うさぎが逃げる Act.10:チャージ 突撃

肩から掛けた鞄が弾まないように上から手で押さえながら、人の多い通りをうさぎはひたすら走る。岡嶋が風呂に入っている間に、ある程度のプログラムを組むことは出来た。元々自分が作ったものだから、理論は分かっているし、プログラムを組むソフトに関しては梶のパソコンに入っていたし、時間としては三十分掛からずに組み上げた。そこからは、洗面所にノートパソコンを持って行き、幾つかのカスタマイズをしてから梶の家を出て来た。見つかれば怒られるのは必至だったけれども、それでもうさぎはグレーとしてラストと連絡が取りたかった。

理由は二つあり、一番の理由はうさぎの作ったソフトについてだった。ラストに名前を知られない内であれば、ソフトがラストに渡っても素知らぬふりをしていればいいだけであったけれども、既にラストにこちらの身上が知られてしまっている以上、知らないふりは出来ない。ラストがあのソフトを使うだけならまだしも、うさぎの名前でソフトを配布したりすれば問題になり、それは身の上にも降り掛かってくる。

ハッキング用ソフトといってもいいあれが、ネットに流れてしまえばうさぎにはどうにもならない。何よりもうさぎだって時折耳にするソフトの著作問題のニュースは目にしている。犯罪紛いのソフトがどういう扱いを受け、どういう末路を辿っているのか、それを知らない訳ではない。少なくとも笑い事ですむ問題では無くなると思う。たかが遊び、それでも犯罪、だからこそ笑ってなんていられない。

駅近辺まで出ると、細道を通りすぐのところに一件のネットカフェがあることをうさぎは知っていた。かれこれ三ヶ月前になるけれども、利奈の好きだというグループのライブを見るためにここには来たことがあった。だからこそ、そのまま駆け込むとパソコンのある部屋を一つ借りた。

身分証明書の提出を求められなかったことにホッとしたけれども、店内のいたるところに防犯カメラは仕掛けられていて余り派手なことは出来ない。それでも、メール一通送るくらいであれば問題は何も無い。

だからこそ、部屋に入るなり店備え付けのパソコンのケーブルを引っこ抜くとうさぎは持ち込んだノートパソコンに接続するなりパソコンの電源を入れた。一応、携帯は梶の部屋に置いてきたからすぐに見つかることは無いだろうけれども、パソコンをネットに繋げた時点で居場所はすぐに割り出されるに違いない。だから出来るだけ手早く事を進めないといけない。

梶には梶なりの目的があるけれども、うさぎにはうさぎなりの目的もあった。少なくとも、うさぎの部屋からソフトが持ち出されるまでは流されるままに目的を定めていたけれども、今はそうもいかない。

パソコンが立ち上がり防壁ソフトを立ち上げてからいつものグレーとして使っているウェブメールへ接続すれば、そこにはメールが一通届いていた。今朝六時に届いたメールはラストからのものだった。

『桜庭うさぎへ
ソフトが欲しければルナスペースのデータと引き換えだ。
7月31日 19:00 台場自由の女神像
来なかった場合、20時にはネットに本名で流す』

メールを読んで、大きく溜息を吐き出した。選択肢ははっきり言ってこの場合うさぎには無い。本名で流されて困るのはうさぎで、ラストにとって痛くも痒くもないに違いない。

もう出向くのは決まっているとして、この情報を梶や岡嶋に伝えるべきか否か、という選択肢だけが残る。いや、実際にラストがデータを持ってくるかどうかは分からない。実際に持って来たとしてもコピーを取られていたら、うさぎは永遠とラストに脅されることになる。こういう時に、幾らでも複製可能なデータというものは不便でもあった。それなら完全な形でラストからデータを引き上げるとしたらどうすればいいのか、その方法は数も多く無い。

てっとり早いのは、ラストのパソコンを破壊することだけど、そんなことをする術がうさぎには無い。恐らく、ラストだってうさぎと同じようにパソコンを持ち歩いているに違いない。次に考えられる手としては、ラストの本名をネットに流してしまうことでもあったけれども、それは諸刃の剣でこちらも捨て身にならないといけない。第一、逆襲としてこちらも本名を流され、挙げ句にはこちらが訴えられかねないという余りにも美味しさのない方法でもあった。

こんな時、色々な方法を考えつかない自分の未熟さに苛立ちを覚える。もっと色々な方法がある筈なのに、それを探せない自分が情けなくてうさぎは再び溜息を吐き出した。まさに手詰まりという感じで、頭の片隅にある最善の方法に手を伸ばすにはうさぎにも思い切りが足りない。

最善の方法は恐らく、この場合梶に助けを求めることが最善であることはうさぎにも分かってはいた。ただ、お互いの目的が違うにも関わらず頼ってもいいのか、それを考えると踏み出せない方法でもあった。

何よりも、うさぎにもプライドがあった。他人から見れば下らないと言われるかもしれないけれども、だからといって簡単に捨てられるものでもない。

ガキの悪あがきと言うのであれば言えばいい。それでも、自分に自身のある分野に関してはプライドくらい持ちたいし、持っていたい。だからこそ、梶に助けを求めるには最善だと分かっているのに、プライドが邪魔して言い出すことも出来ない。

