いつでも西垣と共に現れる松葉は、どういう訳か酷く蔑んだ視線をいつでも向けてきた。こういう状況になったからには松葉から話しを聞く必要があるように思えた。
「コウ、少し出掛けてくる」
「もう少し待ってろ。一緒に行く」
「いや、いいよ。ちょっと気になることがあるから警察に行って松葉さんに会ってくるよ」
「……あぁ、あの人か。確かに気にはなるな」
この間そんな話しをしたばかりだからコウの記憶にもあったのだろう。僅かに顔をしかめたコウだったが、手元にある書類を捲る。
「という訳で、警視庁に行くだけだから別に問題はないよ。ここから桜田門まで車だしな」
「いや、一緒に行こう」
「いいよ。これは俺の問題だから」
「……そうか」
お互いに触れられたくない一線がある。だから、それ以上はコウも踏み込んでこない。
でも、心配していることはわかる。確かに続けて自分一人が執拗に狙われてる状況だから仕方ない。
「ごめんな。終わったら連絡入れるから。帰りにアクアシティでコウの好きなとんかつ弁当でも買ってくるよ」
それだけ言うと、ソファの背もたれにかけてあった上着と鞄の中にパソコンを突っ込み事務所を出た。
そのまま地下の駐車場から車を引っ張り出し警視庁に向かう。事前に連絡を入れるべきだとは思ったが、気が急いてもう一度車を停めてまで連絡する気にはなれなかった。
三十分ほどで警視庁に到着したが近くに駐車場はない。少し悩んだ末に一旦虎ノ門で車を駐車場に入れると、一応警戒してタクシーに乗り込んだ。
タクシーで警視庁につき受付で松葉への取り次ぎを頼んだが、出てきたのは西垣だった。
「岸谷って聞いて君だと思ったんだ」
「先日は有難うございました」
「悪いな、松葉は所用で外に出ててね。松葉に用事ってことは事件とは別件か?」
「えぇ、個人的にお聞きしたいことがあって」
笑顔は張りつけた。けれども、西垣を相手に話すのは少々面倒くさいものがある。できることなら直接松葉と話したい。
いや、もしかしたら西垣が昔の事件を知っているからこそ、余り関わり合いたくないだけかもしれない。
「松葉も三十分程で戻ってくる筈だ。それまでこの間の事件について話しに付き合って貰えないか」
勿論、事件の被害者だからこそ断ることなどできず、西垣に促されるままに庁舎内にある喫茶店へと連れて行かれた。
腰を落ち着けてコーヒーが運ばれてきたところで、西垣はテーブルに肘をついて手を組んだ。まんじりとせずこちらを見つめてくる目は、まるで獲物を狙うような鋭さを持っている。
今回に限って言えば、俺自身に不備はない。でも、余り警察に関わって欲しくもない。
「こちらからわかってることを説明しよう。昨日、一昨日と君を襲った男は金で雇われた男だった」
「まぁ、そうでしょうね。あの男たちの顔に見覚えはありませんでしたから」
「そこで、うちとしては繋ぎをつけた男を捜したが、昨日の片割れに繋ぎをつけた男だけが見つかった」
昨日襲ってきた男は二人組だった。けれども、お互い知り合いという様子ではなかった。だから、どちらも金で雇われた男だという可能性は考えていた。
ただ、事件からわずか一日で繋ぎの男まで見つかるとは思ってもいなかった。
「それで」
「普通のサラリーマンだよ。そいつも他の男に頼まれたらしい。だが、余りにも男の供述がおかしくて話しを詳しく聞けば、とあるサイトであんたに懸賞金が掛かってるらしい。ノートパソコンを奪えば三百万、本人を殺せば一千万」
「はぁ!?」
予想もしなかった言葉に素っ頓狂な声を上げてしまい回りの注目を浴びてしまう。僅かに浮かせ掛けた腰を下ろして、コーヒーを飲むことで落ち着こうとしたが落ち着ける筈もない。
「……そのサイトは」
「うちで調べた時にはもうなかった。プロバイダーにも調べて貰ったが、元々一日分のバックアップしかとっていないらしくてログは残っていなかった」
「男の供述が偽証の可能性は?」
「ないな。少なくとも偽証したところで罪が軽くなる訳でもない。嘘を言う理由がない」
確かに情状酌量されるような内容でもない。男が嘘をついているとは俺自身も思えなかった。
