Chapter.III:終わりの始まり Act.01

目が覚めた時、日差しの眩しさに瞼が重くて目を擦るとようやく自室に戻っていたことに気づく。ベッドの上で大きく伸びをすれば頭も覚醒してきた。

昨日から着ていた服を脱ぎ捨てるとシャワーを浴びてすっきりする。部屋着を身につけるといつものようにシリアルを食べてようとして冷蔵庫を開けたところで手が止まる。

そこには昨日笹塚が用意してくれた弁当が鎮座していた。昨日は食べる余裕もなく、とりあえず冷蔵に入れて、そのままベッドで気を失うようにして眠りに落ちた。

弁当を手にしてテーブルに戻ると、弁当の包みを剥がす。その内に覚醒した頭がようやく昨日のことを思い出し顔を皐月は一人顔を顰めた。

考えろと言われた。いや、前から言われていた。ただ、怒濤の日々で考える暇もなく放置していた問題が今になって大問題になったということだ。

何故、兄が自分に甘いのか————。

普通に考えれば兄弟だし、当たり前のことだと思っていた。でも、笹塚と健吾の意見は別らしい。

なら、相手に優しくしたいと思う時はどんな時だろう。家族であれば無条件に優しくなれる気がする。

いや、でも皐月は兄にとって優しい存在だったかというと、そんなことは全くない。むしろ可愛げのない手の掛かる妹だったに違いない。

もし一ヶ月前の自分だったらこんなことは考えなかったに違いない。でも、それに気づいたのは笹塚を始め、島崎に指導して貰って他人と触れる機会があったからだ。

今だからこそ、兄貴だけじゃなくて健吾や佐緒里も随分と甘やかしてくれていたのだと分かる。人と話すことが苦手だと避けていたけど、社会に出れば避けていられる問題じゃない。

兄貴は物心ついた頃から優しい兄貴だった。友達と遊ぶのにも皐月を連れて周り、決して馴染もうとしない皐月を置いていくことはしなかった。

そんな兄貴に自分は甘えてばかりで……でも、いつからか反抗心が芽生えた。それがいつなのか思い出せない。

そういれば、あれはいつからだっただろう。高校の時にはまだ無かった気がする。いや、そんなことはない。確か予備校に通い出してからだった気がする。

あの頃から兄が溺愛傾向にあるのだと、健吾や佐緒里と付き合うようになって知った。それまでは友達らしい友達もいなかったから、それが普通だと思っていた。

あれからうざったくなって、結局大学入学時に一緒に住もうと言った兄貴にきっぱり嫌だと伝えた。

そういえば、あれだけベッタベタだった兄貴がスキンシップを図らなくなったのはいつからだっただろう。考えてみてもよく思い出せない。

何も変わらないと思っていた。でも、実際には色々変化して、その変化に気づこうともしなかった。

一体、兄貴はどう変化したのだろう。そして自分は……。

思考を遮るように呼び鈴がなり、すっかり弁当を食べていた筈の箸が止まっていたことに気づく。食べかけ途中のまま玄関の扉を開ければ、そこに立っていたのは健吾と佐緒里だった。

「入るぞ」

健吾の言葉に部屋へ招き入れると、二人はソファに座り込んだ。不機嫌な健吾と心配そうな佐緒里に何を言えばいいのか分からない。

「俺はフェアじゃないことが嫌いだから言っとく。色々思うことはあるけど、笹塚さんに俺の考えを言うことを口止めされた。だから、俺は何も言わない。ただし、佐緒里は口止めされた訳じゃない。思うことがあるなら、佐緒里と相談しろ」
「ずっとこういう状態で不機嫌なんだよねぇ。それで、一体何を悩んでるって?」

自分で考えろと言われた。だから、こういうことはそれこそフェアじゃない気がして、困惑した顔のまま健吾を見てしまう。

「いいから相談しろ。お前じゃ一生答えに辿り着かない。それは笹塚さんにも分かってる筈だ。佐緒里を連れてくることにはあの人も反論しなかったからな」

珍しく健吾が揚げ足取りのようなことをしている気がする。でも、それだけ難しい問題なのかと思うと気が重い。

「……知らないといけないことだと思う?」
「あぁ、絶対に知っておいた方がいい。色々な意味で」

それきり健吾は口を噤んでしまって、ちょっと途方に暮れたい気分になる。その間に佐緒里は勝手知ったる様子でポットでコーヒーを用意してテーブルの上に置いた。

「とにかく、皐月が色々と考えないといけないことがあるのは分かった。でも、まず先にその食べかけの弁当食べなさい。それから話しは聞くから」

佐緒里に促されて、渋々箸を手に持つもけどこれからのことを考えると胸がいっぱいで食欲はない。それでも、美味しいだろう弁当を無理矢理詰め込んで食事を終えると、佐緒里の淹れてくれたコーヒーで一息ついた。

