悪意の回廊 Act.10

朝起きてり少し早めに会社へ向かったにも関わらず、電車は信号故障の影響で遅れた。結局、由香里が会社に到着したのは始業十分前だった。
本当なら三十分以上前に到着して、渡瀬と話しがしたかったが、これでは変に注目を浴びてしまい難しいかもしれない。
ロッカーで着替えて足早に部内へ入れば、既に人が多く、とても話しができるような状況ではない。
あとで書類を渡す時に昼食にでも誘おう。そんなことを思いながら自席に向かって歩いていると、以外な人から声を掛けられて足を止める。
「山吹」
「松本さん、どうかしたんですか?」
周りの視線が集まり、居心地が悪い。けれども、それ以上に気になったのは松本の顔色の悪さだ。
「具合悪いんじゃないんですか?」
「いや、大丈夫。それより……少し話しがあるんだ。昼休みに時間を空けてくれないか」
後半は潜めた声だったから、周りには聞こえていないに違いない。けれども、それ以上に違和感を感じたのは松本の真剣な顔だ。
「それは構わないですけど……本当に大丈夫ですか?」
「あぁ、それじゃあ、悪いけど」
それだけ言うと松本は自席へと戻ってしまう。また、周りでヒソヒソと囁かれているけど、由香里は気にせず自席に落ち着く。
昼休みは渡瀬と少し話しをしようと思っていたけれども、予想外のことで時間が埋まってしまった。
一層、松本の話を断ることも考えたけれども、あの真剣な顔を見たらとても断れる感じではない。一体何の話しを今さらしようというのか……。
松本の顔色の悪さと、真剣な顔。それに不審を感じつつも、由香里はいつものように、机の上に書類を広げていく。
月曜日は片付けなければならない書類が多い。それに、相沢の書類も確認しなければならない。
その名前に由香里は眉根を寄せた。
野口から聞いた話しが全て本当とは限らない。けれども、由香里の中で相沢より野口の方が信用度は高い。だったら、どちらを信じるかといえば野口だ。
けれども、野口の話は突拍子がなさすぎて渡瀬に確認を取りたかった。その上で相沢を問い詰めるつもりだった。
どちらにしても、人目が多い時間に相沢を問い詰める訳にはいかない。明日に持ち越すべきだ、そう考えていた。
「山吹さん」
だから、相沢本人に声を掛けられても、普段と変わらず椅子を回して身体ごと振り返る。
「どうかしたかな」
「この書類、間違えています」
どこか憮然とした表情で相沢から突き出された書類を受け取る。どこが間違えているのか指摘しない辺りが、相変わらず時間を無駄にすると思った。でも、今はまだいざこざを起こしたくない。
だからそのことは指摘せず、言われるままに書類をめくる。けれども、間違えているような箇所は見つけられず、微かに眉根を寄せながらも相沢を見上げた。
「別に間違えている箇所があるとは思えないけど、どこのこと?」
「ここです」
そう言って相沢が指さしてきたところは、今度立ち上がるプロジェクトの営業部のメンバーだ。けれども、メンバーに間違いもなければ、漢字間違いもない。
「別に間違っていないと思うけど」
「予定では大坂さんと古関さんだって聞きました」
その言葉で由香里は内心大きくため息をついた。呆れはしたものの、それを表情に出すことはしない。ただ、端的に相沢の指摘に返しただけだ。
「メールでメンバーの改定がきてた筈だけど」
「そんなメールきてません」
いつもであれば泣いて逃げ出す相沢は、いつになく強気だ。そして、相沢の口調がいつもより強いことで、またしても視線を集めている。
「先々週の月曜日、本当にきてないか確認して。もしメールがきていないのであれば、システム課の方へ報告して貰ってくれるかな」
別段、由香里としては刺々しく言ったつもりはない。実際、メールが届かないことはあるから責めるつもりはない。
「山吹さんが……消したんじゃないんですか?」
どこか平坦な、ヒヤリと冷気を伴う声だった。だから、由香里は戻し掛けた椅子を再び相沢へと向ける。
「どういうこと?」
「……人殺しのくせに」
元々注目されていたこともあり、相沢の声で周りにいる人たちの動きが止まる。そして、由香里自身も相沢の目を見た途端、動けなくなる。
