顔を拭いてうさぎがリビングへ戻れば梶と岡嶋は話しを止めて視線を向けてくる。
「どうする、家へ行くか?」
今更この二人に家を知られているのは分かっていても、うさぎとしてはやはり躊躇するものがある。それでも、安全性を考えれば選択肢は無かった。
「……はい」
「それなら岡嶋、留守番頼む。もしラストがいても深追いするな。もしラストの尻尾捕まえたらあいつが何を調べてたか探せる範囲で探せ」
「分かりました。やれやれ、人遣い荒いですね」
うさぎに対して肩を竦める岡嶋に少しだけ笑ってしまうと、岡嶋は優しい笑みを浮かべた。
「今日会ったばかりだから信用して、というには難しいかもしれないけど、きちんと守るから。俺も梶さんも」
まだ出会って数時間、けれどもうさぎは既に信用している。だから笑顔ではいと短く返事をすれば、岡嶋さんの腕が伸びてきてギュッと抱き締められて目が回りそうになる。うさぎよりもずっと背の高い岡嶋に抱き締められると、岡嶋の胸元へ顔を埋めることになってしまう。
「あ、あの……」
「岡嶋、それはセクハラだ」
「だって、うさぎちゃん可愛いだもん。あー、俺も妹欲しかったなー」
離す様子の無い岡嶋に抱き締められながら、うさぎとしてはどうしていいか分からない。男の人とこれだけ密着するのも初めてなだけに、回された腕とか胸元とかドキドキしてどうしようもない。
「は、離して下さい」
焦るうさぎに気付いていないのか気づいていないふりなのか、岡嶋は全く気にした様子もなくうさぎを抱き締めたままで益々焦る。
「岡嶋、離してやれ」
「あ、真っ赤だ。ごめん、力入れすぎた?」
ようやく離して貰い、うさぎは二歩、三歩と慌てて岡嶋から離れるとようやくホッと安堵の溜息を零した。
「そういう問題じゃない。そういうことは人を選べ」
「えー、選んでますよー。うさぎちゃんは可愛いから、だから梶さんには抱きつかないじゃないですか、可愛くないし」
「そういう問題じゃなくてだな……もういい、行くぞ」
視線だけで促されてうさぎは慌てて梶の後をついていく。玄関にはきちんとうさぎの靴も並べられて、ここへ運ばれてきた状況を思い出すと赤面する思いがする。
扉の外へ出れば、突き当たりの廊下からエレベーターまで一直線で、この階にはそれ以外住人がいないことを知る。それなのに、女の子一人でここにいるのは無謀なんじゃないかとうさぎは頭の片隅で思いながらエレベーターを待っている梶をチラリと見上げる。
前に見た時と変わらず、その顔は整っていて、岡嶋とは違う意味で格好いいと思う。視線に気付いたのか、慌ててうさぎは視線を逸らしたところで、頭上で笑う気配がした。けれども、顔を上げることも出来ず、エレベーターに乗り込む梶に続いてエレベーターへと乗り込んだ。
「君は……その、いつからネットに繋ぐようになった」
「十年くらい前になります」
「プログラムを組むようになったのは」
「物心つくようになった頃には簡単なものだったら作ってました。絵合わせゲームみたいなものとか」
うさぎとしては身辺調査をされているようで落ち着かない。けれども、隣に立つ梶は気にした様子は全く無いらしく、質問は続く。
「将来はプログラマーになりたいのか」
「まだ考えていません……あの」
「すまない、色々と聞きすぎた」
そう言われてしまうと、うさぎとしては問い掛けることも出来ない。だからこそ黙り込んでしまうと、エレベーターの中には沈黙が落ちる。その間にエレベーターは地下駐車場へ到着してしまい、梶に続いてうさぎもエレベーターから降りる。
地下にしては明るい照明のついた駐車場内には、うさぎにも分かるような高級車ばかりが並んでいて酷く場違いな気がしてくる。少し歩けば、梶は一つの車の前で立ち止まると車の鍵が開く音がする。
