Chapter.III:終わりの始まり Act.05

また明日迎えに来ると言った笹塚を見送れば、すぐに健吾も帰って行ってしまい騒がしかった部屋に一人ぽつんと取り残される。

ただぼんやりしている時間もなく、慌ててオークションで落札してくれたワンピースを梱包する。すぐに入金されたこともあり、プリントアウトした住所を梱包した荷物に張り付ける。

その足で郵便局に預けると、どこか府抜けた気分でフラフラと商店街を歩く。

とりあえず今日から皐月一人だから何かしら食事の用意をしないといけない。でも作る気にもなれず、いつもの弁当屋に向かっていれば見慣れた人影をガラス越しにみつけた。

そこは皐月と笹塚が偶然会った駅前のカフェで、大きなガラス越しに見えるのは笹塚と健吾だった。二人は顔をつきあわせて何か話している様子だったけれども、突如健吾が勢いよく笹塚の胸倉を掴んだ姿が見えて、思わず皐月は息を飲む。

もう片方の振り上げた拳をどうするのかと見守っていれば、しばらくするとその拳を降ろすのが見えた。浮かせていた腰も降ろした様子だったけど、その顔は先ほどのように怒りの形相で笹塚を睨み付けている。

あの二人が顔をつきあわせて話しをしているのは変な感じがする。一体何の話をしているのか気にならない訳ではなかった。でも、それ以上その場で覗き見しているのは気が引けて、弁当屋に続く角を曲がった。

足下がフワフワするのは現実味が薄いせいもあるのかもしれない。待つこと五分で出来上がった弁当を片手に、家までの道を戻る。

とにかく色々なことがありすぎて頭がついていかない。そもそも、自分から言い出したものの兄貴を傷つけないようにどう言えばいいのか分からない。それに笹塚の妹と暮らすといっても、一体どんな人なのかも分からない。

まるで先の見えない迷路に迷い込んだ気分のまま部屋に戻る。そして部屋を見て、明後日には引越かと思うと現実味が更に薄くなった。

弁当をテーブルの上に置くと、そのままソファに座り込む。まだ二人が出て行った時のまま、テーブルの上には三つのカップがあり、そういう話し合いをしたという現実が残っている。

健吾は丸め込まれていると言った。そして笹塚は丸め込んだと言った。自分のことなのに、その自覚がないのはやっぱり問題があるのかもしれない。でも、自覚がないものをどう自覚すればいいのかもよく分からない。

笹塚は皐月の意志が芽生える前だからと言っていたけど、少なくとも皐月には意志だってある。でも、何故そんなことを言われたのか理解できない。

流されている自覚はあっても、さすがに嫌だと思うことまで粛々と受け入れるつもりはない。今回の笹塚の提案には、皐月にとっても、恐らく兄貴にとってもプラスになると思える。

だったらそれでいいじゃないかという気がする。それなのに、何か納得できないモヤモヤ感が胸の奥に残る。

小さく溜息をついたところで携帯が鳴り出し、手に取ればそれが健吾からだと分かり通話ボタンを押した。

「皐月、お前今日は家から出るなよ。一応念のため。どうせ明日笹塚さん立ち会いで兄貴には会うんだし、ウロウロすんな」
「あー、うん、分かった」

心配されていると思う。だからこそ既に出掛けて帰って来ましたとは言えず、答えるまでに微妙な間が空いてしまう。

「……皐月、今どこにいる」
「大丈夫、家にいるから。ごめん、オークションの発送とかしないといけなかったし、郵便局行って弁当屋でご飯買って家に戻ったところ」
「鍵、きちんと掛けとけ」

電話越しにも呆れが伝わってくる。それでも玄関前まで行くときっちりと鍵を掛けた。

「そういえば……」

本当はどうして笹塚と会っていたのか聞きたかった。けれども微妙な雰囲気を思い出して、言葉途中で呑み込んでしまう。

「何だよ」
「……健吾の欲しいモノって何?」
「はぁ!? もう少し前後のつながりがある会話を俺は求めるぞ」
「あ、いや、ほら今日笹塚さんが言ってたから」
「あ、れは……」

今度は健吾の方が黙り込んでしまって、携帯片手に首を傾げる。確かにあの話をした時も奇妙な空気だったとは思うけど、すっかり蚊帳の外に放り出されてしまっていて口を挟める雰囲気じゃなかった。

