを買うのに付き合ったけれども、デパートに行ってサロンでお茶してから部屋に通され、次々に運び込まれるドレスに頭がクラクラした記憶がある。あれはもう別世界でうさぎにはついていけない。

「じゃあ、うちでならいい? ここで嫌って言ったら殴ってやる」
「……分かった、行くよ」

ここで断れば後日、延々と文句を言われ続けることは目に見えている。少なくとも、下手に外に行くよりもずっといい。そうと決まれば手早く利奈は携帯を取り出すと、家へと電話を掛けているのを見て小さく溜息をついた。

元々服を選ぶのは嫌いでは無いし、ドレス自体見るのは嫌いじゃないけど、一緒になって選べと言われたら正直困る。それでも、利奈にとってはウインドウショッピングの延長でしかなくて、こういう時に差異を感じる。でも、不快に思わないのは利奈や沙枝の性格もあるし、何よりもうさぎ自身、人は人と割り切っている部分もある。

「あれ、利奈ちゃん電話中?」

声を掛けられて顔を上げれば、沙枝が戻って来ていて肩先から長い髪がサラリと落ちる。沙枝の長い髪はいつも手入れされていて、とても綺麗だからうさぎは気に入ってる。むしろ沙枝の髪が綺麗だからこそ、真似をしたくてうさぎも髪を伸ばし始めたけれども、どうにも手入れを怠る傾向にあるうさぎの髪とは全然違う。

「利奈がドレス買うって」
「もしかして、うちのパーティーの時に着るドレス?」
「そのドレス。沙枝もうちに来ない?」

問い掛けにうさぎが答えるよりも先に電話を終えた利奈が答えたことにより、沙枝の視線は利奈へ移ると少し考える素振りを見せる。

「そしたら私も一緒にドレス選んじゃおうかな」
「そうしよう、だったら利奈も家に連絡入れておきなよ」
「そうさせて貰うけど……うさぎちゃん、大丈夫?」

心配そうな顔で沙枝は覗き込んでくるけど、うさぎはそれに対して首を横に振った。

「別に見るのは嫌いじゃないから」
「そっか、良かった」

遠慮がちな沙枝らしい安心した顔にうさぎはもう一度「大丈夫だから」と声を掛ける。沙枝は笑顔を浮かべてから家に電話を掛けている間に、うさぎも今日の迎えを断るべく梶へと電話を掛けた。もう少し人付き合いが良ければ、この状況を楽しめたのかもしれない、と思うと少しだけ勿体ない気がしてくる。 だからといって、すぐにうさぎ自身が変われる筈も無く、ただ、この状況が勿体ないなぁと思う。

しばらくして沙枝が電話を終えた頃、担任が教室へ入ってきて慌てて全員が席につく。ざわめきは静まったけれども、明日から始まる夏休みにみんな浮き足立っていて、それはうさぎだって同じだった。

* * *

いつものように車で迎えにきた沙枝の運転手は、うさぎたちを乗せると利奈の家へ到着した。既に利奈の家ではメイクさん入れて六人もの外商が待ち構えていて、すぐに沙枝と利奈は着替えるべく別室へと連れて行かれた。

利奈の家は高級住宅地と言われる場所にあり、平屋にも関わらず九部屋もあり、その他に二十畳近いリビングと十畳以上あるダイニングが併設されている。そして、それと同じ広さの庭があるということに、初めて利奈の家に来た時にうさぎは驚いた。何度か遊びに来る内に徐々に慣れ、今は一人リビングで待たされても緊張するようなこともなく、お手伝いさんの淹れてくれた紅茶を楽しみながら、二人が出てくるのを待っている。

去年、沙枝が着ていたのは淡い白に近いピンクの膝丈のドレスで、長い髪をハーフアップにしていてとても可愛かった。対する利奈は青い目の覚めるような丈の短めのドレスで、いつも下ろしている前髪をアップして後ろは外ハネにアレンジしてあって、大人っぽく仕上がっていた。

