悪意の回廊 Act.07

自宅を尋ねてきた桐谷と根元にお茶をだし、二人の向かい側にあるソファに腰を落ち着ける。途端に正面に座る桐谷が口を開いた。
「先程もお話ししたように、倉田翔子さんが亡くなりました。一応、関係者全員に聞いているので気を悪くしないで下さい」
その言葉を聞くのは二回目だと思いつつ、苦い思いで由香里は頷いた。別に反発するつもりもないし、早く犯人を探してほしいと心底願う。
二人に対して、これといった特別な感情がある訳ではない。それでも、会話を交わすほど近くにいた人間が殺されて気分がいい筈もない。他人に興味がないからといって、感情がない訳ではない。
「昨夜、八時から十二時まで、どこで何をしていましたか?」
「昨日の夜、倉田さんがうちに尋ねてきました」
「本当ですか?」
冷静な顔で静かに聞いてくる桐谷とは対照的に、根元は酷く驚いた顔をしている。どうやら、警察はそこまでの事実を知らなかったらしい。
「倉田さんとはどんなお話しを」
「今までの嫌がらせに対する謝罪が主な内容でした」
「それ以外は何をお話しに?」
今まで警察に犯人を捕まえて欲しいとは思っていたけど、話していないことも幾つかある。だから、由香里は話すべきかどうするか逡巡する。
けれども、内海が殺され、倉田が殺され、そして今、自分も命を狙われている。この状況で隠し立てしてもいいことは何一つない。
意を決して、由香里は先日のことから話しだした。倉田とは待ち合わせしていた訳ではなかったこと。由香里が駅のホームで突き落とされたことで、倉田と話し合う機会ができたこと。そして、社内に飛び交っている噂について、由香里の知りうる情報を全て開示した。
それに対して、桐谷や根元は酷く苦い顔をしていたこともあり申し訳なく思う。けれども、社内に流れる噂について、二人は多くを知らなかったらしく、社員の殆どが噂について口にしていなかったことを知る。
一応、噂でしかない、ということを伝えたが、いずれにしても会社に迷惑を掛けることになるに違いない。そう思った途端、思い浮かんだのは江崎の顔だった。
一応、経営者の身内ということもあり、江崎にとって痛い情報になるに違いない。もし犯罪者など出れば、上にいる江崎も無傷ではいられないに違いない。
そう思った時、由香里は部内に犯人がいると思っている自分に気づく。どうしてそんなことを思ったのか分からず困惑していれば、桐谷の言葉で我に返る。
「倉田さんは、何時までこちらへ?」
「八時には家を出ました」
「玄関先でお別れに?」
「はい、さすがにこの状態なので出歩くのも。それ以降は部屋から出ることなく本を読んだり、テレビを見たりして〇時にはベッドへ」
昨日の今日ということもあり、顔にはまだ大きなガーゼを貼ったままだ。それを見て桐谷は鷹揚に二度、三度と頷いた。
「倉田さんは誰かと会うようなことを言っていましたか?」
「いえ、これといって特に言っていませんでした。ただ、倉田さんとは元々友人という訳ではなかったので、そういうことは私に言わないと思います」
「分かりました。山吹さんの意見は参考にさせて頂きたいと思います」
「あの」
これで話しは終わりとばかりに半ば腰を浮かせかけた桐谷の横で、根元が幾分身を乗り出して声を掛けてきた。
「山吹さんは社内いじめに合っていたと聞きました。倉田さんも行っていた、ということですが恨んだりしていないのですか?」
ストレートな根元の質問に、横にいる桐谷は苦虫を噛み潰したような顔をして小さく舌打ちする音が聞こえた。老獪な年配刑事と、熱血若者刑事という組み合わせを改めて目にして、由香里は小さく笑ってしまう。
これでは桐谷もやりにくいに違いない。
「山吹さん?」
「すみません、そういう質問は先輩に聞いてからの方がいいと思いますよ」
途端にしまったという顔をした素直な根元に、さらに笑いを誘われる。さらに苦い顔をする桐谷に根元が頭を下げる様子は、新人営業マンを見ているようで微笑ましい気分になる。
