それから二日後、いつものように夕食を取りに来た日高を無碍にすることもできず、面白くない気分で悠は三人分の食事を作った。そして、壱哉が風呂に入ったタイミングで日高に声を掛けた。
「あれからどうなったの?」
「守秘義務があるから答えられません」
「でも、あいつ警察の手に余るって」
「そういう意味なら、まだ彼の身柄は警察預かりになっている。他にも余罪があるからね」
「他に余罪って……」
「守秘義務でーす」
「ふざけんなーっ!」
いつもであれば、そう速攻で返したに違いない。けれども、それ以上話せない日高の立場も分かっている。だから悠は小さく溜息をついた。
「おや? 珍しい」
「そりゃあ、部外者だし言いたくても言えないことがあるのは、一応身内に刑事いるから分かってる。分かってるけどむしゃくしゃする」
「むしゃくしゃって……」
笑いながらも日高はテーブルに突っ伏した悠の頭をゆっくりと撫でる。
「教えたいのは山々だけど、こればっかりはね。ごめんね」
「分かってるから、謝る必要ないし」
「でも不機嫌だし」
「もうね、こう歯痒いというか」
勢いよく頭を上げた悠は、手をわきわきして見せる。途端に日高は声を立てて笑い出し、先程と同じように頭に手を乗せるとぽんぽんと優しく撫でた。
「これ以上、轟木とは会わない努力をしてね」
「別に今回だって会おうと思った訳じゃなくて」
「そうじゃなくて、危ない事に首を突っ込まない。今回は轟木が素直に引いてくれたから良かったけど、必ずそういうものじゃない。何よりも壱哉の件だってある」
「それは……反省してる。ごめんなさい」
少し項垂れながらも素直な気持ちで謝罪すれば、小さく溜息をついた日高はテーブルに両肘をつくと頭を抱えた。
「日高さん?」
「うん、無理言ってるのは分かってる。悠ちゃんが轟木に近付いた訳じゃないことも分かってるつもりだし、勝手に近付いてきたのは轟木の方だろうし。でも、できる限りでいいから近付かないで欲しいんだ。心配になる」
俯いていて日高の顔は見えない。思いのほか真剣に語る日高に、いつものように軽口を言える筈もない。
日高の手が伸びてきたかと思うと、悠の肩に掛かる髪を一房掴む。それを指に巻き付けて遊びながらも、悠から視線を外すことはない。
口元には穏やかな笑みを浮かべながらも、その視線はまっすぐで酷く居心地が悪い。いつものように突っぱねることもできない、奇妙に緊張した空気がある。
「悠ちゃんのことが好きだよ。だから危ない事はしないで欲しいと思ってる」
その言葉で鼓動が跳ね上がる。
違う、日高はいつでも気軽に好きだというタイプで、言葉そのものを信じていいものじゃない。別に本気にする必要なんてない。
「これから気をつける。もう真面目な顔で告白じみたことしない!」
髪で遊ぶ日高の手を軽くはたき落とすと、椅子から勢いよく立ち上がる。途端に先程までの空気が霧散し、いつものようにへらりと日高が笑う。
「結構本気だったんだけどねぇ」
「日高さんの本気は全く信用できません」
「手厳しいねぇ」
「全然。とにかく、今後は轟木に会わないように気をつける。以上」
それだけ言うと、逃げるようにしてリビングから自室へと駆け込んだ。日高相手に逃げるというのもおかしな話しだ。けれども、まだ心臓はバクバクと落ち着かない。
あいつにドキドキするのは、絶対に男に対する経験値が少ないからと断言できる。決して、あいつの言葉にグラグラきた訳じゃない。
そう自分に言い聞かせると、悠は勢いよくベッドの上にダイブした。
* * *
日高に注意され、その後には壱哉にもがっつり注意を受けた悠は、翌日うんざりした気分で学校へと向かう。
うんざりした気分ではあったけど、朝のランニングは忘れなかったし、朝食だってきちんと取ってきた。だから、それはいつもと変わらない日常の筈だった。
大通りを歩いていると、車がガードレール越しにスピードを落としたことに気づく。そちらへ顔を向ければ、窓から顔を見せたのは轟木だった。
