うさぎが逃げる Act.08:プレペア 準備

梶の運転でついた先は大きな総合病院で、促されるままに入院病棟へ足を向けると一つの部屋を梶はノックした。表に貼り出されている名前は梁瀬大輝と書かれていて、中にサンダーがいることが分かる。中から返事があって梶が扉を開けば、そこは個室になっていて窓からは夕暮れ時の柔らかい光が部屋を照らしていた。ベッドには男の人がヘッドセットに凭れていて、すぐ近くの椅子には岡嶋が座っているのが見える。

「梶さん、来てくれたんですか」
「約束してたからな、調子はどうだ」
「早く退院したいですよ」

楽しげな様子で話していた梁瀬だけれども、うさぎを見た途端に梁瀬の目が見開かれた。

「うさぎ、ちゃん?」

問いかけるような声にうさぎは頷けば、梁瀬は弟とよく似た顔で全く違う満面の笑みを浮かべた。

「初めまして、っていうのも変な感じか。サンダーこと梁瀬大輝です。弟が迷惑掛けたらしいけど大丈夫だった?」

大丈夫かと問われると、微妙なところで思わず梶を見上げれば、その口元には笑みが浮かんでいた。

「随分と積極的な弟だな」
「うわ、梶さんも会ったんですか」
「まぁな、彼女の恋人として」
「は?」

問いかける声は二つ重なり、近くにいた岡嶋もどこか唖然とした顔をしている。慌ててうさぎが説明すれば、二人は顔を見合わせて爆笑しているからうさぎとしてはどうしていいのか分からない。困惑気味に梶を見上げたけれども、梶は気にするなと言わんばかりにうさぎの頭を二回軽く撫でるように叩くと岡嶋の隣の椅子へと腰掛けた。

「うさぎちゃんも座ったら」
「はい、失礼します」

言われるままに腰掛けてから、うさぎは改めて梁瀬へと視線を向けた。正直、弟と顔は似てると思う。けれども、弟に比べてどこか無邪気な笑みには毒が無い。

「岡嶋に聞いたけど、今日追跡するみたいじゃないですか」
「あぁ、ルナスペースからも社長からもせっつかれてるからな」
「あー、あの社長に言われたら、まぁ、仕方ないですね。それにうさぎちゃんのこともあるし、早いに越した事は無いですけど、悔しいなぁ」

梁瀬は溜息混じりに悔しいと言って、自分の足を睨みつけている。
タオルケットから覗く足の片方にはしっかりとギプスがはめられていて、よく見れば腕や足、顔にもガーゼこそ貼っていないけれども傷が残っている。

「折角だからオレだって参加したかったですよ」
「どうせ、あと二日もすれば退院だろ」
「でも、見たいじゃないですか」

梁瀬はそう言うなりうさぎへと視線を向けてきて、他の二人の視線もうさぎへと向けられる。こうして視線を集めてしまうとやはり居心地が悪くて、視線を手元へと落とした。

「お前より彼女の方が上手だな」
「そりゃあ、オレにだって分かりますよ。だから見たいんじゃないですか。怪我さえしてなければな」
「反撃しなければ良かっただろ」
「でも、普通、家に知らない奴が来て拉致ろうとしたら暴れません? 大人しく捕まる気にはなれませんけど」
「俺なら捕まるかなぁ。その方がどういう目的だかすぐに分かるし」
「お前みたいにオレは演技派じゃねーの」

梁瀬の拗ねた顔は子供のようで、やり取りのテンポの良さもあってつい笑ってしまえば、先まで拗ねていた顔をしていた梁瀬も笑顔になる。

「弟のこと、本当にごめんな。あいつちょっと自信過剰なところあるから。でも、梶さん見たなら多分、もう近付いてこないと思うから安心していいよ」
「何だそれは」
「あいつ、昔顔のいい男に彼女取られて以来、コンプレックス持ちなんですよ。だから、うさぎちゃんの彼が自分よりも顔がいいと判断したら近付いてきませんから。自分より顔のいい男と張り合う気合いが無いんですよ。その点から言えば、梶さんならあいつのコンプレックス直撃ですし」
「遠回しに褒められているようなんで礼は言っておこう」
「ちぇっ、岡嶋といい、梶さんといい、顔のいい男は得だよなぁ」