「申し訳ない。まだ刑事になったばかりで、どうにも余計なことばかり言うもんで。でも、根元が聞いてしまったことに便乗する形になりますが、どうなんですか? その、倉田さんについて」
「恨む、っていうことはないですね。嫌がらせについても昨日の話し合いで一応の決着を見てますから。それに、もし恨むとしたら倉田さん一人だけってことにはならないと思いますよ。そもそも、ほぼ全員が面白半分にしろ加担していた状況ですし」
「ほぼ全員、ですか?」
内海が殺された頃は、まだ誰が嫌がらせをしているのか見えるような状況ではなかった。けれども、幾つも重なる嫌がらせは、徐々に全体像を浮かび上がらせる。
それで由香里が分かったのは、大なり小なり、ほとんどの人間が由香里に対する何かしらの嫌がらせに噛んでいる、ということだった。
由香里がこの人は違う、と言いきれるのはそれこそ江崎と渡瀬、そして江崎に注意を促してくれた空峰の三人くらいだ。
今回のような嫌がらせは、見て見ぬふりをするのも充分嫌がらせをしている人間といえる。勿論、本人たちは傍観していた、というのかもしれないが、傍観することによって嫌がらせに加担している。由香里自身はそう思っている。
ただ、それで恨み言の一つや二つくらいは言いたいところだけど、実際恨むのかというと、そこまでしたいとは思わない。人を恨むというのは酷く疲れる感情で、それによって疲弊することを知っている。
「苛立ったりすることはあるんですけど、面倒だと思う程度で。それに、余り酷ければいざとなれば会社を辞めることも考えていたので」
「辞められる予定なんですか?」
「いえ、今のところその予定はありません。今辞めてしまうと、何かに負けてしまった気がして……」
「こちらもこれ以上迷惑を掛けないように全力を尽くします。何かあれば、また連絡して下さい」
深々と頭を下げる桐谷に由香里も頭を下げる。玄関先で二人を見送ると深く溜息を吐き出した。
由香里自身、一体何が起きているのか信じがたいものがある。わずか一ヶ月の間に二人が亡くなり、自分自身も命を狙われる。何がどうして、こんなことになっているのかさっぱり分からない。
それに、この状況下で辞めたいと思わない自分も不思議だ。いや、心理的に逃げられない、そんな状況に置かれている。
愛憎劇故の殺人    。
そのことが由香里の過去と重なるのが、逃げられない原因の一つかもしれない。恐怖心はある。だから危険を回避する意味でも、ここまできたら会社を辞める選択もありだと思う。
勿論、会社を辞めただけでは危険は去らないかもしれない。それでも、自分の行動一つで何かを引き起こす、そんな恐怖心と隣り合わせにはならない筈だ。

学生時代、サークル内で起きた事件は、由香里にとって一生忘れられない出来事となった。
中学時代からの友人は、サークル内の先輩に恋をした。それは微笑ましいことだったし、由香里も影ながら応援していたりもした。友人である彼が告白して恋人になり、由香里の目には、彼も彼女も幸せなように見えた。
それが変化したのは、彼と彼女が恋人となって一年もした頃だった。
ささいな喧嘩が多くなり、見る見る内に彼女がやつれていく。お互いに好きなことは傍目にも分かっているのに、何故か上手くいかない。
不思議に思いながらも、徐々に彼を避ける彼女。そして、彼女を繋ぎ止めるために由香里へ相談してくる彼。そして由香里に嫉妬する彼女。
こうなれば悪循環で、彼女は本格的に彼を避けだした。彼が何度話し合おうと言っても彼女は彼女は説得に応じない。原因となった由香里は彼と距離を置こうとしたが、彼からの相談も止まらない。
そんな状況下で、あろうことか彼は由香里に彼女を呼び出すようにお願してきた。一度は断ったが、既に彼からの呼び出しに彼女が応じることはなくなっていた。だから、由香里は彼に手紙を書いて貰い、それを嫌がる彼女へ手渡した。
別に思惑なんてものはなかった。由香里としては、思い悩む彼への手助けだったし、二人がこのまま上手くいけばいいと思っていた。
けれども、それは予想もしていない結果となった。由香里が手紙を渡した翌日、サークル棟で火事が起こり、中から二人の遺体が発見された。
