前日終了した笹塚のオークションはワンピースとバッグはハンドメイドでは滅多にお目見えしない値段で終了した。元手が五千円の布で、有名な布を使っていないのにその値段を叩き出した笹塚の腕に感心するしかない。
そして今、皐月はパソコンの前に張り付いて自分のオークションを見つめている。皐月の後ろには佐緒里と健吾もいて、同じようにパソコンの画面を見つめている。
直前になり競り入れが始まり、オークションは入札が入るたびに延長していて、既に皐月が見てから十回目の延長になる。
再びオークション残り時間が十分と表示されると、皐月は詰めていた息を吐き出した。
「もの凄く心臓に悪い」
「確かにね」
同じように溜息を吐き出した佐緒里が同意してくれて、その言葉に少しだけ笑みが浮かぶ。
「でも、このままだと笹塚さんの金額には届かないだろ。本気でこれからどうするつもりだ?」
その声に振り返れば、思ったよりも真剣な顔でこちらを見ている健吾に小さく肩を竦めて見せた。
「どうもこうもないと思うけど。選択肢がないし」
「俺はあの人の言動に幾つか気になる点がある。そもそも、何で赤の他人をそこまで面倒見ようとする?」
「それは私が友達の妹だからでしょ」
「でもよく考えろよ。未成年面倒見るって本当に金が掛かるんだぞ。お前は甘く見てるみたいだけど、税金もあればこうして住む場所だって考えないといけない。保険関係だってあるだろうし、そういうの全部笹塚さんが見るとは思えないし、お前の兄貴がそれを許すとは思えない」
「でも、兄貴と今こういう状態だし」
「確かに兄貴と拗れてるだろうけど、だからっていきなり何もかも手放したりしないだろ。別にお前に拒否られた訳でもないし、縁切りした訳でもない。少なくとも、そういう点を投げ出すようなタイプには見えない」
さすがにここまでくると、椅子を回して健吾の方へと身体を向ける。
確かに健吾が考えた点は皐月自身考えなかった訳ではない。ただ、目先のことをこなすのが精一杯で考えることを後回しにした。だから、まだ兄貴とどうするべきか、これからどうなるのか、余り想像していない。
「どういう意味?」
「笹塚さんの遣り方が腑に落ちない。全面的に信用していいのか分からない」
「それあたしも思った。この間、健吾とも話してたんだけど出会いが悪かったせいもあるけど、ちょっとうさんくさく感じるんだよね。確かにアネーロのデザイナーという立場があるから無茶はしないと思うけど……」
「皐月は自分で今、大学でどのくらいのレベルだと思ってるんだ?」
「中の中くらい」
「俺はそれはないと思うんだよな。だったら教授たちがあんなに皐月の名前を覚えてる筈がない」
「それは私が色々手伝いに行ったりしてるから」
元々二人以外には口数の少ない皐月は、何かしら教授たちの手伝いに駆り出されることが多い。だからそういうことを考えたことは無かった。
「あたしは結構皐月は目をかけられてる方だと思う。確かに皐月よりももっと優れた人もいるけど、皐月も絶対に悪い線はいってない気がする。今回作ってる服とか見てても思った。皐月って生活能力はないけど、これと決めたものはきちんと下調べして、それを武器に求められる物を作れるタイプだと思う。だからって個性捨てたりしないし。それに教授たちの手伝いだって為になること多いんじゃない?」
「それはあるけど……それがどう笹塚さんに繋がるのかよく分からないんだけど」
「俺が思うに、笹塚さんって結構食えないタイプだと思うんだよな」
「それは私だって思ってるけど」
「だからな、計算できないタイプじゃないと思うんだよな。だったら、わざわざ兄貴怒らせるような真似してまで皐月に近づいた理由は何だろうって考えたんだよ」
理由なんて別にないと思う。実際、兄貴は家が近いから友達だと紹介された。それとも、あの前段階で兄貴とは何か約束でもあったんだろうか。
考えてみても分かるものでもない。ただ、笹塚と出会ったことで色々なことが変化していることだけは分かる。
「俺は笹塚さんは先物買いをしてるんじゃないかって踏んでる」
