笹塚に見送られる形で二人と一緒に部屋に戻った皐月は、部屋に入るなりクローゼットを全開にした。
「皐月?」
困惑した様子で話し掛けてきた佐緒里に皐月は顔を向けられない。クローゼットの引き出しや部屋の片隅に置いたままになっている収納ボックスから布を引っ張り出しながら声を掛けた。
「ごめん、二人は好きにしてて。これから私オークションの準備に入るから」
「え? 笹塚さんの言ってたあれ、本気で受けるの?」
ここにきて佐緒里は本気でオークション勝負なんてことをするとは思っていなかったらしい。
「今回のことがなくても元々そういう約束だったの。それに今はこれしかできないし」
「でも、あの人アネーロのデザイナーだよね?」
「知ってたの?」
佐緒里の言葉に布を漁っていた手を止めて振り返る。佐緒里は困惑した様子のまま皐月を見ていて、その後ろで健吾は驚いた顔をしている。
アネーロについては佐緒里が騒いでいただけあって、健吾も知っている。いや、もしかしたら知らなかったのは皐月だけで、それなりに見栄えを気にする健吾は元々知っていたのかもしれない。
「知ってるも何も、あれだけ雑誌に出てる人を知らない方が驚きだけど。まぁ、中身には度肝抜かれるくらいに驚かされたけど。あの笑顔は詐欺よ」
「まぁ、気持ちは分かる。私も最初そう思ったし。あの人笑顔のまま本気で申し訳なさそうな声出せるんだよ。あれはある意味能面の役割だと思う」
「あぁ、皐月が言うのも分かる……って、そういう話じゃなくて! プロのデザイナーと張り合うってありえないでしょ!」
どこかしみじみした会話から一転、佐緒里は怒ったように怒鳴る。そんな佐緒里に皐月としては苦笑するしかない。
元々決まっていたことが兄貴とのことがあったけど約束通り守られるだけの話だ。だから、皐月にとってはもう今さら怒ったりする部分ではない。ただ時期は考えて欲しいとは思ったけど、皐月が文句を言える立場でもない。
「元々力試し的な勝負だったの。それに笹塚さんもビジネス的な興味があるって最初から言ってたし」
「でも、勝てなかったら大学辞めることになるんだよ?」
「勝負しないとどっちにしても大学辞めることになるよ。私、何となくこれしかないから大学行ったけど、こういう事態になって初めて大学辞めたくないって思った。だからするよ。自分で心底こうだと思ったの初めてだから」
「……ここにいて邪魔じゃない?」
「全然邪魔じゃないけど、佐緒里、彼氏放っておいて大丈夫?」
「そんなの別にどうでもいいよ。それよりも皐月の方が気になるし、友情の前に立ちはだかる男なんて邪魔なだけよ!」
拳を握って力説する佐緒里だったけど、そんな佐緒里に乾いた笑いしか出てこない。
「いや、いつも彼氏優先の佐緒里に言われても全然説得力ないんだけど」
「だな、俺も皐月に一票」
「ちょっと、余りにも酷くない?」
「そういうのをまさに自業自得、我が身を振り返れってやつだろ」
健吾に突っ込まれて言葉に詰まった後、唇を尖らす佐緒里はそれでも美人だ。でも、少しだけ疲れているように見えるのは睡眠不足のせいかもしれない。
「一つお願いしていい?」
切り出した皐月に健吾と佐緒里はすぐにこちらへ視線を向けてくれる。それが今は嬉しいし、心強く思える。
「別に家に帰ったりしても構わないんだけど、どっちかここにいてくれないかな。正直言って兄貴が来たらどうしていいか分からないし」
もし兄貴が来てここで売り言葉に買い言葉的なことをしたら、後日落ち着いて話しをすることもできなくなる。できたらそれだけは避けたい。
「とりあえず私がここにいる。だから健吾は一度戻るなら戻って。健吾が戻ってきたら私も一旦家に戻る」
「分かった」
「色々ごめん、迷惑掛けて」
「別にいい。それじゃあ、俺一旦帰るから。佐緒里、誰か来ても鍵開けるな。どうせ一週間だ、居留守使っても問題ないだろ」
「分かった」
「俺が出たら鍵掛けろ。あとは頼んだぞ」
それだけ言うと健吾はすぐに部屋から出て行ってしまい、佐緒里はすぐさま扉に鍵を掛けた。
「さてと。皐月、まずは風呂」
「いや、だから私はオークションの」
「いいから風呂。放っておくと臭いそうで困るの。健吾はそういうことうるさく言わないだろうし、あたしくらい言わないと腐るじゃない。そして、皐月が風呂に入っている間にあたしは寝る」
