run down Act.01

昨日の送別会を経て朝七時に起きた俺はバリバリと頭を掻くとサイドボードに置いたままの眼鏡を手に取った。寝起きは悪い方ではないが、昨晩の酒が残っているために頭が重く、いつもよりも思考も鈍い。

ベッドから降りて洗面所へ向かったが、そこまでの間に肩先を二回扉にぶつけた。

辞令が出たのは二週間前。俺にとって青天の霹靂とも言える異動で、それは俺の周りでも動揺をもって迎え入れられた。

どういう意図があってかわからないが上からの辞令が下れば駄々をこねられる筈もない。顔を洗ってすっきりすると時計を確認する。

午前六時、それは俺がいつも起床する時間よりも一時間早かった。

「ねみぃ……」

グルグルと首を回しながら台所に辿り着くとまずは電気ケトルの水を入れ替えてスイッチを入れ、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し水切りに置いてあるフライパンを手に取る。

ベーコンエッグにするためフライパンに材料を落とし、蓋をしてからトースターにパンをセット。同じく水切りに置いてある皿を出してフォークを添える。

それから玄関に向かいポストを開ければ新聞がないことに気づき小さくため息をついた。

近日中に引越する関係で新聞を止めていたことを忘れていたのは、つい流れる日常動作の一つだったからだ。仕方ないからテレビをつければ事件の概要を説明している。

集団食中毒から集団毒殺事件になっており、これは捜査本部が立ってるんだろうな、などと考えながら再び台所でベーコンエッグをひっくり返す。

デローンと伸びた黄身を腹立たしく思いつつもひっくり返して一分。更にベーコンエッグとタイミングよく焼けたパンを皿に入れ、それからインスタントコーヒーを用意するとこの部屋に唯一ある椅子、スツールに腰を下ろした。

キッチンと繋がったカウンターに朝食を並べてコーヒーを一口。それからパンにバターを塗っていく。毎日の変わらないルーチンの中に新聞がないのは頂けないが、ないものは仕方ない。

テレビを見つつ食事を終えると手早く皿を洗い洗面所で髭を剃る。身だしなみは大切だから剃り残しがないことを確認してからもう一度顔を洗いスーツを身につけて鏡の前に立てばきっちりした自分が映る。

果たして今日はどこまでこの格好が持つんだろうな。そんなことを考えながらカウンターに置いてあるタバコを手に取ると台所に移動する。

換気扇の下でタバコに火を点けると大きく吸い込んだ。

今日は辞令の受け取りに警視庁に出向かなければならない。正直面倒だけどこればかりは仕方ない。警官になってから同期に比べて異動は人一倍多い。その原因は事件体質にある。

学生時代から巻き込まれた事件の数なんて自覚があるだけでも軽く十は超える。警官になってからもそんな無駄な能力がなくなることもなく今現在も続いている。

痴漢や窃盗だけならいざ知らず、捜査本部が立つようなでかい事件に関わることも多く、それなら捜査一課に呼んでやるといういきさつらしいことは聞いている。

実際、これまでだってその事件体質が買われてあっちこっちフラフラしていた。短い所では一ヶ月なんて場所もあって、まさに事件解決のために呼ばれたようなもんだった。

体質を考えれば警官は天職だと思うもののこの異動の多さには辟易していた。何せその度に引越を考えなければならないのが煩わしい。

同居していた年の離れた妹も最初は一緒に引っ越したりもしていたが、さすがにうんざりしたのか二十歳になると俺が止めるのも聞かず一人暮らしを始めた。勿論、引越が多すぎると切れられたら俺に引き留める術なんてものはなかった。

だが今回捜査一課となれば、さすがに余程のヘマをしなければ異動はしばらくなくなるだろう。官舎に入れることになったから早々問題だって起きないだろうし少しは落ち着いて暮らせるに違いない。

タバコを揉み消してスーツのポケットからタブレットを取り出し口に放り込むと鞄を掴んで家を出た。ここからだと新宿署までは三十分程で着くが、警視庁まで行くとなると一時間はみないといけない。

でも問題は距離じゃない。何事もなく目的地に到着することが一番の課題だ。
朝早いこともあり問題なく駅まで到着すると、人がこれでもかと詰め込まれた電車に乗り込む。下手をすれば押し出されそうになる電車にどうにか乗り込み扉が閉まるのを確認すると小さくため息をついた。

別に車内に何かある訳じゃない。ただ何となく辺りを見回してから眉根を寄せた。目についたのは眉根を寄せる女性。その顔は嫌悪と焦りが混じりあい僅かに涙目になっている。背後を振り返ろうとしているがすし詰め状態の車内で身動きが取れないらしい。