「……どこから話したらいいか分からない」
「それじゃあ、皐月は何を考えていたかだけ教えて」
「兄貴のこと」
「あぁ、あの生真面目なお兄さんね」

それから皐月が分かる範囲で昨日起きたことをとにかく少しでも漏らさないように佐緒里に伝える。ただ、余りにも必死にすぎたのかもしれない。

「分かった。とりあえず皐月は一旦落ち着こう。そんないっぺんに全部言わなくてもいいから。はい、深呼吸」

言われるままに何回か深呼吸を繰り返すと、少しずつ落ち着いてきた。隣に座った佐緒里は背中を軽く二度叩くと、いつもと変わらない可愛い笑みを浮かべた。

「焦らなくても大丈夫。きちんと聞くよ」
「あ……ごめん。凄く焦ってたみたい。兄貴が怒ったとか初めてで動揺してたかも」
「まぁ、話聞いてる限り溺愛だもんね。状況は分かった。それで健吾が文句言われた理由は何だと思う?」
「ここ数日遅くまで帰って来なかったから一緒にいたと思ってた健吾に怒ったんだと思う」
「心情は正しいと思う。でも、それを不思議に思ってない皐月が不思議」
「……え?」

佐緒里が言いたいことが分からず首を傾げると、佐緒里も同じように軽く首を傾げた。

「もう私たち大学生だよ。普通に恋人の一人や二人いてもおかしくないでしょ」
「いや、私は無理」
「だから皐月に実際いるかいないか、って話しじゃなくて大学生全体としての話し」

確かに学内でも誰と誰が付き合ってる云々という話しは聞こえる。もっぱら噂の入手先は佐緒里だったけど、全く知らない訳でもない。皐月自身だって学内でキスする学生を見掛けたことだってある。

「別に恋人いてもおかしくない年なのに、何で兄貴ごときがそんなに怒るのかよく分からない」
「ただ心配して」
「うん、その心配そのものがちょっといきすぎ。親が娘を心配するのは分かるし、親代わりの皐月のお兄さんが皐月を心配するのは確かに分かるけど……何て言うか遣り過ぎな気がする」
「そうかな」
「じゃあ、今後結婚する時とか考えてみてよ。お兄さん、どういう反応すると思う?」
「……泣きつかれる、かなぁ。健吾と佐緒里が友達になった時にも、紹介してよー、みたいな反応だったし」

友達を紹介して欲しいと言ってた時みたいに、甘えたような口調で結婚なんて止めようとか言いそうな気がする。

「馬鹿ね、友達と結婚じゃ話す世界が違うでしょ。でも、あのお兄さんがねぇ。ちょっと信じがたいものがあるわね。人間、見た目に騙されるなという好例かもしれない」
「そんなに印象違う?」
「まるっきり。最初お兄さんに会った時なんかあんな怖そうなお兄さんで、皐月って可哀相とか思ったくらいだし」

可哀相と思われるくらい怖い兄というのはどうなんだろう。ただ、高校当時の担任ですら兄貴は迫力あって云々と言っていたから、佐緒里の評価は多くの人の評価に違いない。

「それにしても、お兄さん、よっぽど皐月のことが好きなのねぇ」

笑いながら呆れ含みに言った佐緒里だったけど、ふとその表情を真剣なものに変える。そして健吾をチラリと見た佐緒里は、改めて皐月へと向き直る。その時にはもう真剣な目になっていた。

「ねぇ、お兄さんって……皐月のことが好きなんじゃないの?」
「家族だし当たり前でしょ」
「だから好きの意味が違うって言ってるの。親愛とか家族愛とかじゃなくて愛情。分かる? 恋人になりたい愛情」
「……佐緒里、私たち兄妹なんだけど」
「そんなの分かってる。でも、溺愛にしてはいきすぎてる気はしてた。実際、健吾とそんな話しをしたことだってあるし……でも、そう考えると皐月のお兄さんの行動理由がもの凄く分かる」
「まさか……だって兄貴だよ?」

ありえない、それはありえないと頭の中で否定が渦巻く。喉がカラカラに渇いて、それを癒すために飲み干したコーヒーは酷く苦い。

「でも、おかしいよ。幾らお兄さんでも皐月は皐月で世話焼かれて当たり前みたいに思ってるし夜には電話で在宅確認って、色々とありえない。しかも、妹の友達を紹介してって本当にありえない。うちの兄貴がそんなこと言ったらキモッとか言っちゃうレベル」

普通の兄妹はそういうものなのだろうか。確かに溺愛気味だとは思っていたからおかしい気はしていた。でも————あぁ、だから健吾は想像がつかないと思ったのかもしれない。