きっぱりとそれだけ言うと、本当に佐緒里はベッドに寝転がるとすぐに眠りに落ちてしまう。余りの展開に唖然と佐緒里を見下ろしていたけど、ここでぼんやりしていても仕方ない。
脱衣所がないからその場で風呂に入り、シャワーを浴びて出てくると部屋着に着替えた。でも、シャワーを浴びたら気持ちが少しすっきりした気がする。そういう意味では佐緒里に感謝かもしれない。
皐月はいくつかの布を床に広げると、クロッキー帳に描き溜めてあったデザイン画を広げる。クロッキー帳二冊分が、今回辛うじて仕上げた分だった。
島崎に教わる傍ら、休憩時間などにこつこつと描き溜めたもので、その中から既に五点をピックアップしてある。
皐月が笹塚と勝負するために選んだのは女性向けのワンピースだった。本来であれば型紙も自分で作らないといけないけど、笹塚が進言してくれたこともあり皐月がデザインしたワンピースは島崎が型紙を用意してくれた。
前にオークションにチャレンジする時、色々と調べた。基本的にオークション商品は季節先取りで落札されることが多い。今からなら狙い目は秋物で、秋らしいラベンダーやブラウン系のリネンやハーフリネンをピックアップしていく。
ワンポイントとなるチェック柄や、スカラップレースなども幾つか用意すれば、すぐに床の上には店のように布が広がる。
「秋にはグリーンが足りないか」
独りごちながら再び収納ボックスからオリーブ系の布も取り出すと、腕を組んで床に広がる布を眺める。
相性がいい色、悪い色はパッと見てても分かる。ただ、柄ものを無地と組み合わせると単純になったり、秋には重苦しい色合いになったりする。
クロッキー帳に描いたデザインを見ながら、それぞれの布を選び出していく。笹塚の方が早くオークションに出すと言ったから、明日、明後日にはオークションに出してくるに違いない。
それまでに予定している五点は作ってしまい、笹塚の物を見てその五点に手を加えるのもありだと思う。ハンデを貰ったのだから、それは最大に生かしたい。
でも、その余裕を持つためにはとにかく短い間でデザインしていた五点を仕上げなければならない。
皐月はクロッキー帳から、決まったデザイン画を破り取ると壁に掛けてあるコルクボードに貼り付ける。そしてそのデザイン画を見ながら布を選び出すと、島崎に渡された型紙を合わせて布を裁断していく。
そこからは皐月は集中に入ってしまい、途中健吾が戻っていたことも気づかなかったし、佐緒里が家に戻ったことも気づかなかった。
佐緒里が食事を用意してくれたけど、それを食べる時間も勿体なくて、結局佐緒里がおにぎりを用意してくれた。それを食べながらひたすら布を裁断して、それからミシンに向かう。
作業しにくかったのに、気づけば床に広げたままだった使わない布は片付けられていて作業効率が上がる。
とにかく五点。それが皐月にとっての最低ラインだった。
ミシンをかけて、島崎に言われたようにアイロンを丹念に掛ける。布の端処理も手抜きせずに一着ずつ仕上げていく。
最初の断裁こそ一気にやったけど、それ以降は一着ずつ確実に仕上げる方向にシフトし、途中夕飯を取りながらも、もっといい組み合わせがあるんじゃないかと布の組み合わせを考える。
徹夜状態で翌日昼に、残り一着というところで笹塚から電話があった。メールアドレスを知りたいということで、健吾に頼んでパソコンから笹塚にメールを出して貰う。
すぐに笹塚からのメールが返ってきて、そこにはオークションのアドレスが貼られていた。慌ててパソコンに張り付くと、笹塚の出品したものを一つずつ確認していく。
どうやら笹塚は二点オークションに出したらしく、一つは皐月と同じくワンピース、そしてもう一つはワンピースとおそろいのトートバッグだった。
少なくとも、これなら二点両方入札したいと考えるに違いない。でも、それよりも目が惹かれたのは鞄の変わった形と、アンバランスに配置された鞄のパッチワークだ。しかも、雑多に感じない布の組み合わせはさすがだと唸るしかない。
これは鞄だけを欲しい人と、ワンピースと合わせて欲しい人でいい値がつくに違いない。
