Chapter.IV:見知らぬ世界へ Act.01

荷物片手に見上げたマンションは、空を狭くしていた。そびえ立つマンションを呆然とした気持ちで見上げていれば、横から佐緒里が声を掛けてきた。

「……凄い、マンションね」
「私も今になって帰りたくなった」
「そこにいると業者の邪魔になるからとにかく入って」

笹塚に言われておぼつかない足でマンションに入る。二層式の扉になっていて中へ入れば暗証番号を打ち込めるプレートが一本足で立っていて、慣れた手つきで笹塚が操作した。

「那奈、俺だ」
「今開けます」

聞こえてきたのは高い可愛らしい声で、まるで中学生の声にも聞こえた。扉が開き中に入ると、受付のようにあるカウンターから一人の男が歩み寄ってきた。

「笹塚です。今日は引越で今後は彼女がこちらに入居しますので、顔を覚えておいて下さい」

手で指し示された皐月は慌てて頭を下げた。

「新見皐月です。宜しくお願いします」
「新見様ですね。今後宜しくお願い致します」

深々と頭を下げる男性に、一度上げかけた頭を今度こそ皐月は深く落とした。こうした機会は余りなく、落ち着かない気分で頭を上げると笹塚に促されてエレベーターへと乗せられた。

「業者はいいのか?」
「彼が指示するから放っておいていいよ。部屋は最上階、妹しか住んでいないから君たちも自由に出入りしてくれて構わないから」
「……いいのか?」

伺うような、訝しむような顔で健吾が問い掛ければ、さもおかしそうに笹塚が笑う。

「別に構わないよ。友人同士で行き来することがあってもおかしくはないからね。実際、妹も友人を家に呼んだりしている。別に男だからと気にする必要はない。デザイン関係だけあって、ショー近くなると男女入り乱れていることもあるくらいだし」
「ショーって、ファッションショーですか? まだ学生なんですよね?」
「学生だからできるショーっていうのもあるからね」

佐緒里の問い掛けに笹塚は、いつものように笑みを浮かべて何でもないことのように答える。穏やかに見える笹塚だけど、正直結構きつい人なのは皐月には分かっている。

ただ、そんな笹塚の妹という人がどういうタイプなのか想像がつかない。それは皐月の人付き合いの狭さをも物語っているのかもしれない。

「ただ妹が作るものは一般からは少数派だけど、それなりに受け入れられているらしい。佐緒里ちゃんとはちょっと趣味が合わないかもしれないね」
「そうなんですか?」
「まぁ、見たら分かると思うよ」

そんな笹塚の言葉と同時にエレベーターが止まり扉が開く。そこにあるのはだだ広いロビーで、飾り気も何もない。ただ、大きく取られた窓から見える景色は光の洪水で、皐月が住んでいた場所とは雲泥の差だ。

「……凄い景色」

思っていたことば呟きとして言葉に乗る。途端にそのまま全員が足を止めた。

「だな。少なくとも普段見る景色じゃないな」
「うわぁ、いいなぁ、皐月。私なら喜んじゃうけど、こんなマンション」
「お前は既にいいマンション住んでるだろ」
「……私、もう帰りたい気分だけど」
「ここまで来て帰られたら困るかな。既にあのアパートも引き払った後だしね」

確かにそう言われたら帰る場所がある訳でもない皐月としては何も言えない。ただ、分不相応な場所にこれから住むことだけは理解できる。

慣れない他人との生活、なれない住居。今から考えるだけでも胃が痛くなる気がする。

皐月が胃の辺りをさすっている間に、両開きの扉横に備え付けられた呼び鈴を笹塚が押した。少しすると鈴が転がるような返事が聞こえて、それに対して「那智だ」と答える笹塚がいる。

