ネットに繋ぐ瞬間、目を閉じると暗闇の中で蛍光色の黄緑色やオレンジのラインが描かれるのは、映画やアニメの功績が大きいのかもしれない。そんなことを頭の片隅で考えながらも、岡嶋は横に並ぶ梶と、その先にいるうさぎへと目を向ける。二人は真剣な眼差しでパソコンの画面を見つめていて、すでに自分の世界に入っているようにも見える。
岡嶋自身、面白いからハッキングはするけれども、ここまで熱中してパソコンに向かっているかというとそうでもない。どちらかと言えば、岡嶋にとってハッキングは新聞についてるクロスワードや間違い探しをするのと同じ感覚でもあった。それでも、ハッキングなんて高度なことが出来たのは一重に梁瀬によるところが大きい。正直、未だに岡嶋はネットの細かい部分については分からないし、興味もない。
元々指先は器用だったからキータッチは梁瀬よりも早いけれども、梁瀬やうさぎのようにプログラムを組んでまでハッキングをしようという気持ちはない。プログラミングに気持ちを傾けるくらいだったら、今は演劇を続けるために嫌々やっている柔道でもやっていた方がマシだった。
そんな岡嶋相手だからか、梁瀬は自作のプログラムを設定すると使い方だけ教えて、それからしばらくの間はハッキングをする度に声を掛けてきた。それなりに常識人だった梁瀬は、ハッキングという犯罪に多少なりとも抵抗があったのだと思う。だからこそ、岡嶋を誘いゲームのように引き込んだのだと今なら分かる。
岡嶋自身は元々モラルが低いこともあって、梁瀬に教えられるまま、それなりにハッキングを楽しんでもいたし、経験値も上がっていった。それはゲームのレベル上げに似た、奇妙な興奮作用もあった。繰り返す毎日の中に潜り込む犯罪という非日常、その健全と不健全の二面性を岡嶋は楽しんでもいた。
あの場所を見付け、梁瀬に教えられるままにチャットへと入れば、たった五名しかいない場所でもそこは面白いものだった。プログラミングの話しで盛り上がるとついてはいけないけれども、それ以外の雑談で盛り上がることの方が多かった。全員が男だと思っていたし、個性的な面々が多く集まっていた。悪ノリしがちということでは俺に似ていたのはラストで、下らない話しなら幾らでもした。女のふりをしていたから、時折掛けられるモーションは面倒ではあったけれども、居心地の悪さは感じたことが無かった。
けれども、ラストを信用していたかというと、結局はノリだけの相手なのだから信用するも何も無い。もし、あのチャットで初めて梁瀬と会っていたとしたら、あの高いテンションと適当さで信用しなかったに違いない。
どちらかと言えば適当なのが、俺と梁瀬とラスト、そして慎重派だったのはディンブラとグレーだった。ディンブラは下らない話しにも付き合ったりしたが、グレーは下ネタ系はお気に召さなかったらしく、そういう話しになると落ちてしまうことが多かった。ディンブラの話しは社会人としての生活も垣間見えていたし、何よりも上からの物言いに慣れていることもあって年上だと思っていた。
けれども、グレーに関しては判断がつけられずにいた。大人しいのかと思えば、言う時にははっきりした拒絶もするし、説得にも回る。けれども、おかしな所まで意地を張ったり、踏み込んだりすることも無く、変に空気を読むので余計に分からなくなる。だから、初めて会った時には酷く驚いたものだった。まさか女の子で、自分よりもかなり年下であることに驚かされた。けれども、会ってみれば本当にどこにでもいる普通の女の子で、一瞬、境界線を見失いそうになった。そういう意味ではまだ梶の方が納得できたし、社会的立場も理解出来た。
