Chapter.II:はじめの一歩 Act.05

まさにこの三日間、本当に怒濤の三日間だったと思う。島崎に縫製のイロハを教えて貰い、笹塚の送り迎えつき。島崎は厳しかったけれども、手抜きするようなこともせずにきっちり、といよりもぎっちりと教えてくれた。そして、笹塚は少しだけ自分に対する当たりが柔らかくなった気がする。

「さてと、今日は何を食べたい?」
「……食べられたら何でも」

半分虚ろな状態で笹塚の声に応えたのは、本当にこの三日間が濃密だったからだ。縫製について島崎から教えて貰い、家に戻ってから教えて貰ったことの復習をする。そんな生活を続けていたために、一日の睡眠時間は三時間を切っていた。こんな生活は間違いなく三日が限度だったに違いない。

今日も島崎に色々なことを教わり、勿論、それは一言も逃すまいと聞き漏らしなどないように注意した。本来の仕事とは離れて手間暇掛けて教わっているのだから、聞き流すような真似はできない。何よりも教わる内容も楽しかったし、苦手な部分はしっかりと指摘された。

それでも、人間には限界というものがあって、最後に「これで終わりにしましょう」という言葉を聞いた途端、集中力がフツリと切れて意識が白くなりかけた。でも、極限まで集中した頭は酷くフワフワと気持ちがよく、眠りに攫われかける。

「そんな無防備に男の車で寝ていたらキスくらいされても文句は言えないよ」

ぼんやりした頭でへー、そうなんだぁ、なんて考えていたけれども、その内容を理解して慌てて眠かった目を開けた。

「ね、寝てません!」

少し上擦った声で答えれば、運転席では笹塚が面白そうに小さく声を立てて笑っている。からかわれていることに気付いて面白く無い気分になったけど、本気で笹塚がそういうことをするとは思えなかった。少なくとも、笹塚には好意が無いと言っていたし、自分たちの間にいる兄を思えば迂闊にそんなことをする筈もない。

「そういえば、笹塚さんと兄っていつからの友人なんですか?」
「中学から大学まで一緒だったけど、そうだねぇ、友達になったのは高校二年の時かな。初めてクラスが一緒になってね」
「どんなきっかけだったんですか?」

その問い掛けに笹塚はいつものように表情を変えることなく短く答えた。

「秘密」

意地は結構悪い人だと思う。けれども、嘘はつかないし、はぐらかすようなこともしない。それなら、恐らく自分には言えない、もしくは言いたくないことなのかもしれない。

「ならいいです」
「気にならないの?」
「気にはなりますけど、言いたくないから言わないんでしょうし」
「いじり甲斐がないねぇ。こういう時は突っ込んで聞いてくるものじゃないの? 兄のことだし」

何だか気遣いすら無にする腹立たしさはあるけど、笹塚がこういう人だということは分かってる。だからからかうような言葉に安易に乗せられたりはしない。

「兄ではありますけど、笹塚さんのことでもありますから」
「ふーん」

それきり黙ってしまい、からかい甲斐が無いとか思われているのかもしれない。また笑っているかもしれないと思いながら横目で盗み見れば、笹塚は確かに笑っていた。けれども、どこか困ったようなそんな雰囲気にも見える。少なくとも、いつも浮かべている誰に対しても浮かべている笑みとは違う。

「あの、こういうこと本人に聞くのもどうかと思うんですけど、どうして急に当たりが柔らかくなったんですか?」

問い掛けた途端、おや、気付いたの、と言わんばかりの視線をちらりと投げてきた笹塚は、小さく溜息をついた。

「島崎の言うことももっともかと思ってね」
「島崎さんですか?」
「言ってたでしょ? 年下の女の子には優しくって。俺はね、女性とか男性とか考えたことないし、相手の年齢で仕事を区別したことは一度もないんだ。だから、つい仕事相手と同じような感じで皐月ちゃんにも接していたけど、実際、皐月ちゃんはまだ未成年で、しかも、俺が現れるまでファッションデザインなんて興味が無かったでしょ。確かに大人げないかな、と思ってね」

正直、言えば笹塚がそんなことを考えていることに驚いた。いや、正確に言えばそういうことを考える人なんだとういことに驚いた。誰に対しても容赦なくて厳しくて、でも、自分に対しても厳しい人なのは島崎から聞いているから今は知っている。最初から、甘えは許さない、と言わんばかりの人だっただけに、こうして甘い顔をされるのは信じられない。

「意外だと思ってるんでしょ」
「あ、いえ」
「全部顔に出てるよ。驚きましたって」

慌てて顔を押さえてみるけど、鏡がある訳でもないから自分がどんな顔をしているのかよく分からない。その横で小さく声を立てて笑う笹塚は楽しそうで、色々と感情を読み取られて、恥ずかしいやら、悔しいやら、情けないやら、色々な感情が入り交じる。

「でも、俺を信用しちゃダメだよ。俺は皐月ちゃんが思っているよりも悪人だから」
「え?」

意地が悪い人だとは確かに思うけど、ただ、悪人かと言われると現時点で判断できない。ただ、いつもの笑みで運転する笹塚からは何も読み取れず、思わずそんな笹塚の横顔をジッと見つめてしまう。

