悪意の回廊 Act.08

渡瀬に言われた通り、面倒を避ける意味でも由香里は一週間ほど休暇を取った。買い物以外は部屋で過ごす由香里を訪ねてくるものはない。倉田が言っていた通り、あれ以来嫌がらせのように鳴っていた無言電話はすっかりなくなっていた。
その間に怪我をしていた頬は随分マシなものになった。擦り傷は多少かさぶたとなって残っていたが、それも余り目立つものではなくなっていた。
土日を挟み、由香里が出社したのは火曜日になってからだ。ロッカールームでも悪戯された形跡はなく、タイムカードが隠されているようなこともない。
だからこそ、由香里は何事もなかったかのように仕事場としている部屋に足を踏み入れた。
「おはよう」
声を掛けてきたのは、由香里よりも更に早く出社していた渡瀬だ。それ以外に人影はない。
「おはようございます。もしかして、私が今日からだから」
「連絡貰ったし、休暇明けは居心地悪いものでしょ」
「気を遣わせてしまってすみません」
「別に私が来たいから来ただけ。早速だけど書類が溜まってるの。今日は残業も覚悟して貰うから」
そう言った渡瀬は既に仕事モードなのか、その顔に笑みはない。いつもの生真面目な顔をした渡瀬に、由香里はホッとする。
気遣いは嬉しく思うものの、渡瀬がどうしてそこまで由香里にしてくれるのか読めない。だからこそ、渡瀬にどういう反応をすればいいのか分からない。だからこそ、仕事モードでそっけない態度の渡瀬に安心することができる。
渡瀬から差し出された書類をチェックし、すぐさまパソコンで書類をまとめていく。予想していた通り、相沢では業務がかなり滞っていたらしい。それは書類の量を見るだけでも充分理解できた。
始業時間前ではあったけど、パソコンと向き合っていれば徐々に他の社員も出社してくる。一様に由香里を見て驚いた顔をするが、由香里が挨拶をすれば気の抜けた挨拶が返ってくる。
恐らく由香里がいることに驚いて、とりあえず挨拶を返したという感じではあった。それでも、この間までは挨拶すら返ってこなかったのだから何かが変化しているのかもしれない。
由香里に向けられる視線は、奇異なものが多かったが中には怯えるような視線もあった。内海に続き、倉田が亡くなったことで疑われているのかもしれない。それとも、上に報告されることを恐れたのだろうか。
けれども由香里が考えることでもない。だから周りの視線を気にすることなく、ひたすら仕事を片付けるためにパソコンに向かう。
けれども、出社する人間が増えたにも関わらず、課長である碓井の姿は見えない。
由香里としては、予想以上に長期休暇となってしまったこともあり、総務に書類を提出しなければならない。けれども、その書類には課長の印が必須となっているから、碓井が出社してくるのを待っている状態だ。
それなのに始業のベルが鳴り、それでも碓井が現れることはなく課内がざわめき始める。碓井は仕事に熱心ではなかったが、無断欠勤や遅刻をするようなことは一度もなかった。課長の承認印が必要なのは由香里ばかりではない。
つい最近、こんな微妙な空気になったことがある。あの時は内海が出勤してこなくて……。
そんなことを考えていれば、部屋の中へ足早に入ってきたのは席を外していた江崎だ。そして、あの時の再現のように一課長と三課長を呼び出すと部屋を出て行った。
一体何が起きているのかは分からない。けれども、課長二人が呼び出されて部長を席を外すという自体は、普通ではない。
上役がいなくなったこともあり、部屋の中にさらなるざわめきが広がる。時折感じる視線は、やはり誰もが内海の件を思い出したからだろう。
胸がざわめく。
酷く落ち着かない気分で、由香里はパソコンに向かう。何事もない顔をしてキーボードを操作するが、ケアレスミスも多く進みは悪い。何よりも、頭の中で仕事外のことを考えているのだから進む筈もない。
碓井に何かがあった、それは間違いないと思う。もしかして、内海、倉田に続いて碓井までもが殺された、ということなのだろうか。けれども、内海と倉田に関してはまだ理解できたが、そこから碓井に繋がるものが思いつかない。
それとも、由香里と碓井に関わる噂があるのだろうか。そう思うとそれだけでこの場所は居心地が悪くなる。