果たして、捕まえるべきラストは一体どういう人物なのか、それを想像するのは岡嶋にとって面白くもあった。ディンブラである梶と反りが合わないくらい我の強い人間だったし、執拗にグレーにデータを寄越せという辺り、他人から何かを貰うことに抵抗なく、何かを手に入れる苦労を余りしていないことが伺えた。そして、毎日パソコンを触れる環境があって、二十四時間自分のために使えるらしい。岡嶋は大学と劇団を行き来していることもあり、ネットへ接続する時間はかなりバラけていた。そんな時でも必ずといっていい程、ラストはあのチャットにいた。
うさぎのことを考えると学生という可能性も無いだろうけど、あの微妙な頑固さはそれなりに年を取っているようにも思える。高校生くらいであれば、まだ柔軟な思考を持ち合わせているし、翌日まで下らないことを引っ張るのはそれしか考えることの無い生活をしている、それを中心に生活しているということだ。けれども、岡嶋と話しが合っていたということは、恐らく近い年代なのかもしれない。
「岡嶋、そろそろいくぞ。合図があったら回線をすぐに切れ」
「分かりました。接続が切れなかった場合には、このコードを抜きますよ」
持ち上げたケーブルは赤いもので、このケーブルがネットに繋がる唯一のもので、うさぎと梶のパソコンは岡嶋の前にあるパソコンを経由してネットへと繋がれている。今回ラストがネット上にいれば、お互いに探り合いになることは分かっていた。
だからこそ、それぞれの分担を決まっている。とにかく不味いのはこちらがシステムセキュリティーの回線を使っているのかラストに見つかることだった。だから、こちらがある程度探りを入れたら回線を切断してしまう、それが岡嶋の役目でもあった。そして梶はサーバの回線をこじ開けるプラスログを消す役目で、目的のログを探し出すのはうさぎの役目でもあった。梶にはハッキングの腕以外は使えないことを伝えたからこその役割だけれども、正直、しばらくの間は暇になると岡嶋は踏んでいた。
「繋げます」
岡嶋の言葉に梶とうさぎが頷くのを確認すると、キーボードのエンターキーを押した。途端に二人のキーボードを叩く音が聞こえてきて、もの凄い早さで経由サーバを進んでいるのが分かる。
「ログ、追えるか」
「大丈夫です、追われてること分かってるから慎重みたいですね」
「あぁ、これで二十三か」
会話を交わしながらも真似出来ない早さでキーボードを叩いていて、思わず二人の手元に見惚れてしまう。
「ラスト見つけました。まだネット上にいます」
「慎重にデータ引き出せ」
「T駅近辺から繋いでます。多分、ホットスポットかと」
「向こうから接触きた、岡嶋切れ」
「待って下さい」
会話を聞いていた岡嶋は回線の接続を切るためにキーボードに指を置いたけれども、うさぎの声でキーを押すことを躊躇う。視線を向ければ、無表情にうさぎはモニターを見つめている。
「これ以上の深入りは」
「あと少しです。岡嶋さん、五秒後に回線切って下さい。梶さん、ログを」
うさぎの手が更に早くキーを打ち出し、小さく舌打ちした梶のキー操作も早いものになる。
「五、四、三、二、一」
うさぎの数えるカウント五で岡嶋が回線を切れば、少し緊張した空気が流れた後に、小さな溜息が耳に届く。隣を見れば、梶は呆れた顔でうさぎを見ているし、うさぎは椅子の背凭れに身体を預けている。
「データは取れたのか」
「取れました。メインで使ってるプロバイダは国内のものです。プロバイダへ登録してある情報に偽りがなければ、住所等も手に入れられると思います」
「そうか……しかし、随分無理してくれたものだな」
「一人だったらしませんでした。すみません」
普段はどちらかというと大人しいうさぎだが、こういう時に物事ははっきりと言うところは岡嶋には好感が持てた。そして、それは梶もなのか苦笑すると椅子から立ち上がった。