「笹塚さんには分かってるみたいだったけど、私には全然分からなくてさ。一体何が欲しかったの?」

しばらく電話口で無言だった健吾に回線の調子が悪くなったのかと思い名前を呼ぶ。それから五秒ほどして、長い長い溜息が聞こえてきた。

「俺、今自分がもの凄く可哀相に思えた」
「どういう意味?」
「色々言いたいことはあるけど、もう全部落ち着いてからにする」
「それって引越したら教えてくれるってこと?」
「あぁ、そういうこと」
「……健吾は引越に反対してないんだ」
「しないな。あいつの遣り方には腹立つけど、今の皐月には正解だと思う。だから引越に関しては反対しない」

確かに部屋で話していた時に健吾は言葉少なかったけど反対はしなかった。でも、その健吾の言葉が皐月を後押しする。自分の選択が間違えていないと思うと、少しだけ気持ちも浮上する。

「ただあいつの妹と同居というのはどうなんだろうな。会ったことないんだろ?」
「全然、それどころか妹がいたことも聞いたの初耳だったくらい」
「それで同居って上手くいくもんなのかね。俺はそっちの方が心配だよ。まぁ、何かあれば俺なり佐緒里なりに連絡しろ。いざとなれば俺の部屋間借りさせてやる」
「そんなことしたら大学で噂になりそうで嫌なんだけど」
「それくらい我慢しろ。宿無しにはなりたくないだろ」
「それはそうだけどさ」

その後は笹塚の妹はどんな感じの女性なのかで盛り上がり、電話を切った時には七時近くになっていた。

佐緒里がどういう状況か分からないだけに、メールを入れると買ってきた弁当に手をつけた。食事を終えて、久しぶりに湯船でゆっくりすると何気なく手に取ったのはクロッキー帳だった。

そのクリーム色の紙に向かって、思いつくまま鉛筆を走らせる。

島崎に基本的なことを教わってから、デザインの幅はかなり広がった。島崎は基礎だけではなく、時折脱線してアレンジの仕方なども教えてくれた。それが一番デザインに広がりをつけたのだと思う。

とにかく今は服のデザインをすることが楽しかった。でも、心の片隅で現実逃避だという実感はあり、三十枚ほどデザイン画を仕上げたところで鉛筆を置いた。

そのタイミングで家のチャイムが鳴り、思わず時計を見上げる。既に十時近くになっていて、この時間から来客があるとは思えない。来るとすれば————。

足早に玄関まで駆け寄ると扉越しに声を掛けるために唇を開く。緊張した喉から声は出て来なくて、一旦唾を呑み込んでから声を掛けた。

「……どちら様ですか?」

緊張してるし、声も掠れてる。でも、この時間に訪ねてくる人は皐月にとって一人しかない。

「皐月、少し話がしたいんだ」
「それは明日」
「二人きりで話したい。どうしても伝えたいことがあるんだ」

どうしよう、どうしたらいい。そう思うのに自然と扉に手が伸びそうになる。当たり前だ、つい数日前には普通に兄貴で、皐月を甘やかしてくれた人だ。笹塚や健吾から話は聞いていても、皐月はまだその変貌ぶりが信じ切れない。

もしかしたら自分が相手なら大丈夫なんじゃないかとか、まだ戻れるんじゃないかとか、そういう甘い夢を見たくなる。

たった二人の家族で、だから大切にしてきた。鍵に手を伸ばそうとしたところで、テーブルの上で携帯が鳴り出す。

その音でふと我に返ると、慌てて部屋に戻りテーブルにある携帯を確認してすぐにボタンを押した。

「皐月ちゃん」
「笹塚さん、今、部屋に春兄ぃが」
「部屋のどこに?」
「家の前に」
「いいかい? 絶対に開けたらダメだよ。健吾くんに連絡入れて、今すぐ来て貰うんだ」

それだけ言うと笹塚は電話を切ってしまい、携帯を握り締めたまま皐月はソファに座り込んだ。玄関からは皐月を呼ぶ声が聞こえるけど、それを振り切るように耳を塞ぐ。

扉越しなら話くらいできると思った。でも、甘やかな誘惑があってそれに流されそうになる。心配してくれている人たちがいる。だからその人たちを裏切るようなことはしたくない。

