悪意の回廊 Act.09

誰もが疑心暗鬼になり、噂が飛び交う数日を過ごし、ようやく気の抜ける週末となった。休みである土曜日、由香里は会社近くにあるオープンカフェでのんびりとアイスコーヒーを飲んでいた。
既に暦上は秋であるのに、外でジッとしていれば汗ばむほど暑い。そんな中、由香里が外にいたのは、先日約束していた通り、野口と会うためだった。
既に碓井が自殺し、由香里への嫌がらせもなくなった今、野口と会う意味は余りないように思えた。けれども、気乗りしないからといって、約束を覆すのも釈然としない。だから、由香里は待ち合わせまでの時間、オープンカフェで流れる人波をぼんやりと眺めていた。
野口が辞めてからの一ヶ月、色々なことが変化した。由香里の社内での立場は徐々に変化し、今や危ういところまで来ている。そして部内で三人の人が亡くなっている。
嫌がらせをされていた時には、逃げるようなことはしたくないと思って留まった。けれども、由香里が知らずに巻き込まれている事態に、退職への気持ちが傾いていた。
江崎の誘いに乗るつもりもない。けれども、現状回復は難しい。これ以上、たかが仕事場の環境で煩わされるのはうんざりする。
仕事をして給与を貰う。それだけの場所なのに、煩わされるのは面倒以外の何ものでもない。
それに何か見えない意志に絡め取られるような、そんな息苦しさから逃げ出したくなってきた。
今回の件で一番得をしたのは江崎だろう。けれども、江崎一人がそれを仕組んだとは思えない。江崎にしてみれば、今回一連のことはどちらかといえば運が良かった、程度のものだ。
だったら、一体何が不服なのか。それは由香里自身もよく分からない。
内海と倉田を殺したのが碓井だった。ただ、その理由は分からない。分からないけれども、終わったのだからそれでいいと思う。そう思いたいのに、モヤモヤとした気持ちがわだかまり、由香里を納得させない。
碓井が由香里を殺そうとした理由は分からない。けれども、その碓井は自殺してこの世にいない。だから、もう何もないと思ってもいい。それなのに、ピリピリと警戒している由香里は、ただ日常ではない毎日に神経が高ぶっているだけなのだろうか。
それとも、碓井が由香里を殺そうとした理由が分からないから、碓井と同じ理由で殺意を持つ人間が他にいると警戒しているんだろうか。
考えをまとめたいと思っているのに、何もかもがはっきりせず由香里は小さくため息をついた。
不意に人の気配を背後に感じ、勢いよく振り返ればトレーを持った女性が由香里の後ろの席に座るところだった。
前はなかったが、こうして人の気配にも敏感になっていて外出するのは酷く疲れる。駅のホームや満員電車、それら全てが由香里の過敏になっている神経を向きだしにしていく。
もう、全部投げ出したい……。
そんなことを考えながら再びグラスを手にしたところで、視界の端に野口が映る。こちらに歩いてくる野口は、辞めた時に比べたら随分と穏やかな顔をしていた。
「暑いのに待たせたみたいでごめんね。中で待ってても良かったのに」
「時間的にお昼取るし移動するかと思って」
「それじゃあ、ラトルにでも行く? 多少、込み入った話するつもりでしょ?」
会社近くだったこともあり、馴染みとなっている店の名前を野口が上げる。それに賛同するように、由香里も椅子から立ち上がった。
「うちの状況、誰かに聞いた?」
「少しだけ聞いたよ。それに、ニュースで見たから」
確かにあれだけ立て続けに人が亡くなり、犯人自殺ではニュースにだってなるだろう。しかも、野口が辞めてから一ヶ月しか経っていないのだから、知っている名前を聞けば気にもなる。
野口の持っていた日傘に入れて貰いながら、二人並んで歩く。ビジネス街ということもあり、平日に比べたら人気は少ない。歩いて三分ほどで到着したラトルは、営業こそしていたがランチの看板はなかった。