「プロバイダの洗い出しは私がしよう。君はログを取り出してこれに保存しておいてくれ」
「分かりました」
梶の差し出したCDを受け取ったうさぎは、ケースから取り出すとすぐにキーボードのコードを辿ってパソコン本体の場所へ回り込むとCDをセットしている。
「岡嶋、お前切らなかったな」
「まぁ、正直言うと、そろそろ普通の生活に戻りたいんですよね。多少無茶してでも」
「……分からなくは無いがな」
「まぁ、結果オーライということにして貰えません?」
それに対して梶は何も言わなかったところを見ると、お咎めは無いらしく岡嶋としては多少なりとも気が抜けた。もし、梶が口うるさく言うということであれば、それなりに反撃の用意もしていただけにすっかり気も削がれてしまった。
「ラストは追えるんですか?」
「どうだろうな、登録をしたのが最近であれば登録時のログから追える。だが、五年以上前であればログ自体が残ってない可能性が高い。岡嶋は彼女を連れて先に帰れ。途中で飯でも食って帰れ」
そう言って一万円札を財布から取り出した梶に、岡嶋は手を出すことなく肩を竦めて見せた。
「これ以上梶さんに出して貰うと、男として俺もヤバいんで」
つい先日までは梶に出して貰っていたし、出してくれるのであれば岡嶋としては断るつもりは全く無かった。けれども、先程のうさぎと社長のやり取りを見てまで払って貰う気にもなれず、少し意外そうな顔をした梶はうさぎへとちらりと視線を向けてから苦く笑って財布をしまう。
「レシート貰っておけ。必要経費で落ちる筈だからな。彼女にもそう伝えておくといい」
「分かりました。まぁ、助かるは助かるんですけどね」
「学生の内は貧乏で当たり前だ」
「梶さんもですか?」
「……買いたいものがあるために昼飯抜くくらいにはな」
落ち着いた社会人の梶しか知らないだけに、その言葉は違和感があったけれども、それでも岡嶋の口からは笑いが漏れる。
「何だか、想像つきませんね」
「私も君の十年後は想像つかないがな」
「梶さんはダンディになってるでしょうね」
「……ダンディって死語だろ、もう」
呆れたように言う梶に笑いながら、うさぎへと視線を向けた。髪を三つ編みでぎっちりと編み込み、セルフレームの眼鏡を掛けたうさぐは、あと三年もすればかなりの美人になるに違いない。岡嶋の視線に気付き、梶もうさぎへと視線を向けると先程よりも更に苦笑した。
「女は分からんからな」
「まぁ、化粧一つで化けますけど……まぁ、化粧云々じゃなくて美人になる顔立ちだとは思いますよ」
「そうか? 私にはさっぱり分からんが」
「梶さん、女性に興味が無いとか?」
岡嶋の言葉を梶はどのように受け止めたのか、途端に渋面を作ると口角を下げた。
「面倒なだけだ。今は仕事で手一杯だからな。だが、婚約者ならいるぞ」
「は? 婚約者?」
余りにも意外性のある言葉に岡嶋は目を丸くして梶を見れば、梶はしてやったりという顔でニヤリと笑う。
「気になるか?」
「それなりには。年内には結婚とか?」
「それは無いし、結婚式は当面先になるだろうな。だが、一層のこと相手から断ってくれと願っている」
確かにこれだけ大きな会社の副社長ともなれば、色々なしがらみだってあるに違いない。それとも、しがらみがあるのは会社ではなく親関係なのだろうか。だとしたら少しだけ梶の気持ちは分からなくもない。
岡嶋の家は元々資産家だったこともあり、高校生になる頃には幾度となく見合いなどさせられたものだった。せめて相手が同年代であれば話しもできるというのに、連れてくるのは中学生やら小学生だったので辟易したものだ。見合いというのも納得が行かなかったし、決定的になったのは岡嶋が演劇を続けると伝えたことで親とは連絡を取ることは無くなった。
