麻紀の指先に挟まれた煙草から白い煙が立ち昇る。既に明るくなった空は、車の前に立つ自分たちの他にも出勤するサラリーマンの歩く姿も見える。
「あんたが子供に優しいとは思わなかったわ」
「黙ってろ」
「やーね、男の逆ギレってみっともないわよ。それにしても、佐伯は相変わらずみたいね」
梶としては佐伯は毎日顔を合わせているけれども、麻紀には久しぶり会った佐伯の言動は相変わらず強烈だったのだろう。その感想に苦笑してしまうと、自分の煙草を手にしていた携帯灰皿で揉み消した。
「あいつは貴美至上主義だからな」
「貴美に振られてるくせに、どうしようもない男ね」
「そう言ってやるな。仕事は出来る男だし、私情を持ち込むこともしない」
別に肩を持つつもりは無かったが、実際に仕事は出来る男だと長い付き合いで知ってはいる。麻紀が言う程、どうしようもない男だと思ったことは梶は無かった。
「私情持込まくりじゃない。うさぎちゃんへの言葉は確かに八つ当たりだったけど、あれが私情じゃなければ何なのよ」
「時間外に貴美に使われたんだ。それくらいの愚痴は仕方ない。まぁ、ガキにあたるのは頂けないがな」
「今頃反省してるんじゃないの」
「そんなもん、するタマか、あいつが」
梶が憮然と言えば、麻紀は呆れた顔を隠そうともせずに梶を見る。長身な梶と同じ背の高さである麻紀の視線は見上げることも、見下ろすことも必要無い。
「まぁ、あんたがいいならどうでもいいわ。それよりも、拾ったうさぎはどうするつもり?」
「それこそお前には関係無い」
「あら冷たいのね。可愛いじゃない、うさぎちゃん」
基本的に麻紀は可愛いものに目が無い。それは食器やらブランドなどの物から、男だろうと女だろうと人間に至るまで麻紀の可愛い好きは範囲が広い。先までは仕事だったから余計なことを言わなかった、仕事を離れたら何を言い出すか分からない。それを知っているだけに、梶の視線は余計に鋭くなる。
「余計なことをするな」
「えー、折角可愛い子とお知りあいになるチャンスなのに」
ブーブー文句を言う麻紀の頭を軽く小突くと、梶は運転席へ回りトランクを開ける。
「どちらにしても短い付き合いだ」
「ふーん……貴美に会わせるなら無理だと思うけど」
「巻き込みたくない。まだ自分で選択も出来ないガキに押し付けるつもりもない」
「あら、本当に優しいじゃない。意外ね」
「もう行け」
これ以上喋らせておくと、面倒なことになるのが分かっている梶は冷たく言うが麻紀は答えた様子もなく笑顔を向けた。
「後日、うさぎちゃんにもう一度会えることを願うわ」
「行け」
「分かったわよ。子供相手に偉そうにするんじゃないわよ。あんた、怖がられてるわよ」
言いたいことを言うと、麻紀は細身の煙草を片手にすぐ後ろに停めてあったバンへ乗り込むと窓を開けた。
「優しくしてあげないと、逃げられちゃうわよ」
それだけ言うと、こちらの言葉は聞かない内に麻紀は車を動かし、最後に軽く手を上げるとそのまま立ち去ってしまう。疲れを感じながらも、梶は角を曲がってこちらへ歩いてくるうさぎに近付くと、鞄の一つを持ってやる。
「随分、重いな」
「すみません、教科書とか色々入っていて」
「謝る必要はない」
酷く困惑した顔を露わにした顔で見上げてくるうさぎに、どう声を掛けていいか分からず鞄を持ったまま車の後ろへ回るとトランクへ鞄を入れる。佐伯の言葉ですっかり萎縮しているのは分かっていたけれども、何を言えばいいのか分からない。ガキだということもあるが、麻紀と話しているのを見て気付いたが、どうやらうさぎは男が苦手らしいことも分かっただけに、余計にどういう扱いをすればいいのか分からない。
もう一つの鞄も受け取りトランクへ入れると、運転席に回り車へ乗り込む。助手席側に回ったうさぎはしばらく迷うような素振りを見せたけれども、遠慮がちに扉を開けた。
「あの」
「いいから乗れ」
早くこの場を立ち去れるのであれば、梶としては立ち去りたかった。いつラストがここへ戻って来るか分からない。出来ることであれば、顔を見られることは避けたかった。麻紀の優しくしろという言葉を思い出してはいたけれども、今更言葉を取り戻せるものでもない。