目の前の西垣がのんびりとコーヒーを啜り、カップを置くなり先ほどよりも身を乗り出してきた。
「君は一体何のデータを持ち出した」
潜めた低い声はヒヤリとした感触を持っていた。
「少なくとも命を狙われるようなデータは何も持ち出していません」
「なら、狙われないデータは持ち出したんだな?」
「物の例えですよ。今は大人しくしてます」
「過去を曝かれたくないなら、これ以上何もするな」
「えっと……」
間違いなく警告されていることはわかる。けれども、本当に何も持っていないし、どうして自分が狙われているのかがわからないから、言われても困るばかりだ。
「西垣さん。本当に俺は心当たりがないんです。そもそも、機密を手にしても持て余すばかりですし、今が楽しいから危ない橋を渡るつもりもないんです。信じて欲しいと言っても難しいのはわかるんですけど」
「なら、どうして狙われてる」
「むしろそれは俺が聞きたいですよ」
そう、本当に俺としてはそこが知りたい。パソコンを狙うということは、少なくとも俺の過去を知っているんだろう。だからハッキング仕様となっているノートパソコンを狙っている。
ただ命を引き替えにするほどの価値はない。それこそ海外でハッカーを募れば、そんなもの幾らでも用意してくれる。
金額差から考えても第一に俺の命、パソコンはおまけ程度の感覚なのかもしれない。
いや、そもそも、懸賞金を掛けた奴は本当に俺のパソコンが欲しいのか?
むしろ今の状況であれば、俺が何かを探すことを邪魔したいのかもしれない。なら、何を調べることが邪魔になるのか————。
「これは単純な問題じゃない。かなり組織だったものだ」
「だから、俺は本当に何もしてないんですって」
「いいから聞け」
潜めたもののピンを張ったその声にヘラヘラとした笑みが凍る。それくらい、西垣に表情は険しいものだった。
「いいか、君がホームから突き落とされた件。あの件で一度は容疑者が挙がった」
それは初耳だ。正直、ホームから突き落とされた件に関してはここ最近調べていなかった。だから、警察で容疑者を見つけたことは素直に驚いた。
「だが、俺たちがそいつの居場所を突き止めた時には首を吊ってた。……死んでたんだよ」
またまた冗談を、などと軽く流したいのに西垣の雰囲気がそれを許さない。西垣が言うように何かが俺たちの回りで蠢いているのだろう。ただ、その姿は全く見えない。
じわりと追い詰められている気配だけは伺える。
「今、君は何を調べている」
再び言葉にされて問い掛けられ、俺は大きくため息をついた。
今現在持っているデータは何もない。それなら、狙いはコウということも考えられる。そのコウにちょっかいを出すのに俺の存在が邪魔、ということであればパソコンを狙うのも分からなくもない。
パソコンがなければ、俺自身は欠片ほどもコウの役には立たない。
「本当に俺は何も……。むしろ狙われているのはコウ、円城寺かもしれない」
円城寺一族は昔あった財閥あがりで狙われる理由なんてものは幾つでもある。コウはそれを気にしていたが、もしかしたらそれが正解だったのかもしれない。
「すみません、お待たせしました」
どこか固い声が俺の声に被り、その声の主へと顔を上げる。あと数歩というところまで近づいてきていた松葉が西垣の傍に立った。
「西垣さん、変わります」
「いや、別にいい。ここで話せ」
西垣の言葉で松葉は俺をちらりと見ると、落ち着いた様子で西垣の隣に腰掛けた。
「西垣さん、俺は私用で松葉さんに」
「西垣さんがいるとまずい話しなのか?」
その言葉に俺はどうでもいい気分になってきた。そもそも、西垣から離れて話そうと思ったのは松葉の立場を考えたからだ。
だが、それを松葉が放棄するならどうでもいい。松葉の立場がどうなろうと俺が知ったことじゃない。
「別に構わないですよ。俺としては幾つか話しを聞きたいだけですから。松葉さん、あなたは俺のことを知ってますよね。恐らく、ここ最近の事件よりも前に」
「そんなことはない」
即答とも言える早さだったが、逆にその早さが胡散臭い。少なくとも、俺は松葉を知らない。だが、松葉は俺を知っている。