再び拗ねた様子を見せる梁瀬に、やっぱりうさぎは笑ってしまう。コロコロと変わる表情は、サンダーとしての印象と余り変わりない。ただ、体育会系と言えるくらいの体格の良さは予想外でもあった。

「うさぎちゃん、一週間梶さんの家に泊まりだって?」
「そうらしいですけど、うちの親、どうやって説得したんですか?」

問いかけた先は梶で、問われた梶は肩を竦めてみせた。

「知らん、あとで社長に会わせるからあいつに聞け」

社長と言いつつあいつという梶の言葉に違和感を感じながらも、うさぎは素直に頷いておいた。

「あのさ、気のせいかな……オレ、うさぎちゃんと会ったことない?」

少なくともうさぎの方には梁瀬と会った記憶はなくて、素直にありませんと答えたけれども首を傾げて悩み出した梁瀬に岡嶋が笑う。

「まるでそれ、下手なナンパみたいに聞こえるよ」
「違うって! そうじゃなくて、どこだっけ……あ」

思い出したのか、それだけ言うと梁瀬は非常に微妙な顔でうさぎを見ている。そんな顔されてもうさぎだって困るから、お互いに困った顔で見つめ合っていれば岡嶋と梶が笑い出した。

「二人で何でそんな顔してるの」
「あー、これ言ったらうさぎちゃんにドン引きされそうだと思って」
「下ネタ系だったらサクッと却下だからな」
「違うって! 幾らオレでもそれくらいの分別はあるっての。そうじゃなくて……うさぎちゃん、困ったことがあったらオレに言ってね。その出来る限りのことはするから」

どこか力の無い声で言う梁瀬は、やっぱり困った顔でうさぎを見ている。けれども、余りにも曖昧な言葉すぎてうさぎとしては頷きようもない。

「意味が分からないんですけど」
「あー、その、なぁ……」

口ごもる梁瀬の様子に気付いたのか、岡嶋が分かったと言わんばかりに広げた掌に拳をポンと落とした。

「光輝のことだろ」
「……そういうこと。いや、去年帰省した時、光輝の机の上にあったうさぎちゃんの写真見たから見覚えがあったんだよな」
「あいつの本命ってこと?」
「多分……少なくとも、自分が写ってる写真ならともかく、ガキの頃から女の子の写真を持ち歩いていたことなんて一度も無いし」

二人で会話をしていたけれども、ゆっくりと二人の視線がうさぎへと向けられたけど、会話を聞いていたうさぎとしては困ったというのが本音でもあった。色恋沙汰のように感情が絡み、数学のように答えがはっきりしないものには余り近付きたくない。

「あの、全力で逃げていいから」
「弟なのに随分な言い方だな」

ここにきて梶が口を挟み、再び梁瀬と岡嶋は顔を見合わせるとお互いに嫌そうな顔のまま梶へ視線を向けた。

「弟ではあるんですけど、こう、何ていうか、見た目は似てるんですけど考え方が違うっていうか」
「粘着質なんですよ。諦めのつけられない男」

言い淀む梁瀬に変わって辛辣とも言える感想を零したのは岡嶋で、それを聞いていたうさぎは更に嫌そうな顔になってしまう。

「君は付き合う気は……いや、すまない」

梶は問いかけてきたけれども、うさぎの顔を見ただけで質問を取り消してしまった。確かにうさぎは今、もの凄く嫌ですという顔をしていたに違いない。梁瀬の弟だと思えば、こういうことを思うのは悪いけれども、学校生活くらいは無難に何事も無く過ごしたい。例え他人から見たら面白みのない学校生活でも、あのぬるま湯のような環境を好きなうさぎにとって壊されるのは楽しいことではない。

