家に戻ったうさぎがまず最初にしたことは、鞄から制服を取り出しハンガーに掛けることだった。ハンガーに掛けた制服を上から下まで眺めたけど、思ったよりも皺は無い。これならアイロンを掛ける必要も無いと判断すると、小さく溜息をついた。
学校をサボったり、ハッキングしたりしているが、うさぎは一応学校では優等生の部類に入る。それなりの成績を保っていないと親が煩いということもあったけれども、うさぎにとっても優等生という仮面は隠れ蓑に丁度良かったのもある。元々高校も進学校というほどレベルの高い学校ではないので、うさぎとしてはそこそこ勉強していれば成績は上位に食い込めた。
次にうさぎが取り出したのは携帯。チカチカと着信を知らせるランプが点滅していて、開いて見ればメールが三通きていた。開いてみれば、うさぎの友人である利奈と紗枝からのものだった。
『Title:彼氏と楽しんでる?
今日のサボり、彼氏に会うためでしょ。
今頃、お楽しみ中?
いいなー、いいなー。
彼氏、いいなー!!
今度紹介して!』
どうにもこうにも、利奈には何度彼氏はいないと言っても信じて貰えないから困る。しかも、今日なんて買い物に行くと言っていたにも関わらずこのメールだから頭が痛い。うさぎにとって利奈は一緒にいて楽しい友人でもあったけれども、事ある毎に男の話しにスライドするのには辟易していた。それでも、利奈の明るさにうさぎは幾度となく助けられてる。
ネットにはグレーという逃げ場所があって、リアルでは利奈と紗枝、この友人2人という逃げ場所があった。今でこそ快適だと思うこの環境も、うさぎにとってはグレーと、2人の友人という立場があるから快適だと思える。どちらも無ければ、今の自分は寂しくて仕方なかったに違いない。
けれども、今、グレーという立場は酷く怪しいもので、今後どうなるのかうさぎ自身にも分からなかった。だからといってこんな半端な状態でグレーという立場を放り投げるつもりは無く、鞄からノートパソコンを取り出すと床を這うケーブルの先にノートパソコンを繋げる。
デスクトップパソコンを2台立ち上げると、再び携帯を開いて今度は紗枝からのメールを開く。
『Tilte:課題
今日、数IIIの課題が出ました。
教科書P54~P56までになります。
明日には提出なので気をつけて下さい』
正直、今は課題どころの気分じゃないうさぎではあったけれども、バッグの中から鞄を取り出すと数IIIの教科書を取り出しパラパラと捲る。パソコンの起動音を聞きながら、指定されたページを見るとうさぎは小さく溜息をついた。既に先回りして予習していた部分だから、課題としてそのまま提出できるから、明日教室でノートに書き写しても問題は無い。
勢いよく教科書を閉じると再び鞄に教科書を入れると、パソコンデスク前にある椅子に腰掛けると、最後のメールを開く。こちらのメールも紗枝からのもので、そのタイトルを見てうさぎは訝しげな顔になる。
『Title:知ってる人?
今日、放課後にうさぎちゃんのことを聞きに来た先輩がいたの。
梁瀬先輩って言うんだけど、うさぎちゃんの知ってる人?
今日は早退したって伝えたらすぐ行っちゃったんだけど、ちょっと怖い感じの人だった。
利奈ちゃんには言ってないけど、明日また来るかも』
少なくとも、帰宅部であるうさぎに先輩の知り合いなんて一人もいない。しかも怖い感じの先輩なんて、うさぎにとってはもっての他だし、近付きたくもない。このタイミングで見知らぬ人間が近付いてくることに、警鐘が鳴っている気がする。
考えながらも携帯を机の上に置いたうさぎは、手早くノートパソコンのログをデスクトップパソコンに移すと、先ほどのハッキングログの解析を始める。しばらくログを眺めていたうさぎだったけれども、三十分もする頃には背凭れに身体を預けると大きく溜息をついた。
昨日の奴に違いないけど、どうやらソフトではなく人間らしいことが分かる。しかも、わざとなのか、余裕が無かったのか、どうやら日本から繋いでいることも分かった。もしかしたら、これはうさぎに知らせているのだろうか。けれども、そこから先はやはり分からず巧妙に隠されていて、これを繋いできた人間のことまでは分かりそうにない。
そのデータを昨日と同じようにCDに入れると、デスクトップから綺麗に消し去った。
それから普段使うIDでネットに繋ぐとメールの新着があり、うさぎはそのタイトルに再び顔をしかめる羽目になる。
『Title:グレーを知ってる?