「先物買い? それは私のセンスを買ってくれたってこと?」
「あぁ、そういうこと。でも、それには障害が一つある」
センスを買ってくれたのだとしたら皐月としては嬉しい。でも、障害と言われても思い浮かぶことは何もない。あえて言うのであれば、技術が足りないとか、世間知らずとか、そういう意味なら理解もできる。
「お前の兄貴だよ」
「兄貴が? 別に笹塚さんと友達だし」
「友達だからこそお前を猫可愛がりしてることを知ってたんだろ。そもそも、笹塚さんの言い分を思い返すと、兄貴は寂しいから皐月を好きだと思い込んでる、みたいな言い方してただろ」
「……そうだっけ? 私はてっきり兄貴が私を好きだっていうことで頭ぐるぐるしてたけど……」
「まぁ、それは俺らが悪かった。でも、笹塚さんは皐月の兄貴が好きだと思い込んでるだけだって言ってた。でも、それだったらわざわざ皐月に言う必要ないだろ。それこそ、俺に口止めすれば良かっただけだしな」
「でも、それ口止めされて健吾は信じた?」
「いや……まぁ、それは……」
元々、どういう訳か笹塚と健吾は顔を合わせると奇妙な空気になることが多かった。それを考えれば笹塚の言葉を健吾が素直に聞くとは思えない。
「でも、お前のためとか言われたらさすがに黙ってたよ。余計なこといって悩ませるだけだし。もし兄貴の方から何か聞いてたとしても普通は言わねぇだろ。妹が好きとかさ。そもそも、あの人が皐月に口止めするような真似しなければ、こんなことになってなかっただろ」
「別に口止めされてないよ。ただ、兄貴が怒りそうだから自主的に黙ってただけ。それに笹塚さんにデザイン見て貰おうと思ったのも私自身が言い出したことだから、そんなに変には感じないけど……ごめん、二人が何に引っ掛かってるのかよく分からない」
「まぁ、あたしたちの考えすぎかもしれないけど、これでも皐月のこと心配してるの。もしかして、笹塚さんに手籠めにされようとしてるんじゃないかって」
「手籠めって……笹塚さんに好きでも嫌いでもないって断言されてるんだけど」
「笹塚さんに好きとかそういう感情があるかは知らないけど、ただちょっと事の運びが強引すぎる気がする。妹馬鹿だったお兄さんを離して、自分の手元に皐月を置くように仕向けたみたいに見える。そもそも、幾ら友達だってここまで口出したりしないと思うけど」
「それは、笹塚さんも言ってたようにビジネス的な意味で」
「ねぇ、そのビジネス的な意味って皐月、本当に理解してる?」
そう言われてしまうと皐月としては困る。ただ、ビジネス的な意味で皐月のデザインを見ていただけで、そこに好意がないと言われた。だから単純に皐月のデザインに興味があるという意味だと捉えていたけど、それ意外に何か考えられるものがあるのか分からない。
「私のデザインに興味があるってことじゃないの?」
「それは正しいと思う。でも、面倒みるって普通じゃないよね? もし今回のオークション勝負に負けたら、大学辞めさせてうちで働かせるって言ったんだよ、あの人。もうそれって笹塚さんは皐月のデザインを認めてるってことだよ? その上で面倒見るって皐月にとっての選択肢まるでないじゃん。あの人、皐月にデザインはデザインでもファッション関係をやらせる気満々だと思うけど」
佐緒里に言われて初めてそのことに気づいた。
元々皐月が将来目指していたのは広告代理店での就職で、ファッション関係なんて全く考えたことはなかった。でも、笹塚のところで働くということはそういうことで……。
でも、そもそも広告代理店だって皐月が本当にやりたかったものではない。だから、笹塚が面倒を見てくれるのであれば、別に恩返し的な意味で悪くない選択のような気がする。
「それはそれでいい気がするけど」
「いい訳ないじゃん! なら皐月が本当にやりたいことって何? 普通はやりたいことを押し付けられるってありえないでしょ!」
「でも、別にやりたいこともないし」
「あー! もう、本気で頭にくる! 大学行ってもしかしたらやりたいこと見つかるかもしれないんだよ? もっと慎重に考えてよ!」