「早くしろ。学校に遅れることになるぞ」
その言葉で梶を見ていたうさぎは困惑顔のまま車へと乗り込んだ。既にエンジンを掛けてあった車に乗り込むとシートベルトをつけながらもドライブにギアを入れ車を走らせる。幾つかの角を曲がったところで、助手席に座るうさぎが口を開いた。
「あの、迷惑掛けてすみません」
「それはお互い様だ。私は君のパソコンを壊したしな」
少し冗談めいた口調で返せば、うさぎは困ったような顔を見せたけれども少しだけ笑う。
「でも、部屋があの惨状だと親が見た時、説明しろと言われますし現状復帰できたのは本当に助かってます。ありがとうございます」
別に礼を言われるようなことはしていない。むしろ、巻き込んでしまったという意識の方が強いだけに、返す言葉が無い。正直、梶にとってルナスペースへのハッキングについてはもうどうでもいいことだった。ファイルはダミーであることは分かっている、尚かつルナスペースとの契約は既に切れているのだから今更ハッキングされたところで自分が泥を被る訳でもない。
それに明らかにうさぎはハッキングを楽しむだけで無害とは言えないが、落としたファイルの管理もしっかりしているし、企業側、セキュリティー会社としてはほぼ無害とも言ってもいい。だが、放置しておけないのはラストのような存在だ。手に入れたファイルを盾に企業を脅迫してくるような輩が一番性質が悪い。だから、梶としてはうさぎをおとりにしてラストを追っていた、というのが実際だった。
ラストの執着、うさぎの年齢、そして何よりもうさぎの腕が何よりも誤算だった。そして、梶自身も今後どうするべきか考えあぐねている部分もある。うさぎは既に窓の外へと視線を向けていてその表情は見えない。だが、一応年長者として警告だけはしておく。
「パソコンを取り上げられたくなければ、ハッキングはもう止めておくべきだな」
警告はしたがうさぎからの返事は無い。その素直さに苦笑しつつも今後を考える。とにもかくにも、うさぎに普通の生活を過ごさせるためにはラストを捕まえるのが条件必須でもあった。ラストのハッカーの腕はそれなりのもので、捕まえようとすればかなり苦戦を強いられるに違いない。先日も、奴のはったウィルスに危うく引っかかるところだったのだ。
うさぎとラスト、どちらも凄腕のハッカーではあるが、考え方はまるで白と黒だ。うさぎはただ楽しむだけ、ラストは金を手に入れるため、ハッキングする理由が明確に違うだけに危険度は高かった。しかも、うさぎ自身、どれだけの立場にあるのか理解していないのも問題だった。実際、うさぎが家から逃げ出していなければ、梶たちとこうして合流することは一生叶わなかったに違いない。そういう意味合いではうさぎの本能というのも馬鹿に出来るものでは無いのかもしれないが、所詮は子供だ。
グレーとして活動している時にも判断力の甘さは垣間見えたし、ただ本人は楽しんでいるだけということは伝わって来た。けれども、誰しもが楽しんでハッカーをしている訳では無い。梶自身のように仕事と趣味を両立している人間もいれば、岡嶋たちのように自分たちの仕事を有利にしようとする人間もいる。勿論、ラストのように企業恐喝を行う人間もいれば、同業他社のデータを手に入れるために動く人間も少なくない。
けれども、うさぎには欲が無さ過ぎるのだ。だからこそ、グレーの名前が大きくなればなるほど、自分を有利に進めたがる人間がうさぎを懐柔しようと動き出す。そして、自分もその中の一人だと梶は自覚していた。実際に、うさぎが未成年でなければ、昨日の段階で自社への入社をハッキングを盾に詰め寄っていたに違いない。
だが、問題なのはグレーが高校生で、尚かつ女の子ということにあった。うさぎ自身も身元に対して随分と慎重になっていることはハッキングしようとしていた梶も分かった。けれども、どこで足がつくか分からないのがハッキングだ。実際に、ハッキングの仕方一つ見ていても、これは誰がやったと分かるものも多い。人によってハッキングの仕方は異なるだけに、差異が出やすく見る人間が見れば大体の見当はつけられる。グレーとしての名前が既に有名になりつつあるだけに、そろそろうさぎを捕まえるためにネットに無数の罠を張り出す人間も多くなるに違いない。身元が分かればうさぎのような子供であれば、食い潰されるだろうことは目に見えて分かっている。
