いつもとは違う自分が正面にあるガラスに映り、その向こう側で景色が流れていく。見慣れない街並みなのにどこか見覚えある風景は都会ならではなのかもしれない。
電車に揺られいつものように指先を顔に持ってきたところで、ガラスに映る自分の顔に眼鏡がないことに気づいて苦笑する。
ふわりと肩先で広がる髪は普段とは全く違う自分で、我ながら化けられるもんなんだと今度は感嘆のため息を零した。
酷いことをした後だと思うのに罪悪感が希薄なのは結末を見届けていないからだろう。でも、恐らくこれで全ては終わった。
あとは契約通りあの人が実行してくれたら私はようやくしがらみから解き放たれる。明日、もしかしたら明後日にはその結果がわかる。想像だけで歓喜に身体が小さく震えた。
世の中からいなくなればいい。あんな男。
電車内のアナウンスに我に返ると同時に電車が徐々にスピードを落としていく。ガラスの中にいる自分を確認するといつもとは違う自分がいて、そんな自分に微笑みかけた。
乗換駅で扉が開くと向かう先はコインロッカー。そこから荷物を取り出すとトイレに入り手早く着替える。いつもとは違うメイクを落として、ふわふわと広がる髪も一纏めにしてから個室を出た。
ターミナル駅ということもあって人の出入りは激しい。いつも使う駅でもないから私の顔を覚えている人なんていないに違いない。
そのままパウダールームとして併設されている鏡の前でいつもの化粧をすれば、見慣れた自分が目の前にいる。バッグから取り出したシルバーフレームの眼鏡をかければそのまま仕事に行けそうな格好をした私は先ほどとは全然違う。
電車の中にいた時のように微笑んでみたけどパッとしない。あの人に言わせると幸せが逃げていくような顔。でも、幸せにしたいからと言ったのに……本当に馬鹿だったと思う。
鏡の前から踵を返してトイレを出ると鞄の中からスマホを取りだした。着信履歴の中から一人の番号を選ぶと相手に電話を掛けた。
夕方と夜の間の時間。美園は既に仕事を終えている時間だろう。
コール三回で出た美園に振られちゃったから飲みに付き合ってと言えば驚いた声が聞こえる。振られたのは二週間前。ようやく外に出られるようになったのだと話せば、美園は待ち合わせ場所と時間を指定してくれた。
美園はずっと私を心配してくれていた一人だった。だからこんな利用する真似はよくないと思うけど、それでも美園と話すことで安心が欲しかった。
辛い胸の内を誰かに話したかったのかもしれない。
本当に好きだった。
でも、もうこの世からいなくなる人だけど————。
美園との待ち合わせ場所へ向かうためにホームへ向かうとしたところ、甲高い悲鳴が上がり何かが前方からぶつかってきた。
「きゃっ」
思わず声を上げたけど目の前からぶつかってきた勢いのままに床に転がる。何が起きたのかわからず呆然としていれば、目の前に転がるのは見たこともない男の人。
だが男はすぐさま起き上がると走り出す。
「大丈夫ですか?」
声を掛けてきた男の身長は高い。ガンメタリックの縁の広い眼鏡を掛け、その奥にある瞳は真っ黒で本当に心配している様子を見せる。
「え、えぇ、大丈夫です」
別に足をくじいた訳でもなく、肘をすりむいた程度だ。
「ごめん、それ貰っていいかな?」
「え? は、はい」
指さされた先にあるのは先ほど買ったばかりで蓋すら開けていないペットボトル。返事する間もなくそれを掴んだ男の手は大きかった。
そこからは本当に一瞬だった。振りかぶったかと思えば、男の手からペットボトルが離れる。ほぼ直線に飛んだそれは逃げだした男の後頭部にあたり男がつんのめり、そのまま床に転がる。
すぐ横で風が吹いた。その時には隣にいた筈の男の姿は床に転がる男を後ろ手に押さえつけていた。
「ひったくりの現行犯で逮捕する!」
駅構内での大捕物。普通に見られるものでもなく呆然とそれを見ていれば、わらわらと制服警官がやってきて男を取り押さえると先ほど私のペットボトルを有無を言わさず投げ捨てた男が近づいてきた。
その手には大きくへこんだペットボトル。
「立てますか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「あぁ、ここ擦りむいてる。他に怪我は?」
「いえ、ここだけです」
「手当てします!」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
「いえ、俺が怪我させたようなものですから手当てだけでもさせて下さい」
そう言った男の顔は本当に申し訳なさそうなもので、まるで尻尾を丸めた犬のようだった。大柄な男の人なのに何だか可愛く見える。
視線には先ほどまでの鋭さはなく、ただひたすら申し訳ないという顔をしている。
「消毒だけでもいいので」
その時頭の奥底でひそりと囁く声がある。