裕福な家から一転しての生活ということもあり、学生の岡嶋は確かに懐事情が苦しくもあった。そんな中でどうにか一人暮らしを維持していけるようになったのは、梁瀬の功績は非常に大きい。ある程度の飯が作れるようになったのも梁瀬が教えてくれたからだし、最初の頃、一人で暮らす上での金の使い方が分からず資金難になった時も梁瀬は文句を言いながら貸してくれた。
この世の中で、親という生き物に迷惑を掛けられている子供は多くいるに違いない、と岡嶋は思ってもいた。
「あの、CD終わったんですけれども」
丁度タイミングCDが焼き終わったのか、それとも会話の途切れるタイミングを待っていたのか、岡嶋が見る限り分からない。元々、うさぎは表情が出にくいらしく、パッと見では無表情にも見える。恐らく、そんなことは本人も自覚しているだろうから口にするつもりは無い。確かに分かりにくくはあるものの、決して表情が無い訳ではない。だから、その表情を見つけようとしていたけれども、梶にCDを渡してからこちらを見上げたうさぎはわずかに笑みを浮かべた。
「岡嶋さん、ありがとうございました」
お礼の言葉は、恐らく先程接続を切らなかったことに対してだということはすぐに分かった。
「いえいえ、成果はあったみたいだし結果オーライかな」
「どうでしょう、結果は余りよくないかもしれません」
「どうして?」
梶はすでにうさぎから受け取ったCDを解析するべくパソコンに向かっていたが、こちらの会話を聞いているのかキーを叩くリズムが先程よりも遅くなっている。
「岡嶋さんなら、誰かに自分のパソコンをハッキングされていると分かったらどうします?」
「電源切るかな、それ以上個人データを持って行かれるのが困るから」
「そうですよね、私も実際にそうします。でも、ラストはやけにあっさりと侵入させたというか、個人データを手放したというか……」
考え込むように黙り込んでしまったうさぎから梶へと視線を向ければ、視線に気付いた梶と目が合う。その顔は真剣なもので、梶の指先がモニターを示す。指先に表示されているモニターを見れば、そこに表示されている名前や住所は梁瀬のもので思わず目を見張る。
「うさぎちゃん、これ」
慌てて目の前で考え込むうさぎを呼べば、すぐに指差す先にあるモニターを覗き込む。
「梁瀬さんの自宅、ですか?」
「というか実家かな」
「……ということは、ラストは梁瀬さんの住所や名前だけじゃなくて、既に実家まで知ってるってことですよね。私も岡嶋さんも既に身バレしてますし、今のところラストが知らないのは……梶さんくらいですか」
隠す術であればうさぎも梶と同等ではあったけれども、やはり現実になれば高校生という経験不足ではどうやっても梶にうさぎは敵わない。岡嶋がうさぎの立場であれば悔しさを感じるところでもあるけれども、チラリと見たうさぎからはそういう感情を読み取ることは出来ない。考え込んでいるうさぎは、次の瞬間に顔を上げると岡嶋に、それから梶へと視線を向けた。
「あの、一つ考えがあるんですれけれども」
「却下だ」
うさぎの言葉にすぐさま梶は否定する。一体、うさぎが何を言おうとしたのか岡嶋には分からない。けれども、お互いに視線を合わせている二人には分かっているらしく、岡嶋としては口を挟めない。
「まだ何も言ってません」
「言いたいことは分かる。だが、それは危険だから無理だ」
「無理といっても、早期決着という意味では意味があります」
「それでも駄目だ」
幾分緊張した空気の中でうさぎと梶が睨み合う。こういうところ、うさぎは梶に負けていない。恐らく、それなりの勝算があるからこそなのだろうことが分かる。
「いいじゃないですか、聞くだけ聞いてみれば」