「乗れ」
言葉と同時に助手席の扉を開けられて、うさぎは車に乗り込む。車内は今まで乗ったどの車よりも足元に余裕があり、シートにはクッションが効いていて腰が落ち着かない。うさぎがソワソワとしている間に梶は助手席の扉を閉めると、運転席へと回り込みうさぎの横へと座った。エンジンを掛ける梶に、うさぎは思い切って声を掛ける。
「あの、ここでどこですか?」
「ここは赤坂だ。あぁ、説明していなかったな。セキュリティーがしっかりしているから、事が事だったんで岡嶋もしばらく泊り込むことになる。君の親は家にいないということだったが……明日はいるのか?」
こんなことまで説明していいのか、不安になりながらも今は信用するしかないとうさぎは覚悟を決めると口を開いた。
「分かりません。母は夜勤ですし、父は仕事によって家を空けることもあります」
「夏休みはいつからだ」
「一週間後からです」
そこから梶は黙ってしまい、うさぎも口を閉ざす。何を考えているのか分からないけれども、梶の眉間に皺が寄っていて機嫌が悪いようにも見える。だからこそ、うさぎは外の景色へ視線を向ければ、窓の外には数少なくなった明かりがどんどん後ろに流れて行くばかりでこれといって見るものも無い。
「今の状況は怖いか?」
唐突に問い掛けられて、梶の方へと顔を向けたけれども、梶は前を見るばかりでこちらを見ていない。
「正直、怖いです」
それに対して梶からの反応は無く、再び車内は沈黙に包まれる。うさぎとはして会話も無く、男の人と二人きりという状況にどうも慣れなくて居心地が悪い。また、梶の顔が整っているだけに余計に落ち着かない。
視線を落とした時に見た時計は既に四時半を回ろうとしていて、空は明るみ始めている。ビルの合間から明るい日が見えていて、ただぼんやりとそれを眺めていれば、再び梶に声を掛けられる。
「学校は休めるか」
「親に見つかると拙いですけど、一応休めます」
「なら、危険だが今日中にラストを追い込む。奴の正体をはっきりさせて明日中に決着をつけよう。どう考えても、君をしばらく預かるには言い訳が見つからないのでな。せめて誰か女性がいれば……」
梶は言葉途中で途切れさせると、しばし考える様子を見せると車を路肩へと止めた。おもむろに携帯電話を取り出すと、唐突に電話を掛け始める。
「もしもし、私だ。……あぁ……そうだ……あぁ、見つけた。……いや、女の子だった、高校生の。……あぁ、それでお前から連絡出来ないか。何か理由をつけて預かるとか何とか。……いや、こちらも追うが今日中に捕まえられるか分からない……あぁ、そうしてくれ。……明日、いや、今日の夜でも……あぁ」
電話している梶の邪魔にならないように声を立てることもなく、うさぎはまんじりとした気分でただ待つ。梶の言葉の端々から、うさぎは自分のことが話題になっていることが分かるけれども電話中の相手に話し掛けるようなことはしない。時間にして一分ほどだっただろうか、梶は電話を置くと苦々しげな顔をしてこちらへと顔を向けた。
「明日から君はしばらく私の家に泊まりだ。少なくとも自宅にいるより安全だ」
「あの……?」
勝手に決められていく状況に困惑を隠すこともせずうさぎが梶を見れば、携帯をポケットへ入れた梶がこちらへと真っ直ぐに向けられる。整った顔で正面から見つめられると、落ち着いてくれば顔も赤くなる。
「岡嶋ではないが信用されるだけのことはまだしていない。だが、君の安全を守るためだ。学校への送り迎えも私がする。君の両親には私の姉が連絡を入れる。学校の帰りに姉には会わせよう……システムセキュリティーの社長だ」
