悪意の回廊 Act.06

朝、会社に向かうためにゴミを片手にマンションを出ると、物陰に隠れる人影が見えた。足を止めてしばらく様子を見ていれば、様子を伺うように顔を出して、再び隠れてしまう。
けれども、その顔は見間違えることもなく倉田だった。。由香里はマンションのエレベーターで一階に降り、指定の場所にゴミを捨てると駅に向かって歩き出す。
途端に鳴り出すのはメールで、取り出した携帯を見れば、いつもの本文やタイトルのないメールだ。けれどもメールアドレスはいつもと変わらない。
だから、ストーカーのようなメールを送ってくるのは一人だとばかり思っていた。けれども、ここ数週間で見かけた面々に一人ではないことを確信した。
今日は倉田の当番、ということなのかもしれない。
元々住宅街ということもあり、駅前はサラリーマンやOLなどが多い。倉田が背後からついてくることを確認しながら、普段立ち寄らない駅構内の店舗型キヨスクに由香里は入った。すぐさま、由香里は反対側の出入口から何も買わず店を後にする。
そして小さな店舗の外側をぐるりと回り、さきほど由香里が入った出入口から再び店内に入った。入口付近には倉田がいて、由香里はこちらに気づかない倉田の肩を軽く叩いた。途端に倉田の肩がビクリと揺れる。
「おはよう」
「お……はよう」
驚いた顔をする倉田の横で由香里は店を出た。すぐさま倉田も店を出てきたが、その顔は酷く居心地悪げだ。
列整理用の枠内で立ち止まれば、すぐ隣に倉田も立つ。逃げ出さない倉田を意外に思いつつも、倉田に声を掛けることもせずに電車の到着を待つ。
「……どうして何も言わないの?」
いつもよりも少し低い声は、警戒されているからかもしれない。そもそも、見つかるとは思ってもいなかったのかもしれない。
「何か言われても倉田さんが困るでしょ」
電車待ちの列を作るべく、線路に向かったまま由香里はそれだけを言った。
既に数人が持ち回りでストーカーみたいなことをしているのは知っている。だから、今更倉田ばかりを責める気にはなれなかった。
そんな由香里に、倉田は何も言わない。でも、何か言いたげな雰囲気だけは伝わってくる。
倉田が由香里と話したいことは知っている。この数週間、どういう訳なのか、部内で倉田から受ける嫌がらせは随分と数を減らしていた。そのかわり、常にもの言いたげな倉田からの視線は感じていた。
まるで今のように……。
けれども、由香里から話しを振ろうという気にはなれない。少なくとも、倉田いはそれだけのことをされている。腹が立つという程ではないが、随分面倒を掛けられた。
この三週間、倉田以外の嫌がらせにさほど変化はない。ただ、江崎からは三日にいっぺん食事の誘いがあり、うんざり気味ではあった。
あれから一度だけ江崎の誘いに乗ったことがある。その時は純粋に嫌がらせの内容を聞かれるのかもしれない、と考えたからだ。けれども、話しの内容はたわいのないもので、時期が時期だけにうんざりした。
今まで話したことがなかったから知らなかったが、江崎は頭が切れるタイプらしい。揚げ足を取られることを警戒して相対するのは酷く疲れた。だから、それ以来、理由をつけて断るようにしている。
針のむしろではあったが、それでも江崎や渡瀬がいる時には随分と楽になった。
「私……」
不意に隣に立つ倉田が呟くような音声で言葉を発する。ホームのざわめきでかき消されそうなほど小さな声だったけど、すぐ隣にいる由香里には聞こえた。
「もしかしたら、勘違いしていたかもしれない」
その言葉を訝しく思い、由香里はゆっくりと倉田へと顔を向けようとした。それよりも先に、背後からの衝撃でバランスを崩す。二歩、三歩と踏み出したさきはホームで、視界の端には車両が映る。
驚いた顔の倉田。迫る電車。けたたましいほどに鳴り響く警笛    。
死を覚悟した瞬間、落下の衝撃と痛みが身体を襲う。それから慌てて起き上がると、どうにか隣の線路へと逃げ込んだ。さきほどまで由香里がいた場所に間一髪というタイミングで、電車がブレーキ音が響かせながら滑り込んできた。
