悪意の回廊 エピローグ

「山吹! 伝票どこだ」
「社長の未決算箱の中にあります」
「……おっ、あった、あった」
「山吹さん、昨日の発注書の控えが見つかりません! ど、どこに」
「バインダーに挟んでましたよ」
「あったー! ありがとう!」
慌ただしい社内で、由香里は微かに笑いながらも、再びパソコンへ視線を戻す。けれども、視線を感じて顔を上げれば、窓際に座る社長がニヤニヤとこちらを見ている。
「まだ何かありますか?」
「この間出した課題はできたか」
由香里の関わったことであれば、大抵のことは答えられる。けれども、さすがにこの問い掛けに由香里は言葉を詰まらせる。
だからといって、黙っている訳にもいかず「できていません」と答えた。途端に近づいてきた男は由香里のデスクに手をついた。
「今週末までにデザイン一点。必須事項だから忘れるなよ」
「……はい」
既に先週から口うるさく社長から言われているだけに、忘れた訳ではない。けれども、元々デザインなんてやったことがないのだから、進捗状況は悪い。
事務の仕事をしているから、ということは言い訳にできないし、したくない。正直、この会社に入るまで、自分がこんなに負けず嫌いなのだとは知らなかった。
「山吹は追い詰めがいがあるよなぁ。追い詰めれば追い詰める程、面白いことしてくれるから」
「だからって、不用意に追い詰めないで下さい」
そんな由香里の答えに、社長は器用に片眉を上げるとカラカラと笑いながら自席へと戻ってしまう。
慌ただしい社内。少ない社員数。それが由香里の新しい職場だ。
事件があり、退職してから半年が経った。渡瀬に紹介された職場は、デザイン関係の仕事場だった。
見学の時点で内定を貰い、来週の入社までに自由書式で書類を三点作ってくるように言われた。
別にそれに異を唱えることもせず、自宅のノートパソコンで言われるままに作り、翌週の入社時に社長へ提出した。
一応、当初の予定通り事務員として入社した。だが、ここ三ヶ月くらいは、デザインを提出するように課題を出されている。
入社時に提出した自由書式の書類を見て、どうやら会社としては由香里を事務員という立場だけに置くつもりがないことが分かる。
社員数八人という職場は、今までの職場に比べたら全く違うものだ。社長から一番下である由香里まで、風通しは抜群にいい。むしろ良すぎて、大人しくしていれば巻き込まれるばかりだ。
現社長は渡瀬の甥らしく、年齢も二十八と由香里と近い。それで起業するのだから凄いバイタリティだと思う。
ざっくばらんとしたタイプの社長は、由香里にとって唖然とさせられる対象ではあったが、心機一転という意味では良かったのかもしれない。
後日、渡瀬と会った時に、少し前から素朴に思っていた疑問を投げてみた。
「渡瀬さんが入っても良かったんじゃないですか?」
「若い人が集まる会社なんだし、私が入ればお目付役にしかないでしょ。身内だとあの子も会社を萎縮させてしまうから」
確かに風変わりな会社だと思うし、社長もどこか変わり種だ。会社に入社したからこそ分かる、渡瀬の言葉でもあった。
時計を見れば、丁度二時になる頃だった。操作途中だった書類を保存すると、由香里はパソコンの電源を落とした。
「あれ、山吹さん、今日はフレックスですか? 珍しいですね」
声を掛けてきたのは、去年入社というデザイナーの一人だ。金色の髪は最初こそ度肝を抜かれたが、既に由香里も慣れてしまった。
パンク風の服装で出社する彼に、社長は文句を言うことはない。ただ、趣味が悪いとは言っていたが……。
ただ、それだけ自由度の高い職場ともいえる。
最初こそ、どう対応しようかと思っていたが、見た目の派手さと裏腹に、人懐こい性格の彼は、立ち上がった由香里を情けない顔で見上げてくる。
「ちょっと用事があってね」
「あぁ、今日中に見積もり依頼流そうと思ってたのに」
「それだけ作ってからにしよか?」
「うー、そしたら」
「人が用事あるって言ってるんだ。無茶言うな。山吹、気にしないで帰っていいぞ。そもそも、山吹がこの時間に帰ることは、ホワイトボードにも書かれてるんだしな。それまでに出さなかった奴が悪い」
「でも」
「甘やかすな」