意外なことを聞いた気がしてうさぎは驚きつつ梶を見つめれば、梶の硬質ともいえる表情が微笑みへと変化する。それはうさぎの顔を更に赤くすることになったが、慌てて俯くと小さく返事をすれば梶は気にした様子も無く手を伸ばしてくるとうさぎの頭を撫でる。それは泣いていた時撫でていた、大きな手だとその優しい手つきで分かる。
「いい子だ」
子ども扱いされているとはうさぎにも分かっていたし、反発心が無いと言えば嘘になる。それでも大きな手が文句を言えば離れることが分かっていて何かを言うことは躊躇われた。単純に梶の撫でる掌がうさぎには気持ちよくて、うさぎの口元が緩む。
不意に始まった行為は一瞬手が止まり、大きな手が離れることで終わってしまう。少し名残惜しい気持ちで梶を見上げれば、そこに笑顔は既に無く目が合った瞬間に目をそらされてしまった。不思議に思いつつ、梶を見ていたけれどもその顔がこちらへ向くことは無い。
「ラストを追い詰める時には君にも手伝って貰う一週間以内に全てケリをつける。ルナスペースの件についてもだ」
先ほどよりも冷たさを含む声に、うさぎは先ほどの行為は夢だったんじゃないかとすら思う。それでもはいとだけ返事をすれば、ゆっくりと車は走り出す。車内の空気が変化したのはうさぎの気のせいなのか、分からないからこそ梶には気付かれないように小さく溜息をついた。
高速を使い三十分ほど走ればうさぎにも見慣れた風景が徐々に広がり出す。それから家までは五分と掛からない。けれども、梶は家から大分離れた所へ車を停めると、エンジンを掛けたまま車を降りる。
「まだ降りるな。少し様子を見てくる」
それだけ言いとうさぎを車へ置いたまま扉を閉めてしまう。梶の警戒した固い声に、うさぎは今更ながら自分の立場を知る。自分の立場が危険なことは分かっていたけれども、まさかここまで警戒しないといけないのかと思うと気分も重くなる。他人の車に一人という状況が落ち着かずうさぎは一人でソワソワしていたけれども、窓の外に走ってくる梶の姿を見て似合わないなどと思いながらその姿を見ていた。けれども、勢いよく扉が開けられ、梶の手で腕を捕まれる。
「君の部屋はどこだ」
「二階の道路側です」
「一緒に来てくれ、窓が開いてる」
梶の言葉でいやがおうにも緊張感は高まり、うさぎはぎこちないながらも車を降りた。角を二つ曲がり自宅が見えると、風に自室のカーテンが揺れるのが見える。
「あ……あれは、家を出る時に窓を閉め忘れて」
「それだけでは無さそうだがな……」
言われた言葉の意味が分からずポケットから鍵を開ければ、うさぎを押しのけて梶が先に玄関へ入る。靴を脱ぎ捨てると急いで二階へと走る梶を、うさぎも慌てて追いかける。二階へ上がると梶はうさぎの部屋である扉の前に立ち、扉に耳をあてて部屋の中の様子を伺っている。
近付こうとしたうさぎを梶は手で留めると、ゆっくりと扉を開けた。扉の隙間からゆっくりと風が流れてきて、うさぎの足元にもまとわりついて離れていく。扉を開けた梶は溜息をついてからうさぎへ視線を向けると、手で来いと指示していてうさぎも自室へと近付き部屋を覗き込む。
そこは、泥棒でも入ったかのごとく、引き出しという引き出しが全て開けられ、床一面にはフロッピーディスクやMO、CD、DVDなどがばら撒かれていた。
「……警察に」
うさぎは部屋に入って電話を掴みかけたところで、梶の手がうさぎの手を掴みそれを遮る。
「言うな。言えばハッキングも明るみになる」
「でも、こんな……」
改めて部屋の惨状へとうさぎは目を向けると、床にばらまかれた物の他にもデスクトップパソコンも壊されていて一度泣いたために涙もろくなった目に涙が浮かんでくる。結構雑な扱いはしていたものの、それでも大切な片腕だった。パソコンは投げられたのかケースは歪み、二台ともみるも無残な姿になっている。モニターは何かで殴ったのか、液晶画面が割れて壊れていた。