ちらりと視線を向ければうさぎは自分の腕をさすっていて、その腕には鳥肌が立っている。
「違います。あの、気にしないで下さい」
そう言われても寒そうに見えるだけに車内の正面に設置されたパネルに梶は指をのばすとクーラーを二度ほど設定を下げると、若干顔色の悪いうさぎを横目で伺う。バタバタとしていたせいですっかり忘れていたが、微熱気味だったことを思い出すと、信号で止まったタイミングで手を伸ばす。途端に身を竦めるうさぎのもの馴れなさに苦笑しつつも、梶は目を瞑るうさぎの額に掌を当てた。どうやら熱は下がりきっていなかったらしく、掌に伝わってくる熱は梶の手よりも温かなものだった。
「微熱があるな。学校はどうする。無理する必要も無いと思うが」
「今日ラストを追い込む訳じゃないんですよね」
確認するようにように伺ううさぎに頷いて見せる。どうせ貴美に頼んだからには、あいつのことだからどうにかして一週間、うさぎ自身を預かることを両親に了承させるに違いない。だとすれば、ラスト相手であればもう少し下調べしてから追い込むことにしたい。下手打って返り討ちに合うのは梶にはごめんだった。
「それなら学校に行きます。一応、期末試験前ですし、昨日も早退してしまったので」
期末試験という言葉に梶は懐かしさを覚えつつも、後半の方が気になった。
「元々、具合が悪かったのか」
「いえ、ノートパソコンが早く欲しくて」
そういえば、うさぎの持っていたパソコンはまだ出来立てだと言っていた。それは即ち、昨日学校を早退してパソコンを組み立ててネットに繋いだということなのだろう。ここは関心するべきなのか、呆れるべきなのか、苦笑してみたもののそのどれもが違う。よく、昨日の時点でそこまでの判断をしたものだ、ということだった。余り危機意識は無さそうだと思っていたが、本能的に怖さを知っているのだとしたら面白い。
口元に薄く笑みを浮かびそうになるのを引き締めたところで、信号が変わる。梶は前を見据えたまま車を走らせる。ラジオから流れてくるのは軽快なワルツは、いつもなら顔を顰めてしまうところだったが、今はさほどの不快さも感じずに聞き流した。
* * *
家へ戻れば、リビングに置いてあるパソコンを前に岡嶋が「お帰りなさい」と声を掛けてきた。家に他人がいるという状況は数年無かっただけに、この数日岡嶋の言うお帰りに微妙な気持ちになる。不快とまではいかないが、落ち着かない気分にさせられる。
「あぁ、戻った。どうなった」
「さっぱり。っていうか、ラストネットに繋いでないんじゃないかな。うさぎちゃんの携帯の記録を見た形跡まではあるけど、それ以上はどうにも」
「そうか、少し私も見てみよう」
うさぎの荷物が詰まった鞄をソファ横の床に置くと、梶はつけたままになっていたネクタイを指先で引き抜くと、脱いだジャケットと共にソファへと投げ捨てた。岡嶋はパソコン前から立ち上がると、梶の横を抜けて扉のところで所在なげに立つうさぎの前に立った。
「お帰り」
どう答えていいのか分からないのか、しばらく逡巡した後に「ただ今戻りました」と年頃らしくない答えをするうさぎに少しだけ笑みが浮かぶ。岡嶋たちの会話を聞きながらもパソコンの前へと座ると、そのままキーボードに指を乗せる。
「あの、岡嶋さんに聞きたいことが」
「何でも聞いてー」
「あのサンダーの名前、梁瀬さんと言うんですよね」
「そうだよ。それがどうかしたの?」
機嫌良さそうだった岡嶋の声のトーンが落ちるのは聞いていても分かった。どうして、いきなりそんな質問が飛び出したのか不思議に思い、乗せたばかりの指をキーボードから離すと椅子ごと振り返る。
「あ、でも、入院してるんですよね。すみません、気のせいかもしれません」