「一層、オレと付き合ってることにする?」
「止めとけ、光輝の性格からいって血の雨降りそうだから。そうだ、梶さん、今日何か言われたりしました?」
「いや、声は掛けられなかったが……そうだな、夏休みまでの間ならふりしても構わん」

どこか納得したような顔してこちらを見る梶に、岡嶋もそれに同調してくる。

「あぁ、絶対それ良い案ですよ。夏休みまであと一週間ですし、毎日送り迎えしてたら梶さんの顔だったら納得しますよ」

そこまで聞いて、うさぎはようやく梶が恋人のふりを買って出てくれていることに気付いた。確かに岡嶋はこれ以上光輝と顔を合わせられないと言っていたから、必然的に送り迎えは梶がしてくれることになるのだろう。だとすれば、ここは梶の提案に乗っておくのがうさぎにとっては良案に思えた。ただ、利用するような真似をしていいのか、という葛藤が無かった訳では無かったけれども……。

「どうする、うさぎちゃん」
「……お願いします。正直、梁瀬さんの話しを聞いてるとかわすだけの自信も無いですし」
「ということです、梶さん」
「一週間なら大丈夫だろ。ただ、正門で待つような真似は出来ないが」
「いえ、それだけで助かります。すみません、仕事もあるのにお手数掛けてしまって」

けれども、梶は苦笑するとうさぎの頭を軽く、けれども優しく撫でる。あの時は泣いていたこともあったし然程気にならなかったけれども、こうして昼の日差しの中でそれをされると顔が赤くなってくる。

「構わんさ、今日みたいにしておけばいいだけだ」
「あ、あの、今日みたいなのは、その心臓に悪いというか」

慌てるうさぎにからかうように岡嶋の声が響く。

「梶さーん、一体何をしたんですか」
「キスの真似事をしただけだ。本当にした訳じゃない」
「当たり前です。そんなことしたらさすがに軽蔑しますよ。まぁ、でも光輝には丁度いいくらいかもしれないですけど」
「うーん、それくらいしないとあいつ諦めないだろうし」

この流れだと、これから一週間、うさぎは毎日間近で梶の顔を拝まなくてはいけないことになる。少なくとも、あれを他の誰かにされても同じくらい動揺はするけれども、無駄に顔がいいだけに梶や岡嶋は本気で困る。けれども、この流れでうさぎが言える筈も無く、赤い顔を隠すように俯くことしか出来ない。

「そろそろ行かないと不味いな」

空気を切り替えるかのように梶はそう言うと、椅子から立ち上がった。その言葉でうさぎは時計を見たけれども、病院の入り口に書いてあった面会時間が終わるにはまだ早い。

「社長がお待ちかねですもんね」

同じように岡嶋が立ち上がると、うさぎも慌てて椅子から立ち上がった。

「いいなー、ズルいよなー」

再び子供のような声を出す梁瀬につい笑ってしまえば、視線の合った梁瀬が笑みを浮かべた。

「退院したら、一緒に遊んでね」

果たして大学生の梁瀬がうさぎと遊んで楽しいかは分からなかったけれどもはいと返事をし、最後にそれぞれ梁瀬に挨拶すると病院を出た。外に出れば既に夕暮れ時のグラデーションが空には出来ていて一番星が見える。岡嶋と梶、そしてうさぎの三人で車に乗り込むと、梶の運転で車が走り出す。

「これからラストの尻尾を捕まえる。接触する必要は無い。今現在どこにいるのか、接触が取れるだろう回線はどれか、それを探し出す」
「場所の特定は難しいんじゃないですか?」
「そうだろうな。だから出来る限りでいい。無理してこちらの正体を晒す必要は無い。接触が取れる回線を押さえられるだけで十分だ。回線さえ掴めればこちらから接触してあぶり出しも可能だからな」

梶が前に言っていたように、状況を考えれば居場所を特定するよりもラストの回線を捕まえる方が先に違いない。いざとなれば、うさぎ名義でラストと接触を計っても構わないし、データをちらつかせても構わない筈だ。だからうさぎは黙って後部座席に納まりながら二人の話しを聞いていたけれども、不意に岡嶋が振り返った。

