うさぎが逃げる Act.07:デイリー 日常

制服に着替え教科書を鞄に詰めると、うさぎは最後に紗枝からのメールにあった今日の課題を全てチェックする。

「んー、うさぎちゃん宿題?」

背後から肩に顎を乗せてノートを覗き込んでくる岡嶋にうさぎの心拍数はどうにも落ち着かない。かろうじて返事だけすれば、岡嶋の指がノートの一カ所で止まり軽く指先で叩かれる。

「これ間違えてる」

岡嶋の指摘に慌ててうさぎはノートを見たけれども、すぐに間違いは見つけられた。しまったばかりの筆箱からシャーペンを取り出し、ノートの端で計算していく。どうやら途中で単純計算を間違えていたらしく、確かに間違えていて岡嶋にお礼を言った。

「別にこれくらい。何なら試験勉強見てあげようか?」
「大丈夫です。それは自分でやらないといけないことですから」
「まぁ、そうかな。でも、分からない所があったら聞きにおいで、理数系だったらばっちりだから」

そう言って笑う岡嶋は、かなり面倒見がいいのかもしれない。ただ、それと同じくらいスキンシップも好きそうなことはうさぎにとっては困ることだった。扉の開く音でうさぎの目は自然と引き寄せられ、扉から出て来た梶と視線が合ったけれども、梶はうさぎから岡嶋へと視線をすぐに移してしまう。

「岡嶋」

放物線を描いて飛んで来た物を岡嶋は片手で受け取ると、訝しげな顔をして梶を見ている。

「どうしたんですか、いきなり鍵って」
「私は仕事が入って今すぐ出ないとまずい。すまんが送ってやってくれ。だが、絶対に学校に入るまで目を離すな」
「そりゃあ、送るからにはそうしますけど……そんなに急ぎですか?」
「あぁ、ルナスペースから連絡が入った。やはりグレーの名前で金銭を要求してきたらしく、グレーの身元を早急に調べて身柄を押さえろとのことだ」

それは、ラストがグレーの名前を騙ってルナスペースを脅迫した、ということだとうさぎにもすぐに分かった。

「ルナスペースに話すにしても、まずは社長への報告義務がある。社長に報告した上で、今後を決めたいということなんで私はもう行かないとならない。そうだ、これを」

先程のように投げることはせず、うさぎの目の前に立った梶はポケットから携帯を取り出した。
「君の携帯は使わない方がいいだろう。これを持って行きなさい」

差し出された携帯は新しく見えたけれども、よく見ればわずかに傷がついていたりして使用されていたものだと分かる。だから、うさぎは差し出された携帯を素直に受け取れずにいれば、横から伸びてきた手が強引にうさぎの手に持たせてしまう。

「岡嶋さん」
「それ持って行ってくれないと帰りに連絡取れないでしょ。それに何かあった時、それがあるだけでこっちも安心だから。ほら、学校まではついていけないしさ」

岡嶋が携帯についているGPS機能のことを言っているのはすぐに分かったけれども、人の携帯を使うにはうさぎには躊躇われて梶を見上げる。けれども、梶はうさぎの視線を受けて何でも無いことのように言う。

「それはプライベート用で今は殆ど使ってないものだ。電話やメール、電話帳も適当に使って貰って構わん」
「でも、これに掛かってくることもあるんじゃ」
「今は殆ど無い。だから遠慮する必要は無い。岡嶋の言うことも最もだしな」

手の中にある携帯はメタリックシルバーのもので、うさぎであれば絶対に選ばない色合いだったけれども、梶のものだと途端に納得行くから不思議な気分になる。そして、ここで携帯を受け取らなければ自分一人が困る訳じゃなく、ここにいる二人にも迷惑が掛かることも分かっているだけにうさぎは制服のポケットに携帯をしまった。

「今日は何時頃学校を出られる」
「試験前だから三時くらいには終わると思います」
「岡嶋、三時に迎えにいってそのままここへ来い」

梶はそう言いながらスーツの内ポケットから名刺入れを取り出すと、岡嶋へ手渡した。手渡された岡嶋はその名刺を見て、それからどこか唖然とした顔で梶を見ている。

「副社長、だったんですか」
「そういうことだ。私は先に行く。くれぐれも気をつけろ」

まるで何でもないことのようにそれだけ言うと、本当に急いでいるらしく梶はそのまま部屋を出て行ってしまった。残されたうさぎは、どこか呆然とした顔をしている岡嶋を見上げていたけど、唐突に岡嶋は額に手を当てて笑い出した。