少し前の皐月であれば、この場に来ても逃げ出したに違いない。でも、今は逃げ込む場所もない。だから足を踏ん張りその場で立っていることしかできない。

しばらくすると鍵の開く音がして、扉が大きく開いた。そこに現れたのは、まるで絵本の中から抜け出したような美少女だった。

「別に兄様は必要なかったんですけれども」
「そう言っても紹介者である俺がいない訳にもいかないでしょ。紹介するよ。これが妹の那奈」

背の高い笹塚の横に立つ那奈は、笹塚の胸元までしか身長がない。佐緒里も背が高い方ではなかったけれども、それよりもさらに低い。

何よりも皐月の度肝を抜いたのは、那奈の格好だった。頭にフリルがついた何かを被っているし、着ている服は苺がプリントされたピンクのワンピースだ。そこにもふんだんにフリルやらレースがあしらわれていて、それがまた顔立ちも相まって那奈にはとても似合っている。

そういう服を着て似合う人間が現実にいるとは思ってもいなかった。

「笹塚那奈です。これから宜しくお願い致します」
「あ……新見皐月です。今日から宜しくお願いします」

那奈が頭を下げるのを見て、慌てて皐月も頭を下げた。色々と考えていた筈なのに、那奈の容姿や服装に圧倒されてしまって、考えていた挨拶など全てが吹き飛んでしまった。

「そちらはお友達かしら?」

那奈の言葉で佐緒里と健吾も改めて挨拶をして、それから部屋の中へと通された。入ってすぐの扉を開けた那奈は、その中へと全員を促す。

入った部屋は広く、そこだけでも十畳はあるように見えた。壁際にあるテレビ、そして応接セットは西洋風というのか、可愛らしい感じで那奈の雰囲気とはよく合っていた。

けれども、佐緒里はともかく、皐月や健吾、そして笹塚はこの部屋にいるとどうにも浮いている気がする。

「すぐにお茶が来ると思うから、好きなところにお掛けになって」

言われるままにソファに腰掛けたけど、どうにも落ち着かない。それは健吾も同じらしく、何度も座り直している。笹塚はさすがに慣れているらしく、既にソファに馴染んだ様子で、佐緒里も全く気にした様子がない。

「あの……他に誰かいるんですか?」
「あぁ、今日はお手伝いさん兼ハウスキーパーが入っているよ」
「お兄様が選んだ監視役だけどね」
「監視……」

皐月は呟きながらも、世界が違いすぎて魂が抜けそうだった。お手伝いさんはまだ分かる。でも、監視込みの生活というのが想像すらつかない。

「監視と言われると人聞きが悪いね。未成年が暮らすんだから保護者としてはそれなりの環境を与えてしかるべきだと思うけど。特に那奈の場合」
「もう昔みたいな馬鹿は致しませんわ」

笹塚から大きく顔を背けた那奈の柔らかく巻いた髪がふわりと揺れる。顔立ちや髪型、そして化粧から全てがそのヒラヒラとした服装とよく似合っていると思う。

「あぁ、だから気にすることはない、ね……」

ぼそりと呟いた声は隣に座る健吾のものだ。隣を見れば何故か健吾と笹塚はお互いに視線を交わしながら微妙な空気を醸し出していた。二人だけで何かを分かり合っているようで、この二人は仲が良いんだか悪いんだかよく分からない。

部屋の扉がノックされ那奈が返事をすれば扉が開く。そこに立っていたのは、男の人だった。ただ、その格好に思わず皐月は目を見張る。黒髪に眼鏡、そこまでは普通だ。

ただ、着ているものがまさしく執事といってもいいかもしれない。黒に金のラインが入ったフロックコート、グレイのベスト、そして胸元には大きめな黒リボンタイ。それこそリボンは女性用のブラウスについているようなヒラヒラとした大きなものだ。

まるで結婚式のよな出で立ちに唖然とその男性を見上げてしまう。視線に気づいたのか、目が合うと微かに笑みを浮かべた。

「こちらでお手伝いをしている尾崎弓弦と申します」
「今日からお世話になります新見皐月です」
「何かございましたら、お気軽にお申し付け下さい」
「はぁ……」

何とも間抜けな返事をしたと気づいたのは、微かに尾崎が笑った後だった。シルバーフレームの眼鏡が似合う硬質な感じがする人だ。確かにその顔に笑みはあるけど、笹塚と同じで笑顔がそのまま内心と同じには見えない。

