車をしばらく走らせて都心に入ると一つのマンションに笹塚は車を停めた。促されて車を降りると、駐車場の片隅にあるエレベーターに向かって歩き出す。
車窓を見てて気づいたのは、ここが笹塚の会社近くだということだけは分かる。
「笹塚さん、ここはどこですか? 笹塚さんの家はうちの近くだって聞いてましたけど」
「ここは俺の仕事場。自宅は春樹が知ってるからここくらいしか無くてね。とりあえず部屋に行こう」
エレベーターで八階まで上がると、笹塚は幾つか並ぶ扉の一つを鍵で開けた。中に入ると一応生活環境は整っているものの、生活感はない。広いリビングにはミシンや大きな机があり、とても食事を取るダイニングテーブルではなく、作業机というのが正しい。
「とりあえず椅子に座ってくれるかな。色々と説明しないといけないことがあるから」
「すみません、その前に洗面所借りてもいいですか?」
「そっちの扉が洗面所だから好きに借りて構わないよ」
一応笹塚の確認を取って洗面所に入ると、鞄に入れてあるハンドタオルを取り出すと水で冷やしてからリビングに戻る。既にグラスやペットボトルのお茶を用意した笹塚は椅子に座っていて、その笹塚にタオルを差し出した。
「あの、頬冷やして下さい。氷とかあれば本当はいいんですけど」
「あぁ、ありがとう」
いつものように笑みを浮かべた笹塚は、頬が引き攣るのか僅かに顔を顰めた。素直に皐月の手からタオルを受け取ったことに内心ホッとする。
「氷はないんですか?」
「必要ないからね。とにかく座って貰えるかな」
促されて空いている健吾の横に腰を下ろすと正面から笹塚と視線が合う。穏やかな表情だけど、やっぱりその目は笑っていない。
「昨日は春樹のところに行ったんだけど会って貰えなかったんだよね。だから今日、朝から春樹のところに顔を出したんだ。そしたら、健吾くんと付き合ってることをグチグチ言われて、つい口が滑っちゃったんだよ」
「一体何を言ったんですか。まさか実は俺が付き合ってるとか言ったんじゃないでしょうね」
どこか不穏な空気を漂わせながら健吾が訪ねれば、ふと健吾を見る笹塚の目が和らぐ。
「そこまで地雷踏むような真似はしないよ。君じゃないんだから」
途端に健吾がグッと口を噤んだのが分かる。
「もう皐月ちゃんだって結婚できる年なんだから、恋人の一人や二人くらいと言ったら逆上。まぁ、皐月ちゃんには信じられないだろうけどね。春樹が激昂する姿なんて」
確かにこうして話を聞いていても、俄に信じがたい自分がいる。でも、笹塚といい健吾といい、そういう姿を見ているのだからそこに嘘はないのだと思う。
「それから春樹は言ったよ。皐月ちゃんは自分のものだ、誰にも渡さないって。ねぇ、皐月ちゃんは二人だけの兄妹になった時、兄のプレッシャーってどれだけのものだか分かる?」
「…………」
それには答えられない。当たり前だけど、皐月はそんな立場になったことないし、今でも妹の立場でしかない。
でも、心臓が痛いくらい強く脈打っている。これ以上聞きたくない。そう思うのに、身体中が強張ったように逃げ出すこともできない。
「誰の援助もなく、たった一人だけの身内。親を亡くした春樹にとって皐月ちゃんは全てだったと思うよ。しかも春樹と君は血が繋がっていない」
「……っ!」
「ねぇ、今まで本当に何も考えずに春樹の言うままに過ごしてきたの? 罪悪感はない?」
「笹塚さん! 言い過ぎです」
笹塚の言葉を止めたのは健吾で、すぐ隣に目を向ければ鋭い視線で健吾は笹塚を睨み付けている。視線を受ける笹塚は薄く笑みを浮かべるだけで、ちらりと健吾に視線を向けただけだ。
「俺はね酷い人間だから言ったよ。血も繋がらない妹なんて面倒見る必要ないってね。でも、春樹はそれを認めなかった。自分が皐月ちゃんを好きだから離れられないって。血が繋がっていないから、いずれ結婚だってできるからって」
兄貴の猫かわいがりは兄妹の一線を越えたものじゃないと信じていた。でも、それが違うのだとしたら、自分は兄貴に対してどうすればいいのか……考えれば考えるほど分からなくなる。
「本当に気づかなかった? 春樹の気持ちに」
「……気づく筈ありません。だって、春兄ぃは春兄ぃだし」