「うわー、やられたなー。システムセキュリティーの人間だとは聞いていたし、お姉さんが社長というのは聞いていたけど、まさか梶さん自身が副社長とはね。はぁ、全く梶さんも人が悪い」

言いながらも岡嶋はどこか楽しそうで、何がそんなにおかしいのかよく分からない。そんなうさぎに気付いたのか岡嶋は、笑いを納めると無造作に名刺をポケットへしまいながらうさぎへと視線を合わせてくれる。

「いや、どんな仕事してるのか探り入れたらさ、大した事はしてない、腰掛け社員だからとか言ってたのに、どこの世界に副社長で腰掛けなんて言うんだか、って話し。あ、時間が無いからそろそろ行こうか」

岡嶋にうながされてうさぎはフローリングの床に置いてあった鞄を手にすると、玄関へ向かう岡嶋の後に続く。どこかご機嫌な様子の岡嶋は、人差し指で車の鍵についたキーホルダーをくるくると回している。何がそんなに面白かったのかはうさぎには分からなかったけれども、二人の間で交わされた話しがあったに違いない。話してくれるのであれば聞くけれども、うさぎは自分から聞くことはしなかった。
玄関を出て岡嶋が鍵を閉めてから二人でエレベーターに乗り込むと、岡嶋から声を掛けてきた。

「うさぎちゃん、さっきの電話貸して」

言われるままにうさぎは岡嶋へと携帯を差し出せば、岡嶋の指は携帯の上を滑らかに動く。長い骨張った指を見ていれば、岡嶋は作業が終わったのか携帯をうさぎへと差し出してきた。

「ここに俺の番号入れておいたから、学校で何かあったらすぐに電話して。必ず行くから」
「分かりました。あの、ラストの身元って既に分かってるんですよね。梶さんは私以外の全員の身元が分かってるって言ってましたし」
「分かってはいるけれども、あのチャット以来、家には戻っていないらしい。今も居場所が分からないから余計に警戒してる、ってところかな」
「私があのデータを持ち出さなければこんなことに」
「それは違うかな。ラストとはいずれこういうことになっていたと思うよ。ディンブラがあのチャットに現れなくなってから、俺と梁瀬は大分ラストのこと警戒してたんだよね。そろそろうさぎちゃんにも警告を出すべきか相談するところまでいってたし」

エレベーターの扉が開き、地下駐車場へ到着すると、岡嶋は扉を開けてうさぎが先に出るように促す。お礼を言ってうさぎはエレベーターから降りると、すぐ横に立ち岡嶋も一緒に歩き出す。

「警戒はしていたんだ。だから、もっと早く警告も出すべきだったって反省してるよ」
「それは違います。警戒は私もしてたんです。けれども、つい……」

自分がやったこを自慢したくなった。子供のような言い分に唇を噛み締めれば、岡嶋の手が頭を優しく撫でる。

「まぁ、誰しもが見誤ったってことだから、うさぎちゃんが責任を感じる必要は全く無いよ。なるべくしてなった、そういうことだと思うよ」

気にする必要は無いと言わんばかりの笑みを浮かべる岡嶋に、うさぎも少しだけ笑う。

「そう言って貰えると少しは気分的に楽です」
「じゃあ、そう思っておくといいよ」

笑顔で岡嶋は言いながら車の鍵を開けると、助手席側の扉を開けてくれる。そんなことをされたことのないうさぎは、それだけで赤面ものだった。とにかく照れくささに顔を上げることも出来ず、お礼だけ言うと車に乗り込んだ。助手席の扉が岡嶋の手によって閉められると、車を回り込んで運転席へと乗り込んでくる。

慣れた手つきで鍵を入れると、車は滑らか動作で走り出し、駐車場内はゆっくりだったけれど、道路に出るとスピードを上げた。岡嶋の運転は今も浮かべている笑みのように穏やかななもので、たかが車の運転といっても人によりけりだとうさぎは初めて気付く。別に梶の運転が乱暴だった訳では無いが、時折、車線変更する際にヒヤリとしたことがある。あの強引さはディンブラそのものだったと、思い出してうさぎは少しだけ笑う。