「うさぎちゃん、社長、強烈だから驚くかもしれないけど頑張れ」

一体、何に頑張れと言われているのか分からずうさぎは返事を出来ずにいれば、続いて梶が声を掛けてくる。

「何を言われても流しておけ」
「梶さんですらあー、ハイハイって感じですもんね。やっぱり姉には頭が上がらないもんですか」
「茶化すな。……実際、上がらないがな」

ぼそりと呟くような言葉に、車内は静まり返り、次の瞬間は岡嶋とうさぎの笑い声が被る。梶の物言いが先程の梁瀬のように少し子供みたいで、うさぎもついつい笑ってしまう。うさぎの位置から梶の顔を見ることは出来なくて、初めて梶の顔を見てみたと思った。

「でも、社長みたいなお姉さんだったら、誰が弟でも妹でも頭上がらないと思いますよ」
「かもしれないな」

笑いまじりの岡嶋の声に答える梶の声は苦虫を噛み潰したような、微妙に嫌そうな声で更に笑ってしまう。兄弟のいないうさぎにとって、姉や兄という存在は少しだけ羨ましくもあった。恐らく、あの家にいても兄弟がいれば寂しさを感じることは無かったに違いない。けれども、寂しさが無ければこの人たちに会うことも無かったのかと思うと、これはこれでいいとうさぎは納得する。

しばらく車を走らせると、病院から十分くらいでやたらと大きなビルの地下駐車場に車は滑り込む。アルファベットと数字で場所を表記されていて、この地下駐車場が随分と広いものだと分かる。地下に三階ほど降りたところで梶は車を止めると、それぞれが車を降りた。六基あるエレベーターの一つが到着すると箱の中へ乗り込む。けれども、梶は階数ボタンを押すことなく手にした鍵を鍵穴に差し込み回すと、階数ランプが点灯する。こういうタイプのエレベーターを初めて見たうさぎにとって、かなりの驚きがあった。

けれども、会社の仕事内容を考えればセキュリティー面を考えてもここまでするのは当たり前に思える。セキュリティー会社というのは企業の秘密を共有しているのも同様で、セキュリティー会社から企業に入られては意味が無い。けれども、システムセキュリティーというのは創業一年くらいの会社だというのに、随分としっかりしているように思える。大抵、どこか片手落ちなところもあるけれども、これだけ見てもかなり強固に感じる。

目的階へ到着すると、扉が開いた先には左右に廊下があり、廊下にはカーペットが敷かれている。大きな窓があり、そこから街の様子がよく見える。空は闇色を混ぜたグラデーションになっていて、その下には慌ただしくライトを点けて走る車が幾つもあり、さながら幻想的な風景にも見えた。廊下の所々には緑が置かれていて、ゴミ一つ落ちてないところからも、随分と手入れがされているのが分かる。幾つかあった扉には全てにカードキーと指紋認証用の機械が取り付けられていて、セキュリティー機器に詳しくないうさぎにでも厳重さは十分に理解出来た。恐らく、目につくものだけでなく、他にも色々取り付けられているに違いない。

あちらこちらを見ながら歩いていれば、一番奥にある部屋で梶は足を止めた。ポケットから取り出したカードキーを通せば、機械音声で指紋認証を要求され、指を機械に乗せれば網膜認証まであってうさぎは更に驚いた。まさか、網膜認証なんてものまで取り入れている企業なんて日本では銀行や政府機関くらいだと思っていたけれども、どうやらそうじゃないことを知る。そこまでやってようやく鍵の開く音がすると、梶は扉を開けた。

「忘れていた、これを持っていろ」

そう言って梶から手渡されたのは一枚のカードで、重さからもICチップが埋め込まれているのが分かる。

「これが無いと、部屋に入る時に警備員が飛んでくるらしいよ」

梶の言葉を補足するように、岡嶋もポケットからカードを一枚取り出した。うさぎのカードも岡嶋のカードも白く何も印刷されていない。

「ここはシステムセキュリティーのいわば頭脳だから、下手な人間に入られては困る。社員でもそのカードは一部の人間しか持っていない。落としたりしたら大変なことになるから、それだけは気をつけてくれ」
「分かりました」