一人は彼女、もう一人は彼女の恋人ではない、見知らぬ男。由香里の知らない男は彼の元友人だったらしく、彼女のストーカーとなっていた。
しかも彼女はそのストーカーに一度乱暴されたことがあるらしく、そこから精神のバランスを崩して体調にも影響が出ていた。
彼の友人ということもあり、彼女は誰かに相談することもできなかったらしい。体調を崩した彼女を見かねて、両親が病院へ連れて行ったところ、そのまま心療内科へ通うことになった。
それを由香里が知ったのは、事件が起こってから半月が経った頃だった。彼女が通っていた心療内科の先生から彼女の親へ、そして経由して彼から由香里の耳へと入った真実は彼を打ちのめした。
そして、時を同じくして警察から更なる事実が告げられた。
警察から事情説明があるということで、彼に頼まれ一緒に足を運んだ。本来なら外部の人間に報告するのは渋られたが、彼の精神状態、そして彼の主治医である精神科医の説得もあり、由香里も同席することができた。
そして警察から伝えられた言葉は、彼女がサークル棟に彼の友人を呼び出し、彼を殺してからサークル棟に火を放った、という事実だった。
それを聞いた時、まだ由香里は冷静でいられた。何故そんなことを、そうは思ったけど口に出すことはしなかった。
けれども、続く言葉に由香里は二の句を告げられなくなった。
「守秘義務ということで、しばらくお話しをして貰えなかったのですが、彼女の主治医から聞いたところ、山吹さんが渡した手紙を彼女は読めずにいたらしい。もし、彼が心変わりをしたことが綴られていたら、耐えられない。そう泣いて訴えたそうだ」
そこからは警察の憶測だが、彼女の精神はかなり追い詰められていたらしい。恐らくストーカー男に脅される恐怖から、男を殺し解放された。そこで、初めて由香里からの手紙を開けたのだろう、と。
そして綴られた手紙の内容と、自分の犯した罪を目の当たりにし、精神は崩壊した。自ら火を放ち自殺したのではないか、というのが警察の見解だった。
遺体の損傷はそれなりだったが、握り締められた彼女の手から手紙の一部が発見され、彼女の主治医と話し合った結論とのことだった。
呆然とする由香里に、声もなく涙を流していた彼が虚ろな目を向けてきた。
「お前が……手紙を書けなんて言うから……だから、あいつが誤解したんだ。お前があいつを死に追いやったんだ。お前と……お前と友達じゃなければよかった」
今なら、それが八つ当たりじみた妄執だと切り捨てられる。けれども、友人から投げられたその言葉は、由香里の心を深く抉った。
そこから阿鼻叫喚の地獄絵図だった。発狂しながら由香里を殴る彼。取り押さえる警察の面々。呆然と床に座り込むことしかできない由香里。
それ以来、彼とは一度も会っていない。風の噂では、そのまま病院に入院したという話しは聞いていた。
幼い頃から住んでいた地元ということもあり、噂は面白おかしく脚色されて瞬く間に広がった。由香里を入れた四角関係の末に、由香里は二人を引き裂いた女という立場になっていた。
最初こそ庇ってくれた両親だったが、徐々に家庭内は上手くいかなくなった。極めつけは年の離れた中学生の妹が、苛めにあったこともあり両親は逃げるようにして遠方へと引っ越して行った。
けれども、由香里は地元に一人残った。彼女のためにも、彼のためにも噂を否定したかった。いや、もしかしたら否定したかったのは自分自身のためだったのかもしれない。
白い目で見られる中、由香里は必死に噂を否定して歩いた。勿論、大学でも遠巻きに噂する人間を捕まえて否定した。面白おかしく脚色された噂は、真実とは異なる方向へ幾つもの種類をもって広がる。
そして、大学を卒業する頃には由香里は全てを諦めた。一度、病院から退院した彼は自殺し、彼の両親も遠方へと引っ越した。事実を知る人間はもういない。
ようやく由香里も地元を離れた企業へ就職し、家族とも連絡を取らず数年を暮らしてきた。両親とは、それこそ大学を卒業する際に、部屋を借りる保証人に鳴って貰うために連絡を取った。多くは話さず、ただ必要事項のみを会話しただけだ。