「なに笑ってるのかなー」

どこかからかい含みのその声に岡嶋を見れば、岡嶋は笑いながらも前を見ていてうさぎを見てはいない。

「運転って性格が出ると思って」
「俺の運転は?」
「丁寧だと思います」
「うん、うさぎちゃんにそう思って貰えると嬉しいかな」

そんな会話を交わしながらも車は高速に乗る。そういえば、あと数日、こうして高速を使うことを考えれば、日常にお金が掛かることに気付く。これから梶のところで世話になるとなれば、何もしない訳にはいかない。鞄から財布を取り出し中身を確認すれば、そこには五千円ほどしか入っていなくて溜息をつくしかない。そういえば、家のタンスも買い替えないといけないし、どうにもお金が必要なこどに気付く。

アルバイト、しようかな……でも、どんな?
今現状で出来るアルバイトなんてものはうさぎに無い。とにかく外でアルバイトがしたければラストの件が落ち着かなければ外でアルバイトなんて夢のまた夢だ。

「どうかしたの、難しい顔をして」

岡嶋に声を掛けられてうさぎはそちらへ視線を向けるけど、やっぱり岡嶋は前を向いていてこちらを見ている様子は無い。だとすればルームミラーで見られてるのかと思ったけれども、それも違うらしい。一体、どうやって見てるのかと思えば、ようやく岡嶋と目が合ったのは運転席側にあるサイドミラーだった。

「あ、気付かれちゃった」

どこか悪戯が失敗したような顔で笑う岡嶋に、うさぎもつられるように笑う。

「余り観察しないで下さい」
「えー、だって、うさぎちゃん可愛いんだもん」

そんなことを言われ慣れないうさぎとしては、岡嶋がそういう度に顔が赤くなってしまうけれども、岡嶋はそれをからかうことはしない。

「で、なにを難しい顔してたのかな?」
「アルバイト、出来ないかと思って」
「したいの?」
「ちょっと用入りで。でも、今は難しいですよね。家にいてってなるとゲーム作るくらいしか思いつかないんですけど、それだとお金になるのは一ヶ月後ですし」

少し考える様子だった岡嶋だったが、すぐにその表情は穏やかな笑みへと戻る。いつでも無表情と言われるうさぎには、そんな岡嶋の穏やかな自然と浮かべられる笑みが少しだけ羨ましく思う。

「じゃあ、アルバイトする? してくれるなら即金だけど」
「……変なバイトじゃなければ」
「あはは、そんな変なバイトうさぎちゃんに紹介する訳ないでしょ。あのさ、俺と梁瀬がやってるネットストアのサイト作ってくれないかな」

梁瀬と岡嶋が作るネットストアと聞いてもピンとくるものが無い。まだうさぎは梁瀬と会ってはいないが、サンダーである梁瀬は知っている。けれども、舞台を目指す岡嶋とノリのいい梁瀬で、一体なにを売っているのか気にならなくもない。

「ネットストア、ですか? え、でも、今もう稼働してるんですよね」
「してるんだけど、見た目が良くなくてさ。梁瀬が作ったんだけど、あいつの趣味バリバリすぎて客が寄りつかない感じでね」
「一体、何を売ってるんですか?」
「あー……陶芸品、になるかな、一応。梁瀬の趣味なんだよね。俺から見ても物は悪くないからネットで取り扱ってるんだけど、サイトがアメリカンで……まぁ、見て貰った方が早いかな。あいつ、あれで結構な腕持ってるんだよ。趣味の陶芸の割には、一応何とか展で賞取ったりね」

それは意外な才能かもしれない。うさぎが知ってるサンダーは、いつも面白おかしく悪のりが得意で、ラストとよく馬鹿話をしていた記憶がある。そのサンダーが陶芸、それは余りにもうさぎにとって予想外でもあった。

「勿論、お金は払うよ。一括で引き受けてくれるなら三十万くらいは」

申し出は非常に頼もしいものだったけれども、内容を考えるとうさぎには素直に引き受けられない。サイト作成というのはうさぎには難点が一つあった。

「ちょっと、無理かもしれません。昔はサイト作ったりもしたんですけど、その、壊滅的にセンスが無くて」
「デザインは俺がするから、うさぎちゃんはその通りに作ってくれるだけでいいよ。正直、プログラムは全くダメなんだよね」
「え? そうなんですか?」
「梁瀬とつるんでハッキングはよくしてたけど、あいつやうさぎちゃんみたいに何かを作ることには興味が無いから。出来たら、あいつが退院するまでにお願いしたいんだけど」
「いいんですか? その勝手にサイト替えてしまって」
「いいの、いいの。うさぎちゃんが作ってくれたって言えばあいつも文句言わないだろうし、何よりも売り上げが出ればあいつも文句言わないから」