「弓弦さん、引越の荷物の手配はお願いするわ」
「畏まりました」

それぞれに茶器を配り、最後にティーポットをテーブルに置くと一礼してからワゴンと共に部屋から立ち去ってしまう。

「女の家に男の執事ってありかよ」
「彼は俺の友人でね。下手な人間よりか信用できるのでね。何よりも那奈も気に入ってる」
「申し訳ないけれども、彼についてはあなたの意見は聞き入れられないわ。どうせ監視されるなら、見目麗しい方が目の保養にもなりますし」
「や……別に文句言うつもりはないけど……」

那奈から強く言われてしまえば、さすがに健吾も言葉を小さくした。確かに家主である笹塚と那奈が納得しているのであれば、部外者である皐月たちが何か言える筈もない。

「通いのお手伝いさんだし、一応あれでもプロだから信用して貰うしかないかな。家政婦の派遣会社の社長だし、社長自ら馬鹿なことはしないよ」
「社長自ら家政婦ってありなのか?」
「基本的に本人も家政婦の仕事が好きなんだよ。それについては人それぞれだし、社長だからって偉そうに社長室に籠もる人間ばかりではないよ」
「いや、それは分かってる」

確かにそんなことは健吾にも分かってるだろう。健吾の父親も建築事務所の社長なのだから、社長自ら仕事をすることは分かっているに違いない。

ただ社長というのには若いこともあって、驚き含みだったに違いない。実際、話しを聞いていた皐月自身も驚いたくらいだ。

目の前に用意されたティーカップを手にすれば、青いリボンとピンクの薔薇があしらわれていて那奈らしいものだと思える。この部屋にあるテーブルクロスなど見ても、とことんこだわりがあるのが分かる。

「食事に関しても弓弦が全て用意するし、二日に一回は部屋の掃除もするし」
「それくらいは自分でしますから」
「うん、そのお願いは聞いてあげたいところではるんだけど、部屋を腐海にされても困るし」

それを言われると皐月は言い返せる言葉はない。隣では佐緒里が小さくため息をつく音が聞こえた。実際、先日佐緒里や健吾が部屋を掃除してくれたこともあって、そのことは分かっているのだろう。

立つ瀬がないというのはこのことかもしれない。

「弓弦さんは仕事に徹底しているから、何があっても気にしないわよ。余り難しく考えなくても平気だと思うわよ。基本的に掃除洗濯、全て弓弦さんがしてるくらいだし」
「せ、洗濯! い、いえ、それは自分で」
「皐月、友人として言わせて貰うけど、割り切ってやって貰った方が利口だと思うわよ」

「佐緒里! だって男の人だよ?」
「相手はプロ。私としてはそれよりも、一週間も洗濯物溜める皐月がありえないから」
「だって一人分だし」
「ないから、一人暮らししてても。健吾だってそう思わない?」
「まぁ、一週間分は確かにありえないな」
「でしょ。これで皐月の生活環境が良くなら、私は賛成。むしろ皐月に諦めてしまえ、と言いたいけど」

佐緒里の言葉で健吾は頷いて肯定している。それを利いていた笹塚や那奈まで頷いていて、皐月としては途方に暮れる。

少なくとも男の人に下着を見られて割り切れるほど、他人の手が入ることに慣れていない。せめてこれが兄貴であればまだしも、他人というは本当に勘弁して欲しい。

そう思うのに、すでに空気は否定することを認めないという雰囲気が漂っている。

「課題立て込むと本当におこもりするんだし、いいじゃない。ようは慣れよ、慣れ」
「でも……ほら、私のためにいる家政婦さんじゃないし」
「家をキーピングするのも家政婦の役目の一つですわ。この場合は誰の為ということではなく、家のため、と考えるのが適当ではありませんか。もっと言えば元々弓弦さんは兄さんのためにここにいる訳ですし」

那奈にそこまで言われて、弓弦が監視のためにいるという言葉を思い出す。途端に那奈の横に座る笹塚に視線を向ければ、視線の合った笹塚がやんわりと笑う。

「概ね那奈が言うことが正しいね。だから皐月ちゃんが気にする必要はないかな。ついでに言うと、俺のことは名前で呼んで貰えるかな。ここでは二人とも笹塚だから」
「あ……じゃあ、那智さんで」
「うん。もしかしたら名前を覚えられていないかと思っていたよ」
「兄が呼び捨てにしていたので、さすがに覚えています」