強い口調で社長に言われてしまえば、それ以上由香里が口を挟めることではない。だからといって、その場を立ち去るには心残りもある。
チラリと横を向けば、両手を合わせて謝る彼がいて、由香里としても困ってしまう。
「すみません、俺のせいで。明日でも大丈夫です。でも、明日、朝一でお願いします」
謝罪の言葉に続いて、今度は拝まれてしまい、そんな彼の態度に由香里は少しだけ笑ってしまう。
「分かった。じゃあ、明日朝一に作るから」
「はい、お願いします。お疲れ様でした!」
彼の声に続いて、あちらこちらからお疲れ様でした、という声が掛かる。それに対して、由香里も挨拶を返してから職場を後にした。
フレックスという勤務体系をとっている会社だが、普段の由香里であれば、九時五時という時間で出社している。こうしてフレックスを使うのは、出社して以来、初めてのことだった。
用事がなければ、使う予定のないフレックスだったが、こういう時には制度に助けられる。
駅前から電車に乗ると、電車を乗り継ぎ、予定通り最寄り駅へと到着する。時間厳守ということもあり、かなり余裕をもって出てきた。そのため、駅近辺で時間を潰すことにした。
知らない街だけに見るもの全てが目新しい。少し歩いてカフェを見つけると、足を踏み入れた。
会社から移動するのに四十分ほど掛かってしまったが、予約時間までまだ一時間近くある。だから、窓際の席に腰を落ち着けるとコーヒーを頼む。
ここから歩いて二十分ほど掛かるが、タクシーで移動するつもりなので、三十分くらいはのんびりできる筈だ。
転職後、こうして出掛けるのは久しぶりのことだ。綾瀬や野口と会うこともあったが、数駅程度だったので、電車に長時間乗ったのも久しぶりだった。
バッグに入っていた雑誌を読んで時間を潰すと、三時過ぎたところで席を立つ。駅前でタクシーを捕まえると、運転手に行き先を告げた。
「東京拘置所へ」
三時半からの面会予約を入れた相手は松本だ。まだ公判中ということもあり、松本の身柄は拘置所にある。
落ち着いたら会いたいと言っていた松本からの伝言を、由香里はようやく果たそうという気持ちになれた。
転職があり、それ以降も幾度となく警察から事情を聞かれた。事件の影をずっと引き摺った生活は精神的に厳しいものがあった。
それでも時間が経つにつれて、少しずつ精神的余裕も出てきた。それもあり、ようやく松本の話を聞いてみたいと思えるようになった。
今回の事件の関係者で会話をするのは野口だけだった。でも、先日待ち合わせに現れたのは高井だった。野口からの伝言で、しばらくは距離を置きたいと言われた。
高井経由だったが、相沢が不起訴となったことで、精神的にダメージを受けたらしい。気持ちは分からないでもない。
渡瀬と話すこともあったが、主に転職についてであって、事件そのものについて口にすることは余りなかった。
江崎とは退職した後、一度も会話を交わしていない。江崎が今、どう思っているのかは知らないが、少しは後悔すればいいと思う。そう思ってしまう由香里は、まだ心の奥底にドロドロとしたものが折り重なっているようで、ゆるく首を横に振って思考を投げた。
人は人、自分は自分。そう言い聞かせてきた。理不尽さは幾らあっても、自分の中で解決していかなければならない。そうでなければ、いつまでもひきずるだけだ。
分かっていても、まだ時間が足りていないのかもしれない。
タクシーが止まり、会計を済ませて地に足をつける。それから東京拘置所の前で由香里は立ち尽くした。
予想していたよりも近代的な建物は、入口から見ればオフィスビルと変わらない。ただ、建物の下半分を覆うように、高い壁が立ちはだかり中は見えない。
中へ入ると、書類を書かされて病院の待合室のような椅子に座って待つしかない。正面にはテレビがあり、その上に電光掲示板があって、ポツポツと明かりがついては消えていく。
数十分と経ち、ようやく由香里の番号が表示される。金属探知機と手荷物検査を終え、ようやくエレベーターに乗り移動すると、係員の指示で面会室に入った。
入った瞬間、閉塞的な人を威圧する空気が流れる。指示された椅子に座って待っていれば、奥の扉から松本が姿を現した。