不意にメールの着信音が僅かに響き、慌ててボリュームをしぼってからメールを開けば完結に一言。

『今すぐ店を出ろ』

アドレスを見れば梶からのメールで、もう何度目かになる溜息をうさぎは吐き出すとノートパソコンの電源を落とした。確かに見つかることは分かっていたけれども、店に入って五分、そんな短時間で発見されるとは思ってもいなかった。梶の優秀さを羨みながらも、パソコンを鞄に入れるとケーブルを店のパソコンに繋げてから部屋を出た。

既に場所まで特定されているのに、これ以上ごねる気にはなれず素直に店を出れば、店のすぐ外には岡嶋が立っていた。視線が合うなり苦笑され、数歩の距離を詰めた岡嶋はうさぎの空いている手を握りしめた。

「梶さん、ご立腹」
「すみません」
「俺も怒ってる」
「……すみません」

手を引いて岡嶋について歩く姿は、この街では酷く浮くに違いない。だからといって振り払えるような軽さで繋がれていなくて、まるで逃がさないと岡嶋の指先から伝わってくる。

「子供みたいで恥ずかしいので離して下さい」
「駄目、これで逃がしたら俺が梶さんに殺される」

でも、そう言う岡嶋の声はどこか楽しげで、うさぎとしてはどうしていいか分からなくなる。

「うさぎちゃんが思ってるよりも心配してるよ俺たち」
「梶さんとか?」
「梁瀬もね」

たわい無い会話は嫌いじゃないけれども、どこか掴み所が無くてうさぎは苦手だ。これが利奈や沙枝辺りであれば余り考えないけれども、まだ出会って数日の相手だとどう話せばいいのか分からなくなる。けれども、心配される理由が分からないほど頭が回らない訳じゃないから素直に謝る。言葉にしたけどそれに対する返事は無く、走って来た道のりを、ただ掴まれる腕を引かれるままに歩いて行く。

夜の中にあるのに人通りは少なくなることなく、あちらこちらに明かりが灯る街並でうさぎは自分の存在が不思議に思えた。別に同じ年頃の女の子たちがここらで遊んでいることは知ってるし、聞いたことだってある。実際にうさぎもこれくらいの時間に利奈とライブに来たことがあるから、全く無縁という訳でも無い。でも、この場所はうさぎにとって背伸びしなければならないような場所で、違和感を感じる。違和感は場所だけじゃなくて、こうしてまだ知らない相手と手を繋いで歩いている自分にも違和感を感じる。

どうにも、この数日は違和感というか、現実感が乏しい。それは、日常が非日常に浸食されているからだと分かってはいるけれども、やっぱり気持ちがついていかないせいなのかもしれない。そんなことをつらつらと考えていれば、不意に前を歩く岡嶋がこちらへと振り返った。

「明日、ラストと会う。台場の自由の女神像に十九時」

岡嶋の言うそれは、つい先程見たメールの内容と同じもので自然と眉根が寄る。

「見たんですか」
「梶さんがね。だから単独行動禁止」
「でも、私は」
「知ってる。梶さんが言ってたから。目標は似てても違うって。きちんとそっちもケリつけるって」

でも、果たしてそれでいいのかやっぱりうさぎには分からない。

「……甘えすぎてる気がします」
「でも、うさぎちゃんには対処出来ないでしょ? 頼るのは悪い事じゃないよ。悪いのは出来もしないことを一人で無謀にもやろうとすることかな」

口調は多分、優しいと思う。けれども、どこか刺というか毒が含まれているようで居心地が悪い。

「実は怒ってます?」
「かなりね」
「すみません」

もう一度謝ってみたけど、前を再び向いてしまった岡嶋の表情を見ることは出来ない。他人の顔色を伺うことは余りしないけど、知人、友人であれば話しは別。だからこそ、岡嶋の空気を伺うけれども、やっぱりそれに対する返事は無い。

「俺よりも梶さんが怒ってるから覚悟しておいてね」

そう言って振り返った岡嶋の顔は確かに笑っていたけど、やっぱり怒っているみたいでうさぎは小さく溜息をついた。岡嶋も怒っていて、更に梶も怒っているとなると、戻る足は重くなる。それでも、今戻れる場所はあそこしかなくて、気分は更に重くなる。

「助けて下さい、って言ったら助けてくれます?」
「梶さんから、ということなら無理。うさぎちゃんの自業自得だから。でも、ラストの件に関してはきちんと助けてあげる」
「あれも自業自得じゃありません?」
「何言ってるの、あれは不可抗力。誰も怒ったりしないよ。甘やかすの嫌いじゃないけど、俺は無制限に甘やかすばかりじゃないよ」

多分、そういう人なんだってうさぎだってもう分かってる。だからもう一度謝ってから、素直に岡嶋の後をついていく。先程出て来たばかりの梶のマンションに辿り着くと、オートロックの入り口で岡嶋はポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込み半回転させれば扉は開く。ガラスで出来た扉をくぐりエレベーターへ乗り込んでも、岡嶋の手が離れることは無い。