「言いたいことが分かってる。だから駄目だ。君がおとりになってラストを呼び出す、そいういうことを言いたいのだろう」
「え、まさか……」
思わずうさぎへと目を向ければ、うさぎは梶を見上げたまま素直に頷く。確かにそれは有効な手段ではあるけれども、危険が伴いすぎる気がする。梶が反対する理由も分かるし、岡嶋自身もどちらかといえば反対したい。ネット上で多少の危険ならまだしも、現実で女の子を危険な目に合わせたいと思える人間は終わってるだろう、幾ら何でも……。
「うさぎちゃん、それは俺も反対」
「でも、早く日常に戻りたいですし」
先程の岡嶋と梶の話しを聞いていたのだろうその言葉に、もう溜息をつくしかない。
「確かに戻りたいとは思うけどね、でも、うさぎちゃんを危険な目に合わせてまで欲しい日常じゃないよ」
「でも、私は色々二人にして貰って学校にも行ってますけど、二人は私のフォローするのに梶さんは仕事を、岡嶋さんは大学をそれぞれ犠牲にしてるじゃないですか。そういうのが嫌です」
実際、岡嶋としては前期試験も終わり大学はすでに休みになっているから学生生活という意味では全く犠牲にはしていない。けれども、うさぎが言っているのはそういうことではないということは岡嶋にも分かる。そして岡嶋自身、犠牲になっていないものが無いべきでもない。
秋の公演に向けて本格的な練習に入るこの時期に、素人劇団とは言えどもお金をもらうだけに手を抜く訳にもいかなければ、仲間に引けを取るような演技をする訳にもいかない。その為にはどれだけ練習が必要なのか、どれだけ仲間と息を合わせないとならないのかを考えれば、ここでのんびりしている時間は余りない。
梶相手であればまだしも、自分の年下である、しかも女の子にそんなことを零せる筈もない。
「それは、俺も嫌だなぁ。それに、また怖い思いすることになるんだよ」
「怖い思いとかそういう問題じゃない。その案はとにかく却下だ」
梶の言葉にうさぎは返事をしなかった。けれども、それ以上何かを言うことも無く、奇妙な静けさが部屋に落ちる。どうしたものかと岡嶋が考えていれば、最初に口を開いたのは梶だった。
「二人とも今日はここまでだ。岡嶋、彼女と一緒に食事して家に戻ってろ」
「分かりました。梶さんは?」
「私はまだ仕事が残ってる。先に帰っていろ」
それだけ言うと梶は背中を向けてしまい、既に会話をすることを拒絶しているようにも見えた。まだ納得していない顔をしたうさぎを促して梶はパソコンに囲まれたその部屋を二人で出た。
「さてと、うさぎちゃん、何を食べたい」
「岡嶋さんは無いんですか?」
「俺は余り食べ物に興味無いから、毎日同じものでもいいと思ってるくらいなんだよね」
途端に意外そうな顔をしてこちらを見るうさぎに、岡嶋はその素直さに苦笑するしかない。
「だって、あんなに料理作るの上手じゃないですか」
「作るのは好きだよ。食べてくれる人がいれば」
結局、食事というものはその程度のものでしかない。それなりの値段で例え美味しいものでも、誰かと話しながら食事をする時には感想だって言い合えるし、美味しさも増す。勿論、一人で食事を楽しめる人間も存在するから否定する気は全く無いが、自分で作るとなればやはりそれなりに相手からの反応が欲しい。それは作り手として当たり前のことだと思うけれども、これも人に言わせると違うものかもしれない。結局、自分が言っているのは感情論でしかないのかもしれない。
そんな下らないことを考えていれば、うさぎがポツリと「分かります」と答えてくれた。その答えを聞いて、岡嶋はうさぎの家庭環境を思い起こす。詳しいことは分からないけれども、両親が揃って家にいないことも多いらしい、というのは先日の件で予想はついていた。だとしたら、一人で寂しい食生活だったに違いない。話すのが嫌いでは無いのはネットでの影響もあるのだろうけど、余り感情を表情に乗せないのは家族との会話が少ないことも理由の一つにあるのかもしれない。