けど皐月にとって昔から敷かれたレールを走るのは当たり前のことで、今さら自分で何かをと言われてもピンとこない。ただ、お絵かきの延長でデザインは好きだけど、将来的にあれがしたい、これがしたいということは考えたことがない。
実際、兄貴がこれからどうするかは分からない。ただ皐月のことを本気であれ、思い込んでいるだけであれ、兄貴がそれをすぐに割り切れるとは思えない。少なくとも今までのような生活を望めないことだけは分かる。
だとしたら、面倒を見てくれると言ってくれた笹塚に甘える意外の道が今の皐月にはない。実際、他にも道があることは分かる。
大学も辞めて自分で働いて自分で生活をしていく、という道が……。でも、それだとデザインの道からは外れてしまう気がする。自分程度でデザイン系の仕事につけるとは思えない。
「笹塚に丸め込まれた状態でいいのか?」
「よく分からないけど……別に丸め込まれた訳じゃないし、一応これでも選択してるつもりだけど。もしここで笹塚さんに甘えることなく大学辞めて、家を出たとしても、デザインの仕事はできないだろうし」
「だからそれでいいって?」
「悪いこと?」
問い掛ければ健吾は大きく溜息をつき、佐緒里は俯いてしまう。そんな二人に皐月は掛ける言葉がない。
「お前……笹塚に嵌められてるぞ」
「そうなのかな。よく分からないし、嵌ったとも思ってないけど」
「そう考えられるのって、兄貴も原因なんだろうな」
ぼやく健吾の言葉に皐月としては首を傾げるしかない。
健吾や佐緒里が何をそんなに心配しているのかよく分からない。ただ、皐月には二人がいう自主性が足りないことだけは分かる。
そのまま健吾は黙り込んでしまい、佐緒里も何も言わない。少しだけ重い空気の中でパソコンからメールの着信を知らせる音が響いて、皐月はオークション中だったことをようやく思い出す。
慌ててパソコンに目を向ければ、既にオークションは終了となっていて最終落札金額は笹塚のワンピースの半額程度になっていた。
「あーあ、やっぱり敵わないか」
「当たり前でしょ、あの人プロなんだから!」
「でも、色々とハンデがあったんだけどね」
「確かに皐月のデザインとか裁縫とか凄いと思ったよ。でも、プロに戦い挑んだら負けるに決まってるじゃん。どうしてそういう無謀なことするかなぁ」
「自分でもよく分からない。でも、色々と知りたかったのかもしれない。笹塚さんのこと」
正直、最初から勝負にならないことは薄々感じていた。大学云々のこともあったから引ける状況では無かったけど、こういう状況で笹塚はどんな物をオークションに出してくるのかは興味があった。
多分手を抜いてくれるほど優しい人だとは思わなかったけど、ここまで差がつけば色々と諦めもつく。実際に笹塚の物を見た瞬間、やられたと思ったんだからそれが全てだったのかもしれない。
「何かここまで負けるとすっきりした」
「ちょっと、すっきりって大学行くの諦めるつもり?」
「諦めたくないけど、それは仕方ないのかなって思う。それにいざとなれば再入学って手もあるし」
「あたしはイヤ。だって皐月と一緒じゃないなんてつまらない。一層のこと皐月のお兄さんと直談判してくる!」
「佐緒里、無茶言うな。それは俺たちがしていいことじゃない。笹塚さんの遣り方は腹立つけど、皐月が兄貴と離れることには俺も賛成だよ。皐月は兄貴に何もかもして貰うんじゃなくて、もっと色々考えた方がいいと思う。その為には兄貴と離れる方がいい」
その言葉で少し前に笹塚から言われた言葉を思い出した。笹塚は健吾と同じようなことを言っていて、やっっぱり色々と考えろと言われた気がする。
一応、皐月は皐月なりに考えているつもりだったけど、やっぱり考えが足りないのだろう。笹塚は大人だからと思っていたけど、同じ年の健吾にまで言われるということはやっぱり色々考えないといけないんだと思う。
そんなことを考えていれば、今度は携帯が鳴り出し慌てて手にした。そして、画面に表示される名前に一瞬固まる。
「誰からだ?」
「笹塚さん」