けれども、数年経った今でも思う。あれは果たして由香里の間違いだったのだろうか。
友人だからこそ、彼の相談に由香里はのった。あの時、彼に手紙を書かせたのは、由香里の言葉を彼女は信じてくれないと思ったからだ。そして大切な手紙だからこそ、人に託すような真似はできなかった。
あの全てがお節介だったのか。そう考えると由香里は今でも分からなくなる。
それ以来、由香里は人との距離を縮めることなくこの数年を過ごしてきた。そして、またしても噂に振り回される現実に、由香里は大きくため息をついた。
たかが噂。伝える人間はそう思うに違いない。多少脚色したところで、どうってことない。面白おかしい噂の方がセンセーショナルだし、ワイドショー的な楽しみ方ができる。他人なんてそんなものだ。
けれども、噂をされる当人はたまったものじゃない。悪意なき噂。これこそ、人としての悪意なんじゃないかと思う。人の裏側にある邪心、噂を楽しめるその感情こそが悪意の固まりなのではないか。
そう思うからこそ、由香里は噂を極力耳に入れないようにしてきた。それは無意識なものではあったが、今思えば噂というものを排除してきたことが自覚できる。
いくら他人に無関心だからといって、噂が耳に入らない環境ではない。だとしたら、今になって噂を集めている自分は何なんだろうか。
決して面白がっている訳ではない。けれども、噂が真実とは限らないことを身をもって知っている。それにも関わらず、噂に再び振り回されそうになっている自分がいる。
はがゆい、という感情に似ているけど、これは少し違う。もっとどす黒い、怒りにも似た、この感情は一体……。
不意に思考を遮るかのようにインターフォンが鳴り息を飲む。それから玄関に視線を向けてから、ゆっくりと息を吐いた。
過去に想いを寄せたからなのか、思考が歪んでいる気がしてゆるく頭を振って気持ちを立て直す。昔の無力な自分と、今の自分は違う。だから、過去を振り返る必要はない。
そう思いつつ玄関のチェーンを掛けたまま、薄く扉を開いた。そこに立っていたのは予想もしない人物だった。
「渡瀬さん……」
「少し話しをいい?」
問い掛けられたものの、由香里はすぐに手を動かすことができない。頭の中が目まぐるしく働く中で、渡瀬が困ったように小さく笑う。
「警戒してる? 当たり前よね、あんなことがあったばかりだから」
「あ、いえ……すみません、余りにも意外だったもので。今日の仕事は?」
慌ててチェーンを外すと、由香里は大きく扉を開けた。渡瀬と由香里の接点は仕事以外で何もない。基本的に渡瀬とは性格的に合わないこともあり、仕事以外の話しをすることはない。
恐らく、それは渡瀬も同じだろう。倉田や野口に仕事以外で話し掛けている様子は見掛けたが、由香里に話し掛けてくることはなかった。だからこそ、この訪問は意外だった。
渡瀬のことを知らないから信用しているとは言いがたい。けれども、体格差や年齢差を考えても、渡瀬が危険とは思えない。だからこそ、由香里はすぐに家の中へと渡瀬を招き入れた。
おじゃまします、という言葉で由香里の家に入ってきた渡瀬は、手にしていた紙袋を差し出してきた。
「今日は半休。江崎部長にも頼まれて様子を見に来たの」
「部長、ですか?」
「もしかしたら、山吹さんの身が危険なんじゃないかって心配してた」
立ち話しも何なので、由香里はすぐに渡瀬へソファを勧めると、小さなキッチンでお茶を淹れる。けれども、酷く困惑している自分がいる。
どういう理由で仕事人間の渡瀬が半休を取って由香里の家に来たのか分からない。勿論、これから説明されるだろうことは分かっているが、酷く落ち着かない気持ちで淹れたてのお茶を渡瀬の前に置いた。
「すみません、湯飲みとかなくてこんなもので」
「今の若い人はそんなものでしょう。気にする必要はないわ。あぁ、渡したものは部長と私からの差し入れ。今日の夕飯にでもして頂戴」
そう言われてテーブルの上に置いた紙袋を覗き込めば、偶然なのか昨日倉田が持って来た弁当と同じものだった。