二人揃って店内に入れば、やはり人もまばらだ。喫茶も兼ねているので二人席のテーブルは狭い。昼食を取るつもりだったので、四人席に腰を落ち着けると、すぐさま二人して注文を済ましてしまう。
全てを済まし、ようやく落ち着いた気分で顔を上げる。正面に座る野口は、一ヶ月ほど会っていなかったけれども、随分と落ち着いた様子だった。
痩けていた頬は柔らかいものになり、目の下の隈は見当たらない。口元に穏やかな笑みを浮かべる様子は、由香里の知っているものだった。
「野口さんは、辞めて正解だったみたいね。今は何してるの?」
「今は奥さんしてるの」
見ている由香里がくすぐったくなりそうな幸せそうな笑みを浮かべた野口は、左手を軽く掲げた。確かに薬指には銀色のシンプルな指輪がはまっている。
確かに野口と倉田は結婚したいと言っていた。けれども、辞めて一ヶ月、まさか野口が結婚しているとは思ってもいなかった。
「おめでとう。幸せそうだし、良かったね」
「相手、誰か聞いてくれないの?」
「……聞いていいの?」
「高井さんよ」
「……え?」
少なくとも、由香里が倉田から聞いた話しでは、愛妻家だった高井が、野口を強姦して退職したと聞いている。それが何があって野口と高井が結婚しているのか分からない。
でも、よく考えてみれば由香里が聞いたのは、あくまで噂だ。噂と事実が違うことなんて、由香里だって身に染みて分かっている。
「私と高井さん、もう一年以上前から付き合ってたの」
「え? でも奥さんがいたんじゃ」
「いたけど、行方不明だったの……もう七年前から」
「七年? だって愛妻家だって」
「高井さん、そう言うしかなかったの」
そう言われてもあっさり納得できる筈もない。噂に疎い由香里ですら、高井の愛妻家ぶりは耳にしたことがある。そんなことを言われても俄に信じられない。
「私の実家、徳島なの。奥さんの実家も徳島で、うちの近所だった。だから、高井さんの奥さんが出て行った話は結構有名だったの。でも、高井さんが旦那さんだったていうのを知ったのは三年前。私が実家に帰省した時に偶然高井さんと会って、誰にも言わないっていう約束で話しを聞いたの」
そんな偶然あるのだろうか。疑うことが常になりすぎて、頭の中に野口の言う内容が入ってこない。いや、入ってきてるけど理解しがたい。
「でも、行方不明ならそう言えばよかったのに。何も愛妻家なんて嘘までつかなくても」
「必要だったの、あの会社では。正確にいうと一課には」
「どういうこと?」
「一課って妻帯者多いと思わない?」
言われてみれば、確かに妻帯者は多いと思う。でも、一課は花形部署で給与すら違う。二課や三課も恐らく普通の営業職よりも給与はいいが、一課は飛び抜けて給与がいい。中には二倍近く違う社員もいる。
でも、それだけ給与があるなら結婚を決断する人間が多くいるのも納得できる。だから別段不思議に思いもしなかった。
「多いけど……それが何かあるの?」
「一課は結婚で取引先を掴むこともあるの。高井さんも空峰課長の勧めで縁談を受けて結婚した口」
「……ごめん、色々理解できないんだけど。だって、元々彼女がいる人だっているでしょ?」
「そういう人は飛ばされてたから」
「それは営業成績が悪かったとかじゃなくて?」
「表向きはそれが理由。でも、空峰課長が裏から手を回して、手柄横取りみたいな真似がまかり通っていたの」
「どうして野口さんは黙ってた訳?」
「言える訳ないじゃない……先導してるの社長だったんだから」
「……腐ってるわ」
苦々しく呟いた由香里に、野口は苦い顔で俯いた。上が動いている以上、野口を責めるつもりはない。
ただ、社長自身が社員を駒の一つとしか考えていないことも分かる。そして、社長の血縁という江崎が同じ考えでもおかしなことではない。むしろ江崎にとって、それは当たり前のことだったのかもしれない。