「ルナスペースのデータはどこに」
急かすように言われて、うさぎは部屋の中へ入ると引き出された床に投げ捨てられている引き出しの一つを選ぶと裏返しにする。二重になっている底板を外すと、そこにはCDが二枚挟まれていた。
「ここに」
うさぎは一枚のCDを近付いてきた梶へと手渡せば、明らかにホッとした顔をした梶がいる。けれども、この惨状はどうにもならない。
「ここに盗まれて困るデータは」
「ありません。グレーのログはここにありますし……」
ふと気付いてうさぎは慌てて辺りを見回すけれども、探している物は見つからない。慌てるうさぎに気付いたのか、梶が訝しげな顔になる。
「どうした」
「プログラム、防壁プログラムがどこにも」
確かにうさぎは作ったプログラムをCDに焼いて、それを机の引き出しに入れておいた。分かり易いようにケースも滅多に使わない紫色のものにしていたあのケースが見当たらない。あれは一からうさぎが自作したもので、ここ最近では一番思い入れのあるものだった。プログラム自体は梶の家に置いてきたノートパソコンにも入っているけれども、プログラムのソースはあれ一枚しかない。
「……盗まれたか」
「多分……どうしよう」
どうしようと呟いたものの、うさぎにもどうしようもないことは分かっていた。あれがネットに流出すれば、それなりにネットやパソコンのことが分かっている人間にとってハッキングは簡単なことになる。自分しか使わないものだからと、使い勝手はかなり利便性の高いものになっている。ハッキングのソフトでは無いけれども、ハッキングをする人間にとって付加価値の高いプログラムだということも分かっている。簡単な追跡であれば逃れることが出来るのだから、手に入れた人間がどのようにして使うのかによってより利便性が上がるのも確かだった。
もし、あれがネットに流れたら、自分は捕まるだろうか。防御ソフトと言えば聞えはいいが、所詮、ハッキング助長ソフトなのだから問題になるに違いない。足元が途端に覚束なくなり、膝から力が抜けて床に座り込む直前、伸びてきた腕がうさぎの身体を支える。ふわりと大人の香りに包まれて、うさぎはゆっくりと顔を上げた。
「今は泣くな。泣いてる場合じゃない」
冷たいとも言える声で言われ、うさぎは流れそうな涙をどうにか耐える。その間にも梶はうさぎを抱えたまま携帯電話を手にすると電話を始める。近くにあるパソコンケースの型番を伝える声が触れる背中から伝わってくる。
落ち着いて、どうするべきか考えるべきだと思うのに、考えが上手くまとまらないのは体勢のせいもあるに違いない。梶が電話を切る頃にはうさぎの涙は引き、顔を見てから梶は腕を放す。
「すまん、故意ではない」
それが抱き締められていたことについてだとうさぎは分かったけれども、返事は出来ず床に散らばるCDなどを拾い始める。
「……これからどうすれば」
「今からうちの人間が同じ型番のパソコンケースを持ってくる。親が帰って来るまでに部屋を元通りに戻すぞ」
警察に言わないのであれば、この惨状をそのままにしておく訳にはいかないことはうさぎにも分かる。けれども、荒れた部屋を見るとうさぎにとってそれは気の遠くなる作業に思えた。
「必要な物は持ち出せ。それ以外は今から来る人間に任せろ」
他に誰か来るというのだろうか。分からずにうさぎは梶を見たけれども、梶は床に散らばるCDやらを拾い始めている。
「袋はあるか」
問い掛けられて慌てて開いたままのクローゼットからショップの紙袋を何枚か取り出すと、差し出された手にそれを渡す。梶はそれ以上言うことは無く、黙々と片付け初めてしまう。うさぎ自身の物だけに他人にやらせておく訳にもいかず、手にしていた紙袋の中へCDなどを詰め込んでいく。しばらく作業を続けていれば静かな部屋に音楽が流れ出す。