恐怖心から身体中が震える。何が起きたのか自分でも理解が追いつかない。でも、一つだけ分かることがある。
今、確かに誰かが背中を押した。
線路上で縫い止められたかのように動けない。どれだけの時間が経ったのか分からない。声を掛けられて見上げれば、ホームから駅員が飛び降りてくる。
すぐに由香里がいたホームにも電車が来ると言われ、追い立てられるようにして隣のホームへと上がった。けれども、足はガクガクしていてとても立っていられる状況ではない。
「大丈夫ですか?」
問いかけにも答えられず、身体中が固まってしまい、唇一つ自分の意思では動かすことができない。ただ、身体中が心臓になってしまったかのように、うるさいぐらいに鳴り響いている。
「山吹さん!」
走り寄ってきたのは倉田で、近づく倉田を虚ろに見上げた。
あの時、隣にいたのは倉田だ。まさか、倉田が由香里を背中から押したのだろうか。
由香里は、ついそんなことを考えてしまう。実際、背後に誰がいたのかは知らない。けれども、あのタイミングだったのだから殺意は間違いなくあったのだろう。
「あの、何があったんでしょうか」
「背後から突き飛ばされたんです」
問い掛けに答えたのは由香里ではなく、すぐ隣で屈み込む倉田だ。由香里の肩に回す手は震えていて由香里にも伝わってくる。目に映る倉田は、顔色も青白く混乱しているようにも見えた。
本当なのか、ふりなのか。今の由香里には誰一人、信じることができない。
駅員に促されて行った先は駅長室で、そこで手当をされている内に警察が到着して事情を聞かれた。聞かれても答えられることなど由香里にはない。
一緒にいた倉田も同じらしく、由香里の背後にいた人影を確認しなかったと言った。どこまで本当か嘘かは分からない。
ただ、背後から押されるようなことに思い当たることは、という問いに倉田は社内へ聞き込みにきていた刑事、桐谷の名前を出した。
ここでわざわざ倉田が桐谷の名前を出した、ということに由香里としては驚いた。でも、後ろめたくないからこそ、倉田は桐谷の名前を出せたのだろう。
ただ、果たして今回の件と社内での一連のこと、そして内海のことは本当に関係あるものなのだろうか。
少しずつ冷静になった頭で考えていたけれども、由香里の中に答えはない。ただ、震える指先を握りしめる。
色々と面倒なことになったとは思っていたけど、いやがらせ程度であれば、どうでもいいと思っていた。
けれども、殺意がちらつくのであれば無視はできない。だからといって、どうしていいのか自分も分からない。
結局、事情が事情ということもあり、一応病院へ行くように言われ、由香里は警察に付き添われて病院へ向かうことになった。
倉田は別れ際に声を掛けてきて、由香里は足を止める。そこには覚悟を決めた、そんな顔で由香里を見る倉田がいた。
「色々、話したいことがあるの」
「携帯の番号は知ってると思うから、電話してきて」
それだけ言えば、倉田は酷くばつの悪い顔をする。けれども、その顔はストーカーのように電話をしてきた一人が倉田だと確信させた。
それでも、由香里の言葉に文句を言う訳でもなく、倉田はバッグから取り出したメモ帳に何かを書き、由香里へと押しつけてきた。そして、そのまま倉田は踵を返してしまい何も言えない。
実際、倉田がその場に留まっていたとしても、由香里は何も言えなかったに違いない。
病院に送られる最中、倉田から押しつけられたメモを開けば、そこには十一桁の携帯番号が書かれていた。恐らく、これが倉田の携帯番号なのだろう。
病院にいる間に、桐谷も現れたが由香里は突き飛ばされた、という事実しか伝えられない。顔を見た訳でもなければ、考えても恐怖心しか思いだせない。
けれども、そんな由香里に桐谷は男を見なかったか、と問いかけてきたけど、記憶にはないから首を横に振ってそれを否定した。ただ、桐谷の口調から、警察は何かしら確信あって質問してきたように見える。
一緒にいた倉田についても色々聞かれたが、偶然会ったとは言わず、最初から待ち合わせをしていたのだと伝えた。