「気づきたくなかっただけじゃいの?」
「知りたくなんてありませんでした! 笹塚さんに言われても信じられない気分です!」
初めて人を怒鳴りつけてしまったことに我に返る。そして勢いのままに椅子から立ち上がっていたことにも気づいて、おずおずと座り直す。
静かな部屋に沈黙が落ちて誰も口を開かない。皐月もこの状況で何を言っていいのか分からない。分からない以上に混乱していた。
兄貴は皐月にとって兄貴でしかない。確かに血の繋がっていない妹を馬鹿可愛がりしてくれる兄貴がうざったく思っていた。でも、突き放すことをしなかったのは、そのことに心の奥底で安心していたからだ。
血が繋がっていないことは、小さい頃から聞かされていた。でも、両親はそんな皐月を分け隔て無く可愛がってうれたし、その愛情を疑ったことはない。兄貴だって猫かわいがりではあったものの、年が離れているからこそだと思っていたくらいで、別段、不思議に思うことはなかった。
でも両親が亡くなって兄の束縛が厳しくなった。少しだけ不思議に思ったけど、両親の代わりに厳しくなったのだとばかり思っていた。不思議に思った、あの時点で自分は考えなければならなかったのかもしれない。
「皐月ちゃんは春樹を恋人として考えられる?」
「無理です。春兄ぃは兄で恋人には考えたこともありません」
即答ともいえる言葉に笹塚は小さく溜息をつくと、考え込むように顎に手をあてた。
もう、どうしてこんなことになったのかよく分からない。皐月としては今までと変わらず兄と妹という立場で接したかった。うざったいけど優しい兄だと思いたかった。でも知ってしまったからには今までと同じようにはいかない。
いずれにしろ、こういうことにはなったと思う。知りたくなかったと思う反面、知らないままでいなくて良かったとも思う。知らなければそれだけ兄貴を苦しめることになったのだと思う。皐月が甘えれば甘えただけ、兄貴は苦く思ったに違いない。
「少し……春樹と離れてみない?」
「春兄ぃと、ですか?」
「このまま近くにいると春樹にとっては残酷だし、春樹のためにならないからね。一人になりたくない春樹と、一人になりたくない皐月ちゃん。この時点で共依存的な関係に陥ってる。皐月ちゃん、まだ春樹と兄妹ができると思ってるでしょ」
「だって兄妹ですし」
「はっきり言って、そんなこと無理だから。別にお互いが一人になりたくなくて傍にいる血の繋がらない兄妹はいると思うよ。でも、どちらかが特別な感情を持った時点でそれは成り立たなくなる。俺は春樹の皐月ちゃんへの気持ちが本気だとは思わないけど、春樹はそう思い込んでいる。その時点で色々無理だから」
兄貴の気持ちを知っても、知らないより良いと思った。でも、知ることによって兄を失うということは考えもしていなかった。
「皐月ちゃんが傍にいると春樹が壊れる。悪いけど皐月ちゃんに傍にいて欲しくない」
きっぱりと言われた笹塚の言葉が胸に刺さる。痛いと思うのに何も言えずただ俯くことしかできない。それだけ、笹塚の言葉は衝撃だった。
「笹塚さん、それは余りにも一方的すぎませんか。まるで皐月が悪いように言わないで下さい」
言葉を挟んできたのは健吾で、その言葉に意識が浮上する。前を見れば笹塚は既に皐月を見ていない。ただ口元に薄く笑みをうかべるばかりで、その目は健吾に向けられている。
「俺は元々春樹の友人だからね。だから春樹の肩を持つのは当たり前だ。そして君は皐月ちゃんの友達だから皐月ちゃんの肩を持つのは当たり前でしょ。君が皐月ちゃんのことを思うように、俺は春樹のことを考えれば黙っていられない」
最初から笹塚はそう言っていた。だから、その言葉に嘘はないに違いない。でも、絶対的に皐月の肩は持たないのだと言われると、それはそれで痛い。
「これからも兄妹を演じるのか、春樹から離れるのか、お友達にも相談して皐月ちゃんが決めるといいよ。もし、離れるなら離れるで俺がどうにかするから。とにかく、今日はお友達と一緒にここへ泊まって構わないから。あぁ、鍵は玄関横にあるキーボックスに入ってるから好きなように使って」
それだけ言うと、笹塚は席を立ち玄関に向かって歩き出してしまう。これ以上、何か言うべきことはない、ということなのだろう。