——アリバイは幾らあっても困らない。
その声に従うように私は一つ頷いた。
「わかりました」
答えればパッと明るくなる顔は喜怒哀楽のはっきりしたもので、途端に男の気持ちが浮上したのがわかる。
「あぁ、そういえば、すみません。こういう者です」
男はスーツの内ポケットから名刺を取り出すと私に差しだしてきた。名刺には「警視庁新宿署刑事課 鷲見祥一」という名前が書かれていた。
まさにアリバイに深みを持たせるには丁度いい相手だったのかもしれない。
「警察の方も名刺ってあるんですね」
「警察手帳を広げると誤解を招きそうな時には使いますよ。こちらにどうぞ」
人好きする笑みを浮かべた鷲見は私を促すと、通路を歩き駅構内にある分駐所へと案内する。中には一人の制服警官がいて鷲見が挨拶すれば、呆れたような顔をして見せた。
「鷲見さん、またですか」
「またです。すみません、彼女の手当てをしたいので救急箱貸して貰えませんか?」
「はいはい」
顔なじみなのか制服警官はすぐさま椅子から立ち上がる。その間に鷲見は私にパイプ椅子を勧めるとすぐさま話し掛けてきた。
「本当に肘以外怪我はありませんか?」
「えぇ、大丈夫です」
「あのもし他に痛みとか出てきたら明日でも構わないので先ほどの名刺に電話を下さい」
「本当に大丈夫ですよ」
安心させるために笑みを浮かべれば、やはり鷲見は申し訳なさそうな顔をする。
「鷲見さん、救急箱」
差し出されたそれを受け取ろうとした時、鷲見は自分の持っているペットボトルに気づいて声を上げた。
「悪い、このお嬢さんの怪我の手当てしておいて!」
「え? 鷲見さん!?」
驚く制服警官と私を置いて鷲見は分駐所を飛び出してしまう。素早く消えたその姿を呆然と見送ってしまえば、制服警官は大きくため息をついた。
「本当にあの人落ち着きないんだから」
「あの……」
「あぁ、あの人いつもああだから気にしなくていいよ。えっと、どこを怪我したの?」
「いえ、本当に大したことないので」
「いや、でも鷲見さんがここまで連れてきたってことは怪我してるでしょ? 手当てもしないであなたを帰したら僕が怒られるから」
先ほどの鷲見よりも若そうな制服警官はちょっと困った顔を見せたので、素直に肘を差しだした。
「ここをちょっと」
「ちょっと染みるかもしれないけど」
一声かけてから消毒液を掛けられ僅かに眉を寄せた。ピリッとした痛みがあったけど、それはすぐに霧散する。
ガーゼで消毒液を拭き取るとその上から絆創膏をつけられる。
そこへ再び勢いよく駆け込んできたのは鷲見だ。
「ごめん! 上津さん、ありあがとう! あの、これ本当にすみませんでした」
最初は制服警官に謝り、最後に私に向かって頭を下げた。そして差し出されたのは先ほど鷲見が投げつけたペットボトルだ。だがそれは先ほどのようにへこみもなく、僅かな水滴が冷えたものだとわかる。
「え、これ」
「ほら、さきのは俺が投げちゃったからさ。それにこれあいつに投げたから没収されると思うし。本当にごめん。できたら受け取って貰えると助かります」
そう言われてしまえば受け取らない訳にもいかない。差し出されたペットボトルを受け取れば、ひんやりと冷たい温度が手に伝わってくる。
お礼を言って椅子から立ち上がれば、分駐所の入口まで見送ってくれた鷲見は笑みを浮かべた。
「さきも言ったけど、何かあれば遠慮なく連絡して下さい」
「はい、わかりました」
怪我は本当に大したものじゃない。恐らく鷲見と再び会うことはないだろう。そう思いながら少しだけ笑みを浮かべるとお礼と共に分駐所を後にした。
「鷲見さん、事件引き寄せすぎ」
「仕方ないだろ。勝手に事件がくるんだから」
そんなぼやきが背後から聞こえ、クスリと笑ってしまう。もし鷲見が事件を引き寄せるタイプなのだとしたら私もその一人なのかもしれない。
でも鷲見は気づかない。私が事件に関わる一人だということを。
もう背後からの声は聞こえない。だから私は前を向く。当初の目的通りホームに上がり美園との待ち合わせ場所へ向かうために電車に乗った。
美園と落ち合い、その日は久しぶりに飲んだ。積もり積もったグチを吐き出し、これからは前向きに頑張ると話し美園とグラスを重ねた。
翌日休みだったこともあり店を出た時には三時を回っていた。これで私は鉄壁なアリバイを手に入れた。もう何も問題はない。
酔いが回っていることもありタクシーで自宅へ戻るとフワフワとした気分のままベッドに転がった。酔いに誘われるように眠りにつくと、次に目を開けた時には既に十時を回るところだった。
化粧も落とさず寝たことを反省しつつテレビをつければ事件のワイドショーがやっている。センセーショナルな事件の裏側であの男が死んだことを知る。
多幸感。至福。それを感じながら私はベッドから起き上がると、すっきりするために風呂場へと向かった。