短く答えて電話に出れば、笹塚はこれからこちらに来るとのことだった。オークションのことには触れなかったけど、このタイミングで掛けてきたことを考えても結果は知っているに違いない。
「これから笹塚さんここに来るって」
「他に何か言ってたか?」
「ただ来るって言って電話切れた。多分、これからのことを話すんだと思う」
「うー、続きが気になるけどあたし、そろそろ帰らないと時間がないし。健吾、後で報告宜しく。皐月、また明日にでも来るから」
それだけ言うと、本当に慌ただしく佐緒里は荷物を纏め始める。その荷物の量に佐緒里が随分と長い間泊まり込んで色々やってくれたのだと分かる。
「佐緒里、色々ありがとう。後できちんと私からも報告するから」
「当たり前でしょ! きちんと報告宜しく。あ、やば時間が。それじゃああたし帰るから!」
荷物をかなり雑に纏めた佐緒里は本当に時間が無かったらしい。バタバタと部屋を出て行く佐緒里を見送りながら、本当に感謝の気持ちで一杯だった。
「……あいつ見合いするんだって」
「見合い? え? だって彼氏いるって」
「親が大学卒業してすぐに嫁に行かせたいらしい。それで時々見合いさせられてる。佐緒里が言うには大学費用出して貰っているから、見合いくらい仕方ないって」
「そっか……」
佐緒里の実家がそれなりの旧家で、本家とか分家とかうるさいことは聞いていた。でも、親が用意する見合いなんて、皐月にとっては想像がつかない。
「早く自分の足で立ちたいよな。そしたら親の都合に振り回されない。自分の責任にはなるけど、自分がやりたいこと出来るし」
その言葉は少し意外なように思えた。見上げた健吾は窓の外に視線を向けていて、その目がどこを見ているのかは分からない。
ただ、佐緒里と同じように健吾も大学に行くために親と何かしらの約束があるのかもしれない。それを考えると、自分がどれだけ兄貴に甘やかされていたのかが分かる。
基本的に美術系の大学は総じてお金が掛かる。そして美術系の大学を出たからといってそれで食べて行けるのは片手で足りる。まだデザイン系だから卒業してもそれなりに潰しが利くけど、入学金や授業料の高さはそれに見合うか分からない。
分かっていたつもりだったけど、余り真剣に考えたことはなかった。ただ、まるで何でもないことのように兄貴が入学金も払ってくれたから気にしてなかった。こういうところが考えが足りないと言われるんだと自分でも分かる。
「皐月は自立したいって思ったこと一度もないだろ」
「……ないかも。兄貴がうざったくて一人暮らしをしたいと思っていたけど、結局ここも兄貴が家賃払ってる。でも、それでいいと思ってた」
「知ってる。皐月ってそういうところも少し世間ズレしてるから。まぁ、そういうことを兄貴が考えさせないようにしていたんだろうけどな」
ガシガシと頭を掻きながら健吾は洗いかごからカップを二つ用意すると、コーヒーを淹れてくれた。そのまま健吾と二人ソファに腰掛けるとカップに口をつける。
「何かさ……やっぱり納得行かねぇ」
カップを勢いよく置いた健吾は、真っ直ぐな目で皐月を見ている。その目が真剣なもので、少しだけ気圧された。
「な、何が」
「あいつの遣り方。絶対ガキ相手だと思ってるぞ」
「笹塚さん?」
「そうだよ。あいつ皐月が世間知らずなこと分かってて丸め込んでるんだよ。分かれよ」
「だからさきも言ったけど、仕方ないと思ってるし。それに悪いことだと思わないけど」
「俺には皐月がどうして冷静なのか分からない。お前がそんなだから周りが心配するんだよ」
健吾がイライラしてるのは分かる。でも、腹立たしさもないのに怒るふりはできない。流されてる自覚はあるけど、それの何が悪いとは思えない。
でも、心配していることは分かる。健吾にしろ佐緒里にしろ、本気で心配しているからこそ泊まり込んでまで傍にいてくれたんだと思う。
「ごめん」
「……それが皐月だってのは分かってるんだけどな。一層俺が学生じゃなければ」
健吾の言葉に割り込むようにチャイムの音が鳴り、健吾が言葉を呑み込む。その続きが気にならない訳じゃないけど、小さく溜息をついた健吾を見てソファから立ち上がった。