「もう逃げないので手を離して下さい」
「うん、知ってる。でも、梶さんの前に連れて行くまで逃げられると困るから。うさぎちゃん、梶さん苦手?」

正直、投げられた質問にびっくりした。うさぎから見た梶は大人で、正直、どう対応すればいいのかよく分からない。ぎこちなさをうさぎも感じてはいたけれども、岡嶋に分かるほど明確な空気を出していたつもりは無かった。

「苦手……じゃないと思います、多分」
「梶さんもさ、別に苦手な訳じゃないと思うよ。余り気負わないで、ネットで話していた時と同じようにしてればいいよ」
「でも、年上ですし」
「うん、でも、あの場所で年齢なんて関係無かったでしょ。それに、俺とは普通に話してるし」

どうだろう、それは岡嶋の空気の成せる技という気がしないでもない。気負わせない空気を岡嶋は持っているし、気遣われているとも思う。だからといって、梶が気遣っていないとは全く思わないけれども、一体、何が違うのか自分でもよく分からない。

「ただの大人だったらうさぎちゃんもそんな気分にならなかったんだろうけどね」
「そうですか?」

問い掛けてみれば岡嶋は意外そうな顔をしてうさぎを見下ろしている。エレベーターが到着して外へ出れば、再び視線の合った岡嶋はその顔に苦笑を浮かべた。

「うさぎちゃんにとってさ、梶さんはライバルなんだよ。大人とか以前にね」
「ライバルって……かなりおこがましい気がするんですけど」
「でも、そうでしょ? 少なくともネット上ではそうだった筈」

確かに梶はあそこに出入りする人間のうさぎ以外の素性を知っていると言ってた。その時、少しでも優越感を感じなかったかと問われたら嘘になる。出し抜いた気分になっていたのは確かだったし、あんな状況だったけれども微かに嬉しいと思ったのは確かだった。

「馴れ合えない気持ちは分かるけど、頼るんじゃなくてさ、使えるものは親でも使え精神でいたらどうかな」
「梶さんを、使うんですか? それはさすがに無理があるというか」
「いいんじゃない? あの人、うさぎちゃん使う気満々だし」

果たして本当にそうなのだろうか。よく分からないから答えることはせずに、岡嶋が扉の鍵穴に鍵を差し込むのをぼんやり見ていれば扉が突然内側から開き、憮然とした顔をした梶が現れて思わず固まる。

「お出迎えですか?」
「遅いから迎えに行こうかと思っていたところだ」
「大丈夫ですよ、きちんと捕獲してますから」
「だったら連絡の一つくらい入れろ」
「あぁ、忘れてました。はい、うさぎちゃんどうぞ」

大きく扉を開かれて中へとうながされるけど、微妙な空気にうさぎは足を踏み出すことは出来ない。基本的に叱られ慣れていないこともあって、相手が怒っているという空気はどうにも苦手だった。

自分の安全を考えて心配してくれていたことは知ってるから、素直に頭を下げて謝った。けれども、空気は変わることなく頭を下げたまま固まっていれば、背中を軽くトンと押された。

「いいから入って。話しはそれから」

どこか他人事のような空気を背後から感じて、思わず振り返れば笑顔の岡嶋がいてうさぎは泣きたい気分になってくる。前門の虎、後門の狼、いや、この場合は網にかかった魚、もしくはまないたの上の鯉――――。どちらにしても嬉しい状況じゃないのは確かで、だからといって逃げる訳にもいかず渋々一歩を踏み出して玄関へ入ると靴を脱いだ。

途端に肩からかけていた鞄を取られ、梶はそのまま自室へと入ってしまう。

「あ、あの!」

その背中に声を掛けたけれども、梶の背中は扉の向こうに消えてしまい追いかけることも出来ない。梶の部屋には立ち入らないというのは、最初この部屋に来た時のお約束でさすがにそれを破るようなことは出来なかった。

「まぁ、妥当かな」

どこか暢気さを漂わせる岡嶋の声に振り返れば、微笑んでいてそのまま立ち尽くすうさぎを置いてパソコンデスクの椅子に座ってしまう。

「な、何がですか」
「うさぎちゃんのパソコン没収ってこと。すぐに出てくると思うから座ってたら」

そう言われても、うさぎの足は動かないし梶の消えて行った部屋が気になってそれ所じゃない。

「没収って、学校じゃないんですから」
「だって、あれがあるとうさぎちゃん、勝手に動くから」

確かにパソコンがあるからこそ、自分を過信しているのはうさぎにも自覚はある。けれども、あれは私物で、自分の片腕で、あれがないと自分はただの子供で……。

扉の開く音で我に返れば、梶は先程と変わらぬ空気のままソファへ腰掛けるとうさぎを見据えたまま目の前のソファを指差した。座れと言われているのは分かるけど、怒っている空気に逃げ出したい気分でいっぱいだ。それでも、実際に逃げ出すことも出来ずにソファへとぎこちなく腰掛ければ、目の前にいる梶は大きく溜息をついた。