「それなら言い方を変えます。ここ最近、僕の命を狙っているのはあなたじゃありませんか?」
「何を馬鹿な」
「理由は知りません。ただ、現段階で俺を殺しそうな目で見てるのはあなたくらいしか思い当たらない」
「……元々目つきが悪いだけです」
僅かな間は答えを探したからだ。そして先ほどまで殺意を伺えるほどの目つきで睨んでいたにも関わらずこのタイミングで視線を外すのは隠したいからだ。
「あなたを調べてもいいんですよ。俺だって命を狙われたままでいたい訳じゃない」
「私は警官だ!」
「だからなに? 警察官だって不祥事起こしてるじゃん。それとも警官の俺がしてることは正義の鉄槌とか思ってる訳?」
「ふざけるな!」
「いやいや、ふざけてないって」
「まぁ、それくらいにしてやってくれ。松葉、話した方がいい」
それまで口を挟むこともなかった西垣が、憤る松葉の肩を軽く叩いた。そこで松葉は自分がどれだけ取り乱していたのか気づいたのだろう。目の前にあったグラスの水を一気に飲み干した。
それは俺の水だと思ったけど、今はそれを口にしても話しが進まない。
「西垣さん、なんでこいつに話さなきゃいけないんですか」
「どうせこいつが調べ始めたら確実にバレる。それに警官が探偵まがいにチョロチョロ追いかけられて見ろ、上の覚えは確実に悪くなる」
「つっ……」
グッと言葉を詰まらせた松葉は、テーブルに置いていた掌を握り締める。
そして、やはり鋭い視線で睨み付けられたけど、今度は俺もしっかりと松葉を見据えた。
「殺そうとはしていない……ただ、殺したいとは思ってるだけだ」
「それは十五年前の事件に関わりますか?」
「そうだ」
「でもあの一家は縁を切られて親族はほぼいないも同然だった」
「俺は親族じゃない。親族だったら警官にはなれないからな」
言われてみればそうだ。親族に犯罪者がいれば警視庁の花形ともいえる捜査一課にはいられない筈だ。
「自殺した彼女とは幼なじみだった……」
あぁ、痛いなと思う。それは松葉を見て痛々しいと思った訳ではなく、自分の過去の罪をつきつけられる痛みだ。勿論、それ以上に傷ついた人がいることを知っている。
犯罪者が現れたからといって、その家族が全員犯罪者ではない。そんなこと、あの頃は深く考えたこともなかった。
妹が自殺したことは調べていたから知っている。それは逃げられない枷でもあった。罪のない人を殺したという枷。でも、その原因である自分が痛々しい顔などできるはずもない。
「お前は人殺しだ」
「……そうでしょうね」
「殺したいと思う。でも、俺は絶対お前だけは殺さない。生きてその罪を背負っていけと思っている。だから、絶対にお前だけは殺さない」
鬼気迫る気迫があった。でも、そこに嘘はない。恐らく、松葉は本気で望んでいるのだろう。生きて罪を背負っていくことを。
そして、俺はそれを一生忘れることができない。例え子どもの悪戯だったとしても……。
「とりあえず、あなたが犯人じゃないことはわかりました。それが確認したいだけだったので失礼します」
恐らく今、俺は能面のような顔をしているに違いない。実際、どういう顔をしていいのかわからなかった。
自分でしでかした事だけど、それはとても遠くの出来事のようだった。でも、初めて現実としてリアルに被害者の近くにいた人間が現れた。
それは恐怖でもあり、痛みでもあり、逃げていた感情をむき出しにして突きつけられた気分だ。
今は過去を考える時じゃないと思うのに、どうしても松葉の表情がちらちらして思考があやふやだ。
辛うじてテーブルの上にコーヒー代を置いてきたことは自分でも褒めてやりたいくらいだ。
警視庁の建物を出てゆっくりと駐車場に向かって歩く。夏日で影が濃く落ち、人通りも少ない。
ぼんやりしていたことは否めない。ふと回りに人気がないことに気づいてヤバいと思った時には、視界の端に黒のワゴンが猛スピードでやってきて、覆面姿の男に頭を殴られた。
頭が割れるように痛い。いや、実際に割れているのかもしれない。ぼやける視界の中で少し離れたところに眼鏡が落ちている。
そして幾つかの靴が近づいてきたところで視界が途切れた。