「気になるなー、そういう言い方。説明してくれると助かるけど」
「いえ、大した話しじゃないんですけど、うちの学校に梁瀬先輩という三年の先輩がいるんですけれども、その人が私を訪ねてきたって言うからこんな時だし何か関係があるのかと思って」
梁瀬という名前は珍しくもないが、多くいる名前でも無い。不審に思っていれば、岡嶋はすぐに分かったらしく軽く握った拳で掌を叩いた。
「あー、弟、確かうさぎちゃんと同じ高校だ。確か三年だよ。この間会った時にどこ受験するかブツブツ言ってたから。あー、でも、多分今回の件とは別物だよ。光輝は梁瀬がハッキングしてることなんて知らないし、ただのパソオタだと思ってるくらいだから」
岡嶋の言葉で納得するとそれ以上追求するつもりも会話に参加するつもりもなく、キーボードの上で指を走らせる。
とにかく梶としてはラストの動きだけは掴んでおきたかった。果たしてラストはこれからどうするつもりだろうか。少なくとも、ラストの手に例のソフトは渡っていないのだからまだうさぎに接触してくる可能性は高い。だとすれば、今度はどこから仕掛けてくるつもりなのか。それともうさぎの家でも張るつもりなのか。少なくとも、先ほどまで家の周りに不審な車や人影は見えなかった。だとすれば、今頃うさぎの家から持って帰ったハードディスクの中身と格闘中なのだろうか。
所詮、ネットというものは相手がネットワークの中へ入ってこなければ探しようもない。痕跡を辿ることは出来ても、相手のリアルを知ることは出来ない。
「梶さーん、うさぎちゃんが梶さんのパソコン見たいってさ」
振り返れば、すぐ後ろには岡嶋が立っていて、その背後から覗き込むようにしてうさぎがパソコンの画面を凝視している。その真剣な眼差しに苦笑しつつも少しずれて、パソコンの画面を見せてやる。
「これ、梶さんが作ったんですか?」
モニターの右側を塞ぐソフトの画面を指差すうさぎの目は真剣なもので、梶は口の端を上げた。恐怖心よりも興味が上回ったらしいうさぎに、梶は面倒に思うこともなく口を開いた。
「いや、うちの社のソフトだ。原案は私が出したが、基本的に作ったのは社のプログラム部門の連中だ」
「画面、奇麗ですね。分かりやすく纏まってるし、そっか、こうすれば見やすいのか」
見ているのはただのソフトだというのにも関わらず、奇麗という言葉が出てくるうさぎの言葉はちぐはぐさを感じた。けれども、子供ならではの華美な言葉に苦笑するしかない。奇麗なんて言葉を使ったのは、梶にとって遥か昔のことで今更口にする必要が無いものでもあった。たかがソフトを見て奇麗だと感じたのはいつだったのか、もう思い出すことも出来ない。
「このソフトで大概のものは追える。勿論、追うためにハッキングをすることもあるが、基本的に社内に置いてあるマシンでは操作出来ないようにしてある。むしろ、私としては君が作ったソフトに興味があるんだが」
「ソースは無いですけど、ソフトならパソコンに」
「触っても?」
「構わないです。待ってて下さい」
それだけ言うと、ソファに置きっぱなしになっていた鞄の中からノートパソコンを取り出すと、電源を入れてうさぎはパソコンを立ち上げる。それを無言のまま岡嶋と二人見ていれば、ログイン画面でやけに長いパスワードを設定しているらしく、キーボードを打つ音が聞こえる。しばらくするとパソコンは立ち上がり、うさぎはタッチパネルで操作すると一つのソフトを立ち上げた。画面いっぱいに広がったのはパステルカラーのソフトで、右上のアイコンはファンシーなうさぎが動いているのが見える。その作りに梶はつい苦笑してしまったが、隣で見ていた岡嶋も同じだったらしく苦笑いをしている。
「どうぞ」
ソフトが立ち上がったのを確認してからノートパソコンを差し出され、それを素直に受け取るとソファへと腰掛けてからテーブルにパソコンを置いた。
「君もあれを触りたいなら触ってみればいい。ネットの接続は切ってからにしてくれ。でないと、社の方にも繋がっているので下手な操作をすると社の人間が動く可能性もあるからな」
「はい、分かりました」