女性の周りには男が三人。その中の一人が口の端に小さく笑みを浮かべた。確信はない。単なる勘だけどそれが間違えたことは一度だってない。

第六感、シックスセンス、インスピレーション、呼び名はなんでもいい。でも、これがきた時は間違いない。

だから混雑する電車で謝罪しながら男に近づくとその手を掴んだ。

「痴漢の現行犯で逮捕します」

そう言って胸元から警察手帳を取り出せば、目を見開いた男は次の瞬間逃げだそうとする。勿論、それを逃がすつもりもなく腕を掴む手に力を込めれば、男は胸元からナイフを取り出した。

途端に近くで悲鳴が上がり、車内はパニックになる。男の口元がニタリと歪みナイフで切りかかってくる。

避けることは簡単だけど、周りには身動きが取れない一般人ばかり。この状況で避けるという選択肢はなく、男の翳したナイフを迷うことなく握り締めた。

正直痛い。殴り返したいくらいには痛い。でも警官がそれはしちゃいけない。だから僅かな隙間で男の手首を膝で殴打すれば男は痛みでナイフを落とす。それを靴裏で踏みつけると改めて男の両手首を掴んで片手で押さえ込む。

混雑しているのに男と俺たちの周りに隙間ができる。空間のできた少し先に女性のスカートが見えた。

「大丈夫だった?」

問い掛ければ二回ほど頷いた。

「次の駅についたら少しだけ付き合って貰えるかなぁ」

できるだけ人を警戒させないへらりとした笑みを浮かべれば、少し戸惑った様子を見せた女性が頷いてくれた。そのことにホッとする。

痴漢を捕縛しても痴漢された女性に姿を消されてしまうと、まず被害届は出されない。もし女性がいたとしても被害届は出さないと言われてしまえば警告だけで逮捕することはできなくなる。

実際、それで味を占めて再犯を繰り返す痴漢も多い。どちらにしても今回は凶器まで持ち出したから傷害罪だ。

「あ、あの、これ使って下さい」

そう言って震える指先で差し出されたは薄いピンクで縁にレースが使われた清楚なハンカチ。

「いや、そんな綺麗なの使えないよ。それにこいつの手首に回りそうにないし」
「そうじゃなくて、そのケガを……」
「あ? あぁ、別に大したケガじゃないから」

とはいっても気づけば床に血だまりを作りつつある。確かに普通の人なら血だまりなんて見ればそりゃあビビる。

「本当に大丈夫だから」

不意に背後から手首を掴まれ腕を上げられる。

「お、おい」
「お姉さん、この人の傷口そのハンカチでいいからグッと縛って」
「は、はい」
「いや、だから大丈夫だって」
「いいから黙って!」

強い口調で言われて黙り込めば、先ほどハンカチを差しだしてきた女性が傷口を塞ぐようにハンカチで縛る。そのハンカチにもすぐに血が滲んだがギャル風の女の子は容赦ない。まぁ、それはそうだろう。容赦ないのは見知った顔だからだ。

「もっときつく」
「は、はい」

慌てて女性が再び縛り上げると、車内の喧騒とは裏腹にゆったりと電車のスピードが落ちていく。ゆっくりと電車がホームに滑り込み扉が開くと同時に押さえていた男が逃げだそうとする。

だがそんな男を止血して貰った手と共に力尽くで押さえ込むとホームで出てすぐ近くの人に声を掛ける。

「誰か駅員呼んできて下さい!」

声を大にして言えばすぐ近くにいた駅員が駆けつけてきてくれる。

「これ痴漢。えっと……あぁ、彼女が被害者」

被疑者に気を取られていたけどきちんと被害者の彼女は電車を降りてきてくれたらしい。そのことに安堵していれば、背後からハンカチに包まれた血塗れのナイフが差し出された。

「あと、これ凶器」
「あぁ、サンキュ。大事な物証忘れてた。っていうか、お前、何でそんな格好してるんだよ」
「気分転換。悪い?」

そう言って薄い笑みを浮かべたのは血の繋がった妹である伊緒里だ。だが少なくともこんな格好した伊緒里を俺は見たことがない。

「少しは年を考えろ。そういう格好はもう少し若いお嬢さんがする格好だ」
「似合うんだからいいじゃない」
「だからってなぁ……っていうか、お前仕事場にその格好で行く気か?」
「違うわよ。友達と遊ぶだけ」
「だったらもう少し落ち着いた格好をだな」
「はい、これ。それと病院行った方がいいわよ」