二人ともドレスを貸そうか、メイクさんに一緒に化粧して貰おうか、と誘ってくれたけど、うさぎはその全部を断った。確かにシンデレラ願望が無い訳ではないけど、同級生にそれをして貰うのは少しだけ嫌だった。一度して貰えば、次だって期待してしまうだろうし、二人に対してあわよくばという気持ちを持ちたく無かった。だからこそ、それはうさぎなりのけじめでもあったし、説明すれば二人とも理解してくれたことは本当に凄く嬉しく思った。利奈には真面目すぎると笑われたけど、それでも無理強いすることはしなかった。

「お待たせー!」

元気に現れたのは利奈でその後ろからすぐに沙枝も現れた。利奈は黒と金の刺繍を施されたシックな短めのドレスを着ていて、髪は全てアップにされていてそれがクリスマスの時よりも更に大人びて見える。対して沙枝はふわりとした淡い水色のドレスで肩には薄いふんわりとしたストールを巻いている。髪はフルアップで夜会巻きしてあり、クリスマスに比べて随分と大人っぽい格好になっている。

「何だか、沙枝別人みたい」
「そうかな、そう言われると嬉しいかも」
「沙枝ってばねー、本当はスタイリストさんに髪下ろした方がいいって言われてたのに、もっと大人っぽくして下さいとかお願いしてるの。それって、やっぱり見せたい人がいるってことだよねー」

途端に沙枝の顔が真っ赤になり、すっかり俯いてしまう。今まで男の話しとなると利奈の独断場だったけれども、どうやら沙枝にはすっかり春が来ているらしい。

「ねぇ、どんな人? 大人っぽくって沙枝が言うくらいだから年上だよね?」

畳み掛けるような利奈の質問に、沙枝は更に顔を赤くさせながらもぽつりぽつりと話しだした。

「大学出るまで、結婚はしないけど……婚約はしたの」
「えーっ! 婚約! もしかしてお見合い?」

頷く沙枝に利奈同様、うさぎも驚きを隠せない。

「それでいいの?」

心配になってうさぎも問い掛けたけど、沙枝はほんわかと柔らかい笑みを浮かべる。

「うん、あの人がいいの。もう、ずっと昔から知ってた人なんだけど、ずっと片思いだったの。年が離れてるから無理だと思ってたんだけど、ようやく大学出たら結婚しようって言ってくれて」
「……ねぇ、本当にそれって大丈夫なの。親とか御大、納得してるの?」
「親が持って来たお見合いだから、それは平気。私ね、ずっとお嫁さんになるのが夢だったの」

それは沙枝らしい夢といえば夢かもしれないけど、今の爆弾発言に色々と思考がついていかない。利奈や沙枝に言わせると高校生で婚約は珍しくない世界らしいけど、そこについていけないうさぎとしては結婚なんてまだ遠い先の話しすぎて想像すらつかない。

「あーあ、すっかり春ね。いいなー。うさぎはそういう話しないの? 気になる人とか」
「気になる人、か……」

気になる人は確かにいる。多分、好きだと思うけど、いまいち確信が持てないのは既にあの人が日常に組み込まれてしまったからなのか自分でもよく分からない。

「黙るってことはいるんだ。どんな人?」
「キーボード」
「は?」
「あ、ごめん、キーボード叩く指が凄い綺麗な人」

途端に利奈の顔は歪み、沙枝は困惑したような顔でうさぎを見ている。

「うさぎ、言いたくは無いけどおたくな男だけは辞めておきな」
「おたくって、別にそういうのじゃなくてそういう仕事してる人なの」

梶の仕事姿はかなり圧倒された。ピンと張った背筋と、緊張感伝わってくる空気、そしてキーボードの上を走る指は長くてうさぎの指よりもがっしりとした男の人の指だった。でも、キーボードを叩く指は音を感じさせないくらい滑らかで柔らかく、あんな風に余裕を持って打てたらいいと、視界に入る度に思っていた。