「すみません」
「謝るようなことをしたという自覚はあるのか」
「心配掛けたんだと思います」
「……ならいい。二度とは無い」

それは次に単独行動をすれば見捨てられるということだろうか。いや、別に深い付き合いがある訳では無いから見捨てられる云々以前の問題である気がする。

「次、こういうことがあれば全てが片付くまでこの部屋に軟禁するから覚えておけ」

軟禁と一口に言われても、そんなものは小説やドラマの中だけの言葉だからいまいちピンと来ない。でも、意味が分からない訳でもなく、思わずその場に凍り付いていれば、背後から岡嶋ののんびりとした声が掛かる。

「それ、犯罪ですよ、梶さん」
「今更だろ」
「ハッキングと軟禁では随分と罪の重さは違いますよ」

果たしてそういう問題なのだろうか。うさぎはそう思うけれども、ここで軽口を挟めるような状況でも無いし、立場でも無いから黙るしかない。けれども、軽快にうさぎを置いて会話は進む。

「その時はお前も共犯だな」
「えー、俺は嫌ですよ。さすがに」
「だったらきちんと見張っておけ」
「そこは俺だけの責任ですか?」

いつの間に椅子から立ち上がったのか、うさぎの横に岡嶋は立っていてすぐ横へ腰を下ろす。そんな岡嶋を梶は睨んでいたけれども、うさぎを見て、それから再び岡嶋を見て梶は大きく溜息をついた。

「明日、動く」
「という訳でこれに目を通しておいてね」

すぐ横に座る岡嶋から一枚の紙を手渡されて、素直に受け取ったうさぎが見たのは履歴書だった。左上には写真が貼られていて、覚えのあるその顔に顔が強張る。

「知ってるのか?」

梶の問いかけに写真から目を離さずに、記憶と照合してから慎重に頷いた。

「東京駅で見ました。バスの待合室で……髪、もっと長かったです」
「俺より長い?」
「はい、もっと長くて後ろで結んでいました。あと髭が」
「ということは、やっぱりあの場所にラストも来てたのか。でも、よく見つからなかったねぇ」

確かにあれだけはっきりと自分の顔を見ていたのだから、不思議な気がしないでも無い。

「時間が無かったんだろう。実際、私たちもあそこに行くのに遅れたのは君の顔写真を手に入れるのに時間が掛かったからだからな」
「あぁ、そういうことか。名前までは調べたけど、顔まで調べる時間がラストには無かったってことですか」
「そういうことだ。もしかしたら彼女が女子高生であることもラストは抜け落ちていたのかもしれないな」
「確かに、調べていた俺たちでも意外だったくらいですし」

命拾いした、ということなのかもしれない。けれども、あの鋭い視線を思い出せば、気を抜くことは出来ない。余裕無く、そして追いつめられているようにも見えたあの姿の前に出れば、刺されそうな気配すらあった。家に押し入った時点で、もしかしたらそういうことも考えていたのかもしれない。

「君が囮だ」

静かな声に梶へと顔を向ければ、真っすぐな黒い瞳がうさぎを見ている。真剣なその視線から逃げ出したいのに、視線を逸らすことも出来ない。そして、ラストの前に立つことを考えると微かに身震いする。

追われる状況が怖いと思った。けれども、あの時と同じくらいの恐怖心がある。それはあのラストの目を一度でも見てしまったからに違いない。

「勿論、近くに私もいるし、うちの警備の人間も配置する」
「……殺されたりしません?」
「それは無いだろう。ラストの目的はあくまでルナスペースのデータだ」

言われてみればそうかもしれないと思うのに、うさぎの中から恐怖心は無くならない。一層、ラストが誰なのか知らなければ普通でいられたのに、余計な情報を入れてしまった気がしてならない。それでも、うさぎは知らないよりかは知っている方がいいと思える。もし、その時になって顔を合わせていたら、今よりもずっと衝撃は大きかったに違いない。

「出来るか?」

ここで否と答えれば、恐らく無理強いする人では無いと分かる。けれども、蚊帳の外に置かれるのは必至で、うさぎはそれだけは嫌だった。
だとしたら答えは一つしかない。

「やります。自分で蒔いた種でもあるから、きちんと最後まで知りたいです」
「そうか、それなら明日の打ち合わせをしよう」

少し固い梶の声に、うさぎは膝の上に置いた掌を握りしめた。

* * *

待ち合わせ十分前、自由の女神像の前に到着するとうさぎは手にしていた鞄を握りしめて辺りを見回す。記憶にある顔は無く、辺りにいるのはカップルばかりで正直目のやり場に困る。

『前、見てろ』

うさぎの立つ自由の女神像と反対側に立つ梶に言われても、正面に立つのは濃厚ともいえるキスをしているカップルで、チラリと目をやってから海へと目を向けた。梶もそのカップルに気付いたのか、少しだけ笑う気配がしたけどそれ以上何も言わない。

『正直、待ち合わせには微妙な場所ですね』

片耳につけた小型イヤホンから聞こえてきたのは岡嶋の声で、思わずその声に頷いてしまう。それくらい、回りにはカップルばかりでこの手のことには疎いうさぎにとっては居心地の悪さしか感じられない。