どれだけ強がっても、そんなことを考えてしまうのは、精神的に由香里が追い詰められている、ということだ。由香里自身は誰も殺していないと断言できる。けれども、それを証明しろと言われたら、どうすればいいのか分からない。
「山吹さん、そっちの書類は終わった?」
軽く肩を叩かれて、勢いよく振り返れば背後にいたのは渡瀬だ。途端に強張った身体から力が抜けていくのは、渡瀬が普段と変わらず仕事の顔をしていたからだ。
「あと十分で終わります」
「そう、そしたらこの書類もお願いするわ」
そう言って渡されたのは、月末に社員から提出される営業レポートだ。各自、営業してきた手応えなどが書かれたレポートは、普段であれば渡瀬が取りまとめするものだ。けれども、倉田も野口もいない状況で、渡瀬も手が回らないのだろう。
実質、渡瀬は一課と三課、この二つの事務を掛け持ちしている状況だ。そして、由香里が休んでいた時は二課の仕事も引き受けてくれていた。その仕事量を考えれば、渡瀬に尊敬の念すら抱く。
「分かりました」
短く答えれば、渡瀬は軽く二度肩を叩いて自席へと戻る。ささやかな行動ではあったが、由香里にはまるで「気にするな」と言われているような気がした。
確かに考えていても何も結果は示されていない。分からないことに悩んでも時間の無駄だ。それならば、由香里が休んでいた間、穴を埋めてくれた渡瀬に報いるためにも、由香里は自分のするべき仕事の集中することにした。
やりかけだった仕事を終え、渡瀬から頼まれた営業レポートをまとめている間に、課長たちと共に江崎が戻ってきた。
一様に厳しい顔をして席に戻ると、手を叩いて江崎が注目を集める。勿論、盗み見ていた由香里も身体ごと江崎の方へ向けた。
「報告しておきたいことがある。二課の碓井課長が亡くなった。警察の見解としては自殺だろうとのことだ」
殺されたのではなく自殺だった、ということに安堵するのは不謹慎だと思う。それでも、由香里の心は確かに安堵していた。
またこれで碓井が殺されたのだとしたら、再び由香里は噂という俎板の上にのせられることは必須だからだ。
先ほどまで由香里に向けられていた視線は、気づけば相沢へと向けられている。それに気づけば、倉田が言っていた噂を思い出した。
碓井が相沢と付き合ってる。
その噂を聞かされた時、それを教えてくれた倉田と相沢に同情したくらいだ。あの噂を相沢は聞いていたのだろうか。
相沢を見ていても、別段表情に変化は見られない。いつもと変わらず、穏やかな表情をしているだけで、その心境が垣間見えることはない。
ふと視線を感じてそちらを向けば、江崎と視線が合った。引き結ばれた口元と、鋭い視線はいつもの江崎だ。すぐに逸らされた視線ではあったが、どうして江崎が由香里を見ていたのか分からない。
分からないことばかりなのに、巻き込まれていく感覚が酷く気持ち悪い。たかが噂だが、周りが相沢に向ける視線は好奇心丸出しのもので、それすらも気分が悪い。
相沢が好きか嫌いかと問われたら、正直、由香里にとってあのタイプは嫌いな部類だ。けれども、そういう視線を投げかける人間の方に不快感がわく。
相沢自身、向けられる視線は感じるのか、微かに寄せられた眉根で不快なのだと読み取れる。当たり前だが、噂程度のことで好奇心旺盛な視線を向けられるのは楽しいことではない。
結局、そういう不快感は当事者になってみないことには分からないことなのかもしれない。
どこか諦めに似た気持ちで小さくため息をついたところで、名前を呼ばれて見つめていた書類から顔を上げる。硬質で威圧感のある声を持つ人間は、この部屋に一人しかいない。
だからこそ、その声の主である江崎へ視線を向けた。その視線はまっすぐに由香里へと向けられている。ざわめていた室内は一瞬にして静まりかえった。
「少し話しがある。会議室へ」
「分かりました」
事務員がいない状況だから、江崎にも忙しいことは分かっている筈だ。それなのに、態々別室に呼ばれるその理由が思い当たらない。何よりも、この状況下で別室に呼ばれてしまえば、嫌でも注目を浴びる。
それでも逆らえる筈もなく、由香里は途中まで作っていた書類を保存すると席を立った。江崎の背後をついて出入り口へと向かう。好奇の視線は背中に突き刺さる。それに気づかないふりで、背筋を伸ばして江崎と共に部屋を出た。