「仕事ってことは社会人なの? 何か意外、うさぎはどっちかっていうと同学年の子を好きになるんだとばっかり思ってた。まぁ、大人の男って響きだけでもいいしねー」
「響きだけで男選ぶから利奈は失敗するのかもね」
「うさぎ、厳しい」

泣きまねをする利奈の頭を沙枝の手が撫でる。それは日常の光景で、ついお互いに笑みが零れる。

「それはそうと、このドレスどうよ!」

泣きまねを止めた利奈は改めて沙枝と並んで、少し離れたところに立つ。大人っぽく仕上がった二人にドレスはよく似合っていて、文句のつけどころがない。

「あと強いて言うなら、利奈は首もとにネックレス、沙枝は腕にブレスレットがあった方がパーティー向けかも。一層のことイヤリングもしたら?」
「イヤリングかぁ、あれ、長時間つけてると痛いんだよね」
「私もイヤリング苦手かも」

利奈と沙枝の言いたいことはうさぎにも記憶があり、思わず耳朶を触ってしまう。

「まぁ、そこら辺はお店の人に相談してみれば? 良い案があるかもしれないし」
「そうね、そうするわ。じゃあ、私はこれで決まり。沙枝はどうする?」
「私も今回はこれで行く事にする。いつまでも子供じゃないところ見せたいし」
「おー、沙枝が張り切ってる。ぜひ当日はどの人だか教えてよね」

頷く沙枝の顔は本当に幸せそうで、見ているうさぎも幸せを分けてもらったような気分で二人を見送った。

それから、三人でお茶をして沙枝の彼との昔話を聞いたり、利奈の彼氏が出来ない理由を考察してみたり、うさぎのおたく度を計られたりと楽しい時間を過ごした。けれども、十六時を過ぎるとうさぎは椅子を立つ。

「そういえば、夕方に用事あるって言ってたけど、また秋葉原?」
「違う。実はアルバイトすることになって」
「アルバイト? うさぎが?」

二人に驚かれてうさぎとしては苦笑するしかない。人付き合いの苦手なうさぎがアルバイトをするとなれば、それは驚かれても仕方ないに違いない。

「どうして、なんで? あ……もしかして、気になる人ってのがそのバイト先にいたりする?」
「確かにいるけど、理由はそれじゃないよ。将来に繋がるかと思って」
「色気ないなー。でも、将来か。うさぎは将来のこと考えてるんだ。やっぱりパソコン系の仕事?」
「一応そのつもり。沙枝はお嫁さんとしても、利奈はどうなの?」
「私は高校卒業したら看護学校目指そうかな、って思って」

いつでも明るく元気な利奈にはある意味向いてるかもしれない。病院という閉鎖された空間にいる人たちにとって、利奈の明るさは励みになるに違いない。けれども、うさぎの家とは違い親が会社を経営している以上、一人っ子である利奈が会社を継ぐことを親は望んでいるのではと心配にもなる。少なくともうさぎのように好きな事を仕事に選べる環境の家柄では無いのは確かだ。

「そっか、親、大丈夫なの?」
「まだ言ってないから、どうなるか分からないけど、でも、やりたい仕事だから」
「それなら頑張れ」

軽く言えば利奈は満面の笑みで「うさぎもね」と返してきて、お互いに笑う。

「あぁ、送りの車出すから待ってて」
「いいよ、別に必要ないよ。ケーキ食べたし、少し歩きたい気分だから」
「そう? なら気をつけてね」
「頑張ってね」

二人は玄関まで出て来て見送ってくれ、うさぎは手を振りながら扉を閉めた。

夕方になるのにジリジリとした暑さは引かず、歩き出した途端に背筋に汗が浮かんでくるのが分かる。それでも、うさぎは駅に向かって歩いているところで電話が鳴り出し、ポケットから取り出した。結局、元々使っていた電話番号は破棄して、新しい電話に変更になった。梶が言うには一応念のためということだったけれども、その手続きも梶にして貰って非常に申し訳ない気分でいっぱいだった。