「高井さんも社長が間に入って結婚したの。最初の数年は奥さんとも上手くいっていたみたい。でも、奥さんが行方不明になって実家と掛け合ったら、行方不明の件は会社に言わないで欲しいって」
「何でそんなこと」
「不況の波で会社が傾いていた時期だったみたい。うちと取引があるってだけでネームバリューが役に立つからって。お願いされて、高井さんも行方不明になったこと言えなかったらしくて」
確かに新規取引先を見る時、相手の取引先を見ることはよくある話しだ。それこそ、その会社を足掛かりにして、もっと先にある取引先と繋ぎをつけることだってあるくらいだ。取引先を重視するのは別に珍しいことでもない。
「でも、そんなの、本当に人身御供じゃない」
「高井さん自身、住居とか提供して貰っていて余り強くは言えなかったみたい。それに、奥さんの実家とは家族同然のお付き合いがあったみたいで。何年かして、実家の方が落ち着いた時、今度は高井さんの営業成績がふるわなくなっていて、高井さんの方が奥さんの実家に言って行方不明の件を伏せて貰ったみたい」
「根本的なこと聞くけど、高井さんの奥さんの実家って」
「クインティース。うちの大手取引先会社」
「そういうこと。確かにクインティースの婿ともなれば、うちの社長だって早々に切れないか」
一課は営業成績がふるわなければ、下から順番に飛ばされていく。二課のようなほのぼのとした空気ではなく、同じ部屋にあっても一課は戦場だ。
そんな中で大手クインティースから発注を貰っているのであれば、上層部は高井を切ったりしないだろう。
「でも、実家の方がよく黙ってくれていたね」
「むしろ実家の方が高井さんに負い目があったみたい。実家が落ち着くまで何年も待って貰っていたみたいだし、私もクインティースの会長に謝罪された」
「……ごめん、繋がりがよく分からないんだけど。高井さんが営業成績振るわなくて、奥さんの実家に伏せて貰っていたんだよね。それなのに、何で野口さんが謝られることになったの?」
「実家の方は、早々に行方不明の件をおおっぴらにできたら、何事もなく私と高井さんが結婚できると考えていたみたい。だから、その謝罪。……ここまで色々話したけど、実際、そういう理由で辞めた訳じゃないんだけどね」
「あぁ、例の噂……」
つい口をついて出てしまった言葉を慌てて呑み込む。けれども、野口は苦笑するだけで咎めるようなことはしなかった。
「ねぇ、私の噂ってどこまで聞いてる?」
「本人前にしては言いにくいけど、高井さんに強姦されて辞めたって聞いた」
「その噂、相沢さんから聞いた?」
意外な名前が飛び出してきて、思わず由香里は眉根を寄せる。そんな由香里の反応に、野口の顔も真剣なものになる。
「違うの?」
「むしろ、何でそう思ったのか教えて欲しいかも」
「噂を流した本人が相沢さんだからよ。彼女、私が高井さんと付き合っていたこと知ってたの。勿論、他にも知られている可能性はあるけど、そういう噂を喜々として流すのはあの子しかいないと思うけど」
少なくとも、由香里の中で相沢というのは好きなタイプではない。責任取れなくて泣いてごまかすようなところも、男に対するアピールが盛んなところも、どうにも好きになれない。
確かに倉田も男好きなタイプだと思っていたけど、嫌悪感というものはない。何故なら、彼女は一度だって仕事場にそれを持ち込むことはなかったし、今となっては内海が好きだったことも知っている。
だからといって、相沢が噂好きということには繋がらない。野口と由香里の中にある相沢像がどうにも結びつかない。
「正直、心配してたの。あの子が山吹さんの下につくって聞いて」
「どういうこと?」
「倉田さんが亡くなった今、山吹さんも色々と噂されてるんじゃないの?」