それは本当にいいのか、聞いているだけでもうさぎとしては不安にもなる。ただ、岡嶋と梁瀬はうさぎが思っているよりもずっと濃い友人付き合いをしているらしく、その関係が少しだけ羨ましく思えた。

「何かいいですね、友人とのネットッショップ」
「どうだろうね、良い事も悪い事もあるよ。世の中みんな、そんなもんだよ」

まだうさぎにはネットの片隅から世の中を見ているだけで、社会に出た訳じゃないから世の中の道理を多く知らない。だから返事を出来ずにいれば、岡嶋がチラリとこちらを向いて微笑んだ。

「まぁ、簡単お手軽アルバイト情報でした」

少しふざけた口調でそう言われてしまい、その言葉でうさぎはつい笑ってしまう。岡嶋はプリンセスだったのに、余りにも違いすぎて驚きもした。けれども、優しそうなイメージは全く変化していなくて、その優しさが好きだったうさぎにとって岡嶋との会話は心温まるものでもあった。ディンブラはネットで想像していたのと余り変わらなかったし、プリンセスは全く違う。だとしたら、サンダーとラストは一体、どのような姿形をしているのか、うさぎは今日、明日にでも会えるだろうサンダーのことを考えて楽しくなってくる。

話している間にも高速を降り、学校から少し離れたところで車を下ろしてもらうとお礼を言った。それでもすぐ立ち去る様子の無い岡嶋を見上げれば、ポンポンと二回頭を撫でられる。

「学校に入るまで見てるように言われたからね」

そこまで言われて、先程梶が言っていた言葉をうさぎは思い出す。それであれば、うさぎが学校に入らないと岡嶋は帰れないということで慌ててお礼をもう一度言うと学校へと駆け込もうとした数歩手前、そこで名前を呼ばれて立ち止まる。

一体誰かと思って振り返れば、見慣れぬ、けれども同じ学校らしき男の子がうさぎの前に立つと真っすぐに見下ろしてくる。正門前だから周りにはまだ沢山登校する人たちがいて、注目を集めていることだけは分かる。こうして人から注目されるのは余り好きじゃないし、うさぎとしてもいたたまれない気持ちにさせられる。目の前にいる男の子は気にならないらしく、見上げるほど高い身長は岡嶋さんと同じくらいあるように見える。

「あの、オレ、三年の梁瀬といいます」

その名前を聞いて、これがサンダーの弟さんかと思って思わずマジマジとその顔を見上げてしまう。がっしりとした体格は柔道とか剣道とかそういう格闘技系の何かをやっているんじゃないかと思わせるものがあって、声は低く、それでも緊張しているのが見て取れた。

「あの……」

続きそうな言葉にうさぎは嫌な予感がする。今までこういうことが全く無かった訳じゃない。こういう時にされるのは大抵告白だと相場は決まってる。でも、こんな衆人観衆の中で告白するのだけは止めて欲しい。

まだ一年の頃にもこういうことがあって、それが結構人気のある先輩だったものだからうさぎは上級生や同級生からかなり嫌な目に合わされた。この人がどれだけ人気のある人か分からないけれども、女の子たちが通り過ぎる際に目を向けるくらいだからそれなりに人気があるらしいことも分かる。

逃げ出そう、そう思ったうさぎの背後から穏やかな声が聞こえてきた。

「あれ、光輝じゃん。お前ここの高校だったの」

思わず振り返れば、穏やかな笑みを浮かべた岡嶋がこちらへと近付いてくる。とたんに周りがざわめきだし、名前を呼ばれた光輝も驚いた顔をしている。岡嶋のモデル顔負けのその顔に注目を集めるのは仕方ないことだとうさぎにだって分かる。けれども、そうなるとことさら注目を集めてしまってどうしていいか分からなくなって来た。

「岡嶋さん、どうしてここに?」
「いつもの人間観察。稽古場がこの近くなんだよ」

岡嶋さんはにこやかに光輝と話している間に、ちらりとうさぎに視線を向けると掌を追い払うように軽く振る。どうやら、困っていたうさぎを助けるためにわざわざ声を掛けてくれたらしい。本当はお礼を言いたい気持ちもあったけれども、うさぎはそのまま何も言わずに校内へと入った。