そして、画面に表示されるのは梶の名前で、うさぎは小さく苦笑すると通話ボタンを押した。

「もしもし」
「今どこにいる」

その声を聞いた途端に足が止まり、耳元で聞こえる低い声にうさぎは小さく震えた。何だか、耳元で聞くとこの声は心臓に悪い。

「目白です」
「随分違う方向にいるな」

訝しむ梶の声はただ気になっただけなのか、それとも心配されているのか、そんなことを気にしてしまう事自体おこがましいに違いない。梶にそんなつもりは無いのは分かってる。そして、うさぎも気持ちを伝えるつもりは今のところ無い。梶といれば得る物は多いし、今は近くにいられるようになることで満足しておきたい、絶対に期待はしない、それがうさぎの気持ちでもあった。

「友達の家にいたので」
「そうか、駅から近いのか?」
「十分くらいでつくと思います」
「それなら駅前で待っていろ。拾って行く」

それだけ言うと電話は切れてしまったけど、うさぎはしばらくその場で立ち尽くしてしまう。今日の送りは断ったにも関わらず、こうして再び梶の車に乗ることになると酷く落ち着かない気持ちになる。恐らく出先のついでに声を掛けてくれたことは分かっているけど、じわじわと喜んでいる自分がいてうさぎは小さく溜息をついた。

誰かを好きになると、相手にも好きになって欲しくて期待する。友達同士でも起きるその現象は、恋した相手には更に顕著に起きることをうさぎは自覚して余り面白く無い気分になる。誰かに期待することはうさぎにとって意味の無いことなのに、期待しそうになる自分が止められないなんて馬鹿げてる。

しかも、それがあの梶なら尚更期待するだけ無駄というものだ。年が離れていることもあるけれども、うさぎから見ても梶は社会のずっと上の人で、とても手の届く相手とは思えない。

浮上した気持ちは一気に冷めてしまい、振り切るように駅に向かって歩き出す。考えることは諦めて、近所の風景を眺めながらのんびりと辺りを見て回る。大抵、行き帰りは利奈の家の車で送って貰うことも多く、こうしてこの辺りを歩くことは無い。だからこそ、うさぎは時折現れる邸宅に驚いたり、太った猫を見て和んだり、辺りの風景を楽しみながら駅へと到着した。

けれども、のんびりと歩きすぎたらしく、駅前には見慣れた車が一台停まっていて、その横には梶が立っていた。回りからの視線を集めているにも関わらず、梶は全く関心ないらしくただ通り向こうにある線路を眺めている。

「梶さん」

近付いたうさぎが声を掛ければ、梶はすぐにこちらへと振り返った。

「すみません、お待たせしました」
「迷子にでもなったか?」
「いえ、色々見てたら遅くなりました」
「見てたら? 見てて面白いものでもあったのか?」
「色々な形の家があって面白かったです」

それに対して梶からの返答は無く、車の助手席を開けられる。無言で促されてうさぎが乗り込むと、梶は扉を閉めて運転席へと回り込む。けれども、そこからすぐには車に乗る事をせず、それから数分後になって車へと乗り込んできた。電話でもしていたのかもと余り気にも留めずにいれば、車を走らせてから梶は声を掛けてきた。

「風景をよく見ているのか?」
「真新しい所に行った時は色々見ます。家や寺みたいな建造物は特に個性があって面白いです」
「そうか……今、君に言われて車の外で少し風景を眺めて見た。随分と様変わりしているにも関わらず気付いていなかった自分に少し驚いた。君には余裕がある証拠かもしれないな」

そう言って梶は苦笑すると、次の瞬間に溜息を零した。いつもと変わらないと思っていた横顔は、少し疲れているのか目の下に隈が出来ていて梶の顔に鋭さを加えている。

「疲れてるんですか?」
「色々あってな。君と梁瀬が来れば、少し楽になるだろう」
「すみません、本当ならもっと早くお手伝い出来れば良かったんですけれども」
「学生は勉強が本分だ。試験勉強が必要と思ったのであれば必要なだけするのは正しいことだ。君の人生を肩代わり出来る人間はいない。だから、自分のやるべきことを見失わないならそれが一番いい」