「……悪人は自分で悪人て言わないと思うんですけど」
「あはは、悪人はね善人よりも善人らしい顔ができるものだよ」
「それなら、やっぱり笹塚さんは悪人という程ではない気がするんですけど」
「何気に失礼なこと言ってるねぇ」

笑いながら笹塚に言われて、ようやく自分の失言にきづく。これでは、笹塚が善人ではないと言ったようなもので、慌てて謝る皐月に笹塚は笑いながらも、気にする必要はないと言う。見る限りは怒った様子でもなく、皐月は内心溜息をつきながら窓の外へと視線を向けた。

何だか笹塚と話していると、いつでも煙に巻かれているような気がする。落としどころがない会話というか、つかみ所のない会話というか、とにかく予想しない方向に話が進んでいつも困惑する。言葉は確かにストレートだけど、どこか捻れを感じさせるような会話で、言葉に詰まることも多い。わざと返答しづらい言葉を掛けてくるのは、意地悪なのか、性格なのか、短い期間での付き合いではよく分からない。

そのまま車内には会話もなく、ラジオから流れてくるのは落ち着いたパーソナリティーの声で、それがまた眠気を誘う。気付けば、瞬き一回のつもりがそのまま眠ってしまっていたらしい。

「皐月ちゃん」

名前を呼ばれて目を開ければ、助手席の扉を開けた笹塚が覗き込んでいた。すっかり熟睡しきっていたこと、そして寝顔を見られた恥ずかしさに思わず顔を隠す。

「さ、笹塚さん!」
「このまま起きなかったらキスしようかと思っていたのに、残念」
「そういうことでからかわないで下さい!」
「皐月ちゃん」
「何ですか」
「よだれ垂れてるよ」

慌てて口元を指先で拭ったけれども、よだれなんて垂れていない。からかわれたんだと分かり外に立つ笹塚を睨み付けたけど、やっぱりいつものように笑っている。それが本当に腹立たしいけど、開けられた扉から素直に外に出た。てっきりファミレスかと思っていたけれども、そこは見慣れた自宅前だった。

「あれ?」
「よく寝てたからね。はい、これ」

差し出されたビニール袋の中には、しっかりとお弁当が入っていた。でも、その中身が皐月が買うような安いお弁当ではないことが入れ物からも分かる。

「あのこれ」
「本当はお店で食べようかと思ったんだけど、さすがに疲れ切ってるみたいだからね」

弁当を受け取ると、笹塚は後部座席から大きめの紙袋を二つ取り出した。中身はこの三日間で皐月が島崎から教えて貰ったことの成果であり、失敗作でもあった。布ばかり入った重い紙袋を何でもない様子で笹塚は持つと、そのまま車の鍵を閉めてしまう。

「自分で持って行くから大丈夫です」
「女の子相手だし優しくしないとね」

そう言って笑う顔がエセくさく、含みがありそうで警戒したくなる。

「悪人だって先、自分で言ってませんでしたか?」
「じゃあ、優しさ成分抜いておく?」
「……いえ、そのままにしておいて下さい。胃痛に悩まされそうなので」
「あはは、今に慣れるから」

果たして慣れるほど笹塚との付き合いは続くのだろうか。ワクワクとうんざりが混じりあい、奇妙な感覚を持て余しながらマンションの入り口に向かって歩き出す。そして、入り口に立つ人影に驚いた。

「健吾、どうしたの?」
「こんな時間まで何して……」

健吾の言葉が止まり視線が自分よりも後ろにある。そして言葉を途切れさせたかと思うと、一礼した。

「健吾くんだっけ? こんばんわ」
「こんばんわ。皐月、ちょっといいか」

どこか投げやりに笹塚へ挨拶した健吾は、いきなり皐月の腕を掴むなり笹塚から距離を取ってから声をボリュームを落とした。

「お前、こんな時間まで何やってんだよ」
「何って、洋裁について色々教えて貰ってたんだけど」
「こんな時間までか?」
「そうだけど」

途端に長い溜息をついた健吾は額に手を当てて空を仰ぎ見た。

「あのさ、皐月の兄貴には言えないのか? あの人のこと」
「何で兄貴?」
「五分前までいたんだよ、ここに。お前、俺をアリバイ工作に使っただろ」

呆れた顔をした健吾に言われて、ようやく今日どうやって兄の誘いを躱したのか思い出した。

「ごめん。もしかして兄貴に色々言われた?」
「まぁ、色々とな。ただ、ちょっと……」

そのまま言葉を濁した健吾は、少し離れた場所にいる笹塚に視線を向ける。同じように笹塚に視線を向ければ、いつものように穏やかに笑う笹塚がこちらを見ている。

「こういうこと言うのどうかと思うんだけど……皐月の兄貴、ちょっと過保護の域を通り越えてないか?」
「何言われたの?」
「あー……ちょっと売り言葉に買い言葉てきなこともあったんだけどな」