まるで相沢の目が蛇の目のように鋭く、その目に感情はない。そんな相沢の雰囲気に飲まれた由香里は、カラカラに乾いた喉に唾を呑み込む。
「……何を言ってるの? 別に私は誰も殺してない。もの凄い言いがかりだと思うけど」
「何で、あんたは辞めないのよ」
「むしろ、何で辞めないといけないのか分からないけど」
相沢の様子が少しおかしいのは分かっていた。むしろ野口が言っていた怖いという意味が、ようやく分かる。だからこそ冷静さを失えない。
「あんたの味方なんて、ここには誰もいないから。みんな私の言うこと聞いてくれるんだから」
「それは……どうして?」
「みんな私に夢中なの。好きだって言って抱いてくれた。いつでも私の味方だって言ってくれた。……ねぇ、お姫様は一人でいいと思わない?」
謎かけのような言葉を、由香里はすぐに理解はできなかった。それだけ、相沢の豹変に恐怖を感じていたのもある。
けれども、働かない頭で考えて、ようやく相沢が営業部に若い女性は自分しかいらない、と言っていることが分かる。
もう、誰の声も聞こえない。ただ、静まりかえった営業部内で、誰もが固唾を呑んで相沢と由香里の会話を聞いている。
「野口さんを追い出した理由はそれ?」
問い掛けた声は緊張で少し掠れてるし、指先は強張って僅かにも動かない。それを自覚しながらも、由香里は相沢から視線を外すことなく問い掛ける。
「当たり前でしょ。それに誰も止めなかったじゃない。私がどれだけあの人追い詰めても、誰一人。それこそ、部長だって、課長だって」
そう言って勝ち誇ったような笑みを浮かべる相沢は、由香里の目にいびつに映る。人だけと、人ではない。まるで化け物のようだ。
ふと周りを見れば、こちらに注目している人もいたが、八割方が視線を彷徨わせているし、中には青褪めて立ち尽くしている人もいる。
相沢は抱いてくれたと言っていた。それはどういう意味か。そして、視線を逸らす人たちがどういう人たちか。考えるだけで気持ち悪くなってきた。
「……脅したの?」
「脅す訳ないじゃない。お願いしたの」
お願いといえば言葉は軽いが、された方にしてみれば脅迫だったに違いない。特に一課の人間は家庭持ちが多い。課長である空峰とて例外ではない。
「山吹さんこそ、碓井さん殺したでしょ」
問い掛ける声が震える。気持ち悪さと恐怖と、激しく渦巻く感情に逃げ出したい。相沢と話していると、由香里はそんな気分にさせられる。
「私には殺す理由なんてない。むしろあなたが殺したんじゃないの?」
「何故? 私が殺す訳ないじゃない。何でも言うこときいてくれるのに、殺す必要なんてないけど」
「碓井課長にもお願いしてたの?」
室内に電話の音が鳴り響く。営業時間の九時になったのだろう。けれども、誰一人、その電話を取る人間はいない。誰もが口を開くことなく、相沢の言葉を待っている。
まるで、相沢は舞台の上にいるヒロインの如く、周りをぐるりと見渡してから艶やかに笑った。
「してないわよ。まさか、碓井さんが内海さんや倉田さんを殺したとは思ってなかったし。ついでに山吹さんを殺そうとしたことも」
「でも、邪魔だと思ってたんでしょ?」
「思ってたけど、思ってるくらい罪にならないでしょ。別に殺してって頼んだ訳じゃないし、それ以前に碓井さんが殺してるなんて思ってもいなかったんだから。でも、私が文句言ってたの聞いていたのかもしれないけど。
だって、文句の一つくらい言いたくなるでしょ。この私が誘ってあげたのに、内海さんったら断るんだもん。それに、野口さんと倉田さんは事あるごとにうるさいし。あぁ、勿論、山吹さんも」
そう言って笑う相沢の顔は、碓井に頼んでいたのか、文句を言っただけなのか、その表情から感情は読めない。ただ、ニタリと笑う口元は大きく弧を描き、酷く満足そうなものだ。
けれども、次の瞬間その笑みは消え、冷え冷えとした視線が由香里を捉える。見ていた由香里は一気に総毛立つ。その恐怖に由香里は勢いよく立ち上がった。膝が震えるほどの恐怖だったが、相沢から視線を外せない。
「でも、碓井さんを殺したのは許せない。あんなに私の言うこと聞いてくれる人いなかったのに。服も、靴もバッグもマンションも、私が望めば全部買ってくれたのに」