君はグレーを知ってる?』
これはどういう意味なんだろう。自分だと当たりをつけてメールを送ってきているのか、それともランダムに送られているのか、今のうさぎでは判断が出来ない。思っていたよりもグレーは執拗なほど捜索されていることが分かる。メールドメインを調べれば海外のもので、アドレス自体は既に消去されているようだった。ゆさぶりかけられただけなのか、それとも……。
分からないことは一旦頭の片隅に置いておいて、ネットに繋ぐと先ほど見つけたハッキングを実況していた掲示板を開く。どうやら、サンダーは色々な場所へ顔を出していたらしく、いつもの時間に現れないサンダーを心配する書き込みもあった。そうなると、プリンセスからの返信がやはり気になってくる。
こういう時、ネットの繋がりは便利でもあり不便でもあった。サンダーの状況を知りたいから、一層、プリンセスに自分の携帯を教えても構わない。けれども、プリンセスへのメールを誰かにハッキングされたとしたら、うさぎの携帯情報が誰に流れるか分からない。
掲示板にはダラダラと字が流れているのを思考をフル回転させながらうさぎは眺めていたけれども、最新に書き込まれた文字に息を呑む。
『システムセキュリティーのハッキング、グレーも参加してたらしい』
勿論、うさぎはシステムセキュリティーのハッキングには参加していない。ネット上にガセ情報なんてものは幾つも転がっている。けれども、どうしてこの短時間で、昨日の今日でこんなガセが転がり込んできたのか分からない。
ガセを流すには幾つか理由があり、面白おかしくする人間、そして、なにか得をえようとする人間、それから……追い詰めるたい人間が大抵ガセを流す。だとしたら、今回のこのガセはどういう意図があって流されているものなんだろうか。
たった一行、この一行で掲示板が盛り上がっているが、それ以降、書き込んだ人間が書き込む様子は無い。唐突に立ち上げていたメッセンジャーソフトが軽快な音を立てて、思わず身体がビクッと揺れる。
オンラインの人間同士を繋ぐメッセンジャーは、うさぎはたまにしか使わない。それでも、これでデータをやりとりすることもあるし、プログラム議論を交わすことだってある。
けれども、表示されたメッセージはそのどれでも無かった。
『グレーを知ってる?』
別にいたずらにメッセージを送ってくる人間は何人もいるのだから、無視することはよくある。一々、それに返信する義理は知人でもない限り全く無いのだから。けれども、メッセージはまだ続く。
『掲示板に参加しないの?』
……ハッキングされている。そう気付いたのは、そのメッセージを見てからだ。
基本的に、このデスクトップに防壁ソフトは入れていない。よく店売りしているセキュリティーソフトは入れているけれども、余り仰々しいソフトは入れていない。変にソフトを入れてハッキングをかわすことでグレーと繋げられても困るから、という理由でもあった。
うさぎはメッセージに返信するべきか、決めあぐねていた。そんな迷いを消すようにメッセージは再び流れ込む。
『昨日も見てたよね、ココ』
一瞬の判断の内に、うさぎはキーボードに指を滑らした。
『興味あるから』
『グレーだから?』
『違います。グレーというのは掲示板で話題になっている人のことですか?』
しらじらしいかもしれないとは思ったけれども、初心者を装いそれだけ打ち込むと相手のIDを調べに掛かる。けれども、相手は巧妙に隠されていてすぐに尻尾を捕まえられそうにない。
相手からのメッセージが僅かに止まる。向こうの出方を伺っていれば、再びメッセージが流れ込む。
『そうだよ。でも、グレーじゃないみたいだね。ごめん』
それを最後にメッセージは流れを止めた。改めてうさぎからメッセージを送ろうとした時には、既に相手はネットから落ちていた。
詰めていた息を吐き出すと、前のめりになっていた身体を思い切り背凭れに預けた。緊張のせいで掌には汗をかいていて、そんな自分にうさぎは苦笑するしかない。
ハッキングされたところで、このパソコンにはグレーとしての記録は何一つない。ただ、相手には自分の住所や名前はバレてしまっているだろう。だからといって、あの対応であれば何も問題無いはずだ。
そう思うのに、うさぎの心臓は落ち着きを取り戻すことは無い。嫌な予感がする――――。