元々岡嶋は女の子が周りにいることに違和感が無かったけれども、その中でもうさぎの存在は岡嶋にとって異質でもあった。岡嶋の付き合いある女の子たちは、見た目から派手で着飾ることが好きで、自分を強く持っている人間が多かった。勿論、進むべき道を見据えている自分だからこそ、周りに似た人間が集まることは分かっているつもりだ。だから我が強く、興味無い部分では適当で、けれども自分がこれと決めたものに対しては全く妥協しない人間も多く、自分もそんな周りに囲まれて更にそうなりがちだということは自覚もしている。
だからこそ、まだ何も決める気のないうさぎというのは異質だった。何よりも、岡嶋自身、これだけ年下との交流というのは去年していた家庭教師先の教え子以来だったし、その教え子は男だったのでうさぎとは勝手が違う。どこまで踏み込むべきか、岡嶋自身が悩むところでもあった。
ただ、守ってやろうと思う感情が自分にあったことには驚きはした。少なくとも、周りに守ってやろうと思うべき対象人物がいなかったからというのが大きいのも確かだったけれども、正直、対象人物に会ったからといってそういう感情が芽生えるとは予想すらしてもいなかった。だとしたら、自分はうさぎの何を気に入ったのか、考えてはみたけれども岡嶋には分からない。
「さて、今日は何を食べたい?」
気持ちを切り替えるように殊更明るい声でうさぎへと声を掛ければ、すぐにうさぎからの声は返ってきた。
「お腹いっぱい食べられる物が食べたいです」
「それはどんな物でもお腹いっぱい食べれるとは思うけど……もしかしてやけ食い?」
からかうようにうさぎを見れば、少しだけ困ったような顔をしていたうさぎだったけれども、いたずらの見つかったような顔へと変化させてからうさぎは少しだけ笑った。
「分かっちゃいます?」
「まぁ、あの遣り取りの後だしね。ここからだと美味しいお好み焼き屋さんならあるよ。長居しても怒られないし、個室で周りに気兼ねなし、どう?」
「お任せします。お好み焼きは好きですし」
「よし、じゃあ行こう」
うさぎの手を掴むと強引に歩き出す。
「お、岡嶋さん、手」
「大丈夫、誰も見ていないから」
「困ります、私が」
「大丈夫、大丈夫」
言っている岡嶋も何が大丈夫なのかはよく分からない。ただ、その行為にやましさがあるかといえば全くそういう気持ちは無い。どこか他人との境界をこれでもかと引きたがるうさぎに対して、踏み込んでみたのは勢いと少しの好奇心だけだった。
二人だけの食事に、最初こそ緊張して会話のキャッチボールにもならなかったけれども、岡嶋がからかい含みで梁瀬の恋人の話しをすればそこは女の子らしく、多少なりとも興味を示した。
「光輝のこと、大丈夫?」
「大丈夫って聞くほど梁瀬さんの弟さんって凄いんですか」
溜息まじりのうさぎに、岡嶋はわざとらしくも肩を竦めて見せる。梁瀬の前だから余り大きなことは言えなかったけれども、梁瀬も知らない弟の顔がある。二年ほど前、光輝の憧れだった先輩、岡嶋から見れば三つ下の女の子が告白してきたことがある。モラルは無い方だと自負もあるけれども、二股掛けられるほどの気力も無かった岡嶋はあっさりとその彼女を振った。それに対して、光輝は岡嶋に対して執拗な嫌がらせをし、その一方で彼女にはストーカーの如く付け回した。
岡嶋からしてみれば、光輝のその気力すら羨ましいと思ったけれども、彼女の方はそんな余裕は無かったらしく警察へと駆け込んだ。そのために梁瀬の家では随分大変だったらしく、随分と梁瀬自身が色々と愚痴を零していた。梁瀬が疲れていることも分かっていたからこそ、岡嶋は光輝からの嫌がらせの件については梁瀬に言うことをしなかった。