酷く苦い思いで笹塚の背中を見送れば、しばらくすると玄関の扉が閉まる音が聞こえてきた。それは笹塚に境界線を引かれたような気がして、胸に苦い思いが広がる。
「皐月、大丈夫?」
優しく問い掛けられて顔を上げれば、佐緒里が心配そうな顔でこちらを見ている。そんな佐緒里に大丈夫だと笑いたいのに、顔の筋肉が引き攣ったかのように動かない。
「こんな時に大丈夫な訳ないだろ。ったく、あの野郎、好き勝手言いやがって」
「本当に好き勝手言ってたよね。だって、兄貴を演じていたなら皐月が気づく筈ないじゃない。それこそ横暴ね」
「だよなぁ。お友達が大事だったら、他を傷つけてもいいのかって話だよな」
「やーねぇ、ああいう大人にはなりたくないわ」
二人の会話をぼんやりと聞いていたけど、皐月は口を挟むことなく目の前に置かれたグラスに口をつける。
色々と混乱はしてる。知らなかったことを知らされて、知られたくないことを知られていた。笹塚は兄貴と血が繋がっていないことを知っていた。それは兄貴が話したということで、それだけ兄貴にとって笹塚は信用している相手だということだ。
でも、そのことが心の奥底でザラリとした不快な感じがするのは何故か。秘密が曝かれた、そのことが面白く無いのだと思う。
だったら何故それが面白く無いのか。それは、どこかで兄貴なら誰にも言わないという信頼と、連帯感みたいなものがあったからに違いない。その角度を変えれば、笹塚の言うような共依存ということなのかもしれない。
兄妹だと思っていた。いや、思いたかったのは、そうじゃないと突きつけられた時、兄貴にとって自分は妹ではなくなる。そこで繋がりはなくなってしまえばお互いに一人だ。
その恐怖を自分は知っていて見て見ぬふりをしていたのかもしれない。自分で気づかなかったけど、そんな奥底にある内心を笹塚に見抜かれていたのだとすれば、本気で怖い人だと思う。
「……兄貴じゃない、か」
自然と零れた言葉に、話していた二人が黙り込む。
「確かに笹塚さんの言うように、兄貴が妹として見られないなら一緒にはいられないよね」
「でも、今まで妹だったんだし皐月は考える必要ないでしょ」
佐緒里の強い口調に、少し悩んだ後に皐月は緩く首を横に振った。
「考えないといけないよ、やっぱり。だってこれから先があるんだから。正直、今まで考えたこともなかったけど」
今まで兄貴が望むように進路を進めてきた。大きな選択もせず、ただ兄貴が望むままの自分でいたのは、偽りの家族である兄貴が離れることが怖いと無意識に知っていたからだ。
既に笹塚によって賽は投げられた。
知ってしまったからには自分で選択しなければならない。それでも兄貴の傍にいるのか、兄貴から離れるのか。
「兄貴が私にそういう感情を持ってるって聞いて、結構ショックだった。血が繋がってないから気持ち悪いとまでは思わなかったけど、嫌だなとは思った。だって、兄貴がそういう気持ちを持てるってことは、血の繋がりがないって証拠みたいだしね」
二つに一つしかない選択肢。笹塚にはもう皐月がどういう選択をするのか分かっていたのかもしれない。
「どうすればいいんだろうね、これから……」
先を考えなければいけない。そう思うのに自分の未来を描けない自分が情けない。別に今が幸せだったら、なんて思ったことは無かった。でも、兄貴の言う通りにすれば間違いないと思っていたことにまで気づいて溜息をつくしかない。
笹塚はどうにかすると言ったけど、さすがに兄妹揃って世話になる訳にもいかない。いくら何でもそれくらいの分別はつく。本来であれば兄貴のことだって、自分が気づかないといけないことだったと思う。
「だったらうちに来ればいいじゃん! そうだよ、一緒に住もうよ!」
唐突とも言える佐緒里の声に驚きそちらに顔を向ければ、何故か泣きそうな顔をした佐緒里と視線が重なる。
その泣きそうな顔と本気らしいその視線に、本当に心配されていることが分かる。でも、現実はそう簡単な問題でもない。
「気持ちは嬉しいけど、でも、今住んでる場所は佐緒里の両親が出してるでしょ。そういう訳にはいかないよ。それに大学のことも考えないと。もし兄貴と離れることになれば、金銭面だけ頼る真似もできないし」