「何だかすみません。手を煩わせてしまった様子で」
「別にこれくらい構わないけど。それより、随分酷い見た目ね」
「見た目ほど酷い怪我ではないんです。明日には出社する予定でしたし」
「そう……でも、もう二、三日、怪我を理由に会社を休んだ方がいいわ」
お茶を手にした渡瀬は視線を合わせることなく、驚くようなことを言い出した。
野口が退職し、倉田が亡くなった今、事務は酷く滞っているに違いない。あのすぐ泣き出す相沢が倉田や野口並みに役立つとは思えない。
だから、渡瀬の言い出したことが余りにも意外だったのだ。
「でも、仕事忙しいんじゃないんですか?」
「忙しいわよ。でも、今日きたファックスのせいで営業部は騒然としてる。そんな中、噂の山吹さんが来れば針のむしろになることは間違いないから」
「ファックス?」
問い掛けたけど、渡瀬から答えはない。しばらくマグカップに入っていたお茶を見つめていた渡瀬だったが、何かを決断したように顔を上げた。まっすぐに由香里を見つめる渡瀬の目は真剣なものだ。
「あなたと江崎部長が不倫してるという告発ファックスよ。写真付きでちょっとした騒動になってる」
「私は不倫なんてしてません!」
「大丈夫、分かってるから。あなたがそういうタイプじゃないことは分かってる」
何を渡瀬が分かっているのか分からない。ただ、握り締めた掌に爪が食い込む。
ただ分かることは、どうしても由香里をあの会社から抹殺したい人間がいる、ということだけだ。一体、自分はどこでここまでの恨みを買ったのか分からない。
「部長も同じことを言っていたわ。でも、送られてきたのが営業部だけじゃなくて、全部署に送られたらしく、上の方でも問題になってる。近いうちに社の方から連絡が入ると思う」
「問題もなにも……本当に何もなくて、ただ相談にのって貰っただけで」
「えぇ、私もそうだと思ってる。あれだけあからさまないじめがあれば、あなたにしろ、部長にしろ動かない訳にはいかない。私にだってそれくらいのことは分かってるつもり。とにかく無事な様子でホッとした」
そう言って微笑む渡瀬に由香里は困惑する。仕事以外での渡瀬は知らない。だから、こうして笑う渡瀬を見るのは初めてだ。
きつい眼差しが笑うと目尻が落ちて柔らかい印象になる。それはいつも見ている制服じゃないことも大きく関係しているのかもしれない。
「私ははっきり言うと、あなたのことが余り好きではないの。まぁ、あなたもそう思っているからお互い様よね」
きっぱりと断言する渡瀬に、由香里としては答える言葉がない。そんなことありません、と言えば嘘くさいし、謝るのもおかしな状況に思える。
けれども黙り込んでしまった由香里に、渡瀬は微かに笑う。
「でも、私はあなたの仕事ぶりだけは信用してるの。もし、よければ今の職場を辞めて、私の紹介で違う職場へ移らない? どちらにしても、今の職場は居づらいでしょ」
「転職……ですか」
「えぇ、私からの話はそれ。正直、今の職場にいても辛いばかりでしょ。でも、あなたの仕事に対する姿勢は、どこに紹介しても恥ずかしいものじゃない。辛い思いをするくらいなら、転職するのも私はありだと思うの」
確かに辞めたいと思ったのは一度や二度じゃない。だからといって、本当に転職まで考えていたのかと問われると、それはまた違う。
唐突に渡瀬が言い出したことにも驚いたし、いきなり切り出されて困惑している自分がいる。
「すみません……少し考えさせて下さい」
「そんなすぐに答えを問わないわよ。ただ、そういう道もあるのだとあなたに提示しておきたかったの。今辞めることは逃げじゃないし、負けでもないから」
辞めたいと思った。でも、逃げたら負ける、そんな気持ちになるのは、本人がいなくなれば噂が膨れあがることを知っているからだ。
実際、地元で彼が自殺した後、噂はさらに膨れあがり、由香里に対する嫌がらせも発生していた。あからさまなものではなかったが、周りの目は酷く冷たかったことを覚えている。
「でも今辞めたら、何を言われるか分かりません」