確かにそれは正しいことだと思うけれども、梶は一度も自分のやるべきことを見失ったことはないのだろうか。だとしたら、迷いまくりのうさぎを見て、梶はどう思っているのだろうか。

そんなことを考えていれば、ふと隣で笑う気配があり視線を向ければ、その先で梶が珍しく見惚れてしまいそうなほど柔らかい笑みを浮かべている。うさぎは動悸が激しくなって見ていることは出来ず、梶から視線を逸らした。

「まぁ、偉そうなことは言えないがな」
「梶さんは迷うことありますか?」

ドキドキは収まらないけれども穏やかな空気がそこにはあって、うさぎはその空気に促されるように自然と口から言葉が出ていた。

「沢山あるな。大人になればなるほど選択肢は増える。ただ、選択に対する責任も増すが。君は迷いが無さそうだな。いつでも迷いなく選択しているように見える」
「いつも迷ってばかりです。グレーの名前を捨てる決心はついたのに、ハッキングしないとは断言出来ないし」
「それについては迷いを消してやれるかもしれない。社に戻ったら梁瀬と君に話しがある」
「分かりました」

そこで会話は途切れてしまったけれども、車内の沈黙は重いものでも無い。ガラス越しに見る梶の顔も穏やかなもので、一体何を考えているのかうさぎは徐々に気になってくる。相手が気になるってことは、やっぱり好きなんだろうな。もはや諦めの境地で内心溜息をつきながら、ガラス越しに梶を盗み見る。

疲れた顔で鋭さもあるけれども、鋭いからこそ引き立つ格好良さみたいなものがあって、クラスの男子とは全く違う。顔や身体、何よりもうさぎが心惹かれるのはやっぱり梶の指先だ。器用にキーボードを叩くあの指がうさぎの頭を撫でる時、いつももの凄く恥ずかしい気分になる。岡嶋や梁瀬にはしないよしよしと言わんばかりの動作は、子供向けだと思うけど、でもうさぎにとっては特別なものでもあった。あの指が触れるだけで、一気に心臓の音が加速する。

指フェチ……ってことは無いと思うんだけどなぁ。

そんなことを内心ぼやきながらも、やっぱり吸い寄せられるのは長い綺麗な指で、爪の丸いうさぎにとって、梶の深爪にはなっていないのに長丸を保った爪は少し羨ましい。うさぎの爪がもう少し長丸であれば、マニュキアを塗る楽しみくらいはあったのに……。そう思ったけど、パソコンをやるのに長い爪はやっぱり邪魔で、すぐにその案は却下した。

梶の隣に立つ人は一体どんな人なんだろう。自分だと夢見るつもりは無いけど、他の人が立つのを想像すると胸が少し痛んだ。

高速を使わなかったけれども、思ったよりも道は空いていてうさぎが考えていた時間よりも二十分近く前にシステムセキュリティーの駐車場へ車は滑り込む。駐車場に車を止めた梶にお礼を言って車を降りると、鍵を掛けた梶はそのままエレベーターには向かわず駐車場の出入り口へ向かっている。

「あの、どこへ行くんですか?」
「あぁ、君に裏口を教えておこうと思っていた。梁瀬くらいであれば構わないが、正直、君に正面から入られると色々困ることがあってな」
「それは年齢が、ってことですか?」
「まぁ、それもあるが……色々とな」

口を濁す梶にうさぎはそれ以上追求することはしなかった。大人には大人の、社会人には社会人なりの理由があるに違いない。

「いずれ説明する」
「分かりました。それで裏口はどこに」
「少し分かりにくいんだが」

駐車場から歩道に出ると、駅の方向へと歩き出す梶の後ろをついていく。一層のこと私服で来れば良かったと思ったけれども、そんなものは後の祭りでうさぎは制服は出来る限り着て来ないようにしようと頭の片隅に叩き込んだ。実際、夏休みまで制服を着る機会はそんなに多くも無く、しばらくの間は気にする必要は無いに違いない。