確かに噂はされていると思う。実際、由香里の耳には届かないけど、影でヒソヒソとされているに違いない。けれども、野口が言うように倉田が亡くなってからではなく、それ以前から由香里は噂をされていた。
野口が言っていることが、嘘なのか本当なのか分からない。本当に言っている全てを信じて良いのか、それが分からないから聞きたくない。けれども、聞かなければ絶対に気になる。
じれんまに苛まれながらも、由香里が息を詰めたところで食事が運ばれてきた。
由香里が頼んだペペロンチーノと、野口が頼んだアラビアータがお互いの前に置かれる。最後にアイスコーヒーを置いて店員は立ち去ってしまう。
目の前にあるスパゲティを見つめながら、由香里は掌を軽く握り締めた。ひんやりとした空調の中にも関わらず、掌は汗を掻いている。緊張しているし、続々と明かされる色々なことが、由香里の予想外だからだ。
そして、それを信じるか、信じないか、その決断に揺れる。
「まずさきにご飯食べよう。それからでも話しはできるから」
野口に促され由香里もフォークを手に取る。少し混乱気味だから、こうして話しの間を空けるのは悪くない。そう思ったから、それ以上言い募ることなく、食事を取り始めた。
その間にした会話は、今の野口の現状だった。とはいっても、野口が話しているのを由香里が聞くという感じだ。それは昔から変わらなかったし、倉田と三人で食事をしている時から、由香里は聞き役だった。
ほとんどのろけのような話しではあったけど、少なくとも今現状、野口が幸せらしいことが聞けてホッとした気分にななれた。それほど、野口が辞めた時の表情が酷かったからだ。
もし、会社を辞めたら少しは気が楽になるのだろうか。幸せかどうかはともかく、この閉塞感からは抜け出せるのだろうか。
そんなことを考えてしまうくらい、目の前にいる野口は幸せそうだった。
けれども、このまま何も分からないままにはしておけない。とにかく由香里は何が起きているのか知りたかった。少なくとも、碓井が由香里を殺そうとした理由くらいは知りたいと思えた。
食事を終えてアイスコーヒーを飲んですっきりすると、由香里は再び正面にいる野口へと視線を向けた。
「正直言うと、野口さんの話をどこまで信じればいいのか分からない。でも、話しの全てを聞いてから判断したいと思っている。野口さんの思う相沢さんの印象ってストレートに言うとどんな感じ?」
「そうね、誇大妄想を持った人、かな?」
「……野口さんにしては随分辛辣だね」
「相沢さんとはそれなりのことがあったから。たった半年だったのにね。因みに私から見た山吹さんは、境界線を越えない人」
確かに由香里の中で人の分類というのは、かなりきっちりと分けられている。少なくとも野口や倉田は会社の知人であって、そこから飛び出すことはない。そう分類分けされてるのだから、相手がそう感じるのも当たり前のことかもしれない。
「自分が引いた一線からは絶対に出てこない人。人との関係もそうだし、自分の中にある感情とかも。倉田さんが言ってた。ストイックで格好いいけど、生きていくには大変そうだって」
「倉田さんか。格好いいと言われる程じゃないんだけどね。ただ臆病なだけで」
「少なくとも臆病とは思えないよ。そうじゃなければ、もうとっくにあんな会社から逃げ出してるよ、私みたいに。実は聞いてるの、山吹さんの現状」
「聞いてるって、誰に?」
「山吹さんから電話があった後に倉田さんから連絡あったの。山吹さんにしてしまったこと。それから……私の噂の真偽の確認」
ここで言う噂の真偽というのは、野口の噂の真偽ということなのだろう。
「私、はっきり言ったわ。噂を流したのは相沢さんだって。それで倉田さんは納得した」
「どうして……それだけで納得できるとは思えない」