「でも皐月ちゃんなら興味なしで一刀両断されそうだから」
「そこまでは……」
「あぁ、皐月ってそういうところあるよねぇ。興味ないと全然人の話聞いてないし」
「聞いてるよ。ただ覚えていないだけで」
「それ一緒だろ」

健吾に突っ込まれて、続く言葉がない。でも普通は興味ないことなんて覚えていないと思う。そう思うのは皐月だけなのか、那奈以外は誰もが呆れた視線を投げてきて少しだけ身を縮めた。

「……今後気をつける」
「そうしてくれると嬉しいね。さてと、俺はそろそろ仕事に戻るよ。部屋が片付くまでここにいてもいいし、近所を散歩してきても好きにして構わないから」
「兄様、夕食はどうなされますか?」
「いや、今日は会食あるから二人で食べて貰えるか」
「分かりました。皐月さん、お食事は何時が宜しいですか?」
「え? あ、いつでも構わないですけど……」

一人暮らしをしていた皐月は、基本的に夕飯の時間なんてものは決めていない。だから改めて聞かれると、一瞬言葉に詰まってしまった。

「それなら八時にダイニングで食事ということでお願い致します」
「分かりました。……えっと、どうする?」

思わず隣に座る佐緒里に視線を向ければ、ティーカップをテーブルに戻した佐緒里は楽しげに笑う。

「どうせだから、色々見てこようか。ここにいても出来ることがある訳でもないみたいだし」
「だな」
「もし宜しければ一緒に夕食をどうですか?」

那奈に誘われたけど、二人は丁重にお断りしていた。那奈の口調が丁寧だから、つい健吾の口調も丁寧なものになるらしい。

結局、それぞれ部屋で別れると、皐月は二人と一緒にマンションの外に出た。途端に大きくため息が零れた。

「大丈夫か、私」
「何事も慣れよ、慣れ。今に慣れるから。でも那奈さん、結構強烈なキャラだったね」
「二つ上って言ってたよな。どう見ても中学生くらいにしか見えなかったぞ。身長低いからかもしれないけど」

「でも、あれだけの美少女が着るとゴスロリも悪くないわね。那智さんが言ってた通り、私とは余りにも系統が違いすぎるけど。皐月、疲れてるみたいだけど」
「うん、疲れた。何か本当に不安」
「まぁ、ダメだったら言ってよ。うちにも部屋は余ってるんだし」

そう言って笑う佐緒里の言葉が今はとても頼りになる。勿論、実家にいる佐緒里にすぐに泣きを入れるつもりはないけど、それでも逃げ場があるというのは気持ちが楽になる。

「本気でダメだったら連絡する」
「そうしろ。俺は皐月がダメだったしても、理解はできる。少なくとも執事もどきとか、俺もちょっと無理」
「えー、楽だよ?」
「そういう問題じゃないだろ。他人が出入りするっていうのがもう色々無理。しかも笹塚の話しからすると、ショーの前になると他人がわんさか出入りするみたいだしな」

元々他人を苦手とする皐月には、健吾の言い分はかなりの難題だ。でも今さら行く場所もない。とにかくどうにかやっていくしかない。

「頑張ってみる」
「まぁ、私は皐月が他人と話すのはいいことだと思うけどね」
「それは否定しないがな」

それは皐月自身にも分かっている。ただ、家に帰ってまで疲れることはしたくない。どう見ても那奈とも会話が合うとも思えないから、ほとんどお手上げ状態だ。

「さてと、これからどこに行く?」
「まずは何か食わせろ」
「そういえばお腹空いたかも。色々見ながら店に入って何か食べようか」

佐緒里の言葉に頷くと、三人揃って歩き出す。

まずは始まり。ここから何がどう転がるのかは自分でもよく分からない。ただ始まったばかりだから、今の環境で頑張ってみるしかない。

見上げた空は勿忘草色で、秋の近づく足音が聞こえてきそうな色合いをしていた。

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