耳を塞いでも必死に名前を呼ぶ声が聞こえる。最初は名前を呼ぶだけだったのに、扉を叩き出した。時折もの凄い音がするのは扉を蹴っているのかもしれない。

どうしてこんなことになってるのかよく分からない。ただ、兄貴がこうして荒れるところなんて一度だって見たことがない。いつも優しくて、ただ甘やかしてくれた。だから口にしたことは無かったけど好きだった。

でも、兄貴が望む形と皐月が望む形は違うのだと、まざまざとこうして見せつけられるとどうにもできない。

「皐月! ここを開けろ! 顔を見たいんだ! 皐月!」

こうして聞いてると分かる。笹塚が心配した理由も、健吾がおかしいと言った理由も全部。確かに今の兄貴は既に常識を逸してる。それが分かることが辛い。

もしかして、自分は兄貴に対して何か思わせぶりな態度でもとったのだろうか。それとも甘えすぎていたのが悪かったのだろうか。色々考えてみても答えがでるものでもない。

ただソファの上にうずくまり耳を塞いで嵐が過ぎるのを待つしかできない。生まれて初めて、兄貴が怖いと思った。それと同時に他人から感情をぶつけられることが怖いと思った。

どれだけ時間が過ぎたのか、しばらくするとパトカーが近づいてくる音が聞こえる。アパートの前で止まったところを見ると、住人の誰かが通報したのかもしれない。

少しすると扉の外で話し声が聞こえてきて、兄貴が妹と会うのに何の文句があると言い放っている怒鳴り声が聞こえる。このまま放っておいていいか分からず、ただ玄関前でオロオロとしていれば、しばらくすると兄貴の怒鳴り声が止んだ。

扉の向こうで何が起きてるのかは分からない。ただ、呆然と扉を見つめていれば小さくノックの音が聞こえた。

「皐月、俺だ」

その声は健吾のもので、恐る恐る手を伸ばして鍵を開ける。勢いよく扉が開き健吾が顔を見せた途端、緊張の糸が解れてそのまま床に座り込んでしまう。途端に感情が膨れあがって、涙腺が緩んだのか瞬きと同時にぼろりと涙が零れた。

一旦零れてしまうと止める術はない。そんな顔を健吾に見せたくないから俯いたまま健吾に声を掛けた。

「……兄貴は」
「笹塚さんが連れて帰った。くそっ……」

それだけ言うと健吾の腕が伸びてきて広い胸板に押し付けられる。

「泣くくらい怖かったなら最初から電話してこい、この馬鹿」
「違うの……怖かったけど……兄貴が別人みたいで……元に戻れたらって、まだ思ってたの……だから鍵開けようとして……」
「開けたのか!」

首を横に振ってそれを否定すると、頭上から大きな溜息が落ちてきた。

「驚かせるな」
「でも、何度も開けようか迷ったの……春兄ぃが何度も名前呼ぶから……」
「仕方ないだろ。そうやって兄貴の言うこと聞くように育てられてきたんだから」
「そう、かな?」
「そう思うけどな。ただ、少しでも自分がフラフラして危ないと思うなら、明日兄貴に会うのは止めとけ。絶対に皐月なら流される」

確かにあれだけ兄貴について話していたのに、声を聞いた途端にフラフラした。こんな状況で会うのは確かに危ないと自分でも思う。

血は繋がらないけど二人だけの家族だった。それが壊れることが怖いと気づいたのは笹塚に指摘されてからだ。それまで、家族というものがずっとあるものだと思っていた。でも、気づいていたのかもしれない。

だからこそ兄貴を突っぱねることはできなかった。うざったいと言いながら、兄貴が部屋に入ることを阻止しようと思ったことは一度だってない。もし、それで兄貴が離れてしまったら、一人になる。それが怖かった。

それは血が繋がらない故の恐怖だった。でも、もう終わらせないといけない。

どれだけ健吾の胸で泣いていたのか分からない。ただ、少しずつ気持ちが落ち着いてきて少し身動ぎすれば、子どもをあやすように背中を叩いていた健吾の手が止まる。

「皐月……凄く不細工顔になってる」
「……元々こういう顔なんだけど。でも、ありがとう」

それだけ健吾に声を掛けると、シンクで顔を洗う。すっきりすれば健吾にタオルを差し出されて、顔中についた水滴をタオルで拭う。目はまだ腫れぼったい気がするけどどこかすっきりした気分でソファに腰掛けた。