授業中にも聞いたことのあるその曲は、うさぎも知っているものだった。幻想交響曲――好きになった人が手に入らず、薬で楽園と地獄を見る男を描いた曲。その中でも男が幸せに好きな人と踊るワルツの曲は、余り有名ではない。中でも有名な曲はテレビのコマーシャルなどでも使われていたから知っている人も多いが、この曲は余り知られていない。軽快で優雅なワルツだったこともあり、うさぎも記憶に残っている。
梶はポケットから携帯を取り出すと、そのまま部屋を出て行ってしまう。一人部屋に残されたうさぎは、梶の背中を見送ってしまったけれども、そのままぼんやりしている訳にもいかず、再び床に散らばる物を袋へ片付けていく。
片付けながらも先ほどの着メロがうさぎの頭に優しく響いている。梶のような男の着メロにするには、余り似合わないような気がした。どちらかと言えば、ただの呼び出し音の方が余程似合っている気がする。
考えながらも手は動いていて、梶も手伝っていてくれたこともあり床に散らばるCD類は紙袋四つの全て収まった。投げ出された引き出しを机に全て入れたところで、階段を上ってくる足音が聞えてきてうさぎが振り返れば、そこには梶と派手な出で立ちをした女の人が立っていた。
「あらー、梶、これはちょっと修繕必要よ」
「分かってる、だからお前を頼んだ」
「パソコンは無理よ」
「あぁ、そっちは別口に頼んだ。しばらくすれば来るだろう」
会話を交わしながらも彼女は部屋に入ってきたけれども、すぐに振り返り梶の胸元に手をあてた。
「あんたはしばらく外に出てなさい。あとは私がやるから」
「外、か?」
「女の子の部屋にズカズカ入るもんじゃないわよ。全く気が利かない男ね」
梶は訝しげな顔をしたが、あるところに視線を向けると苦く笑う。
「気付かなかった。念のため廊下にいる」
梶が視線を向けた場所にうさぎも視線を向ければ、開け放たれたままのクローゼットも開かれていて、そこからは下着類が覗いている。慌てて駆け寄り引き出しを閉めると、うさぎは部屋の入り口に立つ女性へと視線を向けた。顔が赤い自覚はあるけど、何も言えずにいれば近付いてきた女性は目の前に立つ。
派手に思えるのは髪の色が茶色というよりも金髪に近く、化粧をされた顔立ちは万人が美人と答えるに違いない。赤いキャミソールに半そでのシャツベストを組み合わせていて、袖から伸びる腕は細く綺麗だった。短い黒のスカートから覗く足は黒の網タイツに包まれていて、うさぎからみても大人の女性という色気が漂っている。
「そんな警戒しなくても大丈夫よ。私は轟麻紀、何でも屋。今は梶に頼まれて部屋の惨状を元に戻すように言われたんだけど……親は部屋に入ったりする?」
「多分、用も無く入って来ることは無いと思います」
「そう、なら時間も無いから見た目だけでも片付けましょう。あなたは……名前は?」
「うさぎ、桜庭うさぎです」
「そう、うさぎちゃん。じゃあ、うさぎちゃんはそこのクローゼットが閉まるように努力してみて。私はあっちを片付けるから」
そう言って轟が指差した先にはタンスがあり、そこへパソコンを投げつけたのか派手にへこんでいた。そして、開いた引き出しからは幾つもの洋服がぶら下がっていて、見るも無残なことになっている。その惨状を見て、うさぎは元に戻せるのか不安になる。
「はい、手を動かしてね。六時になれば近所の住人も起きてしまうから、それまでに私はここを出て行かないとならないんだから」
指摘されて慌ててクローゼットへ向かうと、クローゼット前に投げ出されている下着類を慌てて引き出しの中へしまうと、ごちゃごちゃになっているクローゼットに荷物を詰め込んでいく。とにかく見栄えさえ普通になればいいと言っていたのだから、うさぎは余り手間を掛けることなくクローゼットから引き出された物をひたすらクローゼットに入れる。どちらにせよ、後日片付ければいいのだし、うさぎにとって大切な物は余りここには無い。