「馬鹿、そこは頼っておけよ。出世払いでも何でもいいから」
「でもさ、結局他人だよ? 本当にそこに甘えていいと思う?」
「だったら原因であるあいつに言えばいいだろ」
「あいつってまさか」
「笹塚に決まってるだろ」
思わず言い出した健吾を唖然と見てしまえば、さすがに無茶があると分かっているのか健吾はフイと視線を逸らしてしまう。
「……無茶なこと言わないでよ」
溜息混じりにそれだけ言えば、健吾はばつが悪いらしく「悪い」と小さく謝ってくる。
そのまま誰もが黙り込み、皐月としてもどうしていいのか分からない。ただ自分でこれからを考えなくてはいけないことだけは分かる。今までのように、何かあれば兄貴に泣きつくことはもうできない。
それは不安でもあり寂しくもあり、悲しさもあった。
「色々と考えてみる。今日は笹塚さんに言われた通りここに泊まらせて貰うことにする」
「だったらあたしもここに泊まる」
「お前らあっちで寝ろよ。俺、そこのソファで寝るから」
「……一応、他人様の家なんだけど」
「知るかよ。あいつがそうしてもいいって言ったんだから構わないだろ。それよりも飯でも買い出しに行くぞ」
椅子から健吾が立ち上がり、続いて佐緒里も立ち上がる。そんな二人を唖然と見上げていたけど、二人の視線が優しいもので心配されていることが分かる。
「私、二人に甘えてる気がする」
「別にいいんじゃねぇの」
「それ言ったら、私なんか皐月に甘えまくりじゃん。でも、友達ってそんなもんじゃない? 持ちつ持たれつ」
「佐緒里の場合、持たれつ持たれつだろ」
「何よ、あたしにはそれしかないみたいじゃない」
「そう言ってるんだよ。この甘え上手」
「何かもの凄く悔しいんだけど」
「知るか」
気軽な応酬を見ていたら何だか深刻だったにも関わらず笑えてしまう。そんな自分に少しだけ驚いて、そして二人に感謝した。
その夜は結局二人とも泊まり込み色々な話しをした。色々と考えなければいけないと思いつつ、現実逃避のように笑った。そして疲れて眠った時には三時を過ぎていた気がする。
だから翌日、朝九時にチャイムが鳴った時、皐月は気づくことができなかった。
漂うコーヒーとトーストの香りに目覚めた時、セミダブルベッドで隣に佐緒里が眠り、床では壁に寄りかかったまま眠る健吾がいた。
寝起きの働かない頭で皐月がリビングに顔を出せば、頬に大きなガーゼを貼った笹塚がいて現状理解が追いつかない。
「おはよう」
「お……はようございます」
どうにか返事をしたものの、どうしてここに笹塚がいるのか理解できない。
「朝ご飯できたから、二人を起こしてきてくれる」
「……はぁ」
何とも間抜けな返事をしつつ、出てきたばかりの寝室に戻ると慌てて二人を叩き起こした。
「もっと寝かせてよ……寝たの遅かったし」
二人ともやっぱり寝たのが遅かったこともあり、反応はかなり鈍い。けれども、皐月の「笹塚さんが来てる」という言葉で覚醒した。
「ちょっと、何でこんな朝早く」
「早くっても九時だから、そこまで早い時間でもないな。つか、何であの人いるんだよ」
「分からない。ただ、朝食作ったから起こしてきてって言われて」
途端に困惑気味に三人で交互に目配せをしたけど、その誰もが笹塚が来た理由など知る筈もない。
「とにかく行くしかないだろうな」
立ち直りが早かったのは健吾だ。すぐに床から立ち上がると大きく伸びをしてから部屋を出て行ってしまう。皐月は残された佐緒里と目を合わせて、お互いに肩を竦める。
実際、笹塚が何を考えているのかなんて分からない。ただいつまでもここに籠もっていても仕方ないことだけは分かる。
佐緒里と共にリビングに出れば、やっぱり笑みを浮かべて挨拶をしてきて佐緒里は困惑しながらも挨拶を返す。そして二人で洗面所へ向かえば、既に顔を洗い終えた健吾がそこにいた。
「そこのタオル勝手に使っていいってさ」
それだけ言い残し健吾は洗面所を出て行ってしまい、二人で交代しながら顔を洗い終えてリビングに戻る。既に作業台の上にはコーヒーとサラダ、そしてトーストという簡単な食事が用意されていて、空いた席に佐緒里と共に座る。