その時、部屋に電話の音が鳴り響き、思わず身を竦める。すぐに家の電話だということに気付き椅子から立ち上がったうさぎは、ディスプレイに表示される父携帯の文字に受話器を上げた。
「もしもし」
「うさぎか? 父さん、今日は仕事で帰れそうにない。きちんと戸締りをして寝なさい」
「え? 帰ってこないの?」
こんなこと、父親にうさぎは言ったことなど一度も無い。父親の仕事が忙しいのは昔からだったし、中学に上がった頃から夜家に一人でいることはよくあることだった。でも、今うさぎはそれだけ自分一人でいるということを不安に思っているらしいと自覚する。
「珍しいな。何かあったのか?」
「そういう訳じゃないけど……たまにはね」
「明日の昼には一度家に戻るよ。遅刻しないで学校に行くんだよ」
「分かった。じゃあ、仕事頑張ってね」
自分でも無理してると自覚しながらも、元気な声で父親に声を掛けてから電話を切ると再びうさぎは椅子に腰掛けた。一人で家にいて、寂しさを感じることはあっても、これだけ不安になるのはうさぎにとって初めてのことだった。
ネットは自分にとってワクワクする楽しいものだった筈なのに、何でこんなに不安になるんだろう。分からない、分からないことがこんなに不安になるなんてしばらく忘れてた。だって、自分に分からないことなんてあると思わなかった。大抵のことはネットを見れば分かったし、調べればどうにかなると思ってた。
それなのに、ネットに繋ぐことが怖い――――。
不意に静かな空間にチャイムの音が響き、うさぎは身を強張らすと時計を見た。既に時間は二十一時過ぎ、こんな時間に訊ねてくる人間をうさぎは知らない。判断は一瞬だった。
トートバッグを掴むと、開いたままだったノートパソコンを閉じてバッグに入れると肩に掛けると、姿見の鏡に引っ掛けてあったキャスケットを顔が隠れるくらいまで深くかぶる。そのまま窓を開けるとベランダへ出れば、街灯の明かりと共に冷たい空気に身体を包まれて身震いする。夏だというのに寒さなのか、それとも恐怖なのか、今のうさぎには分からなかった。
ベランダの柵を乗り越えると、ベランダの足に捕まって滑り降りる。ここは、少し前までうさぎが夜中に出歩くための秘密のルートでもあった。
玄関とは反対側に降り立つと、うさぎは滅多に開くことのない勝手口の靴箱から自分の靴を取り出すと、低い生垣と乗り越えて隣の家へ入り込んで身を縮める。ここからだと玄関にいる人の気配は分からない。
その場にどれだけの間うずくまっていたのかは分からない。けれども、掌を握り締めて、息を潜めていれば、しばらくすると車の立ち去る音が耳に届く。この時間に近所で車に乗る人間はいないことをうさぎは知っている。だとすれば、家を訪ねてきた人間に違いない。だから一旦大きく息を吐き出すと、携帯を取り出した。
誰か、誰かに……誰に?
利奈や紗枝を巻き込む訳にはいかない。だとしたら……。
うさぎは電話帳をしばらく見つめていたけれども、意を決してプリンセスの名前を押した。メール作成画面が現れ、その画面に文字を打ち込んだ。
『グレーです。助けて』
すぐに返信が来るとは思えない。けれども、それだけ打ち込み携帯をしまうと、うさぎはゆっくりと立ち上がり生垣の隙間から自宅の玄関を覗き込む。そこにはもう人の気配は無い。慎重に物音を立てずに隣の敷地から道路に出ると、何事も無いように歩き出す。
手は震えてるし、足なんて恐怖で動かなくなりそうだったけれども、うさぎはひたすら駅に向かって歩き出した。今どこに向かえばいいのか、うさぎには分からなかった。それでも、持っていた定期で駅構内に入ると、タイミングよく電車が到着してうさぎはそれに乗り込んだ。
扉の近くに立ち、扉が閉まるのをどこか遠い出来事のようにぼんやりと見つめる。このまま乗っていれば新宿駅、東京駅に辿り着くことは出来る。どちらも大きな駅だから、少し安全かもしれない。
そう思っていたにも関わらず、マナーモードにしていた電話が震えてうさぎの身体がビクリと震えた。ポケットから取り出した携帯はいまだに震え、着信を知らせている。見たことのない番号を確認すると、うさぎはそのまま携帯をポケットへしまいこんだ。
新宿駅までは五駅、東京駅まで数駅、自宅から少しでも離れた方がいいと思い、空いてる椅子にうさぎは座り込んだ。正直、立っているのが限界でもあった。