『ここからしてラストの嫌がらせかもしれませんけど』
『あいつならありうるな』

そんな会話を聞きながらも、緊張は否応にも高まってきてうさぎは手にしている小さな鞄の取手を握りしめた。東京駅で会ったのがラストだとすれば、見たら分かる。けれども、近くにラストの姿は無く時間だけが刻一刻と近付いて来ている。

うさぎに害は無い筈だと言われたし、回りには梶や岡嶋の他にも、システムセキュリティーの警備部の人間があちらこちらにいる。恐らく、この回りにいるカップルの中にも警備部の人間が混ざっているのかもしれないけれども、うさぎの目にはさっぱり分からない。分からないというよりかは、腕やら肩やら組んで親しげに身を寄せ合ってるカップルに視線を向けられないというのもある。

果たしてラストは正面から堂々とやってくるのか、それとも回りに気付いて近付くこともしないのか、そんなことを考えていれば正面の階段から一人で降りてくる人影が見えた。

『来たよ』

囁くような小さな声がイヤホンから聞こえてきて、うさぎは降りてくる人影を凝視する。背は岡嶋よりも低いように見え、髪はうさぎよりも長いのか後ろに一つで結んである。階段を降りる度にサラサラした前髪が照明の光で金色に見えて、再び鞄を握りしめた。

ふと顔を上げたその男と目が合うと、男の口に笑みが浮かんだけれども、うさぎはそれを見た途端背筋がゾクリとして鳥肌が立つのが分かった。あんな薄暗い笑みを見た事が無い。うさぎにとって人付き合いは多いものでは無かったけれども、その中でも前から来る男は異質だった。

目の前に立つと、男は先程の笑みを一掃すると肩を竦めて見せた。

「警戒してる?」
「……普通します」
「だろうね。飯でもどう、って言いたいところだけど一人じゃないだろうし……一緒にいるのはプリンセス? それともディンブラ?」

問い掛けにうさぎは答えることもせずにその目を見ていたけれども、ラストはさして気にした様子も無い。

「ここじゃあ人目もあるし、少し歩こうか」

それだけ言うとラストは踵を返して、うさぎに構うことなく歩き出してしまう。どうしようか悩み、近くにいる梶へと視線を向ければ、梶が小さく頷くのを見てうさぎはラストの背中を追いかけた。階段を一歩降りた所で立ち止まったラストは振り返り、うさぎが追いつくのを待つと再び階段を降り始める。

東京駅で会った時に比べてラストの無精髭は無くなり、服装こそラフであるものの不衛生には見えないこともあって、別人のようにも見える。けれども、時折振り返るその目は纏わりつくようなもので、その視線で東京駅で会った人物と同一人物だということも分かる。

「これからグレーとして活動するつもりは?」

階段下まで降りたラストはこちらを見上げていて、うさぎは階段を降りながらもグレーの質問を考える。果たして、ここまでの状況になってしまってグレーとしてネットに再び現れるのかというと、うさぎ自身考えたことも無かった。もしかしたら無意識に考えないようにしていたのかもしれない。

グレーとして活動するのはうさぎにとって本当に楽しくて、あの場所を提供してくれたラストには感謝すらしていた。こんなことが無ければ――――。

「多分、もう無理でしょうね。色々な意味で」

階段下までうさぎが降りると、ラストは再び歩き出しうさぎもその後ろについていく。

「俺と組まない?」

さらりと言われた言葉は、前もって梶や岡嶋が予想していた言葉でもあったからさしたる驚きも無かった。

「それも無理です。正直、ラストの遣り方にはついていけない時がある。家に入ってああいうことされたら、溜まらないし」
「まぁ、あれはやりすぎたな。イライラしてたんだ」

そんな理由で人の家に入り込み、色々壊されたんではうさぎとしてもたまったものじゃない。むしろそんな理由で、と思うと怒りすら込み上げてくる。けれども、今はとにかく冷静さが必要な時で、小さく深呼吸すると数歩前を歩くラストの背中を睨みつけるだけに止める。

無造作にポケットに手を入れたラストは、視線は全く気にならないらしくその歩調が変わることも無い。唐突にイヤホンからピーという甲高い音がしたかと思うと、すぐにザザザとラジオの周波数が合わない時のような音が聞こえてきてうさぎは微かに顔を顰めた。一体何があったのか、うさぎにもよく分からない。けれども、ラストにそれを知られる訳にもいかず立ち止まる訳にもいかない。

「働かないでも遊べるよ」
「すみません、私は普通の生活をしたいので」
「普通ねぇ、何が普通? 仕事して、飯食って、時々遊んで、それが普通?」
「普通の定義は人それぞれだと思います。多分、これ以上話していても平行線だと思いますけど」

不意に前を歩いていたラストは足を止めると振り返った。底冷えするような視線を受けて、思わずうさぎの息が止まる。

「じゃあ、本題に入ろうか」

ゆっくりと入れていたポケットからラストが取り出したのは右手にはサバイバルナイフ、左手には一枚のCDだった。慌てて辺りを見たけれども、そこに人影は無くなっていた。あれだけカップルがいたにも関わらず、どうしてこの空間にだけ人がいないのか血の気が引いてくる。