しばらく歩くと、梶がシステムセキュリティーとは違うビルとビルの隙間にある細い道へ入る。完全に日陰になっていて薄暗いその道は、夜通るには中々度胸が必要な気がする。

「ここまで着たら、私か梁瀬に、どちらもいなければ貴美に連絡を入れろ。迎えに来る」
「別に平気です」
「平気じゃないから言っている。君がアルバイトとして社に来ることを考えれば、これくらいは手間にならない。逆に何かあって来なくなる方が困る」

別に梶の声は普段と変わらず、甘いものじゃない。けれども、必要と思われることは嬉しいし、認められていることも嬉しい。何よりも気になっている人から来なくて困ると言われたら嬉しいのは当たり前、それでも慌ててて暴走しがちな期待を押し込める。期待されているのはうさぎの腕であって、うさぎ自身じゃない。それを取り違えたら傷つくのはうさぎであって、そんな自業自得みたいな傷つき方はしたくなかった。

しばらく道なりに角を曲がり歩いていけば、ビルの横壁へと辿り着き、正面玄関に比べたら随分小さな鉄の扉がそこにはあった。梶は鍵を取り出し回すとカチリという音がして扉が開かれる。中に入るとすぐ横には、病院の受付のようなガラス張りで中から誰かが来ると分かるようになった警備室があり、中の人が梶に挨拶をしている。それに対して梶は一旦足を止めると、手にしていたアタッシュケースから封筒を一部差し出した。

「彼女の入室許可書だ。今後、こちらから入るので宜しく頼む」

梶の言葉に警備員が「分かりました」と答える声を聞きながら、うさぎも慌ててペコリと頭を下げた。

それだけ言うと、梶は再び歩き出し慌ててその背中を追うと、すぐに右へと曲がりそこに一基だけエレベーターがあった。ボタンを押せば誰も使用していなかったらしく、すぐに扉が開き梶と二人で中へ入る。前に乗ったエレベーターに比べてやけに大きくて、車の一台でも入ってしまいそうな大きさについキョロキョロ見回してしまう。

「本来は搬入用のエレベーターだが、別に人が使用しても構わない。これを使えばあそこにいる警備員にしか会わずにフロアへ到着出来る筈だ」

丁度、ポンという軽やかな音と共に扉が開くと目の前には空間があり、左側に向かって延びる通路を梶の後ろについて歩いて行けば、大きな通路に出た。そこはもう先日通った廊下で、エレベーターとは反対側から夕焼けが差し込み廊下を赤く染めていた。眩しさに目を細めて窓の外を見れば、丁度ビルとビルの合間に夕日が沈むところだった。

「綺麗ですね」

ぽつりと呟いたうさぎの言葉に、目の前を歩く梶は足を止める。慌ててうさぎも足を止めて梶を見上げれば、梶は窓の外を目を細めて見ている。だからうさぎも隣でその夕日へと視線を向けた。ビルは長い影を作り、空は徐々に藍色へと変化していくそのグラデーションは綺麗なもので、言葉もなく眺めてしまう。

「……あぁ、そうだな」

どれだけの時間がしてからか、隣の梶がポツリと零し、それからうさぎを見下ろすと穏やかに笑う。そして、梶の指がうさぎの頭を撫でると「行くぞ」といつもと変わらない口調で声を掛けられた。

「は、はい」

慌てて梶の背中を追いかけたけど、うさぎはもう十分パニックだった。一体、何がどうして撫でられたのかよく分からない。けれども、やっぱり指先は優しくて心臓が口から飛び出しそうな勢いで鼓動を打っている。

梶に連れて行かれたのは、一番最初に通された社長室で、梶はノックすると部屋へと入った。一応、ポケットにセキュリティーカードが入っていることを確認してから部屋へ入れば、少し拗ねた顔をした梁瀬が一人ソファに座っていた。