再び携帯が鳴り出し、うさぎはのろのろと携帯を取り出せば、そこに表示されるのは先ほどとは違う番号。どうやら、プリンセスにメールを送ったことで足がついてしまったらしい。そうなれば、携帯のGPSでどこにいるかもすぐに割り出されてしまうに違いない。
そう考えると、今うさぎがするべきことは携帯の電源を切ることだと分かっていた。けれども、どうしても誰かに縋りたくて中々携帯の電源を切ることが出来ない。電話は鳴り続け、しばらくすると留守電に切り替わったらしく、その振動を止めた。
けれども、次にメールの着信を知らせる。慌ててメールを開けば、プリンセスからのメールだった。
『今、どこにいるの? 迎えに行く』
けれども、ここで素直に書いてしまえばまたすぐにハッキングされて居場所を知られてしまう可能性が高い。だからこそ、うさぎは数ヶ月前にプリンセスとふざけていた暗号を送った。
『Title:水曜日
きょうは会うのやめておく。
まだきんようびじゃないし。
ききょうの花はまだ咲いてるよ。
マジうれしかった。
それと忘れ物してた。
あれすてきな花だと思う。
あのばらももう咲いてる』
水曜日は三番目、三番目の文字を抜き出して並べ替えると言葉になる。アナグラム的な遊びだったけれども、一時期うさぎはプリンセスとそんなやりとりを楽しんでいた。果たしてこれですぐに分かって貰えるか自信は無い。それでもうさぎはメールを送ると、そのまま携帯の電源を落とした。
これ以上、追跡されるような真似は避けたい。でも、携帯から既に名前や住所は知られているだろう。家に帰る選択肢が潰れたことはうさぎにとって酷く重い現状だった。
うさぎは東京駅まで出て、それからバスの待合所で人ごみに紛れ込むつもりだった。東京駅は余りうさぎにとって馴染みのない場所だけに他にどこへ行けば何があるのか分からないのもあった。それでも、東京駅という場所をうさぎが変更する気になれなかったのは、プリンセスが一体どこに住んでいるのか分からなかったからだ。東京駅は都内一番の大きな乗り込み駅だから、多少遠くても東京駅であればプリンセスにも分かると思ったからだ。
電源の入っていない携帯をにぎりしめていたけど、もう使う予定はないとばかりにうさぎはバッグの中へ携帯をしまった。こうして少し落ち着いてくると、色々気になることが出てくる。
明日から学校はどうしようとか、着替えを持ってくればよかったとか、親には何て言うかとか、色々なことがうさぎの頭の中に浮かび上がっては消えていく。一層、警察に駆け込むことも考えたが、親を思うとそれは出来なかった。
一体自分はどうなるのか、うさぎはそれを考えると苦笑しか出てこない。浮かんでくる涙に深くキャスケットをかぶりなおすと、奥歯をきつく噛んだ。こんな人前で泣くのはうさぎのプライド的に許されない。だから目の淵に溜まる水滴を拭うこともせず、それでも零すことなくただ掌を握り締めた。電車は問題なく東京駅へと到着し、うさぎが電車を降りる時にはもうすでに涙は跡形もなく消え去っていた。
案内板を見ながらバスターミナルのある出口へと向かう。時間的にサラリーマンやOLの他にも、いかにも塾帰りという学生も多くいてうさぎは内心ホッとしていた。もし補導でもされたら、今のうさぎにはかわすだけの余裕は無いことも自分で分かっていた。
多少迷いながらも定期で自動清算してから改札を抜ければ、正面には外の風景が見えた。既に夜だというのに蛍のようなライトと、いきかう人々の多さに小さく溜息をついた。案内表示に従いバスの待合室に入れば、そこには十数人の人間が椅子に座っていた。
空いてる席に落ち着かない気分で座っていれば、それからすぐに一人の男が入ってきた。しきりに辺りを伺い誰かを探しているように見える。髪は少し長く後ろで結んでいて、顎には無精髭なのかまばらに髭が生えているのが見える。年頃は恐らく20台半ば、目つきは鋭く、うさぎにとってあまり関わりたくないタイプの人間に思えた。男の目はうさぎを通り越し、一通り見ると小さく舌打ちすると出て行ってしまう。
誰かを探していたのは明白だったけど、果たしてそれは自分だったのか、他の誰かだったのか、疑心暗鬼になっているうさぎには分からない。ただ、追われているだろう立場で、このまま待っているのはうさぎにとって辛いことだった。こういう時に気の紛れる何かと言えば、うさぎにとってはパソコンか携帯しか無く、そのどちらも使えない今唇を噛むしかない。