「そこ、右に曲がって」
「曲がってって……」

その先には雑木林のようになっていて、普通には立ち入らない場所だと分かる。けれども、ラストはそれ以上何も言わず、サバイバルナイフをうさぎへと向けてくる。叫べば誰か気付いてくれるかもしれないけど、喉がカラカラになっていて声を上げることがそれ以上出来ない。

「早く」

ラストの静かな声に震える足をどうにか動かすとゆっくりと木々の中へと足を踏み入れる。木々の少し先には木々よりも上に遊歩道があり、そこをカップルが数組通るのが見える。だとすれば、声を上げればこの現状に気付いては貰えるけれども、助けを乞うには距離がありすぎる。もし、ここで助けを求めたところでラストに刺される方が間違いなく早い。

梶や岡嶋が近くにいるから大丈夫と何度も心の中で呟きながら、一歩一歩進みラストの止まってという声が聞こえるまで足を踏み入れた。別に雑木林というほど奥行きがある訳でもないから、遊歩道が見えなくなることもなく、少しだけ安心する。遊歩道とは反対側には車の明かりが時折差し込み流れて消える。

酷く耳障りな心臓の音を聞きながら、道路側にも遊歩道にも逃げられるから大丈夫だと何度も心の中で繰り返す。けれども、ラストがCDを地面に落とすと同時に間合いを詰めてきて、掌が口を塞ぎ間合いを詰めた勢いのまま木の幹へと身体を押し付けられた。

「知ってる? 女の子を言う通りにさせる一番簡単な方法」

薄明かりの中でラストの表情が楽しそうに嗤う。不意に背後から腕を取られて振り返ろうとしたけれども、ナイフを突きつけられて身動きが取れない。両手首を木の後ろへと回されると、手首に冷たい感触と金属音が聞こえて更に心臓がうるさくなる。

「君も一人じゃなかったみたいだけど、俺も一人じゃなかったんだよね」

楽しそうなその声に、ただラストを見上げることしか出来ない。身体中が強張って、どうしていいか分からずただ混乱している。一瞬の出来事に混乱している間に、口は布で覆われて声も出せなくなり、指先を動かしてみれば微かに鎖の音が背後でなった。

「ビデオ回してる?」
「オッケー、オッケー」

楽しげな声にそちらへと視線を向ければ、ラストと同じくらいの年の男がビデオカメラ片手にニヤニヤとこちらを見て嗤っている。

「じゃあ、始めようか」

楽しそうな声で言ったラストは、首筋にあてていたナイフをゆっくりと見せつけるように、刃先でノースリーブブラウスの一番上のボタンをナイフで落とした。切れ味がいいのか、ボタンはあっさりとどこかへ飛んでいってしまい、薄明かりの中ではもうそれを確認することは出来ない。

逃げたいのに、足が竦んで動くことも出来ない。そんな自分にうさぎは悔しくて涙がが浮かんでくる。その間にも一つ、二つとボタンは外されていき、全てのボタンが外れると目の前にいるラストがおかしそうに嗤う。

「初めてかな? それとも経験済み? 初めてで青姦、しかも複数プレイって中々無いシチュエーションだよね。楽しませて貰うから」

最後の一言はゾッとするような響きを持っていて、乏しかった現実感が戻ってきて膝が震える。クラスメイトが言うほど興味も無いけど、うさぎだってこういうことに対して全く夢が無い訳じゃない。夢とかけ離れすぎた現実と恐怖に、声を上げるけど布に阻まれて声にはならないし、涙がボロボロと零れてくる。最近、泣き過ぎだとどこか現実逃避気味の自分にうさぎはなす術も無い。

「グゥッ……やめろ……」

男の呻くような声が聞こえて、ラストが勢い良く振り返る。釣られるようにうさぎもラストの背後へと視線を向ければ、二人の男が背後で素早く動いて複数いた男が次々と倒れていくのを見て思わず目を見張る。

何が起きたのか理解がおいつかず、それでも木々の合間から落ちてくる照明で照らされた顔はすでに見慣れた一人で、うさぎは詰めていた息を吐き出した。顔を見ただけで大丈夫だと思った自分に驚いたけれども、次の瞬間にはすぐ横にラストが立ち首筋にナイフを宛てられて再び緊張に身が強張る。

「あらら、随分卑怯じゃない?」

こんな時なのにどこか緊張感の無いその声も既に聞き慣れた声だったけれども、隣に立つラストの緊張感も高まって行くのが分かる。

「近付くな! 近付いたら殺すぞ」
「それは困るかなー」

複数いた男たちをしっかり地面に沈めた梶と岡嶋は、うさぎたちの前に立つ。梶はいつもの無表情で、岡嶋はどこか余裕ありげな笑みすら浮かべている。

「女の子にこういうことしちゃダメでしょ」
「……他の人間はどうした」
「まぁ、俺たちだけじゃないし。少なくともあんたたちよりもこっちの方が人数が多かったってことで。で、彼女離してくれない?」

岡嶋の問い掛けにラストは無言のまま、ナイフの刃先はより一層首筋へと近付く。少しでも動けば切られそうな距離になり、うさぎは震えを止めることが出来ず後ろ手に回った手を握りしめて奥歯を噛み締める。大丈夫だと思っていても、すぐに恐怖が拭える訳じゃない。