「遅いですよ」
「すまない、少し遅れた」
「あ、うさぎちゃんも一緒だったんだ、久しぶり」

ひらひらと手を振る梁瀬にうさぎは頭を下げると、梶に促されてソファへ腰を下ろした。

「えっと、あれから光輝の奴、平気?」
「あれからはこれといってアクションありません」
「そっか、良かった」

本心からホッとしたような顔をする梁瀬に、うさぎは少しだけ嬉しくなってくる。本当に心配してくれていたんだと思ったら、梁瀬には悪いけどうさぎにしてみれば悪い気はしない。誰かに心配されるというのは、それだけ相手の視界に入っているということだからうさぎにとっては嬉しいことの一つでもあった。

「もう夏休みですし、恐らく大丈夫だと思いますけど」
「そうだといいけど……うーん……」

正直、梁瀬が気にするほどうさぎは光輝を知らないから不思議な気がする。確かに執着心の強いタイプだとは聞いていたけど、恋人がいるという相手にそこまで執着出来る気持ちもうさぎにはよく分からないし、正直、分かりたいとも思えない。

「二人とも書類は持って来たか」

返事をして貴美に渡されていた書類一式を鞄から取り出してテーブルの上に置けば、横では同じように梁瀬が書類をテーブルに置いている。まるきり同じ書類かと思っていたけれども所々違うらしく、うさぎの用紙には保護者欄もきちんと作られていて両親の手書き文字と判子が押されている。

「これを預かる前に、これを読んできちんと理解してからサインをしてれく」

テーブルの上に書類を置いたまま梶に新たな紙とボールペンを渡されて、その紙に目を通せば契約書と書かれていた。内容としては今後一切いかなる場合にもハッキングを行わないという契約書で、契約違反があった場合には仕事を辞めて貰うということが書かれていた。

隣に座る梁瀬はあっさりボールペンを手に取ると、契約書の記載欄に名前を入れている。そしてうさぎは、紙とボールペンを手にした状態で途方に暮れる。確かに随分怖い思いもしたし、グレーとして活動する気は全く無い。けれども、ハッキングはうさぎの日常の一部であり、今更辞められるのか自信も無い。

「書きたく無い、か?」

その声に我に返れば、真正面から梶がうさぎを見ている。無表情なその顔に見つめられて、うさぎは俯くと紙とボールペンを置いてから素直に心情を言葉にした。

「書きたく無いというより、契約内容を守る自信がありません」
「ハッキングよりも面白い世界を見せてやる、と言ったらどうする?」

思わず顔を上げたうさぎに対して足を組みなおした梶は、片膝の上で手を組むとしっかりとうさぎへ視線を合わせてきた。口元にはどこか挑戦的な笑みが浮かんでいて、一瞬、言葉に詰まる。

「君はもっと色々なことを知りたい筈だ。プログラムだって知れるのであれば何種類も知っていた方がずっと自分の得になる。知識が増える、それはハッキングよりも君にとって楽しいことではないか?」

確かにプログラムの知識はある意味実践叩き込みで知ってはいるけど、まだまだ知らないプログラム言語はある。知りたい欲求は確かにあるし、プログラムを組むことでもっと色々なことを出来ることは知っている。自分で調べれば勉強にはなるし覚えるけれども、誰かが学ぶ方法を教えてくれるのであれば、それは更に早く習得可能になる。

「実践スパルタだし学校では無いから、自分で学べる自信があるなら間違いなくハッキングより楽しめるだろうな」

煽られているのは分かっていたけど、確かに梶の言うことは魅力的で迷う。それに、実践でついていけなければ、これから何年か先に仕事をする上でも甘えが出るに違いない。もし、これを仕事にしたいと本気で思っているなら、自分はここで学べることは学ぶべきだと思う。

日常が変化するのだからうさぎにも迷いが無い訳じゃない。それでもうさぎはボールペンを手に取ると、契約書に名前を書き入れた。梶はテーブルに置かれた二枚の契約書を手にすると、それを確認してから持って来た書類全てを手に取った。

「基本的な指示は出す。けれども、動くのは各自の判断に委ねる。仕事の説明はこれからしていくつもりだが、契約面で何か質問はあるか?」
「はいはーい! 時給、いくら?」
「あぁ、忘れていた。一応、最初一週間は時給千円。一週間後に査定して時給を見直し、その後は二週間毎に査定をしてその都度時給を見直していく」