「皐月、お前少し休んだ方がいいんじゃないのか? もうこの一着で終わりだろ」
「勝負はこれからかな。大丈夫、いける気がしてきた」
笹塚がそういう手でくるのであれば、皐月としてもセット売りを考える。笹塚には止められていないし、少し狡いかもしれない。でも、ここで引くこともできない。
再びミシンに向かい最後の一着を仕上げると、アイロンを当ててハンガーに吊す。それから再び布を手に取ると、すぐに型紙を合わせて断裁を始める。
「おい、終わったんじゃないのか?」
「まだやることができた。ごめん、時間ないから今は話し掛けないで。後で文句は全部聞くから」
「いや……いいけど……」
色々と言いたいことがあるのは分かるけど、この勝負に負けたくない。少なくとも、兄貴の妹だから仕方なくなんて言われたくない。
スカラップレースをひたすら断裁して、ミシンかけ終えた時には既に約束していた三日目の昼近くになっていた。
とにかく写真を撮ろうとカメラを取り出したところで、ようやく辺りを見回す余裕ができた。
「何か……部屋が綺麗」
「当たり前でしょ。あたしと健吾で掃除したの! 一体、どんな生活してんのよ、あんたは!」
「正直言って、俺の部屋より汚い」
「だって……」
「そりゃあお兄さんだってそういう気持ちじゃなくても心配になって毎週通うわよ」
それを言われると皐月としては耳が痛い。元々余り掃除は得意じゃなかったし、料理も好きじゃない。でも、それって……。
「一人暮らし向きじゃないってことか」
「今さら気づいたのかよ!」
健吾に言われて乾いた笑いしか出てこない。でも、どうしても課題とかあるとそっちが優先になってしまい、中々手が回らないのが現状だ。
「でも、一つだけ褒めてやる」
「……もう、嫌なことは聞きたくない」
「皐月の集中力は凄いと思うよ」
「うん、健吾とも話してたんだよね。皐月の後ろでガンガン掃除してるのに全然気づかないし」
人間単純にできてるから褒められるとかなり嬉しい。だからへらりと笑えば、すぐに佐緒里は「調子に乗らない」といってどこに置いた忘れていたデジカメを差し出してきた。
佐緒里に勧められた通り、綺麗になった窓際で写真を数枚撮るとデジカメを置いた。
「あれ、他の服は?」
「出品するのはこの六点。でも、三枚ずつ組み合わせるから、正確に言えば二点のみ。だって、笹塚さんが二点しか出してないのに、それ以上出すのは凄く狡い気がするし」
「馬鹿ね。そんなの出しちゃえばいいじゃない。気にする必要ないでしょ。別に数が指定されてる訳でもないのに」
確かにそうだと思う。でも、残りの三点では恐らく笹塚の出した物より高値をつけるのは難しいと思う。
ワンピースに下に身につけるペチコート、そしてショールの三点セットを二つ。色々考えた結果、ラベンダーをメインにしたもの、そしてオリーブをメインにしたものをオークションに登録してしまう。
「よし、これで終わり」
「それならご飯食べてよ。皐月、この三日間、サンドウィッチとおにぎりしか食べてないんだし」
「ごめん、眠気が限界」
パソコン前から立ち上がると、そのままベッドに寝転がると瞬きと同時に眠りに落ちたらしい。
だから、最初遠くで会話が聞こえてきた時、自分が眠っているという感覚はなかった。
「……思う?」
「あぁ……と思う……笹塚さん…………」
「……変よね……」
夢現で聞いた声は健吾と佐緒里のものだったけど、その会話を全て聞くことはできない。ただ笹塚の名前が出ていて、思ったよりも二人の声が真剣だったことだけが頭の片隅に残っていた。
そして再び眠りに落ちたらしく、次に目を覚ました時は翌日の夕方だった。
身体を起こせば、下半身はベッドからずり落ちた状態だった筈なのに、きちんとベッドに眠っていた。部屋を見回せば、窓際で本を読んでいる健吾と視線がぶつかる。
「……おはよ」
「ようやく起きたのか」
「佐緒里は?」
「夕飯の買い出しにでかけた。このくそ熱いのに鍋やるって言ってたぞ」
健吾の言葉に窓の外を見れば、既に夕方だというのに日差しはジリジリとしたものだった。部屋にエアコンはついているけど、外の暑さを考えると鍋という選択にさすがに顔が引き攣る。
「……鍋って季節じゃないと思うんだけど」
「お前にてっとり早く栄養つけさせたいんだろ。それより、どっちも入札入ってるぞ、オークション」