「山吹さんには言ってなかったけど、あの子色々問題ありだったの。それもあって渡瀬さんにも相談してたんだ。結局、面倒みきれなくて辞めちゃったけど」
辞める前の野口は、本当に病気療養という言葉がぴったりとくる程やつれていた。顔色も悪く、精神的に疲れていたことも伺えた。でも、それがあの相沢が起こしたことだとは信じがたい。
「どういう意味で問題ありだったの?」
「あの子の印象、さき言ったよね。誇大妄想を持った人って。自分が本気になれば何でもできると信じてる子だった。だから、私が注意しても全然気にしない。だから、同じミスを何度でもする。二度目だからきつくしかれば、周りに泣きつく。でも泣きついて庇ってくれた人の後ろでヘラヘラ笑ってるような子だった」
「確かにタチは悪いけど、ただ子どもだっただけじゃ」
「子どもが誰これ構わず男に媚び売る? 多分、うちの部であの子と寝たの、一人や二人じゃないわよ」
生々しい話しになり、由香里は眉をひそめる。倉田が言っていた相沢と碓井が付き合っていた、という噂が本当だったのか、それとも、野口が噂を元にそれを口にしたのか判断がつかない。
だから疑わしげな視線を投げていたに違いない。そんな由香里に対して、野口は少しだけ困ったように笑う。
「見たから。あの子がうちの課の人間とホテルから出てくるの」
「……独身の人?」
「家庭持ち。因みに噂を流したのは私じゃないし、見たことしか言うつもりないよ。あの子と碓井課長が付き合ってるっていう噂があったみたいだけど、私じゃないし私は知らなかった。少なくとも、噂は知ってたけど聞いただけだしね」
「その噂も倉田さんから?」
「そうだよ。倉田さんから聞かれたから答えたの。倉田さんも相沢さんに不信感を持ってたみたいだし。あの子の噂に関しては、恐らく他の誰かが見たんじゃないのかな。隠れてどうこうっていう感じじゃなかったから。堂々としたものだったわよ。目が合っても、むしろ勝ち誇ったような顔してたし」
ぐずぐずとすぐ泣くような相沢の勝ち誇った顔が、すぐに想像できなくて眉根を寄せる。やはり、由香里の中にある相沢像と野口の中にある相沢像はかけ離れすぎている。
「私ね、嘘はつかないよ。噂に流されるつもりもない。だって、山吹さんそういうのダメでしょ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、私と倉田さんが噂話に花咲かせてる時、嫌そうな顔してたでしょ」
「……してるつもりはなかったけど」
「無口になるから山吹さんはすぐに分かるよ。だから、私も倉田さんも山吹さんの前では当たり障りない程度の噂話しかしないようにしてた。全然、噂話しないのも変だしね。……倉田さんも本当に後悔してた。噂話なんかに流されて山吹さんのこと八つ当たり対象にしたこと。気持ちは分からなくないんだけどね。倉田さん、内海さんのこと好きだったし」
「知ってたの?」
さすがに驚いて野口を見つめてしまえば、野口は口元に小さく笑みを浮かべた。
「本人から聞いてた。それで足掻いてた。山吹さんに嫉妬するのはお門違いだからって」
「言ってくれたら良かったのに……」
「言える筈ないよ。だって、そんなみっともない真似できないから。でも、倉田さんは内海さんが殺されたことで、ちょっと箍が外れちゃったみたい。本当に山吹さんにしたこと後悔してたし、私に電話してきた時も泣いてた」
倉田と話しをしていた時、淡々と話しは済んだと思っていた。けれども、由香里が見えていたよりも、ずっと倉田は反省していたのかもしれない。それを突き放した言い方しかできなかった自分に嫌気がさす。
境界線を越えない人。それは他人の感情に踏み込めない弱さだ。踏み込まれたくないから踏み込まない。踏み込まないから知らないけど、知らないままで見過ごしていることは沢山あるのだと知る。
「……もっと、きちんと話しを聞けば良かった」