そういうことは普通のことかも思ったけれども、横で梁瀬が「厳しいなー」とぼやいたことで通常ではありえない給与体制なのだとうさぎは知る。

「因みに見直すのは誰が?」
「俺と社長の二人だ」
「時給千円以下になったら?」
「千円以下になるような仕事しか出来ないなら辞めて貰う」

その言葉に一瞬、梁瀬は動きを止めてから一呼吸置いて背凭れに勢い良く身体を預ける。振動が伝わって来て梁瀬を見れば、子供みたいに口を尖らせていて、こうして見ると余りクラスの男子と変わらなくて少しだけ安心する。

「うわー、自分から誘っておいてそれって酷くない?」
「さぁな、少なくとも私は千円以上の働きをすると思ったから声を掛けた。実力見せろよ。少し待ってろ」

それだけ言うと梶は椅子から立ち上がり、奥の社長室へと姿を消した。残されたのはうさぎと梁瀬の二人だけで、まだ面識が少ない梁瀬にうさぎとしてはどうしていいのか分からない。

「えっと、緊張してる?」
「大丈夫です、多分」
「うーん、少ししたら慣れると思うから、取り合えずこれから宜しく」

笑顔で差し出された手はがっちりしたもので、少しの逡巡のあとうさぎはその手に自分の手を重ねた。

「うわ、小さっ」
「梁瀬さんの手が大きいんです。何かスポーツとかされてるんですか?」
「去年までラグビーやってた。今年頭に膝壊しちゃってね」
「すみません、変なこと聞いて」
「えー、いいよ、いいよ。どんどん聞いてよ。オレ、誰かに興味持って貰えるのって好きだから」

ものすごい満面の笑みで、まさにニコニコとしている梁瀬の空気はどこか温かくて日向にいるような気持ちになる。だから、本当に梁瀬が言うように質問を許されてる気分でうさぎは口を開く。

「岡嶋さんとは長い付き合いなんですか?」
「おう、あいつとは腐れ縁だな。小学校から大学まで一緒だし、家も近いしさ」
「仲良しですよね」
「うーん、仲良し、仲良しねぇ。結構喧嘩したりもしたよ。それこそ殴り合いの喧嘩だってしたことあるくらいだし」

方向性は違うものの、どちらも優しいイメージがあるだけに殴り合いの喧嘩というのは意外に思える。どちらが勝ったのか聞きたい気がしないでも無かったけど、どちらの名誉にも関わる気がしてうさぎはどうにか質問を飲み込んだ。

「うさぎちゃんに宜しくって言ってたよ。結構気にしてたからメールでも送ってやってよ」
「送っていいんですかね? 岡嶋さん忙しいんじゃないですか?」
「大丈夫、忙しかったらメールの返信が無いだけだから。暇になればきちんと返してくるし、それがメールのいいところじゃん」

言われてみればその通りで、身近な人間でもある利奈や沙枝はすぐに返信を求めるタイプだからこそ、携帯メールの利点をすっかり忘れてもいた。

「そうですね、それなら今晩にでも送ってみます」
「おう、そうしてやって。今度、あいつも一緒に飯食いに行こうぜ」
「はい、ぜひとも」

そんな約束を交わしていれば、梶が部屋から出て来て意外そうな顔をしている。

「意気投合したのか?」
「えー、俺とうさぎちゃんは元々仲良しです」

そう言って梁瀬さんは肩に腕を回してくるけど、意外なほどに拒否反応を覚えなくて、そんな自分にうさぎは驚いた。

「仲良しは構わんが、ミスの隠し合いなんてしたら、二人揃って始末書だからな。さて、行くぞ」

梶の言葉で梁瀬と共に立ち上がると、説明を受けるために梶の背中を追いかけた。ダークグリーンの背中は梁瀬と同じくらい広いもので、うさぎは意外さを感じながらも社長室を後にした。

Post navigation