「……そんな無茶なお願いしたから……自殺したんじゃないの?」
「何故? 私の言うことを聞くのは当たり前じゃない。だって、愛してるって言ってたんだから。誰からも愛されないあなたと私じゃ、全然違うの」
理解ができない。いや、したくない。万能感、野口はそう言っていた。けれども、そんな可愛いものじゃない。少なくとも普通の考え方じゃない。
「結局、あなたのことなんて、みんなどうでもいいの。だから、この部屋にいる全員が何も言わない。部長ですらね」
そう言ってクツクツと笑う相沢だが、その表情は能面のようだ。思わず視線を江崎へ向ければ、江崎もこちらを向いたまま完全に硬直していた。
「……私が辞めれば満足する訳?」
付き合えない。こんなことにはどうあっても付き合えない。逃げ出した野口は正解だったに違いない。
「そうよ。大満足」
ニタリと笑う相沢に、由香里は足下からゾクリとしたものが走り小さく身震いする。震える膝をどうにか叱咤して、机の中から小さなバッグを取りだした。そして、相沢の横を抜けると部長の前に立った。
逃げ出したい。今すぐここから逃げ出したい。由香里の中にあるのは、ただその一心だけだ。
「一身上の都合で退職します。退職届けは後日郵送させて貰います」
声はみっともないくらい震えている。でも、取り繕うだけの余裕なんてない。
「だが、しかし……」
完全に空気に呑まれているのか、江崎の声も上擦っている。
「大阪支店への出向についても、正式にお断りします。失礼します」
それだけ言うと、由香里はその足で廊下に向かって歩き出した。背後から高らかな笑い声が聞こえたけど、それすら恐怖の対象でしかない。
けれども、その高らかな笑い声が一瞬にして悲鳴に変わる。さすがに由香里も足を止めて振り返れば、相沢のすぐ近くには松本の姿ある。
ゆっくりと松本が離れると、それは由香里の目にも見えた。相沢の腹部に深々と刺さるカッターナイフが。
呆然とした様子で、自分に深々と刺さるカッターナイフを相沢は見つめる。その顔に感情はない。そして、刺さったカッターナイフを手にすると、相沢は勢いよく引き抜いた。
途端に辺りに血しぶきが広がる。近くにいた松本は紅く濡れたが、全く動かない。ただ、呆然とした様子で相沢を見つめている。
そして、血しぶきが辺りに広がる中で、ゆらりと揺れた相沢が床へと崩れ落ちた。
息が、詰まる。続いて由香里の口から零れたのは悲鳴でしかなかった。
騒がしくなる部屋の中、廊下から流れ込んでくる人の波。ただ、呆然と由香里はそれを見ていることしかできなかった。
松本はその場から逃げ出すこともせず、呆然としていたところを現行犯逮捕された。
救急車がきて、警察もきた。勿論、桐谷と根元も来たが、事情を聞かれても由香里は答えることができなかった。
気丈に振る舞い、警察への受け答えができると由香里は思っていた。けれども、唇が震えて上手く説明することすらできず、後日事情を聞くということになった。
由香里は椅子から立ち上がることができず、恐怖心で震えが収まらないこともあり、その日は入院することを勧められる。
最初こそ断ったのだが、カウンセリングも受けた方がいい、という桐谷の説得もあり、そのまま警察官に付き添われ病院へ運び込まれた。
その夜、自力で眠ることはできず、安定剤を投与され、ようやく地獄のような一日と別れることができた。
だが、それはまるで、泥沼に沈んで行くような、恐怖に彩られた眠りの入口だった。

* * *

翌日、目を覚ました時に傍にいたのは両親だった。手を握り締め、心配そうな顔をする両親の顔をぼんやりとした思考で眺める。
大学卒業してから四年。たった四年だったというのに、両親は酷く年を取ったように見えた。
眠ったことがよかったのだろう。少し落ち着いたこともあり、由香里はようやく事情聴取を受けた。
思い出せる範囲で全てのことを話し終えた後、相沢が無事だったこと、落ち着いたら松本が話しをしたいと言っていたこと、それらを桐谷から伝えられた。
事情聴取が終わり、退院手続きを終えた由香里は、両親と共に自宅へと戻った。