後日、光輝と顔を合わせた時に問いつめれば、光輝が言うには彼女を幸せにしなかった岡嶋が憎かった、けれども、岡嶋と付き合わなかったことで自分にもチャンスが出来たと思ったと言っていた。光輝の言う感謝しているけれども嫌がらせという訳の分からなさ故に、あれ以来岡嶋は極力光輝とは付き合わないようにしている。感情としては分からなくもないが、そこまでしたらモラル以前の問題な気がするし、岡嶋としては人として勘弁して欲しいレベルでもあった。勿論、梁瀬の手前、それを口にしたことは無かったけれども、知っている面があるだけにうさぎに対して幾ら心配してもし足りないというのが正直なところでもあった。
「見た目に騙されないようにね、とだけ言っておくよ」
「肉体派で怖い先輩……騙されようも無い気がしないでもないんですけれども」
うさぎの言葉で笑いを噴き出してしまったのは、岡嶋から見る光輝像とうさぎが見ている光輝像が余りにも違いすぎたからだ。
「肉体派、そうかうさぎちゃんにはあれが肉体派か!」
「え? 違いますか? だって、身体も大きいし、目つき怖いじゃないですか」
「そうか、あれが怖いと思うならうさぎちゃんは大丈夫だよ、うん」
基本的に、梁瀬にしろ光輝にしろ人当たりは悪くないと言われているし、実際に岡嶋もそう思っている。けれどもうさぎは怖いと言う。それは危険察知能力が高いというべきなのか、うさぎが怯え過ぎと思うべきなのか、岡嶋には判断がつかなかったけれども、今のうさぎには丁度いいように思える。
「因に梁瀬は怖かった?」
「顔は似てると思ったんですけれども、怖くなかったです。何ででしょう?」
そういうものは感覚的なものだから問いかけられても返答に困るところだけれども、感覚が鈍いという訳では無いらしいところに僅かながら安堵する。
「兄弟といっても似て非なるものだしね」
「そうですね、友達にも姉妹一つ違いですけれども、全然似てませんよ。友達は彼氏作るのに命掛けてるタイプだけど、お姉さんはもの静かな人ですし」
「へー、うさぎちゃんにもそういう友達がいたんだ」
「どういう意味ですか、それ」
「いや、てっきり大人しい友達しかいないと思っていたから」
「時々彼氏作れとか言われるのは面倒ですけど、そんなこと差し引いても楽しい友達だから。何なら紹介しましょうか?」
「いや、止めておくよ。もし上手くいかなかった時、うさぎちゃんとの縁も切れそうだから」
途端にうさぎはコップを持ったまま固まり、穴があきそうなほどこちらを凝視している。
「うさぎちゃん?」
「すみません。失礼なことを言うかもしれませんけど、正直、今後があるとは考えてもいませんでした」
うさぎの気持ちは岡嶋にも分からなくは無い。少なくとも、ネットに触れたばかりの頃にオフ会などにも参加したが、それで付き合いが残っているのはもういない。ネットというのは顔が見えない相手だからこそ、繋がったり切れたりが本当に簡単な繋がりでもある。余程気が合わない限り、一度や二度顔を合わせたくらいでは長い付き合いになることは少ない。
「冷たいなー、俺はこれからもお付き合いしたいと思ってるよ、お友達として。ついでにアルバイトしたら色々愚痴も聞いてみたいし」
「愚痴なんて言いません。自分で決めたことですから」
「えー、でも、相手はあの梶さんだし」
岡嶋がからかうように言えば、少し考えるそぶりを見せたうさぎは次の瞬間に盛大な溜息を零した。
「岡嶋さん、時々意地悪です」
「そうだよ、知らなかった?」