思わず見なかったことにして、足早に歩き出したけどガードレールを挟んだ向こう側を車はピタリとついてくる。
「ちょっと、ついてこないでよ!」
「用があるからこうして出向いてやったのに、人の好意が分からない奴だな」
「何が好意だ。あんたと会ってることを知られたら、あたしが怒られるの! だから近付かないで」
「今日、澤村が釈放される。うちとしては、明日中に澤村の身柄を拘束するつもりだ」
「……どういうつもり?」
思わず歩いてい足が止まる。睨みつけるように轟木を見れば、楽しげに轟木は口端を上げた。
「勿論、うちのシマを荒らしてくれたんだ。それ相応の罰は受けて貰わないとな」
「でも、余罪もあるって」
「金を積めば余罪なんてもんは幾らでも揉み消せる。だが、うちは警察とは違う」
「ヤクザだからね」
「分かってるじゃないか。そうだ、ヤクザにはヤクザの流儀がある」
「澤村はまだ高校生で、ちょっと馬鹿やっただけで」
「ほぉ、ならお前はヤクの密売を見逃すことができるということか」
「それは……」
麻薬の密売は犯罪だ。そんなことは悠にも分かってる。でも、轟木の言うことを認める訳にもいかない。
「法が裁くべきでしょ」
「法はいつでも未成年と金持ちの味方だ。澤村は明日から学校にも通える。処罰は何もない」
「だからって、あんたの言うことそのまま鵜呑みにできる訳ないでしょ!」
「だったらどうする? あいつを庇ってヤクの売買に目を瞑るか?」
目を瞑れる筈はない。悠の中で犯罪者を野放しにすることは絶対に無理だ。だったらどうするべきか。考えてみるけど、思いつく方法は何もない。
「因みに日高に泣きついたところでどうにもならないからな。あいつも所詮権力の犬だ」
思わず持っていた鞄を握りしめたのは、警察という正義が権力に負ける、そう突きつけられたことに対してだ。
「どうして、あたしにそれを言う訳?」
聞かなければ知らないままでいられた。聞いてしまえば放っておけない。知りたく無かったとまでは思わないが、知らずにいられたら平和だったに違いない。
轟木を見据えたまま問い掛ければ、殊更余裕の笑みを浮かべた轟木がフッと笑う。
「ただの興味本位だな。お前がどう動くか」
「性格悪っ!」
「それだけお前が気に入ったってことだ。あぁ、お前がうちでペットのように飼われるっていうなら、澤村くらい見逃してやっても構わない」
「ご冗談。あんたに飼われるくらいなら、死ぬ気で他の方法探す」
「ククッ、お前はそういう女だな。お前の正義は果たしてどこで妥協する?」
それだけ言うと、黒いシートの張られた窓ガラスが徐々に上がり轟木の姿を徐々に隠す。
「タイムリミットは明日、夕方六時」
最後にそれだけ言い残すと、ぴたりと窓は閉ざされ車は悠を追い越して行った。睨みつけるようにして、黒塗りの車を見送った後、悠は奥歯を噛み締める。
正義をどこで妥協するか? 冗談じゃない。正義ってものに妥協なんてない。犯罪は見逃せない。だからといって、ヤクザに身柄を引き渡せない。だったらどうするか。
澤村に自首させる以外の方法はない。
頭に浮かんだ澤村は、細身の真面目を描いたような少年だった。保釈金積んで出てこられるくらいには、金持ちらしい。だとしたら、澤村が金目当てで麻薬の売買をしているとは思えない。
とにかく、今は何をするべきか。それを考えると悠は、来たばかりの道を走って引き返す。
自由に動くには制服は邪魔なものだ。壱哉は早番で今日はすでに出掛けてしまい、家には誰もいない。だからこそ、急いで家に帰ると手早く動きやすい格好に着替える。そしてお気に入りのハイカットのバスケットシューズに足を入れると、解けないようにぎっちりと紐を結んだ。
ジーンズのポケットにはハンカチと携帯、そして財布という軽装で家を飛び出す。その足で向かった先は、澤村の通う高校だった。
電車を乗り継いで高校前に到着すると、少し離れたところから校門の様子を伺う。探している人物は、先日澤村の元へ案内してくれた二人のどちらか。