貴重な物を手に入れた気分で、うさぎはいつものようにスカートのポケットではなく、チャックのついた胸元のポケットへカードを入れた。梶に続き部屋へ入れば、そこは応接間のようになっていた。ただ、広さは二十帖はゆうにありそうな部屋で真ん中にソファとテーブルが配置され、壁には三つほど本棚が並べられていてぎっちりと本が詰められていた。学生のうさぎは企業に足を踏み入れる機会は全く無い。せいぜい踏み入れるのは役所くらいなもので、これが初めての会社訪問と思うと緊張で掌に汗が滲んでくる。梶も岡嶋も社長を強烈な人だと言っていたけれども、一体どういう人なのか具体的な説明はされていなこともあり更に緊張は増す。

「そこのソファに座ってろ」

梶はソファを指差すと、続く扉をノックしてから姿を消した。落ち着かない気分で立ち尽くしていれば、苦笑する岡嶋に促されて一緒にソファへ腰を下ろす。梶の家にあったソファも随分とクッションが効いたものだったけれども、これは柔らかいベッド並みに沈み込んで腰が落ち着かない。

「緊張してる?」
「凄くしてます」
「脅かしすぎたかな、ごめんね。別に怖い人じゃないから、ただ、勢いがあるというか、威勢がいいというか」

少し考えながら発言する岡嶋だったけれども、そこに嫌悪は含まれていなさそうだ。だから、少しだけ深呼吸をしてみたけれども、そんなうさぎを見て岡嶋は面白そうに笑っている。でも、うさぎにとって笑い事じゃない。先日会った社長秘書だという佐伯という人には随分冷たい印象が残る。佐伯が言ったことは今でも正しいと思うけれども、人はあれだけ冷たい視線を他人に向けられるのだと思ったら怖くなったのは確かだった。

膝の上で掌を握りしめたところで、続き扉が開き梶と一緒に出て来たのは一目見たら忘れないタイプの女性だった。ショートにした髪は後ろだけ少し長めにとってあり、目元は梶と似て涼やかな印象だ。鼻筋も綺麗だし、少しパールの入った薄めの赤い口紅がよく似合っていたし、黒いパンツスーツのコーディネイトも完璧で、梶と並んでモデルのような女性につい釘付けになってしまう。

「こんにちは、あなたがうさぎちゃん」

落ち着いた声は大人を思わせて、慌ててうさぎは立ち上がると頭を下げた。

「はい、桜庭うさぎです。今回は色々とご迷惑をお掛けしてしまい本当にすみません」

一気に言い切ってしまうと、少しの沈黙の後に笑い声が部屋に響く。慌てて顔を上げれば、それはもうおかしそうに女性が笑っていて、手で座るように示されてうさぎはソファへと腰を落ち着けた。けれども、気持ちは全然落ち着かない。正面のソファに梶と女性は座ると、女性の方が名刺をうさぎへと差し出してきた。

「梶貴美よ。別に緊張しなくても大丈夫だから。話しをしたいだけだから、ねっ」

綺麗な顔で貴美が笑うと、それだけで周りが明るくなるようなそんな笑顔に思えた。けれども、社会人として憧れの姿がそこにあって、うさぎとしては更にガチガチに緊張してしまう。

「うさぎちゃん、ほら、そんな緊張しないで大丈夫だから。幾ら社長でも取って食べたりしないし」
「岡嶋、あんた何を言ったの」
「えー、何も言ってないですよ。ねぇ、梶さん」

岡嶋に名前を出された梶は渋面で岡嶋を一睨みすると、貴美さんへと視線を向けて溜息を吐き出した。

「俺は何も言ってない」
「だったら、何でこんな緊張して震えてるのよ。あたし、そんな怖い顔してる」
「貴美、落ち着け、余計に怯えられるぞ」
「何よ偉そうに、あんただって怖がられてたくせに」
「あぁ、兄弟揃って怯えさせるなんてさすがですねぇ」