「ここに、一台のパソコンがあります」

そう言った岡嶋に対して、横に立つ梶は胸元から手帳サイズのポケットパソコンを取り出した。梶は蓋を開き幾つか操作をすると、こちらへと画面を向けてきた。画面に表示されているのはネットをする人間であれば誰もが知っている検索サイトの掲示板なのは分かる。

「もし、彼女を傷つけたりしたらここにラストの正体、氏名、住所、親の職業まで全て晒してあげる」
「そんなことしてみろ。ただじゃ済まない」
「そうかもねぇ、でも、俺には関係無いし。ネットってさ、こういう時便利だよね。こういう誰の目にでも触れる場所であれば、悪事になればなるほど人の記憶からは忘れて貰えなくなる。あぁ、親のお仕事にも影響でるかもね」

楽しくて仕方ない、そんな口調の岡嶋にうさぎは少しだけ怖くなる。ネットの威力に対しても恐怖は多少なりとも感じたけれども、何よりも口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、空恐ろしいことを言う岡嶋に対しても怖くなる。
それに対して、梶も何も言うつもりは無いらしく、口を挟むことはしない。酷く緊迫した空気がその場にはあった。

「ウグッ!」

不意に横に立つラストから呻き声が聞こえたかと思うと、顔に何かが当たりラストの気配が離れて行きうさぎはそちらへと視線を向ければ、既に見慣れない男に地面へ押さえつけられているラストの姿があった。
何が起きたのか理解がおいつかない間に、正面から抱きしめられて更に困惑する。見上げれば、そこにいたのは梶で先程まで着ていたスーツの上着は脱いでシャツ姿になっている。

「どこか怪我は」
「……ありません」
「怖い思いさせちゃったね、ごめんね」

同じように距離を詰めた岡嶋からも声を掛けられて、遠慮がちに頭を撫でられる。そこでようやく終わったんだと理解した途端、嗚咽が堪えきれなくなった。

「…っ……」

情けないくらい本格的に泣き出したうさぎに、背後に回る梶の手が宥めるように優しく大きな掌が背中を一定のリズムで軽く叩く。

「岡嶋、あいつから鍵探し出せ」
「はいはーい。うさぎちゃん、ちょっと待っててね」

気を失っているのかぐったりと動かないラストの傍に屈み込んだ岡嶋は、幾つかのポケットを探ると小さな鍵を取り出しうさぎの背後へと回り込む。金属音がしばらくした後、手首を拘束していたものが無くなり、ようやく腕が解放されてうさぎはホッと息をついた。

「痛みはあるか」
「大丈夫です」

震える声でどうにか梶の声に答えてから、ここにきてようやくうさぎは抱きしめられている訳を知った。どうやら見えないように前からスーツの上着でうさぎの身体をかくしていてくれているらしく、そんな梶をゆっくりと見上げた。

「すまない、不可抗力だ」

どこかバツの悪い顔をした梶は視線を逸らし、そんな梶に少しだけ笑える自分にうさぎは驚いた。梶の背後では倒れた男たちを引き摺るようにして連れて行く人影があり、先程よりもその数は更に増えている。

「移動、した方が良さそうだね。うさぎちゃん、顔色悪い」
「そうだな。痛むところは本当に無いか」
「大丈夫です」

恐怖は無くなった筈なのに、まだ引き摺る余韻があるのか膝の震えは止まらない。そんなうさぎを知ってか、梶は回した背中で少しだけ指を動かしてから少しだけ屈み込むと途端にうさぎの足が浮き上がる。胸元に抱え上げられて、うさぎの身体が一気に強張った。

「車までだ、少し我慢してろ」
「梶さん、こういう時くらい少し優しく」
「……行くぞ」

岡嶋の声に答えることなく梶は歩き出す。抱えられたうさぎは、ただ呆然と横抱きにされたまま梶を見上げた。下から見上げた梶はやっぱり無表情で、けれども、その顔は整っているだけに際立つものがある。やっぱりこの人の顔、綺麗だな、とまるで現実とは掛け離れたことを考えたうさぎは、まだどこか現実逃避気味なのかもしれないと内心笑う。

「守るって言ったのに、遅くなって怖い思いさせてごめんね」
「大丈夫です。これくらい」

別に何かをされた訳じゃない。実際にこうして助けてくれたんだから、文句を言える筈もない。むしろ感謝してもいいくらいだとうさぎだって思う。

「有難うございます」
「……うーん、お礼言われると微妙かな。本当はもっとスマートに事は片付く予定だったし」
「でも、何があった訳じゃないですし」
「そうかもしれないけど」
「全て終わったことだ。もう忘れろ」

梶の言葉で会話は途切れてしまい、梶の歩く振動だけが伝わってきて落ち着かない。

「あ、あの、ラストはこれからどうなるんですか?」
「まだ詳しいことは分からない。ラスト次第だ。場合によっては本州の警察に引き取られるかもしれないな」
「本州って、海外ってことですか?」
「そうだ。あの様子だと企業脅迫をしていたのは一つや二つじゃないだろう。親が手回ししたところで米国の企業が黙っているとは思えないからな」