満面の笑みで岡嶋が問いかければ、うさぎは黙ってしまい手にしていたウーロン茶に口をつけた。少なくとも、自分を優しい人間だと思ったことは余り無い。意地が悪いなんて言い方はまだ生易しい方で、梁瀬辺りに言わせるとえげつないと言われるくらいだから、これくらいでへこたれるような性格でも無い。
「まぁ、人間愚痴くらいは零していいもんだと俺は思うけどね。鬱憤溜まって殺人に走られても困るし」
「困る以前の問題ですけど、それ」
「だよねー、だから愚痴程度は自分を甘やかせてあげないとね」
自分がうさぎくらいの年代だったころどうだったのか、たかが数年前のことなのに思い出すことは出来ない。ただ、がむしゃらに役者を目指していたのは確かだったし、その為に家族と余り上手く行っていなかったことも多少なら覚えてもいる。けれども、うさぎのように自分で決めたことだからと言い切れるほどに潔くは無かったし、自分の決めたことには何があっても立ち向かうという強さはなかったように思える。
「甘えるのは逃げるみたいで嫌です」
「逃げるが勝ちって言葉だってあるよ。梶さんにハッキングされた時、うさぎちゃんのあれは逃げじゃないの?」
「どうでしょう、逃げてるつもりはありませんでした。身を守るためだけですから、逃げっていう意識は無かったんですけれど」
「うん、愚痴吐き出すのも逃げるというよりかは、身を守る行為の一つだと思うよ。だからね、たまには愚痴吐きしてくれるといいな。そしたら、梶さんの弱みも握れそうだし」
楽しげな声で岡嶋が言えば、うさぎは更に嫌そうな顔をしてこちらを見ている。そんな素直な表情が嬉しくて更に笑みを深めれば、すぐにうさぎは子供のように唇を尖らせた。
「そういうものはリークしません」
「えー、色々リークしてよ。梶さんからかうの結構楽しそうだしさ」
「梶さんからかおうなんて思うの、岡嶋さんと貴美さんくらいですよ、多分」
「そんなこと無いって。ああいう堅物な人ってからかうと面白いんだから」
「やっぱり岡嶋さんは性格悪いです」
「すばらしい褒め言葉だね、それ」
「褒めてません」
たわいの無い遣り取りを楽しみ食事を終えると、再び梶の車で梶の家へと戻った。交代で風呂に入ることになったが、うさぎは課題があるというので岡嶋は先へ風呂へ入った。続いてうさぎが着替えを持って風呂に行くのを確認すると岡嶋は梶のパソコンを立ち上げた。
ラストの追跡調査は既に日課になりつつあり、ラストが何を調べているのか追いかけるのは岡嶋の腕でも雑作なく出来ることだった。また、梶のところにはシステムセキュリティー御用達のソフトがあるという安心感もあった。ソフトを立ち上げネットに入ると、今日追いかけて来たラストの様子を探る。
システムセキュリティーで岡嶋がネットを切断した後は、どうやらうさぎのことをしばらく調べていたらしくログイン状況などを詳しく見ていた様子が分かる。それから岡嶋と梁瀬のログイン状況を触り程度に確認してから、回っているサイトを見る限り梶のことを調べている様子が伺えた。
ふとパソコンの片隅に表示されている時計を見れば、既に二十三時を回っていて、うさぎが風呂へ入ってから既に一時間以上過ぎていることに気付く。まさか風呂で倒れていたり、などと考えながらも、もっと最悪な事態も岡嶋の頭の中では想像もしていた。椅子から立ち上がり洗面所へ向かえば、シャワーの音はしない。電気はついている様子があるから一応外から声を掛けたけれども反応は無い。扉を開けて風呂の電気がついていないことを確認してから、玄関へ走れば並べて置いてあったうさぎの革靴は無くなっていて岡嶋は溜息をつきながら天井を見上げた。
「やっぱり……」
一人呟いてみるけれども誰もいない部屋に響くだけで、岡嶋はポケットに入っている携帯を取り出し、数少ない電話帳の一つ目に入ってる梶の番号を表示させると通話ボタンを押した。