別に本当のことを伝えてもよかった。けれども、今回の件だけでいえば、倉田がやったとは思えなかった。由香里が混乱していたのだから、倉田の一存でごまかすことだってできた筈だ。
けれども、倉田はありのままを伝えた。そして、本当に心配している様子だった。勿論、それで全てを信じた訳ではなかったが、今、倉田がどういう気分でいるのか知りたかった。
もしかしたら、勘違いしていたかもしれない。そう言った倉田は一体、何を勘違いしていたのか……。
結局、骨折などもなく由香里に大した怪我はなかった。ただ、顔や腕、足などに派手な擦り傷を作っていたこともあり、会社に連絡の際有給休暇を三日ほどお願いした。既に倉田や桐谷から説明があったらしく、碓井との話しは早かった。
こういう時にも淡々としている碓井に苛立がつのるのは、ありえないことに巻き込まれて神経がささくれだっているからだろう。徐々にきつくなる由香里の口調にも、碓井の感情は見えない。
碓井は誰に対しても淡々としている。それは数年部下として仕事をしてきたから分かっている。そして他人に興味のない由香里はある意味、似ているのかもしれない。
同族嫌悪、その言葉を思いだして苦く笑うと、由香里は幾分投げやりな気持ちで携帯を切った。
桐谷に自宅まで送って貰ったが、平日昼間に一人部屋にいるのは居心地悪く感じる。自分の部屋だから悠々自適な筈なのに、平日と思えばそれだけでのんびりした気分になれない。それは、今まで由香里が会社を休んだことがなかったからだろう。
勿論、土日は休みだし、夏期休業や年末年始も休みにはなる。けれども、仕事がある日に休みを取ることは始めてだった。
別に由香里は仕事人間というほどではない。だからこそ、家でのんびりできないのは不思議に思える。
昼時はとうに過ぎていたけど食欲もない。キッチンでコーヒーを作り、お気に入りのソファでカップに口をつける。十月とはいえども、暑い日にホットコーヒーを飲もうという気になるのは帰ってきてすぐにつけたエアコンのためだ。
温かいコーヒーをゆっくり時間を掛けて飲み干すと、少しだけ落ち着いた気分になってきた。けれども、その時になって初めてカップを持つ手が震えていることに気づく。それを見てようやく、落ち着かないのは殺されそうになった恐怖からだ、と気づいた。
それに気づいてしまえば、一人で家にいることも酷く落ち着かない。だからといって、顔まで派手なガーゼをつけていることを考えると、外に出たいとも思えない。
一人でいる危険性に気づき、朝開けたカーテンを閉めて外部から視界を遮ると、玄関の鍵が閉まっていることを確認する。そこまでして、ようやく安全を確保した気分で由香里は再びソファに腰掛けた。
勿論、これで完全に安全だとは思っていない。それでも、気休め程度にはなったらしい。
落ち着いてくると、考えるのは今日のこと、そして内海のことだった。
少し前にも考えていたが、果たして今日の件と内海が殺された件、それは同一人物が犯人なのだろうか。それ以前に、繋がりはあるのだろうか。
桐谷は男を見なかったかと言っていたが、男と言われて由香里に思いつく相手は松本と江崎の二人だ。
松本は確かに殺意がないと言っていた。けれども、松本が倉田を好きで、倉田が内海を好きだったのであれば、そこに嫉妬という殺意が湧かなかったとは断言できない。
江崎については内海殺しにどう繋がるのかは分からない。ただ、由香里の様子をしばし伺ってくる江崎は上司という枠を飛び出している気がする。しかも由香里から聞き出そうとすることは、社内で起きている嫌がらせについてではなく、由香里の状況についてだ。
江崎が由香里に好意がある、というのであればまだ納得できる。だが、江崎が由香里を見る目は観察という言葉が一番正しく、そこに好意はない。それにも関わらず、いじめ以外の由香里の状況を尋ねる、というのは酷くちぐはぐだ。
その二人以外にも怪しいということであれば倉田も充分怪しい。倉田は内海が好きだった。けれども社内では内海と由香里が付き合っているという噂が流れていた。手に入らないなら殺してしまえ、とばかりに殺害した可能性だってないとは言いきれない。