「いいじゃない、言いたい人には言わせておいたら。確かに伝説のように語られるかもしれないけど、あなたの生活に関係ないところでされる噂なんて気にする必要ないでしょ。それとも、誰からも良い人だと思われたいの?」
「いえ、そういう訳じゃないですけど……」
確かに良い人だと思われたい訳じゃない。自分の生活に関わらなければ、どこでどんな噂をされていようと、渡瀬の言う通り関係ないのかもしれない。
何だか渡瀬の話しは目から鱗が落ちるような、そんな衝撃を由香里に与えた。逃げたくない、そう思っていた。
でも、逃げなかったしてどうなるのか。
これ以上、何もなければ噂は徐々に消えていくに違いない。けれども、ここまで課内の人間と拗れてしまえば、仕事だってやりにくいに違いない。それなのに延々とストレス感じながら仕事を続けるのだろうか。
その疲労度を考えた途端、渡瀬の申し出は魅力的なものに思えてきた。単純かもしれないが、辞めることが逃げではないという発想が由香里の中にはなかった。
それは由香里自身が過去に囚われている証拠かもしれない。数年経ってもう大丈夫だと思っていた。けれども、他人と関わらない、逃げ出せない。それは過去の出来事が由香里の中にあり、現在の行動基盤となっているからだ。
「選ぶのは山吹さんだから、私からこれ以上誘ったりしない。勿論、私の紹介なんてお断りだというのであれば、それはそれで構わないと思ってるの。でも、辞めることは逃げじゃないから、それだけは覚えておいて」
「……はい。覚えておきます」
話しは終わりとばかりに立ち上がった渡瀬に、由香里はお礼を言って玄関まで見送る。けれども、一度扉に身体を向けた渡瀬は、再び由香里に振り返った。
「私が言うのもどうかと思うけど……江崎部長には気をつけなさい。あなたが知っているか分からないけど、あの人は優しい人ではないから」
謎かけのような言葉だったが、最後の言葉は由香里にも理解できる。少なくとも、由香里から見ても江崎は優しい男ではない。
前に江崎と食事した時、まるで観察するような視線だった。不快とまではいかないが、居心地の悪い思いをしたことは覚えている。そう、あれは正しく観察だった。そして交わす会話は探りを入れている、というのが正しい。
玄関先で渡瀬を見送り、一人になった部屋で由香里は大きくため息をついた。
渡瀬の言葉は由香里の思い込みを打ち砕く斬新なものだった。確かにこの状況に甘んじているのであれば、会社を辞めるという選択もありだと思う。
渡瀬の紹介であれば、紹介先も悪いところではない筈だ。そういうことに妥協して紹介する人ではない。そういう意味では由香里も渡瀬を信用している。
けれども、そう考えた瞬間、ふと紹介ということに言葉に違和感を覚える。
別に渡瀬が紹介することはありだと思う。けれども、渡瀬自身は今の会社を辞めるつもりは全くないらしい。だから由香里を紹介する、ということなのだろう。別にここまでおかしな矛盾はない。
けれども、それ以前に渡瀬は何をもって由香里を信じているのだろうか。少なくとも、由香里は仕事が関わることであれば、渡瀬を信用している。でも、それ以外の渡瀬を知らないから信用も何もない。
あれだけの嫌がらせを受けていたのだから、渡瀬が心配するのも分かる。けれども、何故、今このタイミングで渡瀬は転職を勧めてきたのだろう。
普通であれば、内海や倉田を殺した犯人が捕まってからでも遅くない話しだ。少なくとも、今は由香里にも容疑が掛かっている状況だ。もしかしたら、最後に会っていた人物ということで第一容疑者かもしれない。
そんな状況にも関わらず、何故、渡瀬は今転職なんて持ちかけたのだろう。由香里自身、そこまで渡瀬からの信用があるとは思えない。
————会社から由香里を抹殺したい人間がいる。
果たしてその中に渡瀬は含まれるのだろうか。
そこまで考えると、由香里はもう何度目になるか分からないため息を吐いた。

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