親が政治家というのは履歴書の特記事項後付けで書かれていた記憶がある。国内では政治家の息子ともなればそれなりの融通も効くだろうけど、海外に渡ればそれが有効なのかどうなのかうさぎにも分からない。

考えても分からないことはそれ以上考えても意味は無い。ただ、もう二度とうさぎの前に現れなければいいと、それだけを願った。

散歩道にもなっている道は、先程と変わらずカップルが多い。その中でも抱きかかえられて歩くうさぎは注目を浴びているみたいで、酷く落ち着かない気分にさせられる。

「あの、自分で歩けます」
「いいから大人しくしてろ」
「そう言われても……」

とにかく周りの目が気になる。けれども、二人は全く気にした様子が無いのがまた困る。

「気になるなら目でも瞑っていたらいい」

だからといって、はいそうですか、と目を瞑るには人に抱えられて落ち着かないままのうさぎには出来ず、更に困惑するしかない。

「車までだから少し我慢ね」

岡嶋の優しい声に頷くことも出来ず、曖昧なまま岡嶋に視線を向けたけど、その岡嶋も穏やかな笑みを浮かべるばかりでこの状況を変えてくれるつもりは無いらしい。うさぎは溜息を飲み込むと、黙ったままでいるには落ち着かなくて再び口を開いた。

「二人とも強いんですね」
「俺はまぁ、身体作るのと殺陣に必要で柔道とか合気道とか空手とか、そういうのは一通り齧ったけど、梶さんは意外ですね。何やってたんですか? 随分本格的に見えましたけど」

その問い掛けに梶は小さく溜息をついた。多分、普段であれば見逃してしまうくらい小さなものだったけれども、密着しているこの状態では取り零しようもない。耳に当たる胸元からは一定のリズムで鼓動が聞こえている状況で、うさぎは更に落ち着かない気分にさせられる。先の今という状況にも関わらず、顔が赤くなってくる自分にどうなんだと思わずにはいられない。

「立場的に色々あるんでな」

低いけれども、どこか諦めの込められた声に思わずうさぎは梶を見上げる。一体、どんな顔をしてその言葉を言ったのか、何故か気になった。ただ真っすぐ前を見ている梶の表情は何の変化は無く、そこに浮かぶ感情は全く無い。

そうか……この人も同じなんだ。

感情を表に出すことをしていないのか、苦手なのか、どちらなのかうさぎにも分からない。大人だから色々と自分が思う以上に梶にはあるだろうし、感情を表に出さないことが最良だという時もあることを知ってる。果たして梶が自分と同じくらいの年だった頃、一体どんな男の子だったのか、うさぎは初めて梶に興味を持った。

不意に視線がこちらへと落ちてくる。

「どうした」
「別に何でもないです」
「後少しで車につく。もう少し我慢してろ」
「梶さん、だから女の子には優しく。じゃないと怖がられますよ」

岡嶋の言葉に、梶はうさぎを見てから岡嶋へと視線を向けて苦笑する。

「もう既に怖がられている」
「え?」

思わず声が出てしまったけれども、梶も岡嶋も自分を見ていてうさぎは慌てて口を噤む。確かに怖いと思うこともあったけれども、それを口にして言ったことは無い。むしろ助けられてると思ってるし、感謝すらしてる。だから、梶にそう言われてしまうほどにうさぎは感情を露わにしていたのかと自分でも驚く。

つい梶を見上げてしまえば、僅かにその表情が困惑へ変化したのが見て取れた。

「怖いんだろ、私が」
「……そんなこと言ってません」
「言っていただろう、車で」

岡嶋が口を挟まないところを見ると、恐らく梶と二人で車に乗った時のことだろうことは伺えた。だとしたら、それはうさぎの家に行き来する時くらいしかなく、記憶を慌てて掘り返す。そして見つけたのは――――。

「あれは、別に梶さんが怖いと言った訳ではなくて……巻き込まれた状況に怖いと言っただけです」
「そう、なのか?」
「はい。だから、怖くありません、大丈夫です」

自分でも、何でこんなに必死に弁解してるのか不思議に思える。ただ分かることは、誤解されたままなのは嫌だと思ったことだけだった。

「……そうか」

途端に向けられた微かな笑みに一気に血が逆流したような気分にさせられる。綺麗な顔立ちでこんな風に笑うのは卑怯だと思ううさぎに罪は無いと思いたい。だって、それくらいに梶の笑みは綺麗で格好よかったのだ。それまでにも苦笑だったり、微かな笑みは確かに向けられたけど、こんな風に穏やかな笑みを向けられたことは無い。

落ち着かない心臓に慌てて梶から視線を逸らしたけど、もしかしたらこれだけ密着してたら梶には知られているかもしれない。それが更に落ち着かない気分にさせられる。

大人で、実力もあって、強くて、しかも顔も良い……こんな人に出会ったら、大抵の人ならクラクラするに違いない。そんな人の下でこれからアルバイトとは言えども初めて仕事をすることになる。それは一体、どれだけ感情を揺さぶられることになるのか、想像だけでも息苦しく思える。やだな、そういう感情で梶を見たく無い。そう思うのに、既にうさぎには手遅れのようにも思えた。

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