途端に静まりかえっていた部屋にざわめきが戻り、それを課長二人が声を上げて制してる。その声を背中に聞きながら、目の前を歩く江崎の背中を見つめた。勿論、その背中から読み取れるものは何一つない。
到着した会議室で由香里はすぐに椅子へ座るように促された。そのことで、短い話しではないことは予想できた。
「碓井の遺書が発見された」
唐突ともいえるその言葉に、由香里は眉根を寄せる。何故、由香里一人が呼び出されてそんなことを言われるのか理解できない。江崎の表情を見ても何を考えているのか分からない。
「……何故それを私に言うんですか?」
「君に関係あることだからだ。碓井の遺書には、内海と倉田を殺したこと、そして君を駅のホームから突き落とそうとしたことが書かれていた」
「碓井課長が? 何で私を?」
「理由は書かれていなかったらしいが、筆跡は間違いなく碓井のものだと断定された。そして、自殺に不審なところはないとのことで、警察は捜査を打ち切るそうだ」
「理由も分からないのに?」
「だが、殺害した証拠品が押収されたそうだ。なので被疑者死亡のまま送検する、とのことだ」
理由が分からない。それは酷く怖いことのように思えた。
どうして内海が殺されたのか、どうして倉田が殺されたのか。そして、どうして由香里は殺されそうになったのか。その全ては闇の中という状況は、由香里だって考えてもいなかった。
いずれ犯人が捕まり、その理由は白日に晒される。それが分かれば、全てではなくとも日常が戻るものだとばかり思っていた。
けれども、こんな不確かな状況ばかりではまた噂が噂を呼ぶばかりだ。
由香里と碓井の接点なんてものは、上司と部下、それ以上のものは何もない。いや、もしかしたら碓井にとっては扱いにくい部下だったのかもしれないが、それすら想像でしかない。
一体、自分が何をして碓井に殺意を持たれたのか。それが分からなければ、また誰かの地雷を踏んで、殺意を持たれる可能性だってある。
少なくとも、由香里自身に落ち度はないと思っている。けれども、自分が思っていたところで、周りの感情と同じものとは限らない。それは何よりも怖いことだ。
「そこでだ、君に一つ提案がある」
その言葉で、由香里は幾分強張った顔を上げた。視線の絡んだ江崎がフッと口の端を上げた。
「私は今月末で大阪支社に行くことになった。支社長なので栄転だ」
「なんでこんな時期に」
「こんな時期だからこそだよ。碓井の自殺で一応泥は被らずに済んだが、営業部は一度再編されるだろう。だがそのための尻ぬぐいも多くなる。そんな場所にいつまでも社長の身内を置いておけない、という上の判断だ」
「再編……」
確かに考えられることではあった。既に各課にいるべき事務員は由香里しかいない。事務長として渡瀬はいるが、入社したばかりの相沢は事務員としてカウントされないだろう。それに課長である碓井が亡くなり、内海の穴もある。
それなら、一層のこと問題のあった部署の立て直しというのは会社としてはありなのかもしれない。勿論、それだけではないだろう。必要ないものはリストラ候補としてあげられるに違いない。
「そこで本題だ。君には補佐として大阪支社へついてきて欲しい」
「……私が、ですか?」
「あぁ、君だ。少なくとも、この結果ではここには居づらいだろう。君の処理能力は買ってる。何よりも無駄口を叩かないのが一番いい」
「それなら渡瀬さんの方が」
「実力は確かだが彼女は年配だ。今さら配置転換を望むとは思えないし、彼女は少々扱いにくい。だから彼女にはここへ残って貰う。既に崩壊ともいえるあの部署に未来があるとは思えないが」
そう言って低く笑う江崎は、蔑み含みの毒のある笑いだった。その毒素に由香里は思わず眉根を寄せる。途端に江崎の顔は愉しげなものへと変化した。
「君があの部署に愛着があるとは意外だな。あれだけ蔑まれ、苛められ、嘲笑されたにも関わらず、後ろ髪引かれる何かがあるのか?」
別に後ろ髪引かれるものがあるのかと問われたら、由香里には愛着なんてものは何もない。あの部署ですることは仕事であって、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、江崎の提案に頷くことはできない。一般社員など駒の一つでしかない、とでも言いたげな江崎に賛同することなどできる筈もない。少なくとも、由香里だって江崎が蔑む駒の一つでしかないのだから。