うさぎの返事を背中で聞きながら、梶はパステルカラーで纏められているソフトを操作していく。機能は随分と充実しているし、何よりも視認性がいい。うさぎは社のソフトを奇麗だと評したが、多くの機能がつきすぎてしまったために操作も悪く社員からの評判は余りよく無いことを梶も聞きかじっていた。その点、うさぎが作ったというソフトは素人に毛が生えた程度の人間でも扱えるようになっている。一通り機能を見て納得し梶はうさぎへと視線を向けたが、うさぎはまだパソコンに向かっていて色々な部分を弄っている。
「いい出来だが、これは毎回バージョンアップを繰り返しているのか」
梶が問いかければ、我に返ったように振り返ったうさぎはソファへと近づいてくると、もう一つのソフトを立ち上げた。
「これが書き換えソフトなんです。ここでプログラムを流し込むと防壁ソフト側で新たな防壁を展開させるようになってます」
「どのタイミングで流し込んでる」
「その場その場でプログラム組んで流してます。梶さんに一回目ハッキングされた時は、梶さんの方が早くて間に合いませんでした。でも、少しホッとしてたりもします」
その場でプログラムを組むということはそれ相応の技術を持っていることも分かる。けれども、気になったのは最後の言葉だった。ハッキングしたと梶が言った時には、うさぎは多少なりとも怒っていたように見えた。それを考えると、ホッとしたという言葉は余りにも真逆で問いかければ、うさぎは楽しそうに笑う。
「ルナスペースの追跡プログラムだと思ったんです。追跡プログラムがあの早さだったら、ちょっと怖いと思っていたので人間相手だったんでホッとしたんです」
今まで一度も見せなかった無邪気に笑みを浮かべるうさぎに、梶はらしくも無く心が温かくなるのを感じた。好きなもには素直に好きと現せるその無邪気さが、梶には眩しく思え、梶は視線を逸らすとごまかすようにパソコンへと目を向けた。
「追跡プログラムはそこまで優秀なものでは無い。あのプログラムについて君が思ったことを率直に聞かせて欲しい」
そんな言葉からお互いに情報交換となり、随分と話し込んでしまったところでストップを掛けたのは岡嶋の腕だった。
「梶さん、今日はそれくらいにしておいて下さい。まだうさぎちゃん熱だって下がりきってないんですし」
そう言った岡嶋の腕はうさぎの首もとに回されていて、ソファの背凭れを挟んでいるとはいえ背中から密着されたうさぎはこれでもかと顔を赤くしている。男に対して免疫が無いのが分かっているだけに、梶としては助け舟を出してやるしかない。ここで面倒を起こされてはまだ困る。何よりも、折角物怖じせずにうさぎが話し出したのだから、今は下手な刺激を与えないで欲しいところでもあった。
「岡嶋、離してやれ」
「えー、嫉妬ですか、梶さん」
「するか。困ってるだろ」
元々人懐っこい男だとは思っていたけれども、うさぎ相手にはどうにもやり過ぎな気がしてならない。
「うさぎちゃん、困ってる」
岡嶋が困ったような顔でうさぎを覗き込めば、うさぎは少し泣きそうな顔で、それでもしっかりと「困ってます」と答える。それに対して岡嶋は「仕方ないなぁ」などと言いつつ、ようやくうさぎに回していた腕を解くのかと思えば、一旦離れた右の手はうさぎの額にあてられた。
「まだ熱あるけど、学校行くの? 無理しない方がいいんじゃない?」
「一応、試験前なので行けるなら行っておかないといけないし、昨日も午後からはサボちゃったんで、これ作るのに」
そう言ってうさぎはノートパソコンを指差せば、納得した様子を見せた岡嶋はまだうさぎから離れる気配は無い。腕を回されているうさぎは既に見るからに一杯一杯の様子で、首筋から耳元まですっかり赤くなっている。
「あ、あの離して貰えませんか?」
「うーん、どうしようかなぁ。うさぎちゃんが一つ言うこと聞いてくれるなら」
「……何ですか?」
問いかけるうさぎの声が既に震えていて、見るに忍びない状況になってきている。
「岡嶋、離してやれ」
梶はもう一度強く言ったけれども、岡嶋は聞いていないふりをしてそのままうさぎに話しかける。