別に告白されたところで誰かと付き合うつもりはない。どう考えても男が苦手なうさぎでは、誰かと付き合うことは難しかったし、うさぎ自身それを望んでもいなかった。告白してくることは構わない。けれども、時と場所を選んで欲しいというのはうさぎの本心でもあった。
教室へ入れば、既に沙枝と利奈は来ていて挨拶をして椅子に腰掛ければ、二人はすぐに寄って来た。

「昨日、結局デートだったの?」

悪戯めいた笑みを浮かべる利奈は、

「ある訳無いでしょ。それよりも沙枝、連絡してくれて有難う。お陰で課題忘れずにすんだから」
「課題なんてあったっけ?」
「あったよ。数学の……もしかして利奈ちゃん忘れちゃったの」

途端に利奈の顔が引きつったものになり、いきなりこちらへと向き直ると両手を合わせて拝み出す。

「忘れた、写させて」
「別にいいけど……課題くらいやっておかないと試験で泣くよ。もう期末だって近いのに」
「嫌なこと思い出させないでよ。あ、沙枝、どうせならうさぎも誘ってみたら?」

鞄からノートを取り出して利奈へ渡してから沙枝を見れば、穏やかな笑みを浮かべた沙枝にうさぎも視線を向けた。

「なにかあるの?」
「あのね、二十五日にパーティーがあるんだけど、もしよかったら一緒に行かないかと思って」
「それって、沙枝の家でやるあの大々的なのでしょ? ごめん、パス」

沙枝の家は結構大きな会社で、毎年この時期とクリスマス時期に大きなパーティーを催している。うさぎも一度だけ出たことがあるけれども、非常に肩の凝るもので別世界という感じだった。少なくともうさぎが持っている一張羅とも言えるワンピースを着ていっても多少浮いてる気がしたくらいだった。

「利奈ちゃんも来るよ?」
「利奈は男目当て。私はいいや」

実際、今は余り色々な予定を入れられる状況じゃなくて、あっさり断れば沙枝は見るからに残念そうな顔をしていてうさぎの心も少しだけ痛む。でも、人間向き不向きというものがあって、少なくともうさぎにとっては余り向いてると言えるものじゃない。一度出た時にも色々と声を掛けられて利奈はご満悦だったけれども、うさぎは辟易したのを覚えている。それに沙枝の友人ということで取り入ろうとしている人間も少数ながらいて、本当にうんざりした。そういう人間が一番うさぎは苦手だった。

「また今度誘ってもいい?」
「いいけど、断るかもしれないから余り期待しないで」

冷たい言い方かもしれないけれども、沙枝も慣れたもので素直に頷いて笑顔を見せてくれる。少しおっとりとした沙枝にはその穏やかで儚げな笑みはとても似合っていて、少しだけその笑顔に癒される気分になる。それは、自分が持っていないものだから、ということもうさぎは自分でも分かっていた。

「そういえば、うさぎ。メールの返事くれなかった」
「ごめん、ちょっと携帯壊れちゃって。しばらくはメール無しでお願い」
「珍しいね、うさぎが機械物壊すの」

そんな利奈の言葉にうさぎは曖昧に答えたけれども写し終わった利奈からノートを返して貰い、それからしばらくすると日常が始まった。授業に出て日常を感じでホッとしているうさぎは微妙な気持ちになる。ネットが日常に入り込んだ途端、もの凄い勢いで毎日が流れていて日常を忘れそうになる。数学は丁度、岡嶋に教えて貰った問題をあてられて正解を貰って岡嶋に感謝しながらも席につく。

別にネットが日常に入り込んだことに嫌悪は無い。梶は偉そうではあるけれども全く優しくない訳じゃないし、岡嶋はお兄さんのように頼りになる。そんな二人に出会えたことは感謝してはいる。ただ、今後、付き合いが続くかと言えば答えはノーだ。年齢や立場の違い、それを考えると今回の件が終われば簡単に無くなる付き合いでもある。それに不安や不満があるかというと、余り無かった。正直、二人とも格好いいし付き合いがあれば楽しいのかもしれないとも思わなくも無いけれども、あくまでネットからの付き合いは早々続くものじゃないとうさぎも知っている。