「別に責めてる訳じゃないの。ただ、倉田さんが本当に反省していることだけは知っていて欲しかったの。そして、山吹さんの噂の根源を倉田さんなりに突き止めようとしてたことも。だから、伝えたよ。相沢さんのこと」
「……それ警察に伝えた?」
由香里の問い掛けに、野口は答えることなく微かに視線を落とした。それから緩く首を横に振った。
「どうして……」
「警察から連絡があって、倉田さんから電話が掛かってきたことは伝えた。でも、内容までは伝えてない。もう、あの会社に関わりたくなかったの。それに相沢さんにも。あの子、本当におかしい子だから……」
「おかしい?」
「だって、高井さんがあの子に靡かなかったから、だからあんな噂立てた子だよ? 多分、私のことも気に入らなかったんだと思うけど……」
「だったら噂なんて否定すれば」
「それよりも、私があの子の嫌がらせに疲れちゃったの。大切なデータ消したり、書類をシュレッダーにかけたり」
「まさか、気に入らないからとか、そんな理由で嫌がらせしたりしないでしょ。だって、野口さんの方が先輩なんだし」
「あの子にとって、先輩後輩なんて関係ないと思う。だって、自分は仕事ができると思ってるんだから」
何だか話しを聞いてるだけでも、気持ち悪くなってくる。これが上司が嫌がらせをするならパワハラと言える。けど、同僚への嫌がらせというのは、どう受け止めればいいのか分からない。
俗に言う社内いじめとは違う。噂に振り回されてとかではなく、ただ、感情のままにそこまでの嫌がらせをするのは度を超えていて気持ち悪い。
「でも……上司に言えば」
「勿論、空峰課長にも言ったし、江崎部長にも直談判した。どちらも何もしてくれなかった。それなのに、あの子の嫌がらせはどんどん酷くなる。ノイローゼになるかと思ってた。そんなところに高井さんの噂もあって、だから辞めたの。今思えば、江崎部長は分からないけど、空峰課長はあの子と関係があったのかもしれない」
確かに江崎であれば、多少の色仕掛けをしたところで転がせる相手ではないと思う。
ただ、空峰課長は無類の女好きだ。男性社員とヘルスやソープの話しで盛り上がっているのを耳にしたことがある。そんな空峰だから野口の話を否定することはできなかった。
「怖いの……あの子、普通じゃなさすぎて怖いの。だから、警察にも何も言えなかった。次にあの子と関わったら、どんな嫌がらせされるか分からないから。あの子と関わってからさんざんだった。部屋の前にゴミばらまかれたり、嫌がらせの電話は掛かってくるし。だから倉田さんにも気をつけてって言ったの。それなのに……」
嫌がらせされた時の不愉快さは分かる。けれども、まだ由香里の場合は噂と、内海の死、その二つの原因があるから納得できた。ただの感情でそれだけ嫌がらせをされたら、確かに怖いかもしれない。
そのまま俯いて唇を噛みしめた野口からは、小さな嗚咽が聞こえる。一粒、二粒と落ちる涙を見ていると、野口が倉田に告げたことを後悔しているのは確かだった。
でも、実際に倉田や内海を殺したのは碓井だ。今のところ相沢の名前は全くといっていいほど上がっていない。
野口の話を信じ切れるだけの根拠が由香里にはない。けれども、会社をすでに辞めた野口が、由香里に対して嘘をつく理由も思い浮かばない。
「……どうして、私に相沢さんのことを教えてくれるの?」
「本当は今日も直前まで、会うのやめようと思ってたの。これ以上あの子に関わりたくなかったから。でも、倉田さんのことは後悔してたし、山吹さんに何かあってこれ以上後悔したくないから」
確かに野口が言うことは全て本当じゃなかったとしても、後悔したことは確かなことなのだと思う。死ぬ前に電話した相手が自分だとしたら、何がなくても後悔しそうだ。