会話を遮るように凶器を差し出され思わず受け取れば、タイミングよくきた電車に伊緒里は乗り込んでしまう。更に声を掛けようとしたが、満員電車に乗り込んだ伊緒里の姿はすぐに見えなくなる。

普段であれば追いかけて色々と問い詰めたいところだが、さすがに犯人を下敷きにしている状態で追いかけられる筈もない。

文句を言いたいけど言えずに口をパクパクさせた後、結局大きくため息をついた。

少し離れた場所からバタバタと走ってくる制服姿を見て気を取り直すと、困惑している女性に視線を向けた。

「えっと、ごめんね。あれ俺の妹」
「あぁ、妹さんだったんですか。あの傷大丈夫ですか?」
「うん、聞かないで。思い出すと痛い気がしてくるから」

へらりと笑えばすみませんと謝られたが、そんな彼女に俺はヒラヒラと手を振って見せた。気にするなという意図を込めて。

* * *

「……まぁ、そんな訳で遅刻です」
「誰か鉄警隊に確認しろ」

イライラした様子で俺の目の前に立つのは捜査一課課長代理の新崎。確かに着任式に遅刻して挙げ句の果てにはスーツが血まみれでは目くじら立てられても仕方ない。

もしかしたら事件に巻き込まれるかもしれないからと予定より一時間早く出てきたが、結局あの後、駐在所で手当てをして貰い構内で窃盗犯を引き渡し、地下鉄でも痴漢を捕縛し気づけば一時間の遅刻だ。

課内の空気もヒヤリとしたもので、決して好意的な視線じゃないことは俺にだってわかる。てっきり望まれて捜査一課に抜擢されたのかと思っていたが、そういう訳ではない。

だったら一体どこの誰が俺を捜査一課に異動させたのか訳がわからない。基本的に相手に望まれて異動することが多かったから大抵どこにいっても好意的に受け入れて貰えた。

針のむしろ状態だと気づきはしたものの今さらどうにかできるものでもない。ここまで排他的にされるのなら、早々に捜査一課から異動したい。花形と言われる捜査一課だが、俺にとってはどこにいても一緒だった。

犯罪者がいたら捕まえる。ただそれだけのことだ。それは別にどこにいたって警官であればできることだから、余り花形部署への憧れはない。

だが、捜査一課の面々の中、俺は知っている顔を一人見つけていた。出会ったのは学生の頃だっただけに、正直随分老けたと思った。そして今だ捜査一課にいるとは思ってもいなかった。

既に何十年も前だから相手が覚えていないのも仕方ない。こちらに興味はないのか知人の男は素知らぬ顔でそっぽを向いていた。

まぁ、この状況であれば例え覚えていたとしても声は掛けにくい状態だ。

電話で確認が取れたのか一人の男が新崎に報告したところで扉が開いた。そこから現れたのはいかにもエリート然とした男で見た目からキャリア組のお偉いさんだということはわかった。

「どうした」
「あ、いえ……」

途端に口ごもった新崎はこちらへと視線を向けてきた。つられるように男の視線もこちらに向いたところで、俺は男に向かって敬礼した。

「本日付で捜査一課に配属された鷲見祥一です」

笑顔で声を上げれば男は上から下まで舐めるように俺を見ると机の上にある資料を手に取った。

「あぁ、お前か……。一課課長の大河原だ。精々上の覚え宜しく犯人を炙り出せ」
「はい?」

上の覚え宜しくも俺にとって上に知り合いなんてものはいない。一体誰のことを言っているのかわからずに軽く首を傾げたが、大河原の視線は冷たいものだ。
だがその視線もすぐさま違う場所へ向けられる。

「竹居、こいつはお前が面倒見ろ。それぞれ捜査本部へ向かえ」

大河原の声にそれぞれが椅子から立ち上がる。といってもこの場にいるのは半数で、残り半数は既に捜査本部に詰めているのかもしれない。

どこにいた時よりも大所帯な捜査一課で、俺は自分のデスクを指示されることもなく呆然と立ちすくむしかない。

別に扱いの悪さに不服を言うつもりはない。ただ指示くらいは欲しい。困ったように竹居へと視線を向ければ、捜査一課でも年長の竹居は俺の背中を軽く叩いた。

「行くぞ」
「はい」

そのまま竹居に促されるまま地下駐車場に降りると竹居に顎で助手席を勧められ車に乗り込む。

「えっと、これからどこに?」
「新宿署だ。今捜査本部は二つあって三鷹署と新宿署と浅草署にある」
「はぁ、あの三鷹署の事件って、毒殺事件ですか?」
「あぁ、そうだ。新宿署の事件は放火で、浅草署の誘拐事件だ」
「わぁお、中々シュールですね」