ここが日常で、昨日は非日常。それくらいはうさぎにだって分かっていた。
昼休みになり三人で購買へ向かっている最中、背後から声を掛けられて一層知らんふりを決め込もうかとも思った。けれども、肩をつかまれてしまえば振り返らない訳にもいかない。

「桜庭さん、少しいいですか?」

慌てたように追いかけてきたその人は、朝校門で会った人で押しの強さに少しだけ腰が引ける。

「分かりました。ごめん、先に行っていて」

どこか楽しそうな利奈と、心配そうな顔をした沙枝を見送ってから改めて梁瀬へと視線を向けた。

「ここだと人も多いし、中庭まで付き合って貰えるかな」

こうなってしまえば、もううさぎには選択肢が無い。渋々ながらも頷けば、笑顔を浮かべた梁瀬に腕を掴まれて中庭へと向かう。

「すいません、手を離して貰えませんか」
「あ、ごめん。何だか掴んでないと逃げられそうな気がして」

自分でうさぎの腕を掴んでいることを気付いていなかったのか、慌てて腕を離した梁瀬は赤い顔を隠そうともせずに再び歩き出す。一層、逃げ出したい気持ちでもあったけど、そこまで言われてしまえば逃げられる筈も無い。どうせ今逃げたところで後で捕まるのは分かりきっていた。

今日は日差しが強いこともあって、中庭に人はいなかった。教室内であれば冷房がついているのだから、わざわざ外で食べようという物好きはいないらしい。

「あの、僕とお付き合いして貰えませんか」
「すみません、お付き合いは出来ません」
「え! だって、今は恋人はいないって聞いたんだけど。だから試しでもいいから」
「無理です。すみません」

冷たいとうさぎ自身も思う。けれども、思わせぶりであればあるほど余計に拗れることは知っているから、普段以上に固い声になってしまう。

「お話がそれだけなら失礼します」

先輩ということもあり一礼してから校舎内へ入れば、涼やかな空気が頬を撫でる。いつもであれば相手のことなんて気にならないけれども、サンダーの弟ともなれば多少複雑な気持ちになる。
それにしても世間は狭い、そんなことを考えていた時、スカートのポケットに入れていた携帯が短い振動を伝えてきた。画面を見ればやっぱりメールがきていて、梶からのものだった。両親と連絡が取れ、一週間の研修という形で了承を得たというものだった。一体何の研修なのか想像もつかなかったけれども、これは会った時に確認しないといけない。何を言って両親を納得させたのか、うさぎには不思議でもあったけど今は許可が取れたということにホッとした。

そして続くメールには、両親にも一応警護をつけるということで、話しの大きさに顔を顰める。確かに、ラストが両親を使ってゆさぶりかけてくる可能性は少なくない。もう、ラストは既になりふり構わずといったようにも見える。

一体、自分は梶に幾ら払わないといけないのか、それを考えるともう大きな溜息しか出て来ない。部屋を借りてる家賃、食費、そして両親の警護代、家の修理費など、考えるだけで頭が痛くなりそうだった。
基本的にうさぎは他人に貸しを作るのは好きじゃない。そういうところが子供らしくない、と言われることもあったけれども、ネットの中にいると大人も子供もない。発言にはそれ相応の責任が発生するし、借りを作れば返さなければいけないことも学んだ。だからこそ、借りをそのままにしておくことは出来ない。

どちらにしても、梶に会ったらお礼は必須だ。そんなことを考えながらも午後の授業に出ていたけれども、放課後になって一つ小さな問題が起きた。

「桜庭さん」

帰り支度をしている教室の扉から入ってきたのはサンダーの弟である梁瀬だった。まだほとんどのクラスメイトがいる中に梁瀬が入ってくると、ざわめきが一段と大きくなるのが分かる。うさぎとしては、利奈情報で梁瀬がそれなりに人気の高い先輩だと聞いていただけに本当に勘弁して欲しい。

「何か用でしょうか」
「あのさ、一緒に帰らない?」
「帰りません。失礼します。じゃあ、また明日」

徹底して梁瀬には冷たく、けれども利奈と沙枝にはしっかり手を振って廊下へ出たけれども、背後から梁瀬はついてくる。そして、梁瀬が後ろをついてくることもあって、周りの視線を痛いくらいに感じでうさぎは内心溜息をついた。ポケットの中で震える携帯を取り出せば、そこには梶の名前が表示されていて慌てて通話ボタンを押して耳にあてる。