もし由香里が野口の立場だったとしても後悔するに違いない。少なくとも、由香里は内海と別れた夜のことを後悔している。
「それに、山吹さんがどう思ってるか分からないけど、私も倉田さんも、山吹さんと友達だと思ってたよ。山吹さんの冷静な意見に、私も倉田さんも何度も助けられてるから」
「別にそんなことした記憶は」
「山吹さんにはないかもしれない。けど、私も倉田さんも助けられた。一方通行の友達っていうのもおかしな話しだけど、でも、山吹さんじゃなければこんな話し、誰にもしなかった。こんな怖い思いして話したいと思わなかった」
由香里自身、どれだけのことを野口や倉田にどんな言葉をかけたのか覚えていない。無関心を貫く由香里の傍にいたのは、野口と倉田、そして内海の三人だ。
同期というのは、特別なものではないと思っていた。でも、同期という縁は、確かにあったのかもしれない。少なくとも、数年という月日を一緒に過ごしてきたのだから。
よく見れば、目元をハンカチで拭う野口の手は微かに震えていた。怖いと言っていたその気持ちは本当だろうし、それを疑うような真似はしたくなかった。
内容をそのまま信じるには余りにも突拍子がない。だから野口の話を全て信じるとは言えない。けれども、野口の気持ちは信じたかった。
「色々話してくれて有難う」
「お礼言わないで。もっと早く話しができたら一番よかったのに、私がグズグズしてたから……あっ」
由香里を見ていた野口の視線が、由香里の背後に注がれる。思わず由香里が振り返ったそこには、余り由香里と関わることがなかった高井が歩いてくるところだった。
「お久しぶりです。ごめん、どうしても心配で」
挨拶は由香里に向けてだったが、すぐに高井の視線は野口へと向いた。心配だと言った言葉に嘘はなく、高井は表情からも野口を心配している様子だ。
「大丈夫。話しをするだけなんだから。仕事はどうしたの?」
「昼休み中だよ。だから大丈夫」
安心させるように穏やかな笑みを浮かべる高井は、由香里の記憶にある高井とまるで違う。会社にいた時の高井は、どこかピリピリとした雰囲気を持っていて一課にいても違和感ない、そんな人間だった。
対する野口も、穏やかな顔を高井に向けていて、二人の愛情がその顔からも伝わってくる。お互いを思いやる穏やかな愛情。
そんな二人が少しだけ羨ましく思えた。それと同時に言い忘れていた言葉があることに気づく。
「そうだ、ご結婚おめでとうございます」
途端に二人の動きが一瞬止まり、由香里を凝視した後、お互いに見つめ合う。それから、また幸せそうに二人が笑う。
「私、変なこと言ったかな」
「違うの。誰かにおめでとうって言われたの初めてだから嬉しくて」
「え、だって結婚したんでしょ?」
「結婚っていうか、籍入れたの三日前なの。失踪届が受理されたのが三日前で、まだ誰にも言ってなかったから。私の親も高井さんの親も、結婚には反対してたからおめでとうの言葉が凄く嬉しかった」
別に由香里に深い意味があって伝えた言葉じゃない。けれども、本当に嬉しそうな顔で笑う二人を見ていると、伝えて良かったと由香里も思う。
「今度、お祝いに何か送るよ」
「そんなのいらないよー。もう、今の言葉だけで本当に嬉しかったから」
そこからは明るい話題になり、由香里は野口と高井が住んでいるマンションの住所を教えて貰った。
次の休みには野口に渡すプレゼントを気持ち良く用意したい。江崎の宣言もあることだし、どうにか来週中には決着をつけたい。
穏やかに笑って手を振る二人に手を振りながら、由香里は反対の手をグッと握り締めた。
繋がらないと思っていた糸は、由香里の頭の中でしっかりと繋がった気がした。全てが真実ではないかもしれない。けれども、確認するだけの意義はあると思えた。

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