ということは俺は放火事件に関わることになるらしい。捜査一課ともなれば何か違う捜査方法があったりするのだろうか。そんなことを考えていれば隣から声を掛けられた。

「……でかくなったな」
「え? まさか覚えてたんですか?」
「忘れる訳がない。民間人に手柄を譲って貰った事件だったからな」
「別にそういうつもりじゃ」
「わかってるよ。まぁ、お前さんには居心地のいい場所じゃないかもしれないけど適当に上手くやっていけ」
「そんな投げやりな。っていうか、最高に居心地が悪いんですけど」

つい口が軽くなるのはつい知ってる顔だったからということが大きい。学生の頃、身近にあった事件を抱え込んでくれたのが竹居だ。

今よりも馬鹿で言葉で上手く説明できない俺を信用して動いてくれたのは竹居だった。俺からすれば俺たち兄妹の恩人とも言える人だ。

「伊緒里ちゃんは元気か?」
「元気っていうか、すっかり生意気ですよ。俺の言うことなんて聞きやしないし、最近流行りのベンチャー企業に就職して何してるのかもよくわかりませんよ」
「まぁ、あの子はお前よりしっかりしてるだろ」
「酷いなぁ。俺だってあの頃よりもしっかりしてますよ」
「じゃなければ、のこのこここへ来たりしなかっただろ。捜査一課の連中にお前の覚えは随分と悪いぞ」

まぁ、あの空気を見れば反感凭れているのはさすがに俺だってわかってる。刺々しい視線は絶対に迎え入れるという雰囲気ではなかったし、むしろ排斥されているというのが正しい。

「俺、辞令で異動してきただけなんですけどねぇ」
「辞令な。やたら上の息がかかった異動だったがな」
「上? さき大河原課長も言ってましたけど、上ってどういうことなんですかねぇ」
「上は上だろ。何だお前が繋ぎつけてごり押しして貰ったんじゃないのか?」
「いやいや、上の人間に知り合いなんていませんよ」

何度も首を横に振って否定すれば、運転席に座る竹居はちらりとこちらへ視線を向けてきた。そして苦々しげな顔をする。

「酷い格好だな」
「あー、痴漢捕まえようとしたらナイフで反撃されて。えっとこのまま捜査本部ってマズいですか?」
「着替えがあるなら着替えておけ」
「ないっすよ、そんなもん。あ、竹居さん、そこの店寄って下さい」

俺の言葉にあっさりと竹居は路肩に車を寄せる。車が停まるのを確認してシートベルトを外すと五分だけ待つように伝えると外に飛び出した。

その足で最近チェーン展開している紳士服店に駆け込むとシャツを買いすぐさま車へ戻る。

お礼を言ってジャケットを脱げば、運転する竹居の横で手早く着替えるとビニール袋に血まみれのシャツを丸めて入れた。

「洋服代とか手当で出ないんですかねぇ」
「出る訳ないだろ」

呆れたような声に深々とため息をついた。正直言うと、事件に遭遇しすぎて服代が給与を圧迫している。スーツだってこの半年で既に四着目で、酷い時は三日で使い物にならなくなった。

一応、警視総監賞とか貰うと金一封が出たりするが、そんなもんパカパカ貰えるもんでもない。

でも今後は官舎に入ることになるから少しは生活も楽になるだろう。危険手当などもついてそれなりにサラリーマンに比べたら高給ではあるものの、スーツ代と伊緒里の結婚式の積み立て、保険、老後の貯蓄などを考えて行けばそんなに余裕があるものでもない。

「一層、刑事も制服にしてくれたら楽なんですけどねぇ」
「馬鹿、聞き込みができないだろ」
「それもそうか」

そんな下らない話しをしていたが、竹居は不意に声を落とした。

「後ろに俺の鞄が置いてある。その中に事件の概要が入ってるから目を通しておけ」

その言葉で俺は背後を振り返れば、確かに少しくたびれた黒の鞄が後部座席に置かれていた。それを引き寄せ一声かけてから鞄を開けると書類を取り出した。

書類にあるのは放火事件の概要から詳細までをまとめたそれなりに分厚い書類だった。竹居が運転する横で俺は書類を手に文字へと視線を滑らせた。

Post navigation