会社にいた頃とは随分と雰囲気が違う。何故か考えた時、いつも会社で会う松本はスーツ姿で、髪なども小奇麗にまとめられていたからだと分かった。
「ようやく話すことができて良かった」
「こっちこそ来るのが遅くなってすみません」
「別にいいよ。あんな事件の後だったし、来てくれただけでも少し救われる気がするよ。時間がないから端的に話す」
そう言った松本だったが、それを口にするまで数秒の時間を要した。
「倉田はね、俺の妹だったんだ」
「妹……? でも、履歴書では」
「うちの父親さ、もう五回離婚してるんだよね」
五回とはまた剛胆なことだと思う。苦く笑う松本だったが、どこか諦めたような顔をしている。
「確か三回目の結婚で、倉田と一時期兄妹になったことがあるんだ。お互いに中学生だったし、余り話すこともなくて、当たらず障らずって感じだった。だから、倉田が入社してきた時も、お互いにすぐには気づかなくてさ。
お互いに話すようになったのは、この一年くらいだった。でも、色々あったことは聞いてた。山吹さんに言っても今さらかもしれないけど、倉田が後悔してたことも聞いたし、あいつの嘘もいくつか聞いた。
あいつさ、山吹さんに嫉妬してたんだよ。渡瀬さんに認められているから」
「それが原因でいじめに荷担したんですか」
「噂に流されて馬鹿なことをしたって言ってた。だから、あの時、相沢がまるで倉田のことを道端の石ころのように言うのが許せなかった。人を殺したいと思ったのは、あれが初めての衝動だった。
噂に流されるような馬鹿だったし、噂を巻き散らかすような馬鹿だったけど……妹だったんだ」
別に松本は好意を持てる相手ではない。嫌がらせもされたし、倉田のような付き合いがあった訳でもない。由香里の感情は至極全うな感情だと思う。
けれども、押し殺すような、松本の声が胸に痛い。由香里にも妹がいるが、もう何年も会っていないし、由香里にとって遠い人だ。
それなのに、数年しか兄妹じゃなかった松本は、倉田を思い人を刺した。あの状況で相沢を殺したいと思ったのは、松本一人じゃない。
もしかしたら、その手にカッターがあれば、斬りかかっていたのは由香里だったかもしれない。だからこそ、好意のない松本の声に揺さぶられるのかもしれない。
「……倉田さん、いい人でしたよ。嫌がらせしたことも謝罪してきたし。私が倉田さんの立場だったら、自分に言い訳つけて謝罪できたか分かりません。逆に巻き込んでしまった形になって、すみませんでした」
頭を下げる由香里に、松本は慌てたように「やめろよ」と言葉を掛けてくる。
少し前から考えていた。あの時、由香里が噂の根源など確認しなければ、倉田は今も殺されることなく生きていたに違いない。そう思うと、こうして倉田の死を嘆く人に謝罪しなければならない気持ちになる。
「違うよ。山吹さんは被害者であって、謝罪の必要なんてないから顔を上げろ。全ては噂に踊らされていた人間が悪い。相沢の言葉を鵜呑みにしていた俺たちがさ。本当に悪かったと思ってる」
逆に今度は松本に頭を下げられてしまい、由香里は困惑気味のまま松本の後頭部を見つめていた。
松本からの謝罪を「そんなこと気にしないで下さい」と言えるほど、由香里の中では消化しきれていない。
全ての元凶は妄想含みに垂れ流された噂が原因だ。そして、踊らされた自分たちは本当に馬鹿だと思う。
けれども、された全てのことを許せるほど、広い心も持っていない。
でも、逃げ道を塞ぐように張り巡らされた噂。そしてそこから始まった事件。その全てがようやく、納得できた気がした。
勿論、細々とした部分は碓井が亡くなってしまった以上、推測でしかない。それでも、由香里の中で、納得できるエンドをつけられる気がした。
顔を上げた松本は、由香里と視線が合うと、気まずげに視線を逸らす。
「もう、会うこともないと思う。俺には謝罪しかできないけど、倉田の分も生きて欲しいと思ってる」
「はい……」
確かに今後会うことはないと思う。だからこそ、何かを言わなければならないと思うのに、言葉は見つからない。いや、もしかしたら、松本に対して言うべき言葉はもう何もないのかもしれない。