兄弟の言い争いに岡嶋が更に毒を注ぎ、収拾がつかなくなりつつある。うさぎよりも年齢が高い人たちなのに、その会話は沙枝や利奈たちとする会話と余り変わりなくてうさぎはついに笑いを噴き出してしまう。途端に三人の声がピタリと止み、うさぎは慌てて笑いを飲み込んだ。

「すみません」
「謝ることじゃない。大人げなかった」

梶の言葉に確かに大人げないとうさぎは思ったけれども、少しだけ緊張が解れた気がする。しっかりと笑いを納めてから、改めて貴美へと向き直ると頭を下げた。

「両親への説明とか、警備とか色々、本当に有難うございます。一人だったら何も出来なかっただろうし、本当に感謝してます」
「そうねぇ、感謝なら形あるものでお願いするから」

貴美の言葉に顔を上げれば、うさぎを見ていた貴美の口元に笑みが浮かぶ。

「うさぎちゃんの両親にはね、パソコンの技術が高くうちで正社員になることを前提として研修を受けて貰うことになりました。アルバイトの許可を得てるということで親御さんの了承を得たく、お電話させて頂きましたが如何でしょう、と伝えたけれども、お父様は随分乗り気なご様子だったわ」
「貴美、まさか」
「うさぎちゃんには、これからうちの臨時アルバイトに入って貰うことに決めたわ」
「まだ高校生だぞ。第一、うちはアルバイトを入れていない」
「記念すべき第一号よねぇ。まぁ、どちらにしても仕事はラストの件が片付いてからになるけれども、取り合えずどう? やってみない?」

問いかけられたうさぎは、つい横にいる岡嶋へと視線を向けてしまう。アルバイトをしたいと言ったのは今朝のことで、このタイミングで話しが持ち上がるとは思ってもいなかった。岡嶋もうさぎを見ていて、二人で視線を合わせたまま少しだけ笑う。

「アルバイト、ということはお給料もきちんと出るんですよね」
「勿論、出すわよ。まぁ、正直、うさぎちゃんの両親に言ってしまった手前、一ヶ月でもいいからアルバイトはして欲しいんだけど」
「やらせて下さい。ただ、アルバイトとかしたことが無いんで色々と拙い部分はあると思うんですけれども」
「決まりね。それならこの紙にある黒枠全て埋めてくれない」

貴美は手元に置いてあったファイルケースから一枚の紙を取り出すと差し出して来た。うさぎは素直にそれを受け取り紙面へ視線を落とした。名前から住所、電話番号という基本的な項目があり、その他には作れるプログラム言語の種類、変わったところでは休日の過ごし方なんて項目まであり、うさぎは不思議に思う。

「取り合えず、明日にでも貴弘に渡しておいてくれたらいいから。細かい取り決めはまた後で決めることにしましょう。そしてここからは別件。ルナスペースのデータはどうしてるの」
「一応、まだ手元にあります。あのコレです」

鞄の中から一枚のCDを取り出すと貴美とうさぎの間にあるテーブルの上に置いた。

「コピーはとってませんし、手元にあるのはこれだけです」
「ラストが盗んだらしいパソコンの中には」
「入っていません。基本的にグレーとしてのデータはデスクトップパソコンに残していないので」
「そう、そういうことであればルナスペースからの追求は随分緩い筈よ。後はラストが盗んだハードディスクを回収して、そちらにデータが残っていないことを証明できたらこの件はどうにかなると思うわ。あぁ、一応うさぎちゃんの壊れたというノートパソコンも提出して貰えるかしら」

うさぎは貴美の言葉に頷くと、今度家に戻った時には提出することを約束した。一時期、警察沙汰になるのではないかとまで心配したけれども、どうやら決着がつくらしくうさぎは安堵の溜息を漏らす。本当にどうしようかと思っていた。けれども、梶や岡嶋に助けられて、今度はこうして貴美にも助けられている。