余程言いづらいのか、健吾は兄の言った言葉を素直に吐き出すことはしない。ただ、あちらこちらに視線を彷徨わせた後、やはり最後に笹塚へと視線を向ける。

「あのさ、あの人とは別に何でもないよな」
「何もってどういう意味?」
「その恋人とか好きとか、そういう意味」
「あるわけないでしょ。馬鹿言わないでよ」
「どうかしたの?」

掛けられた声に慌てて健吾と共に振り返れば、こちらに向かって笹塚が歩いてくる。すると横に立つ健吾は目に見えて落ち着かない様子を見せる。

「笹塚さん、ちょっと待ってて下さい。今は健吾と」
「いや、笹塚さんって皐月の兄貴の友達なんだろ? 聞いて貰っておいた方がいいかもしれない」

そのまま健吾は言葉を濁したあと、諦めたように空を仰ぐと改めて視線を向けてきた。その顔は後悔混じりの申し訳なさそうなもので、向けられた自分としては困惑するしかない。

「健吾?」
「最近、携帯に電話しても留守電だから皐月の家に来たら、丁度、皐月の兄貴が来て皐月をどうしたって食って掛かってきた。その時点で皐月がアリバイ工作に俺の名前出したのは分かったから、皐月は今買い物に行っていてこれから合流予定って言ったんだよ」
「そしたら?」

「胸倉掴まれて皐月に近づくなって。でも、別に俺が何かしたとかじゃないし、一方的すぎて腹立ったのもあって、恋愛は自由だろ、皐月と付き合ってるからって文句を言われる筋合いはないって。そしたら、もの凄い形相で睨まれて、突き飛ばされた。そのまま無言でお互いにここで睨み合いすること一時間」

「それで五分前に春樹は帰ったと」
「多分……でも、嘘ついたのはバレてると思う。買い物に一時間も掛かる筈ないし。でも、尋常じゃない怒り方だった。あれ、本当に兄貴か? 少なくとも、あれは……」
「分かった。俺から春樹には連絡しておくよ。実際、二人は付き合ってる訳じゃないんだろ? それもきちんと説明しておくから」

溜息とともに口を挟んだのは笹塚だった。けれども、それは意外に思える申し出でもあったし、そもそもの原因は自分だから笹塚に投げるには余りにも頼りすぎる気がする。しかも、兄と自分のことで手を煩わせるのは申し訳無い気がした。

「それなら私が自分でします」
「いいから。とりあえず、皐月ちゃんは春樹から連絡くるまで連絡来るまでしないように。いい? これは皐月ちゃんのためじゃなくて、春樹のために言ってる」

そこまで言われてしまうと、口を挟むことができない。渋々ながらも頷けば笹塚は健吾に視線を向けた。

「健吾くんも、今日は遅い時間だから帰た方がいい。少なくとも、これから飲んで騒ぐという気分でもないだろ? それに、皐月ちゃんは色々と考えないといけない。どうして春樹がそういう行動に出たのか。どうして、こんな状況になっているのか。言ったよね、皐月ちゃんは色々と考えないといけないって」

突き放すような冷たい口調に笹塚を見上げれば、口元には笑みが浮かんでいるけど、その視線は最初の時のように冷たいものだった。

「笹塚さんはこれから」
「俺? 俺もこれを皐月ちゃんの家に運んだら帰るよ。春樹と連絡取らないといけないしね」

穏やかな笑みだけど、どこかちぐはぐさを感じる冷たい声は少し薄ら寒い。笹塚に声を掛けた健吾ですら、それは感じているらしく珍しく喰って掛かるようなこともしない。口元に笑みを浮かべながら、笹塚の目が細められどこか楽しげに健吾を見ると、喉元で笑う。

「健吾くん、春樹を見たらしばらく逃げた方がいいよ。腕に自信があるのは結構だけど、相手が猫なのか虎なのか見た目に騙されずきちんと見据えた方がいい。君はここで帰った方がいい」
「でも、皐月の兄貴って」

何かを言いかけた健吾に対して、笹塚は自分の唇に人差し指を立てた。途端に健吾は言葉を途中で呑み込んでしまい、そのまま視線を自分へと向けてくる。どこか困ったような顔をした健吾だったけれども、溜息を一つ吐き出すと皐月の頭に手を乗せるとどこか乱暴にぐしゃりと撫でた。

「な、何?」
「まぁ、色々と頑張れ。とりあえず、明日、改めて昼過ぎに佐緒里と来る」
「分かった。色々とごめん」
「いや、少し驚いただけだ。じゃあ」

それだけ言うと健吾は帰ってしまい、笹塚も荷物を皐月の部屋まで運ぶと、それ以上無駄口を叩くことなく帰って行った。そして、部屋に取り残された皐月は部屋の電気をつけると、リビングに置いたあるソファに寝転がった。

笹塚は考えろと言った。そして、健吾は何かを分かっている。ただ、一人皐月だけがどうして兄がそういう行動を起こしたのか分からない。ただ猫かわいがりしてるシスコン兄貴かと思っていたけど、笹塚曰く、それは違うという。

だったら、一体何なのか。考えなければならないと思うのに、疲れ切っていた身体は睡眠を欲し、目を閉じると同時に深い眠りに落ちてしまった。

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