これからしばらくの間は、定期的なカウンセリングと、毎日診察に伺わないとならない。病院で食事が取れなかったことで、点滴が必要となったからだ。
それは酷く由香里を憂鬱にさせたが、心配する両親の手前はねつけるような真似はできなかった。
実家で一緒に暮らそうという両親に、由香里は首を縦には振らなかった。仕事のある父親は三日程で実家に戻ったが、母親はずっと傍にいた。
今の由香里には誰かが傍にいるということが必要だった。一人でいるのは怖いのだ。思い出そうとすると、途端に身体が震える。
けれども、それも時間が経てば徐々に薄れる。思い出せば心がざわめくが、それでも恐怖で震えがくることは少なくなっていた。
そして、食事も少しずつ取れるようになると、ようやく落ち着いて過去を思い出すこともできるようになってきた。
まず、一番最初に由香里がしたことは、退職届けを書くことだった。ボールペンで丁寧に書いた退職届に封をして、ポストに投函する。たったそれだけのことだったが、由香里にとって重要なことだった。
そして、由香里は母親が作ってくれたカフェオレを口にしながら、ようやく過去を振り返った。
相沢の歪んだ思考は、由香里にとって理解できるものではない。ただ、野口が言っていたことは間違えていなかったことだけは分かる。
自分の身体を使って周りを取り込む。その方法はとても理解できないし、嫌悪すら感じる。
けれども、そのことについては相沢ばかりを責められない。身体を使った、ということは相手がいるのだ。部内にいた全員がそうだった訳じゃない。それでも、あれだけの人数が相沢の相手だったとしたら、やはり鳥肌が立つほど気持ち悪い。
そして、相沢を刺した松本が、一体由香里に何を話そうとしていたのか気になる。そして、松本と相沢はどんな罪になるのだろうか……。
それを考えると酷く気が重くなった。
恐らく由香里は失敗したのだ。他人に聞かせるべき話しではなかった。せめて由香里と相沢、立ち会いとして江崎くらいで済ますべき話しだったに違いない。そうしていれば、松本が凶行に走ることもなかっただろう。
だが、実際、江崎を立ち合わせ、相沢と二人だけになって、あの恐怖に耐えられたとは思えない。
だったら、どうするべきだったのか。考えたところで何も分からない。いや、あの時、もっと考えるべきだったのかもしれない。
いつでも由香里は、自分を俯瞰して見ているような感覚だった。
けれども、あの恐怖を感じた瞬間、あそこからリアルは始まった。とても、他人事のように見られない、すぐ近くにある恐怖だった。
ずっと逃げ続けていた。あの大学生だった夏から。遠くから自分すら見つめる感覚でいたから、他人の機微に気づいても見て見ぬふりができた。それは由香里にとって遠い出来事だったからだ。
きっかけは楽しいことではなかった。けれども、ようやく俯瞰しているような感覚はなくなった。ようやく、自分の身体に戻れたような、そんな感覚がある。
指先を見つめ、それからグッと握り締める。それは確かに自分の手で、遠い現実じゃない。
恐怖心はあっても、現実があるからこれからのことを考えなければならない。
少し迷った末に、由香里は電話を手に取った。登録されていた番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
三コールきっちり鳴ったところで相手が出た。
「山吹さん?」
「はい、山吹です。ご無沙汰しています。色々お世話になったのに、ご挨拶もせずにすみませんでした」
「別に構わないわよ。あの状況じゃ仕方ないから」
気にする必要はないといってくれる相手は渡瀬だ。不義理をしたというのに、渡瀬は由香里が思っていた以上に寛容だった。
「あの、実は不義理にも関わらず電話させて頂いたのは」
「転職の件についてでしょ? 先方が結構急いでいて、できたら来週からでもお願いしたいくらいなの。勿論、事前に見学に行って貰っても構わないわ」
これから先を考えたら、就職先は必須だ。いつまでものんびり家に寝転がっていられる立場じゃない。だからこそ、渡瀬の申し出は凄く助かることだった。
すぐに住所と電話番号、会社の名前を聞いて手近にあった紙にメモをする。家から二駅ほどしか離れていないことに安堵し、お礼を言った。