ただ、その三人が由香里に殺意を持つ、ということはいまいち考えられない。可能性として由香里が思いつくのは倉田ぐらいで、由香里が内海と付き合っていたと思い込んでいるのなら、由香里を殺そうとする可能性はあるかもしれない。
けれども、内海が亡くなった今になって、由香里を殺そうとするものだろうか。疑問は泡のように浮かび上がっては消えていく。
社内での微妙な関係性を考えることに疲れた由香里は小さく溜息をついた。どちらにしても、犯人探しは警察の仕事だ。由香里がどうこうできる問題ではない。
ただ、自己防御だけはしておきたい。そのためには色々なことを知っておくべきだと思う。
そこまで思考が辿り着いた瞬間、テーブルの上に置いたままにしていた携帯が派手に鳴り響く。突然のことに大げさなほどビクリとなり、時計を確認する。
時間は既に六時を回っているが、由香里に時間の感覚はない。手を伸ばしてテーブルに置いてある携帯を取ると、表示される番号を確認する。それが倉田の番号だと確認してから由香里は通話ボタンを押した。
「倉田だけど……いくつか聞きたいことがあるの。会えないかな」
「それは構わないけど。どうせ私の家も分かっているだろうしうちに来る? それともどこかで待ち合わせでもする?」
「……それは当て擦り? 嫌み?」
「嫌みや当て擦りと思えるようなことをした自覚があるから、そう思うんだと思うけど。でも、別にそんなつもりじゃなかったから。ただ、家も知ってるし他人の目がない方がいいのかと思って。……それにあんなことがあった後だから、できたら私が家を出たくない、というのもある」
最後の言葉は倉田に告げるべきか悩んだ。けれども、既に呆然とした由香里自身を見られているのだから、今更取り繕う気にはなれない。
「ごめん、気遣いが足りなかった」
トーンの落ちた倉田に別に気にしないことを伝えて、倉田との電話を切った。電話口から聞こえる声は固かったけど、最後は少し気遣うような様子だった。
家に呼ぶのは危険な気はする。でも、あの時、倉田に殺意はなかった。いや、なかったと由香里が信じたいのかもしれない。
そわそわと一時間近くを待てば、倉田は由香里の家に現れた。玄関先で正面に立つ倉田は酷く居心地悪そうな顔をしながらも、手にしていた荷物を突き出してきた。
片手には有名処のケーキ、そしてもう片方には会社近くにあるデパートの弁当だ。
「これは?」
「買い物とかも不便してると思って。必要なかったら捨てていいから」
視線を合わせずに答える倉田に、由香里の口元に自然な笑みが浮かぶ。確かに倉田との仲は社内での付き合い程度しかない。それでも、数年一緒に過ごしてきたのだから、こういう気遣いができるタイプだと知っていた。
そうでなければ、長い年月一緒に昼食を取ったりしない。
「ありがとう、凄く助かる。私も少し攻撃的すぎた、ごめん」
その言葉と共に玄関を大きく開いて中へ倉田を招き入れる。入ってきた倉田にソファを勧め、由香里はコーヒーを用意してから向かい合わせのソファに腰掛けた。
「怪我の調子は?」
「擦り傷だから、大したことはないよ。ただ見た目が悪いから会社を休んだだけ。それで、倉田さんの話しって?」
「あ……うん……」
そのまま黙り込んでしまい、由香里は急かすことなく倉田の言葉を待つ。その末に倉田からの言葉は、まず謝罪だった。
「ごめん、酷いことをしてたと思う。正直、最初は嬉々として嫌がらせしてた」
こんな時、倉田は涙を見せることはしない。いさぎよく非を認める倉田は、由香里が知っている倉田だ。そして涙を見せて情に訴えられるよりも、ずっと好感度は高い。
言わなくていいことまで言ってしまうところも倉田らしく、少しだけ笑ってしまいそうになりながら倉田の下げる頭を見つめてる。
「でも、最近はそうじゃなかった。それはどうして?」
「理由は色々あるんだけど、一番は山吹さんの態度で馬鹿らしくなった、かな」
「全然堪えてないから?」
「それもある。でも、山吹さんの言い分を確認したくなったの」