「健吾も同じ結論だった?」
「……あぁ。恐らく笹塚さんもだ」
「だとしたら、多分、佐緒里の意見が正しいんだろうね」
「それは違うだろ。他人の意見だから正しいとかじゃなくて、皐月は皐月で考えないといけないんじゃないのか。何か笹塚さんが俺に言うなって口止めした理由が分かった」

苦々しげな顔をした健吾が自分を見ている。冗談とか言い合っていた時とは違うその表情に困惑する。

「皐月は他人の意見に流されてばかりだ。大多数の意見だったら、それが例え間違えていたとしても受け入れる。自分の考えがまるでない」
「別に私だって考えてる」
「違う、考えたのは佐緒里であって皐月じゃない。皐月は気づかせて貰ったって立場であって考えた訳じゃない。……悪い、俺帰るわ」

ソファから立ち上がった健吾は佐緒里に「後は頼む」と伝えて本当に家から出て行ってしまう。多分、怒っていたと思う。一度向けた背中が振り返ることが無かったから。

「怒られるほど考え無しかな……」

ポツリと呟けば、佐緒里が軽く背中を撫でてくれる。慰めのような優しさに少しだけホッとする。

「多分ね、あれは自分に怒ってるんだと思うよ」
「何で?」
「余計なことをしたと思ってるんじゃないかな。確かに皐月って自分の意見を通すことしないし、流されるままって感じだったもんね。確かにデザインに関しては絶対に引いたりしないけど、それ以外についてはいつも私と健吾の言うままだったし。でも、そんな皐月に甘えてた自分を知って腹が立つっていうか……うん、私も同じ気持ちだから分かるんだけどね」

佐緒里の言いたいことが分かるような分からないような、中途半端なモヤモヤ感があって何を言っていいのか分からない。

ただ笹塚に言われた「色々と考えた方がいい」という言葉が頭をグルグルと回る。

「これから皐月にとってはきついこと言うよ、いい?」

確認されて一つ頷けば、隣に座っていた佐緒里は一度立ち上がる。それから皐月の目の前に膝を突くとしっかりと視線を合わせてきた。

「皐月はねお膳立てされてそこにいるのが普通になってるの。お兄さんのこともそうだけど、私や健吾も人見知りする皐月を妹みたいな感覚で見てた。だから皐月を甘やかしていた部分は多いと思う。でも、それじゃあダメなんだと思う。このままだと皐月は人に言われるままに動くことしかできなくなる」
「別に何も考えてない訳じゃ」
「それなら皐月は自分で考えて行動したことある? 高校受験は? 大学受験は? 希望職種は? 友達は?」

勢いよく佐緒里に言われて一つずつ考えてみるけど、そのどれもが自分で考えたものじゃないことに愕然とした。

高校受験は親に勧められて入学を決めた。大学受験は兄貴に言われて入学を決めた。希望職種も兄貴が安定しているからという理由で決めていた。

友達も健吾と佐緒里が話し掛けてくれたから友達になれただけで、自分から努力して近づこうとしたことは一度だってない。

別に一人が好きだから友達なんてどうでもいいと思っていた。それなのに健吾と佐緒里という友達ができてそれを楽しいと思っている。一人が好きな訳じゃなくて、嫌いじゃないというだけ。友達といた方が楽しいけど、でもそれすら自分から誘いかけたことは一度もない。

「私、皐月から出掛けようって誘われたこと一度もないよ。美術館巡りは既に恒例行事だからあれは抜きにしても、一度だってないの……それは凄く寂しい気がする。皐月を振り回しているのは私と健吾だけで、皐月から振り回されたことは一度もない」

縋るような目を向けられて身体中が固まる。誰かに合わせるのは楽で、否定されるよりも肯定される方ら楽だからずっとそうしてきた。何よりも健吾と佐緒里に嫌われたくなかった。

「もっと言いたいこと言ってよ。じゃないと私も身動き取れない」
「……佐緒里?」
「私だって」

まるで佐緒里の言葉を遮るように携帯が鳴り始め、佐緒里と目を合わせる。そのまま放っておく訳にもいかず、佐緒里の言葉が気になりながらも携帯を手にする。表示されている名前は笹塚だった。

「もしもし」
「笹塚だけど、今すぐ泊まり込みできるような荷物用意して」
「泊まり、ですか?」
「いいからすぐ、五分後にそこに到着する。合流したら説明するから。とにかくすぐに出られるようにしておいて」

それだけ言うと笹塚からの電話は切れてしまう。何がどうなってそうなったのか、訳が分からない。

「皐月、電話何だって?」
「よく分からない。笹塚さんからだったんだけど、泊まれる用意しておけって。五分後には到着するから出られるようにって」
「理由は?」
「合流してから話すって……何か慌ててるみたいで……」
「分かった。とにかく皐月は三日分くらい荷物纏める。それで、笹塚さんとやらの話しは私も一緒に聞くから。多分、緊急事態なんだと思うよ、お兄さん絡みで」