そして、少しの勇気と共に会社の近況について問い掛けた。本来であれば辞めた由香里が、近況を知る必要はない。けれども、知っておくべきだと思った。過去と決裂するために。
しばらくの間、渡瀬は黙っていた。恐らく、説明すべきか悩んだのだろう。守秘義務があるなら、聞かないと言えば、渡瀬はそれを即座に否定した。そして、また少しの間、黙り込んでしまう。
話し出した渡瀬は、らしくもなく酷く歯切れが悪かった。それは言いたくないというのではなく、言葉を選んでいる様子だった。
江崎は翌週には大阪支店へ移動したらしく、新部長が支店から呼ばれたらしい。そして、大々的な改変が行われた。松本と相沢は解雇され、営業部から三割近い数の退職届けが提出されたらしい。渡瀬が言うには、退職者はさらに増えるだろうとのことだった。
それから、課長も総入れ替えとなった。空峰は閑職にまわされ、三課課長だった大内も左遷された。そして一課の人間は、ほぼ左遷されたらしく、今は二人ほどしか残っていないらしい。
五十人体制だった営業部は、三十人以下になり、三課がなくなり二課体勢となったらしい。
相沢については、一度は勾留されたが結局釈放されたらしい。確かに碓井と付き合っていたことは認めたが、殺人をほのめかすことはしなかった。証拠不十分ということもあり、罪に問われることはなかった。
それを聞いた時、由香里は背筋が寒くなった。少なくとも、あれだけの男を手玉に取り、営業部を裏で操作していたのは間違いなく相沢だ。
今回の事件が起因して、何人もが家族を失ったらしい。自業自得と思わなくもないが、それでも怖いと思った。
「もう二度と会いたくないわ」
そう言った渡瀬の声は酷く疲れたものだった。けれども、由香里もそれは同意見で、もう二度と会いたいと思わなかった。
松本に関しては、詳しい事情は教えて貰えなかったが、殺人未遂ということで起訴された、ということだった。
恐らく、事件は全て終わったのだと思う。由香里が知りたいことは全て知り得た。ただ、松本のことだけが引っ掛かりはしたが、いずれ近い内に会いに行き、話しを聞きたいと思う。
「渡瀬さんは、会社に残るんですか?」
「さきは長くないと思うけど、最後まで残るわ。最初から見ていたから、きちんと最後まで見つめていくつもり。後手後手になって本当に悪かったと思ってるの。せめて野口さんの時にどうにかできれば、こんなことにならなかったのに……」
後悔の強く滲んだ声に、由香里はかける言葉もない。うわべだけの慰めであれば口にすることもできる。けれども、渡瀬もそんなことは求めていないに違いない。
また後日連絡することを伝え、渡瀬との電話を切った。途端に大きなため息が零れた。少し離れたところでは、母親が心配そうな顔をして見ている。
だから、疲れた顔ながらも心配しないで欲しいという言葉と共に、小さく笑みを浮かべた。
まだ、立ち直るには時間が掛かる。けれども、心配をさせないために笑顔を浮かべるくらいのことは、近いうちできるようになるに違いない。
唯一、心残りなのは松本のことだ。
松本は倉田のことが好きなのだとばかり思っていた。けれども、殺人未遂ということは、松本には殺意があった、ということだ。恋人ではなく好きだった人、それだけの相手のために殺意が生まれることはあるのだろうか。
それを考えると酷く不自然な気がした。でも、それは松本に聞けば分かることだろう。
すっきりはしない。けれども、これが幕切れなのだろう。
恐怖心はまだ消えていない。けれども、それは時間が解決してくれるに違いない。だから、相変わらず心配そうな顔をする母親に、きっぱりと告げた。
「私、もう少しこっちで頑張ってみる」
それに対して、母親は少しだけ寂しそうな顔をした。てっきり疎まれているとばかり思っていたから、そんな顔をされるとは思ってもいなかった。
「自分で決めたなら頑張りなさい。でも、辛くなったら、いつでも帰ってらっしゃい」
その言葉は、由香里の中にあった棘を少しだけなめらかな物へと変化させてくれた。

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