そういえば、ついこの間、これと似たようなことがあった気がする。あの時も今と同じように健吾が何かを言いかけて続きが気になっていた。後で聞こうと思ったけどそのままになっていた気がする。
玄関の扉を開ければ、そこにいたのは笹塚だ。その顔にはいつもと変わらぬ笑みがある。そのまま家に入ることを促せば、笹塚の視線が玄関先にある靴を見て意外そうなものになる。
「健吾くんいるのかな?」
「いますよ」
「いたら悪いか」
玄関からソファの位置は見えない。けれども、声は届くくらいの距離でしかない。刺々しい健吾の声に笹塚は苦笑しながらも部屋に上がる。
こうして笹塚を家に上げられるも、佐緒里と健吾が部屋を掃除してくれたからだ。
「別に構わないよ。でも、その顔からすると俺の悪巧みはバレちゃったかな」
「分かっててやってるなら、殴り飛ばしたいところだな」
いつものことながら、この二人が顔を合わせると空気が悪くなる。そういうことを気にするタイプではないけど、それでも皐月としては友達と兄貴の友人と思えば居心地も悪い。
「あの、それで」
「今日のオークション商品見たよ。現物はあれかな」
それだけ言うと笹塚は壁に掛けてあるワンピースをハンガーから外すと手に取った。その顔に笑みはなく、それだけ皐月の作ったものを真剣に見ていることが分かる。裏をひっくり返したり、表を見たり、それからベッドに置いて少し離れてみたりしている。
最後にハンガーに掛けて壁に掛けると、再び少し離れたところからワンピースをじっくりと観察している。ただ見ているという雰囲気ではなく、やっぱり観察しているという言葉がしっくりくる。それくらいマジマジと笹塚はワンピースを見ていた。
それが終わるとようやく皐月の方へと振り返る。でも、その時には口元にいつもの笑みを浮かべていた。
「画像で見た段階で思っていたけど、俺が思っていた基準よりは良い物を作ったみたいだね。オークションでは勝てなかったけど、俺基準では一応合格かな。とりあえず、少し話もあるし座っていいかな」
笹塚にソファを指さされて慌てて頷くと、すぐに食器棚からカップを取り出してコーヒーを用意するとソファに座る笹塚の前に置いた。
「昨日、春樹と話をしてきたよ。それで、春樹は皐月ちゃんと少しの間距離を置くことを了承した。でも、保護者として大学卒業までは自分が面倒見ると譲らなかった。まぁ、当たり前かもしれないね。だから、俺も大学を辞めろとは言わないよ。ただ、皐月ちゃんに監視を一人つけさせて貰う。勿論、ここからも引越して貰うから」
「ちょっと待てよ。あんた勝手に色々決めすぎだろ。そもそも他人が口挟むことじゃないだろ。それにあんたが欲しいのは皐月のデザインだけだろ。まだ皐月が何も決めてないからって先回りするなよ」
口を挟んだのは健吾だ。元々機嫌も良くなかったからその口調はいつも以上に鋭くきつい。
「確かに皐月ちゃんの能力は買ってるよ。じゃなければここまで動かない。でもね、いつの時代でも大人は狡いもんなんだよ。皐月ちゃんはただ流されているだけだろうね。でも、流されることで丸め込まれるのは俺だけの責任じゃない」
「あんた、じゃあ皐月の兄貴のことも!」
「そうだよ、今の内に皐月ちゃんを囲い込むために言った。でも、それだって皐月ちゃんは早くに聞いて良かった筈だよ。違う?」
最後は皐月に問い掛けられて遠慮がちに頷いた。
知らなければ良かったとは思ったけど、知らなくていいとは思えない。恐らく笹塚に言われなければ全く考えもしなかったことが幾つもある。だから、それに関しては笹塚に感謝している。
「でも、あんたは黙っていられた筈だ。少なくとも皐月が大学卒業するまでは」
「その選択はあったよ。でも、皐月ちゃんに意志が備わってからだと全てが遅いからね」
「あんた最低だな! 皐月を何だと思ってるんだよ!」
「皐月ちゃんは皐月ちゃんでしょ。それ以外の何者でもない。それなら君に聞くけど、君が俺と同じ立場だったらそういうことを少しでも考えなかった? 望む者が手に入るその状況に、こんなことは考えなかったと言えるのかい?」
「つっ……」