「情けないところ見せた……でも、すっきりした」
「それはよかったな。ほら」

そう言って健吾に差し出されたのは皐月の携帯で、思わずその手を見て、それから健吾を見上げた。

「笹塚の奴も心配してた。連絡くらい入れてやれ」
「あぁ、そうだよね」

ようやく差し出された携帯の意味を理解して、健吾から携帯を受け取るとリダイヤルで笹塚に電話を掛ける。

何度か呼び出し音が鳴っても出る気配がなく、そろそろ皐月が切ろうと思ったところで電話が繋がった。

「もしもし」

そう言って出た声は笹塚だったけど、少しだけ違和感があった。

「あの皐月です。とりあえず、今健吾が一緒にいて大丈夫です」
「それは良かった。詳しいことは後で電話掛け直してもいいかな」

こうして会話をして、ようやくその違和感の正体に気づく。いつもであれば呼ばれる名前が呼ばれない。それは一つの事実を浮かび上がらせる。

「兄貴、そこにいるんですね」
「……あぁ」
「電話変わって下さい」
「それは止めた方がいいんじゃないかな」
「今電話で話します。その代わり明日は無しで。会うと……どうしても流されてしまいそうな気がします」
「話すだけで流されるかもしれないよ?」

そこに不安がない訳じゃない。でも、皐月の中で直接言わないといけない気がする。それがどうしてだかはよく分からない。

「頑張ります」

笹塚からの返答はしばらく無かったけど、小さな溜息の後に受話器から今まで聞いたことのないような優しげな声が聞こえてきた。

「君の頑張りに期待することにするよ。……春樹、皐月ちゃんから電話」

途端に電話向こうで慌ただしく話す声が聞こえる。でも、笹塚が受話器を抑えているのかその内容までは聞こえない。ただ、口論になっているように聞こえる。

しばらく待たされる間、健吾が声を掛けてきた。

「どうした?」
「よく分からない。笹塚さんと兄貴が少し口論になってるみたいで」

小さな声で伝えれば、健吾は眉根を寄せた。

「まだ落ち着いていないんじゃないのか?」

確かにあれからまだ一時間ほどしか経っていない。それを考えれば、あの勢いの兄貴が落ち着いているのかどうか分からない。

けれども、ようやく受話器から話し声が聞こえなくなったかと思うと、音声がクリアーになった。

「皐月なのか?」
「うん、私。笹塚さんから色々と聞いた」
「俺……やっぱり皐月と離れたら駄目になる気がする」
「…………」

初めて聞く兄貴の弱々しい声にどう応えていいのか分からない。そう思わせてしまった兄貴に申し訳なさまで込み上げてくる。

「ごめん。私は兄貴を家族としか見られない。だから一生一緒にいることはできない。兄貴だってこれからお嫁さん貰ったりするでしょ?」
「……皐月がいい」
「私は無理」
「健吾くんがいるから?」
「違うよ、健吾とは付き合ってる訳じゃないの。笹塚さんからも聞いてるでしょ? ……春兄ぃ、私のお願い聞いてくれる?」

「俺が聞けることなら」
「私と家族になって欲しいの。春兄ぃに恋人ができたら紹介して欲しいし、私に恋人ができたら紹介したい。そんな家族になりたいの」
「皐月……」

受話器から聞こえる兄貴の声は震えていた。もしかしたら、電話向こうで泣いているのかもしれない。こうして電話越しに聞くだけでも辛いのに、直接聞いていたら絶対にこんなことは言えなかったに違いない。

「……分かった。俺の家族は皐月一人だ」
「うん、今まで無理させてごめん」
「いや、俺の方がおかしいのは気づいていたんだ。さきまで笹塚に勧められていたけど病院に少し通ってみるよ」

まさか笹塚と兄貴の間でそういう話になっているとは思ってもいなかった。驚きはしたけど、それに対して皐月は何も言えない。

「ただ、皐月が甘えてくれるのが本当に嬉しかったんだ。そして、皐月が離れていくことが怖かった。本当に悪かった」
「私も甘えすぎてた、本当にごめん。これからは少しの間、一人で頑張ってみる」
「お互いにそれがいいかもしれないね。でも、家長命令として一つ。大学だけはきちんと行って」
「でも、それも甘えてると思う」