五分もした頃、今度はスーツを来た三人くらいの男が入ってきた。鋭いその目を見ると、うさぎはゆっくりと立ち上がり男たちが入ってきた出入り口とは逆の出入り口から待合所を出た。
男たちの姿が見えなくなった途端走り出すと、すぐ近くにあった階段を駆け下りる。地下には幾つもの店が連なり、時折店内を横切りながらやみくもにうさぎは走る。しばらく走っていると周りの風景が変わり、どうやらレストラン街に入ってしまったらしい。
自分がどこにいるのか分からないながらも、背後からの足音に手近にある開いたままの従業員出入り口に身体を滑り込ませた。身体全体が心臓になったようで、荒い息を吐き出しながらも高く積まれたビールケースの陰に隠れると、バッグを両手で抱きしめてうずくまる。もう、これ以上走れそうにはない。
時折人が出入りして、何かを持っていくのをうさぎは身動ぎ一つせずにその音だけを聞いていた。どうやらうさぎが入ったのはどこかの店の食品倉庫だったらしく、落ち着いてみれば大きな冷蔵庫やらダンボール箱、木箱などが目に付く。時計を見れば既に二十二時近くなっており、恐らく閉店準備をしている店員が補充をしているから人の出入りがあるのかもしれない。一層のこと、このまま鍵を閉めてくれたらいいのに、そんな思いでうさぎは息を潜めていた。
コツコツと靴音が響き、出入り口の前で止まった時、うさぎは息を飲んだ。先ほどまでの足音とは明らかに違うその靴音に、うさぎは一層身を縮めると息を細く吐き出した。そのまま通り過ぎて欲しい、そう願ううさぎとは裏腹に、靴音は倉庫の中へと入ってくる。
震える身体を震える指先で抱き締めながら、緊張しすぎて鼓動がうるさい。息を詰めて、うさぎはただ自分の身体を抱き締めることしか出来ない。
確実に近付いてくる足音と、長い影にうさぎの鼓動はまだどんどん早くなる。緊張感で死にそうなほど張り詰めた神経により一層身を縮めた所、背後から回ってきた腕に口元と身体を拘束されて時間が止まった。
――――何が、起きた。
「静かに」
耳元に落とされた声は低く、自分の知らないものだった。逃げ出したいのに、身体は緊張を長く強いられていたからなのか、うさぎは指先一つ動かすことが出来ずにいた。
「おい、何してる!」
違う男の声が響き、近付く靴音が止まる。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
すぐ低い、部屋に響く靴音は次第に遠ざかっていき、そのまま消えた。けれども、背後から延びる男の手は離れることはない。激しい速度で心臓が動いているのが分かる。
「もう、いいよ、ディンブラ」
先ほどの注意する声とは違い、どこか穏やかな声に背後からようやく手が離れた。拘束されていた身体を離されると、グラリと身体が揺れて、うさぎは慌てて片手を床につく。それからゆっくりと振り返れば、こちらを見下ろしている男と目が合った。
「ディンブラ?」
「グレー、だろ」
会話にしてはどこかずれた言葉を交わしていると、ビールケースからもう一人男が顔を出した。
「自己紹介は後にしよう。今はここを離れないと」
「あぁ、そうだな。立てるか?」
目の前で男は立ち上がると、大きな掌をうさぎに差し出してきた。その掌を見て、それからもう一度男の顔を見上げる。その顔にうさぎは見覚えがあった。たった一度しか見ていないのに、その顔はそれだけうさぎには印象的に残っていた。ぼんやりと男の顔を見上げていると、男は小さく溜息をついてから両手をうさぎへと伸ばしてきた。
「っっ!」
恐怖で強張る身体に、男は触れると一瞬にして視界が変わる。横抱きにされたことは分かったけれども、震える唇は何を言えばいいのか分からず言葉にならない。
「取り合えず、一旦車に戻る」
「それがいいと思いますよ。説明も必要でしょうし」
そう言ってちらりとこちらを見た男は二十歳前後らしく、少し長めに延びた襟足と穏やかな顔をうさぎに向ける。
「オレはプリンセス。もう大丈夫だから」
穏やかな笑顔を見て、うさぎの身体から力が抜ける。極度の緊張を強いられていたせいなのか、そのままうさぎの意識は闇の中へと落ちていった。