言葉を詰まらせた健吾だったが、その目は笹塚を睨み付けている。皐月の話をしている筈なのに、当人である皐月は既に蚊帳の外だ。とても口を挟める状況ではなくて、ただ二人を落ち着かない気分で見ていることしかできない。
「君が欲しモノは何だろうね」
抽象的な言い方だけど、途端に健吾は勢いよくテーブルに手をついた。激しい音がして思わず首を竦める。健吾がここまで怒っているのを見たのは初めてのことかもしれない。
「俺はね、君が欲しいと思っているものを手に入れるよ。全ての意味で」
「あんたなぁ、俺に喧嘩売って楽しいか?」
「結構楽しいねぇ。でも譲るつもりが全くないところが自分でも救いがたいと思っているよ。しかも君みたいな子ども相手にムキになってる所が度し難い」
鋭く睨み付ける健吾相手に、笹塚はいつもの笑みを崩すことはない。でも、その目は全然笑っていないのが皐月から見ても分かる。
「……これから皐月をどうするつもりだ。監視とか言ってたけど、まさかあんたと一緒に住むんじゃないだろうな」
「さすがにそれは問題あることくらい分かるでしょ。皐月ちゃんと一緒に住むのは俺の妹。まぁ、あいつも色々問題あるだろうけど皐月ちゃんのマイナスにはならないと思う」
ようやくこちらに会話が戻ってきたものの、唐突とも言えるその言葉に色々とついていけない。
「妹さん、ですか?」
「そう妹。年は皐月ちゃんの二つ上で、今は服飾の専門学校に通ってる。それに春樹がもし皐月ちゃんに会いに来たとしてもあいつが追い返してくれる」
兄貴の名前が出てきたところで皐月としては困惑する。会わないと約束したのであれば、兄貴が約束を守らないとは思えない。そういうところは兄貴は生真面目で融通が利かない。
「気づいていなかったみたいだけど、この一週間で春樹は三回ここに来てる。皐月ちゃんのことが気になって仕方ないらしい。分かる? それだけ春樹は君から離れることが困難になってる」
「でたらめ言ってるんじゃないだろうな」
「残念ながら嘘じゃないよ。嘘つくならもっと上手い嘘をつくからね。実際問題、君だって皐月ちゃんと春樹は離れた方がいいと思ってるだろ」
「それは……」
「そういう意味では君と意見は合致する。それにここを春樹が知っている以上引越は必須だと思ってる。違うかい?」
問われた健吾は応えない。でも答えないことが肯定している。
「とりあえず健吾くんの了承は得られたけど、皐月ちゃんの意見はどう?」
意見と言われても皐月の中には大した意見はない。ただ、一貫して兄貴のためだという笹塚の言うことなら、それは正しいことのように思えた。
「あの、兄貴と話できませんか?」
「話はできると思うけど……会いたいの?」
「甘えていたことにお礼くらいはきちんと言いたいです。多分、しばらく会わないと思うし」
そんな皐月の言葉に笹塚は何も言わない。その表情からも難色を示していることは分かる。
「俺はやめておいた方がいいと思う。余計に兄貴の気持ちをふらふらさせるだけじゃないのか」
「でも、きっぱり言ったら何か違うかもしれないでしょ? 兄貴としか思ってないって」
「言えるのか?」
「……言う。っていうか、言わないといけない気がする」
いつもの兄貴相手に言えるかどうかは分からない。でも、言わないといけないと思う。それが例え兄貴を傷つけることになっても、多分、自分たちには必要なことだと思う。
少なくとも皐月は兄貴を恋人として見ることなんてできない。何よりも兄貴は兄貴であって、皐月には家族以上のモノに見ることはできない。
「分かった。春樹には言っておくよ。多分、明日会うことになると思う。皐月ちゃん、春樹のためにも突き放してあげて」
「頑張ります」
途端にいつものように笑みを浮かべた笹塚は、すぐに胸元から手帳を取り出した。
「それで引越なんだけど、一応明後日の午後からを予定してるから」
「……は? 明後日、ですか?」
「そう明後日。善は急げって言うでしょ。妹からは既に了承を取ってあるから」
余りにも考えなかった展開の早さに、皐月はただ呆然と笹塚を見ることしかできなかった。