「はい」
「裏門のところにいる。もう出てくるのか」

てっきり、迎えには岡嶋が来ると思っていただけに梶からの電話は意外でもあった。

「分かりました、行きます」
「桜庭さん!」

電話している最中だというのに、梁瀬が背後から声を掛けてきてうんざりした気持ちを隠すこともせずに振り返った。

「彼とこれからデートなんでついてこないで下さい」
「え? だって彼氏いないって」
「誰もいないとは言ってません」

後ろをついてくる梁瀬にそれだけ言うと、うさぎは再び受話器を耳にあてた。途端に電話の向こう側から押し殺したような笑い声が聞こえてきて、更に機嫌が悪くなる自分を感じながらも「もしもし」と言えば梶からも返ってきた。

「梁瀬の弟は随分のようだな。それに、いつから私は君の恋人に?」

笑い含みのその声に、怒っていないことだけは分かるけれども、うさぎとしては楽しまれる趣味も無い。

「今からです。今から行きますから」

強引ではあるけれども、うさぎはすぐに電話を切ると足早に下駄箱に向かって歩き出す。梁瀬が下駄箱で靴に履き替えている一瞬の隙に、うさぎは校舎の裏側へと回り込んだ。追いかけられてるのは分かっているから、走って裏門へ行くと人影は殆どない。確かに、正門から出ればすぐにバス通りだし、駅にも正門からの方が近い。裏門も一応登下校時間には開けられているけれども、使うのは近所の人間くらいしかいないに違いない。

正門に比べて小さな門を出れば、少し先に黒い車が止まっているのが見える。向こうからもうさぎの姿が見えたらしく、梶は運転席から降りて助手席側へと回り込んだ。

「すみません、お待たせしました」
「別に待ってないから気にするな。ところで後ろから追いかけてくるのが梁瀬弟か?」

梶に言われて振り返れば、丁度裏門から梁瀬が顔を出した所で慌ててドアノブに手を伸ばしたけれども、すぐ直前にその手を取られる。何かと思い梶を見上げれば、うさぎの手を取った梶はその手を持ち上げてキスをした。

「か、梶さん」
「諦めて欲しいんだろ、あれに」

笑い含みの顔だったけれども、諦めて欲しいのは確かで渋々ながらうさぎは頷く。途端に梶の腕がうさぎの背中に周り、反対の手で車の扉を開けた梶は、回した腕で車の中へ入るように促してくる。促されるままにうさぎが車に入ったところで、ドアの上に手を掛けたまま梶は屈み込んでゆっくりと近付いてくる。

「梶さん」
「黙ってろ、本当にはしない」

吐息が触れる距離に梶がいて、パニックに陥りかけているうさぎに、梶は更に近付いてうさぎは緊張に耐えられなくて目を瞑る。笑う気配がしたけれども、目を開けるだけの勇気もなく更にギュッと目を瞑る。

ゆっくりと梶が離れる気配に恐る恐る目を開ければ、既に梶の上半身は車の外に出ていて目が合ったところで扉が外から閉められた。そして正面には梁瀬の姿があって、ただ呆然とこちらを、正確には梶を見ている。けれども梶は全く気にした様子など見せず車を回り込んで運転席の扉を開けると、ゆったりと乗り込んできた。

「これでしばらくは大人しい筈だ」
「あ、りがとうございます」

どうにかお礼を言ったけれども、心臓が頭にもあるみたいにドキドキうるさい。当たり前だけど、物心ついてから親以外にあんな近くに人を見たことなんてない。ましてや指先にキスされるなんてことは、一度だってなかった。けれども、梶は全く気にした様子も無くて、自分一人がパニックに陥っているのが情けない状況に思える。

車が走り出しても梁瀬は立ち尽くしていて、視界から消えるまで動く様子は無かった。

「岡嶋が梁瀬に聞けば、弟は巻き込みたくないという話しだったので私が迎えにきた。岡嶋は梁瀬弟とは面識があるし、余り鉢合わせすると言い訳が出来ないと言っていたのでな」

「すみません、本当に色々とご迷惑を掛けてしまって。仕事中だったんじゃないですか」
「今日の分は終わった。続きはまた夜だが……君にも手伝って貰う。ラストの追跡調査だ」
「やります」

うさぎに断る理由は全く無かった。

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