ようやく頭を上げた倉田は由香里が思っていたよりも真剣な顔をしていた。
「それって、私と内海さんが付き合ってるっていう噂のこと?」
「知ってたの?」
「知ってたというか、内海さんが亡くなってから教えられた、というのが正しいかも」
「……付き合ってた訳じゃないの?」
「付き合ってないし、恋人じゃない」
「……好きだったの?」
思いのほか真剣な問いかけに、倉田が本気で内海のことが好きなんだと知る。合コンなどに顔を出している倉田に呆れることもあったが、本気だからぶつかれない、という気持ちも分からなくはない。
だからこそ、ごまかすことはせず覚悟を決めた。
「私は友人以上の好意はなかったよ。ただ……亡くなったあの日の夜、内海さんに告白された。勿論、その場でお断りしてる」
「内海さんの片思い?」
問い掛けに由香里が頷けば、倉田は苦い顔を見せる。けれども、数秒後にはどこか納得したような顔で溜息をついた。
「あーあ、噂に振り回されたってことか。下らない嫉妬心で本当にごめん」
「私もごめん。実は内海さんを殺したんじゃないかって、ちょっと疑ってる」
「今日の件は?」
少し強張った顔で問いかけてくる倉田に、由香里は少し言葉をためる。本心を口にすることをためらったことが大きい。でも、ここまでくれば今更だろう。
「最初は疑った。でも、すぐに倉田さんが色々言ってくれたから、今その件については疑ってない」
「ちょっとホッとした。状況的にそう思われても仕方ないし。それから、私は内海さんを殺したりしないよ。だって生きてないと何事も意味がないから」
確かに好きだから殺すなんてことは、由香里だってドラマや小説の中でしか見たことがない。そういう意味では、そんな理由で本当に人を殺せる人がいるのか、ちょっと信じられないところもある。
「でも、私が内海さんを好きだから殺したかも、ということなら、相沢さんも怪しいかな。内海さんのこと好きだった筈だし」
「そうなの?」
「多分だけど……私と同じ目で内海さんのこと見てたから。ただ、相沢さんって碓井課長と付き合ってるっていう噂もあるんだよね。まぁ、噂なんて本当のことがどれだけあるか分からないけど。だって、渡瀬さんが横領してるとか、そんな噂もあるくらいだし、もうどんな噂でもありみたいな感じ」
渡瀬の横領なんて、どうしたらそんな噂が流れるのか理解できない。仕事に手抜きを認めない渡瀬が横領なんてするとは思えない。それは倉田も同じ気持ちなのか、渡瀬の件についてはかなり投げやりだ。
碓井の件については初耳だが、あの碓井が相手と思えば、相沢には同情の一つだってしたくなる。そもそも相沢と碓井では接点すらないし、碓井は根本的に誰かと付き合うには問題がある。
「……碓井課長って、一応結婚してたよね? 不倫ってこと?」
「所詮噂だから、事実は知らない。組み合わせとしては最高にエグい類いだと思うし、相手があの碓井課長だから相沢さんも災難ではあるかな」
まさに相沢にとっては災難だと思う。けれども、もし本当に碓井と相沢が付き合っているということになれば、ここでも一つの人間模様が浮かび上がる。
相沢は内海を好きで、碓井が相沢を好き、ということになれば、碓井が内海に殺意を抱く可能性も考えられる。
松本と同じパターンではあるが、こちらは所詮噂でしかない。ただ、接点が全くない相沢と碓井という組み合わせは、由香里には少し引っかかりを覚えた。
「そういえば、山吹さんも最近、江崎部長との不倫疑惑が流れてる。二人で食事してた云々」
江崎も碓井と同じ既婚者だ。ただ、江崎は既に別居中ということで、離婚まで秒読みなどと言われているのを聞いたことがある。ただ、今現在結婚している相手なので、付き合っていれば確かに不倫だ。
余り深く考えていなかったけれども、そんな噂があるのであれば、江崎の誘いを断り続けたのは正解かもしれない。
「確かに二度ほど食事した。でも、嫌がらせの範囲がどこまで広がってるのか聞かれたから、それの報告」
実際は誘いの理由が少し違うが、不倫疑惑に巻き込まれるのはごめんだ。だから由香里は少しだけ嘘を混ぜる。けれども、そんな由香里の嘘を倉田は疑う様子もない。