こんな状況なのに兄貴に大学費用を出して貰うことは、さすがに甘えすぎだと思える。確かに家族になりたいと言ったけど、別にそこが負担して欲しくて言った訳じゃない。

「甘えじゃないよ。年の離れた兄貴がいるなら、兄貴が大学費用出すのは普通のことだ。家族なら尚更。だから大学には通って。大学って色々なことを学べるところだから。俺から離れて枷がなくなれば、皐月の世界はもっと広がる。気づいてた、俺が皐月の世界を狭めてること。でも、それで構わないと思ってたんだ。そしたら皐月は離れないと思ってたから……」

兄貴がそれでいいと思っていたように、皐月もそれでいいと思っていたところがある。だから兄貴一人を責めることはできない。

家族というには濃密で、だからといって恋人ではない関係。束縛して、束縛されるのが当たり前だった関係が崩れる。それは少しだけ皐月を寂しくさせた。

「感謝してるの、本当に。凄く春兄ぃ大変だったと思う。だからありがとう」
「お礼は大学卒業して一人前になってから聞くよ」
「うん、その時にはきちんと聞いて」
「あぁ、きちんと家族として話しを聞くから」

それはどこか兄貴の決意を思わせる強い言葉だった。

「だから、少しの間お別れしよう。那智からは引越先は聞かない。電話もメールしない……でも、皐月の電話嫌いはいつの間にか治ってたんだ」

言われてみれば初めてそのことに気づいた。昔から皐月は電話というツールが余り好きじゃなかった。基本的に掛かってきたら出るけど、その時には酷く気分が重くなる。だから兄貴は基本的に携帯を持ってからも電話でなくメールで連絡取ることが多かった。

そういえば、いつから電話が平気になったのか……健吾と佐緒里という友達ができてからだったかもしれない。それまで直接電話をするような友達というのは存在しなかったから。

「健吾と佐緒里のお陰だよ。二人がいるから私は大丈夫。春兄ぃは大丈夫?」

途端に電話向こうから小さくクスクスと笑う声が聞こえる。

「年の離れた妹に心配される程、情けない兄貴だったつもりはないんだけどね」
「どうだろう」
「酷いなぁ」

そう言って再び兄貴が笑う。まるで数週間前と変わらない口調で会話を交わす。でも、これから先はしばらくの間、こうして会話を交わすこともない。それが酷く寂しい。ずっと一緒にいた片割れがいなくなるような、そんな喪失感がある。

でも、その寂しさを埋めるように兄貴に凭れてばかりじゃいけないことはもう分かってる。

「明日は会わないよ」
「うん、その方がいいと思う。皐月、身体に気をつけて元気で。放っておくとすぐに部屋は汚くするし、食事は抜くし」
「春兄ぃ、そこに笹塚さんもいるから余り情けないこと暴露しないで」
「那智ならもうとっくに知ってるぞ。今さら隠してどうなるもんでもない」

いつから暴露されていたのかは知らない。でも、確かに最初に会った時にあの汚部屋を見られ、そして食事についても既に笹塚には知られている。兄貴が言うように笹塚には事前にリークされていたのかもしれない。

「お互いに、自分のために頑張ろうね」
「そうだな。俺もこれから自分のことを少し大事にするよ。それじゃあ笹塚に代わるから」
「あの! 本当にありがとう。無茶なお願いして……」

それに対して短く「うん」と返ってきただけで、それ以上の言葉はなく電話は笹塚に代わる。

とにかく明日のことが無くなったこと、明日には警察が今日の事情を聞きにくること、そして引越についてはまた後で電話する、ということで笹塚との電話を切った。

「大丈夫か?」

健吾に聞かれて上手く笑顔は作れない。何かを失ったような気がして、物足りないような寂しさを感じる。

「多分、大丈夫かな」
「そうか……もう寝ろ。明日は朝から佐緒里が来るぞ。朝から引越荷物纏めの大変だって騒いでたからな」
「……佐緒里らしい。健吾も今日はもう帰っていいよ。明日手伝って欲しいし」
「いいよ、ここにいる。お前はもう色々考えないで寝ろ。俺も適当にここで寝る」
「笹塚さんにも言われたけど、健吾も私を甘やかしすぎ」
「こんなのは友達の延長だ。弱ってる奴一人にするほど友情薄くない」

その言葉は寂しいと訴える心には染みた。一人になった気がしたけど、一人じゃないと思えるくらいには、健吾の言葉が嬉しくて自然と笑みが浮かべることができた。

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