「帰ったらきちんと寝るって約束できる?」
岡嶋の言葉で、調子の悪いうさぎをすっかり徹夜させてしまったことに気付く。確かに急いではいたから、気遣うことは出来なかったけれども、学校へ行くのであれば少しでも眠らせるべきだったのかもしれない。
「もし、約束してくれないなら、今日は学校サボらせてベッドに引きずり込むよ。それで俺が添い寝するけど」
楽しそうに言う岡嶋に対してうさぎはしばらく固まってから、慌てたように首を横に振った。
「寝ます。一人で寝ますからこれ解いて下さい」
慌てた様子で岡嶋の腕を引き剥がそうとしたところで、ようやく岡嶋は腕を解いた。ようやく解放されたからか、うさぎは安堵ともとれる溜息を吐き出した。
「梶さんもそういう話しをしたいんであれば、また今度にしましょうよ。時間はあるんだし、大人として睡眠時間くらいは確保してあげないといけないでしょ」
確かに自分は徹夜仕事など慣れたものだったが、うさぎが同じであるとは限らない。しかも、緊張で気を張りつめすぎて熱を出している相手にするには大人げのないことだったと梶でも分かる。
「すまない」
「まぁ、分かればいいですけど。それに、うさぎちゃん、学校行くならそろそろ支度しないと、ここからだと時間掛かるよ」
岡嶋の言葉で腕時計を見たうさぎは慌ててソファから立ち上がると、慌ててソファの足下に置いてあった荷物を引き寄せた。
「あ、あの、洗面所借りてもいいですか? もう着替えないと」
「あぁ、それならそっちの部屋を使うといい。ゲストルームだから好きにしてくれて構わない」
梶が一つの扉を指差せば、岡嶋はうさぎの持っていた鞄を持ってあっさりと運んで行ってしまう。そして残されたうさぎは困ったように扉を見て、それから梶を見上げる。その顔はどうしようと言わんばかりの表情で、その分かりやすさに苦笑するしかない。
「ゲストルームだ。好きに使えばいい。勝手に出入りすることはしないと約束する」
それだけ言えば、うさぎは大きく頭を下げてから慌てたように手招きしている岡嶋に続いて部屋へと入っていった。けれども、少しすれば岡嶋は部屋から出て来て扉を閉めると、岡嶋はソファへと腰掛けてうさぎのパソコンを弄りだす。
「お前はやりすぎだ」
一応注意だけはしておこうとそれだけ言えば、岡嶋は全く気にした様子もなく梶へと振り返った。
「大丈夫ですよ。一応、反応は見てますから。別にうさぎちゃんの場合、誰かさんと違って本気で嫌がってる訳じゃないですから」
「お前、それはセクハラ親父並みだ」
呆れたように梶が言えば、岡嶋はうさぎには見せないだろう嫌な笑みを口の端に乗せる。
「誰かさんは近付くなオーラ出しまくりで他人に立ち入られたくないのバリバリですけど、うさぎちゃんは人との接触が慣れていないだけで基本的に人といるのが嫌いな訳じゃないですから」
「その誰かさんというのは私のことか」
「それ以外に聞こえました? だったら俺の言い方が悪かったですね、すみません」
笑顔で謝られても、上辺だけの謝罪ということは梶にも分かる。たかが学生だが、さすがに演劇畑の人間だけあって人間観察には余念がないらしい。確かに自分は他人に立ち入られることを良しとはしていない。こんなことが無ければ、他人を家に上げるようなことなどしなかったに違いない。
「まぁ、梶さんもうさぎちゃんに興味があるのは分かりますけど、もう少し柔らかくいかないと嫌われますよ。ただでさえ、人を寄せ付けないオーラ纏ってるのに、怖がられたら最悪ですよ。元々怖い顔してるんですから」
「余計なお世話だ」
「高校生じゃなければ、会社に引き込みたいくらい興味惹かれてるのに今更ですよ。恐がりな子を更に怖がらせたら本当に逃げられますからね」
岡嶋の言葉を聞かなかったことにしてパソコンへと向き直ると、再びネットに繋ぎ無言でモニターに向かう。興味が惹かれていたのは確かなことだし、岡嶋が言うように怖がられていることも梶自身も自覚もしていた。けれども、他人に指摘されるのは面白くないものだと思ったのは久しぶりのことで、モニターに淡く映る自分はやはり苦笑していた。