全てが納得できた。それが由香里にとって事件の全てでしかない。そして、こういう事件だったという記憶の奥底に刻まれるだけだ。
明日からは事件とは無関係な日常へ戻る。もう、全てが終わったんだと小さく息をついた。
「松本さんも、お元気で」
「あぁ」
松本の判決がどうなるかは分からない。いずれ思い出して調べることもあるだろうけど、既に由香里の中では過去の事件として記憶の片隅に埋めたいと思った。
「時間です」
そんな係員の声で、由香里も松本も立ち上がる。時間としては五分程度の面会。けれども、由香里の中のモヤモヤとした気持ちは随分楽なものになっていた。
お互いに「さよなら」という挨拶だけを交わして、面会室を後にした。振り返ることもせず、由香里はエレベーターへと乗り込む。
預けてあった荷物を受け取り、外に出ると再び拘置所の建物を見つめる。由香里が前に勤めていた会社にも似た、ごく普通のオフィスビル。
もう二度と来る日がなければいい。そう思いながら、由香里は駅に向かって歩き出した。長い塀が続く道を歩いていれば、不意にバッグに入れていた携帯が鳴り出す。
画面を確認すれば渡瀬からのもので、由香里は通話ボタンを押した。
「もしもし、山吹です」
「山吹さん、今日会えるかしら」
「はい、大丈夫です。でもそっちに戻るまで一時間ちょっと掛かりますけど」
「えぇ、構わないわ」
「残業とか平気ですか?」
由香里の問い掛けに電話向こうで小さく笑う気配がする。
「今はね、余り仕事がないのよ。だから、最近残業もないわ」
「すみません。余計なことを言いました」
「別に気にしないわ。それじゃあ店で」
渡瀬の言葉に返事をしてお互いに電話を切ると、由香里は小さくため息をついた。
事務員は入れず、二課分の事務を渡瀬が引き受けていることは聞いていた。それにも関わらず、余り仕事がない、ということは、それだけ営業として上手くいっていないのかもしれない。
確かに、あれだけ事件が立て続けに起きた会社であれば、ある程度取引を避けられても仕方ないかもしれない。それに、こういう状況だから他社も値下げしてでも顧客を掴もうとするだろう。
そもそも、会社自体、上の人間がしっかりしていれば、こんなことにはなっていなかった筈だ。
碓井しかり、空峰しかり、江崎しかり、それよりもっと上の人たちがしっかりしていれば……。
すでに退職した由香里に言えることは何もない。ただ、渡瀬の仕事が続けばいいとは思う。
再び一時間近く掛けて移動し、渡瀬との待ち合わせの店へ到着すると、アイスティーを頼んだ。
さほど暑くない気候だったが、電車内は通勤ラッシュで微妙な熱気に包まれていた。それもあり、少し身体を冷ましたい気分だった。
それから五分もせずに渡瀬は店に到着し、挨拶の後、由香里の正面に座る。渡瀬がコーヒーを頼むのを待ってから、由香里はようやく渡瀬を視線を合わせた。
「今日、松本さんと会ってきました」
「そう。元気そうだった?」
「元気……ではありませんけど、普通だったと思います。それで、倉田さんの兄妹だと聞きました」
「そう……」
渡瀬に驚いた様子はなく、もしかしたら松本から既に聞いていたのかもしれない。
「何だか、これで全部終わった気がします。すっきりはしないけど、私の中で終わりにしていいのかな、という気分になりました」
「関係していた人間はそれがいいのかもしれないわね。野口さんも似たようなこと言っていたわ」
「そういえば、仕事の方、大丈夫なんですか?」
「今すぐ潰れる会社ではないけど、東北支店と九州支店は閉店することになったみたい。本社で辞めた人間が多いから。それに、山吹さんの最後の発言が大きな話題になってね」
「大きな話題、ですか? 私、そんなにおかしな発言しましたか?」
記憶の糸を手繰ってみても、あの日の記憶はまだ恐怖に彩られていて、詳細が上手く思い出せない。相沢に向けられた悪意と、値に濡れた身体。それ以外のことは記憶が曖昧だ。
「大阪支店行きの話し。あの後すぐに江崎部長が大阪支店に行ったでしょ。最初の内は、部長と山吹さんができてたんじゃないか、ていう噂が立ったのよ」
「……また、噂ですか。付き合ってませんよ、本当に」