だからこそ全てを詰め込んで無理矢理クローゼットを閉めてからうさぎは一息ついて振り返る。そこには真剣な目をした轟がタンスに大判の木目シールを張っているところだった。
「あの」
声を掛けたけれども轟は振り返ることもせず、パソコンを指差す。
「中身、必要なら取り出しておきなさい。あれも片付けるわよ」
言われるままにうさぎはパソコンの傍らに跪くと、取り出すべき中身が無いことに気付く。どうやらハードディスクもしっかりと盗まれていたらしい。こうも大切な物ばかりを盗まれると、うさぎとしては溜息しか出てこない。中身もひしゃげているから使える部品も無さそうで、どうしようもなくうさぎは再び立ち上がると轟はうさぎの気配に気付いたらしい。
「いらないの?」
「使える物が無いんです。諦めました」
「そう、それなら机の上を片付けられる?」
問い掛けられて改めて机を見れば、液晶からは黒い液体が零れ落ち机の上に広がっている。元々机の上に物は多くない。作業の邪魔になることもあってモニターとキーボード、そしてマウスくらいしか乗せていなかった。机の横にある棚の上からティッシュを何枚も取り出すと、黒い液体をティッシュに吸わせていく。最後にティッシュで拭ってはみたものの、黒い汚れはきれいに落ちることは無く、木目の机に黒い染みが目立つ。
「ちょといい、うさぎちゃん」
いつの間にか隣に立つ轟が手にしていた物でスプレーすると、白い雑巾で机を拭う。何度か繰り返していくと、机の染みはかなり薄くなり見た目には分からなくなってしまう。
「有難うございます」
「あら、いい子ね。タンスも直してみたんだけど、少し見てくれる」
言われるままにタンスへと視線を向ければ、もう既にタンスのへこみは見えない。
「凄いですね。前と変わらないです」
「でしょー。でもね、へこんだところは発泡スチロールで補修しただけだからいずれ壊れるわ。近い内に買い替えを薦めるわ」
「買い替え……ですか」
そう言われてもうさぎにタンスを買い換えるだけのお金は無い。けれども、表沙汰にしないということは、親にみつからないようにタンスを買い換えるしかない。
……夏休みはアルバイトするしかないか。
そんなことを考えながら轟に分かりましたと答えると、轟はあちらこちらを見て周り、時折傷ついた部分を色々な工具で補修していく。
それを横目で見ながら、うさぎは床に転がるキーボードを広い机の上へと置いた。壊れたモニターにキーボードというのはどこかシュールで、苦く笑うしかない。
「どうだ」
梶の声でうさぎは振り返れば、梶の視線は轟へと向けられている。
「まぁ、大体オッケーかな。床も掃除機掛けたいところだけど、その時間は無いでしょ。あとはパソコンだけど」
「それくらいは運ぶ」
「じゃあ、早く運んでちょうだい。そろそろ人目につくわ。うさぎちゃんはいらないっていうからこっちで処分するわ」
話しをしていた梶がうさぎへと顔を向ける。その視線はいいのかと問い掛けられているようで、一つ頷いて見せる。梶は何か言うこともなくうさぎの隣まで来ると、机の上に置いてある壊れたモニターを持ち上げ、パソコンの上に重ねるとそれを軽々と持ち上げる。けれども、幾ら何でもうさぎの物を他人任せにして放っておくことも出来ない。
「すみません、手伝います」
「必要無い。今、下にパソコン一式が届いたと連絡があった。運び込ませるからどこに置くのか指示してくれ」
別に強く言われた訳でもないけれども、ピシャリと跳ね除けられたような気がしてうさぎの言葉は小さくなる。
「分かりました」