「本当に色々と有難うございます」
「別に礼を言われることはしてないわよ。うちもラストには随分と手を焼かされてるしうさぎちゃんの手を借りられることになったのはプラスであって、決してマイナスでは無いわ。安心しなさい」

にこやかな笑顔を向けられるとうさぎも安心して返事をすることが出来た。そこへ小さな音が鳴り、続いて鍵の開く音がして余りうさぎにとって喜ばしくない人物が中へと入ってきた。

「システム、全て調整終わりました」

やはりその声の響きは冷たいもので、一気にうさぎは自分が緊張したのが分かる。

「あら、ありがとう。そうそう、うさぎちゃんから了承貰えたらからうちの人間よ。苛めたりしたらボーナス無くすから覚えておきなさい」
「……了解しました」

無表情のまま佐伯は貴美に一礼したけれども、一度もうさぎへ視線を向けようとはしない。歓迎されていないことは佐伯の持つ空気だけで十分に読み取れた。

「まぁ、そんな訳だから、うさぎちゃんも佐伯に何か言われたら、私にきちんと報告するのよ。苛められましたの一言だけでも構わないから、ね」

そう言って笑う貴美の表情はやはりとても綺麗なものだったけれども、うさぎは佐伯の前ということもあり頷くことも出来ず困った顔になってしまう。そんなうさぎに貴美は豪快に笑うと、ファイルケースを傍に立つ佐伯へと手渡した。

「これ、今日の分。それから二人分のカードを作っておいて頂戴」
「二人、ですか?」
「どうせなら梁瀬もアルバイトさせるわよ。こうなったら一人も二人も一緒でしょ。しかも、梁瀬はうちへ就職希望してるんだから丁度いいわ。岡嶋、あんたはどうする?」
「俺は辞退させて頂きます。正直、大学と劇団だけで手一杯なんで」
「まぁ、夢ある若者を巻き込もうとは思わないわよ。たまには遊びにいらっしゃい」
「そうさせて頂きます」

穏やかな笑みを浮かべる岡嶋に対して、貴美も笑みを浮かべている。和やかな空気が流れてもいい筈なのに、どこか寒々しく感じるのはうさぎの気のせいかもしれない。そんなことを思っていたけれども、貴美が立ち上がったところでうさぎは慌てた。

「あ、えっと、社長」

どう呼べばいいか分からずに岡嶋のように社長と呼べば、少し驚いた顔をして貴美はうさぎを見て、それから笑い出した。

「うさぎちゃん、私のことは貴美さんと呼びなさない。外で会った時に制服着た高校生に社長なんて呼ばれたら、一体何やってるんだと思われても困るから」
「あ、はい、じゃあ、貴美さん」

改めて呼び直せば、貴美は笑顔で返事をしてくれる。それがうさぎには凄く嬉しかった。

「あの、家の修繕費用とか警備費用とか、後で請求して貰えますか。払います」
「あぁ、そんなもの別にいらないわよ。うちとしてはラスト捕まえてくれるだけで十分元取れるから。でも気になるなら……そうね、パソコンだけ買い取って貰おうかしら。モニターとパソコン二台で八万円、これでどう?」

中身の入っていないパソコンではあるけれども、どれだけ頑張って走り回ってもモニターとパソコン二台を八万で買えることは出来ない。少なくとも、うさぎがあれを用意した時には十万以上掛かっている。

「そんな、もっときちんと払います」
「うーん、これくらいで手を打ってよ。じゃないと高校生から金を奪い取る悪徳業者並みじゃないのうちが。警備にしろ、その他色々、うちが勝手にやったことなんだから気にする必要は無いわよ。請求書はあとで貴弘に渡しておくから。じゃあ、これからラストの件頑張ってね」