「私は分かってるわ。でも、他の部の子たちは知らなかったから。でも、それと同時にみんな山吹さんの有能さも知っていた訳。
だから、事件の後始末もせず、有能な人間だけ連れて本社を逃げ出そうとしたんじゃないか、って話しになってね。実際、後始末もしなかったから江崎部長の信用がた落ち。先日降格発表があったの」
それは余りにも意外なことだ。社長の身内である江崎が降格というのは、絶対にないのだと思っていた。
「まぁ、上がこれ以上言われないための見せしめ人事でしょうね。今は江崎課長よ」
そうやって聞くと、やはりあの会社らしいのかもしれない。でも、そんなことをしていれば、いずれ会社としての機能を失ってしまう気がしてならない。
「そうだったんですか。それにしても有能って、そんなこと一度も言われたことなかったんですけど」
「本当は二年前に他の部への異動の話しもあったのよ」
「そうなんですか?」
「えぇ、特に企画が欲しがってたから」
企画といえば、本社内の花形部署だ。あの部署に入りたいが為に努力する社員もいる。そこの事務といえば、仕事量も半端ない。
同期で配属された子たちは、半年に一度あった同期の飲み会にも出席しないことが多かった。
「初耳です」
「私がお断りしたから。でも、こんなことがあるなら、断らなければ良かったって何度も思ってた」
ふと湧き上がったのは、長らく持っていた疑問の答えのように思えた。
「もしかして、渡瀬さんが色々私にしてくれたのは、そのことがあったからですか?」
「それもあるけど……実はね、私の姉が山吹さんが家の隣だったの。篠塚って言うんだけど」
言われて思い出してみるけど、由香里が住んでいるアパートに篠塚という人に心当たりがない。
ふと過去に遡った瞬間、それが大学生の時まで、正確にいえばあの事件が起きるまで、由香里が住んでいた元自宅のことだと分かる。
「……まさか」
「知ってたの。最初から山吹さんのこと。姉に伝えたら、ごめんなさいって。あの子が悪い訳じゃないけど、お付き合いすれば周りの目が厳しくて、つい避けてしまったって」
感情が血の気が引くようにスッと引いていくのが分かる。冷めるというのは、こういうことを言うのかもしれない。
同情だけで渡瀬が自分を見ていたのだとすれば、それは酷く気分が悪かった。
「私、会ったことがあるのよ。大学生の山吹さんに。とっても愛想良く挨拶してくれた。姉から聞いていた話しでも、しっかりした子だって聞いてた。だから、入社式で山吹さんに会った時、本当い驚いたのよ。余りにも変わってしまっていて」
「……そんなに変わってないと思いますけど」
「変わったわ。今みたいに、そんな冷めた目をする子じゃなかった。事件の話しは聞いていたから、あれが原因だってことも知ってた。そして、人間不信が故に同期に馴染めないでいるのも」
その言葉で息が詰まる。確かに由香里は他人と一線置くことで、同期と馴染んではいなかった。それこそ、馴染んでいたのは倉田や野口、内海の三人くらいだ。それでも、踏み込んだ付き合い方はしていない。
実際声を掛けてきたのはあの二人で……まさか。
「あの二人に話したんですか?」
「えぇ、話したわ。そうでなければ、内海くん以外、誰も山吹さんに近づかなかったもの。山吹さん、あなたは他人に対してどういう態度だったか分かるかしら?」
別に他人と一線引いただけで、特別態度に表したことはない。話し掛けられたら話す。けれども、話題を膨らませる努力をしない。
由香里がしたことはそれだけだ。話しにくいと思った人はそれだけで退いていった。そして、由香里はそれで構わなかった。
「他人と一線引くために、他人を下に見てた。常に山吹さんは上から目線だった。誰もそんな人に近づきたいなんて思わない」
「そんなこと……」
上から目線なんて、そんなつもりは全くない。けれども、思い当たる節がない訳ではない。
倉田に対しては男好きだと思って馬鹿にしていたし、野口は八方美人だと思っていた。それが上から目線でなくて何なのか、そう問われたら答えられない。
恐らく由香里の態度は、自分が思っていた以上に表に出ていたに違いない。それでも、あの二人はここ数年、ほどよい距離で付き合ってくれていた。