そんなうさぎに梶は何かを言いかけたけれども、それ以上何も言うことなくパソコン類を抱えたまま階下へと降りていく。それを見送ってから轟へと視線を向ければ、小さな箒で床を掃いている。掃除機が使えないから箒ということなのだろう。
「あの、手伝うことありますか?」
「こっちは大丈夫よ。うさぎちゃんはあっち」
轟の指差す先へうさぎが目を向ければ階段を上ってくる複数の足音が聞えてきて、スーツを着た見慣れぬ男と梶が入ってきた。その手にはパソコンやモニターがあり、それはうさぎが使っていたものと全く同じものだった。
「これ」
「外見だけで中身は無い。見た目が揃っていれば不審には思われないだろ」
それは確かだとうさぎも分かるけれども、どうやってこの時間から梶が手に入れたのか考えると梶という人が分からなくなる。システムセキュリティーの社員だと言ったけれども、姉が社長という梶というこの人は一体何者なんだろう。
「どちらへ置きますか」
梶の隣に立つ無表情な男に問い掛けられ、慌ててうさぎは机の上を指差す。
「あちらにお願いします」
「分かりました」
静かで感情の無い声だったけれども、持っていたパソコンを丁寧に置くとキーボードとマウスをパソコン本体へと繋ぐ。その作業は丁寧なもので、その表情とちぐはぐにうさぎには映る。けれども、それを終えると男はうさぎの前へ立ち冷たい視線で自分を見下ろす。その視線に逃げたくなるけれども、男の声が逃がさない。
「自業自得ですよ。遊びでハッキングなんて行うからこういう怖い目に合うんです。親の庇護が無いと何も出来ない子供の分際で」
「佐伯」
冷たい声に梶の声が強く被り、うさぎにもその男が佐伯という名前だと分かる。
「子供だというのであれば、八つ当たりは見苦しい。言いたいことがあるなら俺に言えばいい」
部屋に張り詰める空気があって、うさぎは動けない。他人に冷たく言い放たれる経験も無かったから怖かったし、何よりも目の前で梶と佐伯が睨み合っている姿も怖かった。
「……失礼します」
佐伯は梶に一礼すると、それ以上は何も言うことなく部屋を出て行ってしまう。途端にうさぎの強張っていた身体から力が抜ける。子供と言われたらうさぎは確かに子供で、まだ、親の庇護がないと何も出来ない。それを悔しいと思ったことは今の今まで一度も無かったけれども、佐伯の言葉で初めて大人ではない自分を悔しく思う。
「あいつが言うことは気にするな、ただの八つ当たりだ。私が姉を頼ったから面白くないんだ」
言いながら梶は持っていたパソコンを机に置くと、パソコンの上に置いてあったモニターも定位置へ置きコードを手早く繋げていく。
「あいつは姉の秘書で、姉からの頼みと言えども私に使われたことが面白くないだけだ。君が気にする必要は無い」
そう言われても、佐伯が言ったことはうさぎにとって正論で、怖いこともあったけれども言い返すことは出来なかった。それが悔しいと思うのは、間違えているのか分からない。
「でも、迷惑は掛けてます。すみません」
「もう謝るな。君は荷物を用意しろ。一週間分だ」
言われるままに机から離れると、クローゼットから大きなバッグを取り出すと制服や教科書を詰め込んでいく。
「さてと、私は終わったから帰るわよ」
「あぁ、助かった」
「そう思うなら下まで送りなさいよ」
二人の会話を背後で聞きながらうさぎは荷物をひたすら詰める。正直、教科書だけでもかなりの量でうんざりした気分になるけれども、優等生で通っているうさぎにとっては必要なもので置いていく訳にはいかない。
背後で二人の気配が消え、部屋に一人残されるとうさぎは大きな溜息をついた。鞄は一つでは足りないらしく、ノロノロと立ち上がるとクローゼットからもう一つのボストンバッグを取り出した。