「今、ここで辞めたとしても君の年齢から再就職は難しいだろう。それなら、私と共に大阪支社へ来ればいい」
確かに二十五を過ぎた由香里にとって、再就職は難しいものに違いない。そして、今の部署に残るには疑惑を残し、今以上にやりにくくなるだろう。
由香里自身は何もしていないのだから、周りなんて放っておけばいい。そういう気持ちも確かにある。けれども、噂に絡め取られる毎日を思えば、終わりの見えない噂は苦痛に思えた。
だからといって、江崎の案に二つ返事しようとは思えなかった。
「……このタイミングで部長と一緒に移動したら、何を言われるか分かったもんじゃありませんけど」
「言いたい奴には言わせておけばいい。どうせ本社に戻るのなんて早くても五年後だ。その時に、あの部署の人間が何人残ってるか分かったものではない」
その言葉で、やはり先ほど由香里が想像した通り、リストラが敢行されることが伺えた。
「他の課の人間も多くいますけど」
「戻って来た時には私は副社長で、君は私の秘書だ。誰が文句を言える」
大阪支社に移動することだけでなく、それより先の進退まで決めつけられた由香里は唖然とするしかない。確かに、学生時代に由香里は秘書の資格を取った。だが、それは就職に有利だから取っただけの話しで、秘書になりたい訳ではない。
「どういう意図があるのか、私には理解しかねますが」
「簡単な話だ。社長の血縁だからといって、いいなりになるような人間は必要ない。その点、君はそういうところが全くない。ゴマする訳でもなく、言いたいことははっきりと言う。何より君と私の間には、愛だ恋だというものが生まれそうにない。手元に置いて無駄にならない人間だ」
「愛や恋に溺れるかもしれませんよ?」
「その時は、私の見る目がなかった、というだけの話しだ」
ある意味、江崎に認められている、ということなのだと思う。実力を認められることは嬉しい筈なのに、由香里の中で全く喜びを見いだせない。それどころか、不快に思ってしまうのは江崎の根本的な考え方によるものだろう。
自分の部下である人間をあっさりと見捨てられる人間性。それが由香里には認められない。そんな人間に認められても、由香里としては喜べない。少なくとも、そんな上司についていきたいと誰が思うのだろう。
その考えに辿り着いた途端、思わず由香里の口元に苦笑が漏れた。自分が思っていたよりも、意外と潔癖な人間だったらしい。
別に会社なんてどうでもいいと思っていたし、課内の人間との距離を考えればどうなろうと知ったことではないと思っていた。
けれども、実際こうなってみれば、あっさり見捨てようとする江崎に嫌悪すら湧く。
「返事は一週間待つ。期間内に返事を貰えなければ、君も正しくリストラ候補だ。職務内容に問題はないが、今回の件に関わりすぎたからな」
まるで脅迫のような言葉を残して江崎は椅子から立ち上がる。そして由香里を置いて部屋を出て行こうとしたところで足を止めると、ゆっくりと振り返った。
「元々、来月末で大阪支社への移動は決まっていた。内海が死んだことで君という掘り出し物も見つけ、碓井が死んだことで持ち出し可能になった。私にとっては幸運だったな」
まるで二人が亡くなって喜んでいるような口ぶりと、底冷えしそうな笑みに由香里の顔は強張る。けれども、そんな由香里を気にした様子もなく、江崎は部屋を出て行った。
一人残された由香里は、詰めていた息を吐き出した。
碓井は自殺した。警察が断定しているのであれば、それは確かなことなのだろう。だが、この胸に残るモヤモヤとした気持ちは何だろう。何一つ解決していない事態を由香里は薄ら寒く思う。
殺された二人と、殺され掛けた由香里。そして自殺した碓井と、それを喜ぶ江崎。
果たしてこれは事件が解決した、と言えるのだろうか。少なくとも、由香里にとって事件は何一つ解決していない。
江崎は嗤った。人の死を自分の幸運だと言って。もしかして、そんな人間が他にもいるのだろうか。それを考えると由香里の気持ちは酷く重くなる。
解決はしていない。だからといって、由香里が今できることは何一つなかった。

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