笹塚はすでに食べてきたらしく、コーヒーしか用意していない。笹塚が作ってくれた手前、いただきますという声を掛けながら食事を始めたけれども、奇妙な空気がそこには漂っていた。
そんな中で口を開いたのは笹塚だった。
「皐月ちゃん、最初の約束通りオークション勝負しようか」
唐突とも言えるその申し出に皐月はサラダにフォークを伸ばした手を止める。笹塚を見たけど感情は全て笑顔に隠されてしまって窺い知ることはできない。
「あの……いつ」
「今日から三日で仕上げて、三日間で勝負。どう?」
「どうって言われても……そういう場合じゃない気がするんですけど……」
「逆に今じゃないと困るかな。春樹からは一週間しか時間が貰えなかったから」
その名前に昨日の会話を思い出して、一瞬にして胃が重くなった気がする。忘れていたつもりじゃなかったけど、笹塚に兄貴の名前を出されると逃げ出したい気分になる。
「あの、私は」
「色々考えたことは分かるよ。でも、その先まで考える余裕は無かったでしょ。俺は言ったでしょ、どうにかするって。でも、そのどうにかするに当たって勝負が先だと思ったんだ。正直、皐月ちゃんをどうするべきか現段階で俺自身も迷っている状態でね」
「私は兄貴と」
「うん、一応結論も分かってるつもり。三日間とはいえ島崎の元で皐月ちゃんも色々学んだ筈だ。その実力次第でどうするべきか考えているから」
「それだったら、笹塚さんに作った物を見せるだけでも」
「それじゃあ意味がない。俺の目だけじゃ意味がないから、オークション出品者に値段をつけて貰おうと思ってるんだよ。どういうデザインをしたら万人の目を惹けるのか、それを考えてデザインを考えて作り上げるんだよ。どうする? やらないならやらないなりの選択を俺もさせて貰うけど」
正直いってオークション用のデザインは既に幾つか考えてある。ただ、布類については自分の部屋にあってここにはない。
「あの、もしやるとしても布が」
「あぁ、春樹とは話しをつけたから部屋に戻っても大丈夫……いや、できたら皐月ちゃんのお友達、どちらかが一緒にいてくれたら助かるかな。もし春樹が血迷って皐月ちゃんの部屋に行くことがあれば連絡は欲しいし」
「それなら俺が」
「あたしも」
「そう。ならそうして貰える?」
「それは構わないんですけど……あの、余りにも唐突すぎませんか? 確かに話からしてオークション勝負する予定だったのは分かるんですけど、何もこんな時じゃなくても」
皐月の気持ちを代弁するように言ってくれたのは佐緒里だった。実際、佐緒里も困惑げでどうしてこのタイミングで笹塚が言い出したのか余り理解できなかったらしい。
「だから言ったでしょ。端的に言えば皐月ちゃんの身の振り方を決めるって」
「オークション勝負でですか? 普通じゃありませんよ」
「そうだね、普通じゃないよね。でも、他人の面倒を見ようと思う時点で普通じゃないんだから、これくらいの勝負はして貰わないとこっちも困るかな。勝てば大学費用は俺が持っても構わないし、負けたら大学辞めてうちで働いて貰うつもりだし」
「笹塚さん、私、笹塚さんに大学費用を持って貰う訳には」
「勿論、ただで持つとは言ってない。言ったよね、皐月ちゃんに興味があるのはビジネス的な意味だって。それは今でも変わらないし、その方向で皐月ちゃんが使えるなら先行投資という形で大学費用は出しても構わないと思ってる。それくらいの蓄えは充分にあるし」
確かに高級ブランドアネーロのトップデザイナーならそれくらいの蓄えはあるに違いない。でも、ここまで他人に頼るような真似をしていいのか自分でも分からない。
「追い詰めるようで悪いけど、皐月ちゃんには選択肢が三つ。勝負をするか、しないか、辞退するか、これ以外にはないよ。どうする?」
笹塚は勝負しろと言う。でも単純なオークション勝負ではなく、自分の人生を掛けて勝負しろと言われている気がする。笹塚はただで大学費用は持たないと言った。だとすれば、それなりに何かしら付随してくるに違いない。
先のことは分からないけど、今分かることはある。大学は楽しい、辞めたくないという気持ちだ。だったら皐月の選択肢は一つしかない。
正面に座る笹塚に視線を向ければ、皐月が何か言うよりも先に笹塚は笑みを深くした。