まるで話しはこれで終わりとばかりに一気にまくしたてると貴美はそのまま佐伯と一緒に部屋を出て行ってしまい、言われたうさぎはただ呆然とするしかない。

「君はそんなことを考えていたのか」

呆れまじりの声に梶へと視線を向ければ、声を裏切ることなくその顔も呆れた顔をしていた。

「あれを請求しようとは全く考えてもいなかった」
「でも、実際にして貰ったことなんで……それに、お金が掛かってることは分かってましたから」

うさぎの言葉に溜息をついて目を伏せた梶だったけれども、気を取り直したように今度は先程よりも強い視線でうさぎへ目を向ける。

「君はここで仕事をしていいのか?」
「別に今はしたいことありませんから。ただ、やりたいことを見つけたら辞めるつもりではいます」
「そうか……それなら、辞めたくなった時には遠慮無く言ってくれ」

梶の言い方だと、うさぎは余り歓迎されていない気がする。先程あった佐伯といい、梶といい、この中で初めてアルバイトをすると言えば不安もあるけれども、一度言った言葉を取り消すつもりはない。だからこそ、気合いを入れたうさぎの目の前で梶は立ち上がった。

「ここからラストを追いかける。社長に許可を取ってあるからな」
「今からですか?」

驚いた声を上げたのは岡嶋だったけれども、うさぎも同じような心境で梶を見上げる。けれども、梶は小さく笑い「来い」と言うと部屋の出口へ向かって歩き出す。慌ててソファから立ち上がると、岡嶋と一緒にうさぎも梶の後について部屋を出た。

カーペット敷きの廊下を幾つかの扉を横目に見ながら歩いて行くと、梶が一つの扉をカードキーで開けて中へと招き入れられる。うさぎは部屋に入った途端、十台近くあるモニターに圧倒された。これが広い部屋であれば違和感も感じなかったけれども、その部屋は今まで見たどの部屋よりも狭かった。それこそ、うさぎの部屋の大きさと余り変わらないようにも見える。壁際には何台ものパソコンが並べられていて、反対の壁際にはモニターが取り付けられている。モニターの前には長い机が並べられていて、椅子が三つ置かれていた。

「ここは私が仕事用に使う部屋だ。岡嶋はこっちだ。君は自分のパソコンがいいか?」

どんなパソコンでも基本的な操作は何も変わらない。それでも、それぞれのパソコンには癖があり、入っているソフトや設定も異なるからこそ、梶は問いかけてきたのだろう。うさぎは梶の問いかけに頷き、扉横の空いたスペースに鞄を置くと、その中からノートパソコンを取り出した。その間に梶は岡嶋へ説明をしているらしく、うさぎは辺りを見回してコードが繋げる距離、机の一番端にパソコンを置くと椅子を引き寄せた。どういう接続状況になっているか分からないからこそ、梶を待っていれば、程なくしてうさぎに声を掛けてきた。

「少し待ってろ。君のパソコンを登録するから、一度こちらの線を繋いでくれ」

渡されたケーブルは黒いもので、それを手早くパソコンに繋げば、岡嶋の隣で梶がキーボードを操作する。その指先は早いリズムだけど一定間隔で叩かれていて、耳障りは悪くない。しばらくカタカタとキーボードを叩く音だけが聞こえていたけれども、その指が止まり、梶から声を掛けられる。

「同じ所から出てる水色の線に繋ぎ替えてくれ」

言われた通り、うさぎは配線を抜き水色のコードをパソコンに繋げると、IDとパスワードを求める画面が出て来た。

「少し貸してくれ」

うさぎはそのままパソコンを梶の方へと向ければ、梶の手が幾つものキーを叩く。全部で四十一のキーを打つ音が聞こえ、数えてしまっていた自分に気付いてうさぎは微妙な顔になってしまう。ここにハッキングするつもりはなくても、つい手がかりになりそうなものを掴もうとする自分に内心苦笑するしかない。

「どうした?」
「いえ、何でもないです」

パソコンの設定を終えた梶から受け取りながら会話を交わすと、うさぎは自分の使い勝手のいいようにパソコンの位置を調整した。本当なら椅子や机も慣れた物の方が効率が良いけれども、さすがにそこまで文句は言えない。

「これから説明していくから聞いてくれ」

梶の言葉で気を引き締めると、うさぎはパソコンから梶へと視線を向けた。

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