一応名門校だけあって、サボるような真似はしないに違いない。校則は緩いけど、サボりなどにはかなり厳しいという噂を聞いたことがある。
既に学校内に入っている可能性は高い。時間まで待って現れないようであれば、学校内に忍び込む算段も立てつつ校門を見据える。
路地脇にいれば、不審な顔で視線を向けられるけど、今はそれを気にしている場合じゃない。ジリジリとした気分で校門を見つめていたけど、不意に覚えのある顔が視界に入る。
手を伸ばせば届く距離を歩く二人組。それは間違いなく先日悠に声を掛けてきた二人組だ。迷うことなく手を伸ばすと、二人の腕を掴み勢いよく路地裏へと引っ張り込んだ。
力任せに引きずり込んだことで、二人が道路へと倒れ込む。
「んだよ!」
その内の一人がこちらへ顔を向け、そのまま言葉を飲み込んだのが分かる。
「澤村の住所。知ってるでしょ?」
「……何でお前に教えないといけないんだよ」
どうやら相手もしっかりと悠の顔を覚えていたらしい。睨みつけてくる二人を見下ろし、努めて冷たい声をかける。
「澤村がヤクザに追われてる」
「それがどうした。俺たちには関係ないだろ」
「本当に関係ないと思う? 澤村がもしもあんたたちのことを口にしたら? それでも本気で関係無いって言える?」
「冗談だろ。元々俺たちはあいつとは関係無い」
「でもあの場に居合わせたのは確かでしょ。あんたたちもあいつらに見られてる。絶対安全だと思ってる訳?」
「だとしたらどうしろって言うんだよ! あいつはサツに捕まった! 俺たちは捕まってない。関係ない」
「出てくるでしょ? あれだけの金持ちなんだから」
実際に澤村が金持ちかどうかは知らない。けれども、その発言で二人の顔色が青ざめたのは確かだ。
「俺は関係無い!」
一人が勢いよく立ち上がると、悠の横を抜けて通りに逃げ出そうとする。勿論、ここで逃がす訳にはいかない。足を引っかけて転ばせてから、転がったところを蹴り飛ばした。
「関係無い? 自分の命がかかってるのに関係ないで済む訳?」
こんな脅迫めいたことは悠の趣味じゃない。けれども、人の命が掛かってる。
轟木がどんな男かは分からない。ただ、ヤクザの制裁がどれだけ厳しいものか、悠は実際に聞いて知っている。恐らく澤村だってただでは済まない筈だ。
「それとも殴られるのが趣味?」
「分かった! 言うから!」
拳を振り上げたところで、ようやく男の口から叫ぶようにその言葉を聞き出すと、悠はようやく拳を納めた。
不意に背後の気配が動いた気がした。振り返りながら数歩下がれば、もう一人の男が手近にある鉄パイプを持って、殴り掛かってきたところだった。それを軽く避けると、手刀で手首を打つ。鉄パイプが離れたのを確認する間もなく、男の鳩尾に肘を打ち入れた。
男の身体が崩れ落ち、地面に手をつき咳き込むのが見える。
すぐに先程から転がったままの男に視線を向ければ、男が小さく息を飲む音が聞こえた。
「澤村の家はどこ?」
「住所は知らない! 浦垣にある豪邸が澤村の家だ!」
浦垣というのはここから二駅さきにある地名だ。それを覚えていたのは、桜の家がその浦垣にあるからだ。そして、桜の家の近くに豪邸といえる家が一軒あったことを思い出す。桜の家も大概豪邸といえるだけの作りをしているが、さらに上には上がいる。
「それって、駅通りから少しさきの道を右に曲がったところにある、高い塀がある家のこと?」
「そうだよ! 知ってるなら聞くなよ! くそっ!」
用事は終わりだとばかりに悠は踵を返すと、背後から声を掛けられる。振り返れば、情けない顔をした男が二人こちらを見ている。
「俺たちはどうすれば……」
「自首すればいいでしょ」
「そんなことすれば将来が」
「将来? 今ヤクザに捕まれば将来も何もないと思うけど」
それだけ言い残すと、悠はすぐに通りへ一歩を踏み出す。照りつける強い日差しに目を細めると、今日は暑くなりそうだと思いながら駅に向かって走り出した。