兄貴がらみだとしても何がどうあって緊急事態に陥るのかよく分からない。

「いいから皐月は早く荷物を纏める」

それだけ言うと佐緒里は誰かに電話を掛け始めてしまい、慌ててクローゼットの中から旅行鞄を取り出すと着替えを詰めていく。

こういう時に物事の予想がつかない、想像できないというのはやっぱり考えることを放棄してきたからなのかもしれない。実際、佐緒里は何か分かっているような感じだった。

でも電話がきたことで佐緒里が言おうとしていたことが何だったのか、それを聞き逃したことだけは気になる。後で確認だけはしておこう、そう思いながら荷物を詰めたところで玄関チャイムが鳴る。

まだ荷物が纏めきらない皐月に変わって佐緒里が出てくれたけど、来たのは笹塚ではなく健吾だった。

玄関先で何か話している様子だったけど、部屋に入ってきた健吾はすぐに声を掛けてきた。

「荷物纏めたか」
「終わった」

鞄のチャックを閉めると、すぐに健吾の腕が伸びてきて荷物を肩に掛ける。スポーツバッグタイプの鞄は自分には大きいのに、健吾が持つと余り大きさを感じない。

「とにかく家の外に出るぞ」

健吾と佐緒里に急かされるまま家の外に出ると、すぐに近くの公園へと移動する。それから健吾は皐月の携帯から笹塚に連絡を入れると、余り待つことなく笹塚は公園へと現れた。

「とにかく全員乗って、説明は後でするから」

それだけで笹塚が酷く急いでいることが分かり、三人して慌てて車に乗り込むとすぐに笹塚は車を走らせる。

口を開く前に笹塚へと視線を向ければ、左頬が派手に腫れていてギョッとした。

「笹塚さん、顔が」
「春樹に殴られた。説得に失敗して不味い方向にスイッチ入れちゃったみたいでね。とりあえず俺の家に行くから春樹が落ち着くまで皐月ちゃんはそこに泊まっていてくれないかな。俺は仕事場の方に泊まるし、もし心配なら後ろの二人も一緒に泊まって構わないよ」

「兄貴が殴るって……一体何を言ったんですか」
「ちょっと健吾くんの気持ちが分かっちゃったかもしれない。うん、あれは凄い。確かに売り言葉に買い言葉になる」

振り返り後部座席に座る健吾に視線を向ければ、苦々しげな顔をした健吾と視線が合った。

「笹塚さんが色々説明してくれると思うから、話しをきちんと聞いておけ」
「それは分かってるけど……」
「それで皐月ちゃんの宿題は終わったのかな? まあ、お友達まで巻き込んだんだから終わらない訳ないだろうけど」

ああ、笑顔だけど笹塚の言葉がチクチクと刺さるのは気のせいじゃないと思う。すっかり見透かされていると思いつつも「はい」と短く返事をした。

「どうして春樹がそうなったのかは?」
「そこまでは……ただ、一つ原因は分かります。多分、兄貴が変わったのって両親が亡くなってからだった気が」
「それを気づけたなら少しは成長してるんじゃないかな。五ミリくらいだけど」
「もの凄く棘があります」
「それはそうでしょう。君ら兄妹に俺はやらかして頂いている立場なのでね」

それを言われてしまうと皐月としては言葉に詰まる。笹塚はビジネスだと言ったけど皐月が迷惑掛けてるのは確かだし、笹塚を殴った兄のことを考えればやっぱり迷惑を掛けてる。

謝罪するために口を開き掛けたところで、隣から笹塚の言葉が遮るように耳に届く。

「冗談だよ。春樹の説得に失敗したのは自分のミスだし、皐月ちゃんに声を掛けたのは自分の興味からだ。だから皐月ちゃんが謝る必要はない。むしろ事態を悪化させて悪かったと思ってる」
「でも」

「今回こんなことになったのは全面的に俺が悪いから、皐月ちゃんが気にする必要はないよ。春樹はね、皐月ちゃんが思っているよりもずっと寂しがりやなんだよ。だから恋愛と家族愛がごっちゃになってる。元々そういう気質はあって気にはなっていたし、友達として何かをしてやりたかった。まぁ、最悪の形になっちゃったけど」

肩を竦めて見せる笹塚の口元には笑みが浮かんでいる。でもいつもに比べたら穏やかな笑みは寂しそうなものに見える。

それは先ほど佐緒里が見せた顔と少しだけ重なって見えた。

「とにかく家についたら説明するから」

それだけ言うと笹塚は黙り込んでしまい車内に沈黙が落ちる。家についたらと言われた以上、皐月としても何も言えないまま窓の外へ視線を向ける。

ぼんやり景色を眺めながら、何かが崩れていく音だけが頭の片隅に響いていた。

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