その言葉に慌ててベッドから飛び起きると、立ち上がったままのパソコンの画面を覗き込む。そこにはブラウザーが二つ開いていて、皐月のものと笹塚のものが両方表示されている。
「うわぁ、笹塚さんのありえない額になってるし。ハンドメイド品で八千円って何、ありえない」
「さき佐緒里もブツブツ言ってた。今日の中で一番高額だって」
「悔しいなぁ。でも、確かにデザインが凄いんだよね。ちょっと真似できないデザイン。こういのが個性あるっていうんだろうな」
とにかく皐月はナチュラルな中に個性を出したけど、笹塚の鞄やワンピースはそれ全体が個性になっている。
ワンピースは中心から二十センチほどのところに切り込みが入り、継ぎ布をしてある。その布が色違いで何枚かトートバッグの方に使われている。しかも切り込みには何本もの紐で余り広がらないようになっていて、可愛らしいけどシックなイメージがある。
バッグの方だってトートバッグとはいっても、形はかなり変わっている。グラニーバッグに形は近いけど、持ち手は長く取られているし、何よりも取り外しできる肩掛け紐がついている。そしてやっぱり目を見張るのはパッチワークされた布使いだ。
「敵わないなぁ。やっぱり敵はプロだった」
「皐月のも悪くないだろ」
「私の中では悪くない。むしろいいけど、笹塚さんの物に比べたら見劣りする。まだまだ全然ダメってレベル。まぁ、笹塚さんのは明日で終わるから、明後日までに私の物がどれだけ金額が上がるか祈るしかないかな」
ただ、金額云々は別にしても負けたという気持ちはぬぐえない。少なくとも、あんな物を皐月はデザインできないし、思いつきもしなかった。
「意外だな」
ぽつりと呟く健吾に顔を向ければ、床に座っていた健吾は本を閉じると立ち上がる。
「皐月が何かに対して悔しがるとは思わなかった」
「それは私だって人間だからそれなりに悔しく思ったりすることあるけど」
「いや、まぁそうなんだろうけど……少なくとも、そこまであからさまに悔しそうな顔するのは初めて見た。予備校とかでも俺や佐緒里が点数高くても全然関係ないみたいな顔してたし」
「それは、私と健吾たちじゃ方向性が違うっていうか……」
確かに元々、皐月は競争心の強いタイプではない。褒められたら嬉しいし、貶されたらそれなりに落ち込む。ただ、特定の物や人にこうして悔しいと思ったのは初めてのことかもしれない。
「私って競争心が足りないタイプ?」
「かもしれないな。ただ、その相手が笹塚さんっていうのが複雑だけど」
「何で?」
「何でって……あー、ほら、相手はプロだし」
珍しく健吾は言いよどみ、それから続けた言葉は何かをとってつけたような響きがあった。でも、何かをごまかしたのだとしても健吾が言いたくないのであればそれを問い詰めるつもりはない。
「プロ相手だって、今この時は負けたくないってあるんじゃないの? 余り負けたくないと思ったことがない私が言う言葉じゃないかもしれないけど」
「今か……そうだといいけどな」
「どういうこと?」
背の高い健吾を見上げれば、酷く複雑そうな顔で自分を見ている。何か言いたげにも見えて、それを問い掛けるか悩んでいる内に玄関の鍵が開く音が聞こえた。
勢いよく扉に視線を向ければ、そこから入ってきたのは佐緒里だった。
「皐月、ようやく目が覚めた? 今日こそきちんと食べて貰うからね」
そう言って両手一杯のビニール袋を置いた佐緒里に、健吾と二人目を合わせるとどちらともなく笑い出してしまう。
「何で二人で笑ってるのよ」
「いや、佐緒里がいい嫁さんになると思ってさ」
途端に佐緒里は背を向けてしまう。
「当たり前でしょ。日々、可愛いお嫁さんを目指してるんだから」
いつもと変わらない声。でも、後ろから見ても髪をアップにしているから耳から首筋まで真っ赤になっている。ちらりと見上げた健吾は、そんな佐緒里に気づいた様子はなく、相変わらず佐緒里をからかっている。
あれ、もしかして佐緒里は……。
勿論、そんなことを声に出して言えるほど間は抜けてない。ただ、思いついた予測を胸の奥にひっそりとしまいこむ。そして、素知らぬ顔で佐緒里を手伝うためにテーブルの上に置かれたビニール袋に手を掛けた。