「あそこまで規模が大きくなると報告されるのは仕方ないね。実際、面白半分で加担していた他の課の人間もいたし。でも、大半は内海さんに気がある人だったよ」
由香里に嫌がらせをしてきた人は複数人だと思ってはいたが、その人数は把握していない。けれども、朝に夜にストーカーしているのだから、二、三人でない筈だ。倉田が言うように面白半分の人もいただろうが、あの労力を考えれば、面白半分で続けられるものじゃない。
「内海さん、もてる人だったんだね。私、それすら知らなかった」
「あはは、山吹さんってそういうの興味なさそうだったもんね。知ってたのに、本当に馬鹿なことしたと思う。でも、もうああいう嫌がらせはなくなると思うよ。誰も容疑者になんてなりたくないからね」
「それって……」
「私が大げさに吹いた。あんな状況みたら、今までと同じでなんかいられないし……本当に怖かった」
そう言って倉田は顔をしかめる。恐らくあの瞬間、由香里と同じように倉田も恐怖を覚えたのかもしれない。数秒の沈黙の後、倉田は気を取り直した様子で由香里に視線を向けてきた。
「何か恨まれるようなことあるの?」
「それこそ、内海さんの件以外これといってないんだよね。でも、恨みって自分が知らないところで買うもんだと思うし。それに内海さんが殺された件と別なのか、それすらも分からない」
「それはそうだよね……とりあえず、何日か休む予定?」
「一応、二、三日は」
「少し噂について調べてみるよ。だって、おかしいでしょ。去年まで噂が横行するような職場じゃなかったし」
「確かに、去年はのんびりした職場で……そういえば、野口さんの噂っていうのも、あれ本当のことだったのかな」
由香里の呟きに倉田も押し黙り、空間に沈黙が満ちる。
噂に左右されるのは馬鹿らしいと思う。でも、噂に振り回される人がいるのは確かだ。そして、そういう人たちを馬鹿にすることはできない。実際、たかが噂で受けた嫌がらせは笑えるものではない。
「言われてみれば……もしかしたら、あれが先駆けだったのかもしれない。あのさ、頼めた義理じゃないけど、山吹さんは野口さんと連絡とってみてくれる?」
「別にそれは構わないけど、どうして私が?」
「多分、山吹さんの方が野口さんは話しをしてくれそうだから。最後の方、私、野口さんに微妙な反応しかできなかったんだよね。あの例の噂に振り回されて。だから、山吹さんの方がいいと思う」
確かに野口がやめるまで噂を知らなかった由香里は、普段と変わらない会話をしていた。知っていても、知らないふりはできたと思うが、空気は微妙なものになったに違いない。
「分かった。今晩にでも連絡取ってみる。何か分かったら連絡入れるようにするから」
「そうして。今日は押し掛けてごめん。でも、話しができて良かったと思う」
「そうだね。私も話しができて良かった」
「そう言って貰えると少しホッとする。本当に今までごめん」
そう言った倉田の顔は反省した様子だ。けれども、由香里もあえて軽く流すことはしない。随分とモヤモヤさせられたし、面倒なこともさせられた。
「別にいいよ、とは言わないよ」
少し厳しい由香里の言葉だったかもしれない。自分でも融通がきかないと思ったが、真剣に話してくれた倉田に対してごまかす真似はしたくない。ここで何でもないといえば、今後由香里の中でわだかまりが残る。
そんな由香里の思いを倉田も分かっているのか、苦く笑うだけで反論はない。
「大丈夫、最初からそれは期待していないから。それに、いくらなんでも虫がよすぎる自覚もあるし」
「でも、同期で良かったと思ってる」
「そっか」
心底満足したような倉田の笑みに、由香里も満足げに微笑んだ。
倉田と話したことで、心の奥底に沈んでいた澱みが少し軽くなった気がした。

だから翌日、自宅に桐谷と根元が尋ねてきて、倉田が亡くなったことを聞いた時、足下から崩れ去りそうな衝撃を受けた————。

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