「倉田さんは途中で色々間違えてしまったけど、山吹さんの過去を知ってるからこそ酷く後悔してたわ。許せとは言わない。でも、あの子たちの努力を見なかったことにはしないで頂戴」
「だって、そんなこと知らずに……」
「そうね、私が勝手にしたことよ。そして二人がそれに同調してくれた。同情かもしれない。でも、それの何が悪いの? 奇麗事かもしれないけど、同情っていうのは別に見下してる訳じゃないの。もう少し、他人に目を向けなさい」
痛い言葉だと思う。でも、少し前の由香里であれば、聞き流していたに違いない。あの事件があったから、倉田や野口のことを知った。だからこそ、渡瀬の言葉は痛いのだと思う。
「私にとって、山吹さんも野口さんも子どもみたいなものよ。ずっと心配で見守ってきた。もう見守ることはできないけど、強くなりなさい。そしてあの二人に、いえ、内海くんも含めて三人に感謝しなさい」
事情を知り、それでも傍に居てくれた倉田と野口。そして恋心はあったけど、同期との橋渡しをしてくれた内海。確かに由香里はその三人には、絶対的に感謝しなければならないのだろう。
「さて事件は終わったわ。しばらく、私とも会わない方がいいわ」
「私のことに呆れたんですか?」
とっさに出た言葉は、渡瀬を引き留めるものだった。渡瀬に痛いところを突かれ、気持ちが弱くなっているのかもしれない。
けれども、そんな由香里の問い掛けに、渡瀬は緩く笑みを浮かべた。
「違うわよ。心配だけど、近くにいると手を貸してしまいそうになるの。でも、今それをすれば山吹さんを弱くするだけだわ。それに、今は傷を広げる必要はないでしょ。事件を過去にできたら、野口さんも誘って一緒にお茶でもしましょう。山吹さんにも野口さんにも、そして私にもまだ精神的な傷口を癒すための時間が必要だわ」
あと一歩が踏み出せたら。その後悔は由香里の中にもあるし、渡瀬の中にもあるのだろう。でも、過去には戻れない。
傷口は生々過ぎて、お互いに傷の舐め会いしかできない。それは癒やしになることもあるが、傷口を広げることもある。渡瀬が言いたいのはそういうことなのだろう。
野口も似たような気持ちなのかもしれない。そして、由香里も感情は納得せずとも理解できることだった。
「今まで色々有難うございました。本当に……」
「私はお礼を言われるようなことは何もしてないわ」
「でも、職場を紹介して貰って第二の人生を歩き出したところです。本当に感謝しています」
「頑張りなさい。過去を言い訳にして臆病にならないようにね」
それだけ言うと渡瀬は立ち上がり、去り際に由香里の肩を軽くポンと叩くと伝票を持って行ってしまう。
由香里が名前を呼んでも、渡瀬は振り返らない。だから「ごちそうさまでした」という言葉に代えれば、ようやく渡瀬が振り返る。
朗らかな笑みを浮かべた渡瀬は小さく手を振ると、そのまま由香里の視界から消えた。
多分、これからもあの会社に残るのであれば、渡瀬は大変に違いない。それでも、こうして自分のために時間を割いて説明してくれた渡瀬に感謝したい。
言われなければ分からなかった自分の傲慢さは、渡瀬が指摘してくれたからこそ知ったことだ。ここで指摘されなければ、一生、由香里には分からなかったことかもしれない。
少なくとも、そんな嫌な部分を指摘してくれる友人はいない。
事件に関わりのあった人たちが離れていく。けれども、それでいいのだと思えた。不安はまだあるけど、結局は自分の中で解決しなければならない。
目の前には半分残ったコーヒーと、すっかり氷の溶けたアイスティー。でも、それ以上口をつける気持ちにもなれず、由香里は席を立った。
店を出れば、既に空は藍色になり月が浮かんでいる。
誰も自分を理解してくれないのだから、理解する必要はないと切り捨てた。でも、由香里が思っていたよりも、周りの人たちは由香里を心配していて、ずっと温かく見守ってくれていたことを知った。
恐らく、一番臆病だったのは由香里だったのかもしれない。
事件は過去に。そして由香里は臆病から一歩踏み出すために、今日も変わらない雑踏を歩き出した。

The End.

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