Chapter.I:Presto Act.02

家に帰ると部屋の奥から顔を出したのは兄である壱哉だった。夕方と夜の境目、こんな時間に兄貴がいることは非常に珍しい。

「飯できてる」
「分かった」

両親のいないうちでは家事は分担制だ。それでも、仕事をしている兄貴に負担が大きいこともあり、掃除や洗濯などはできる限り悠がするようにしている。

無口で無愛想、しかも強面な兄貴は元々口数が少ない。それでもこうして料理を作って帰りを待っていてくれる日があると嬉しく思う。

玄関入ってすぐにある自分の部屋に鞄を置くと、手早く制服を着替えるとリビングに足を運んだ。リビングの扉を開く前から耳慣れた話し声が聞こえ、その声にうんざりした気分になる。

だからといって部屋に引き返す訳にもいかず、リビングの扉を開ければ笑顔全開の男が出迎えてくれた。勿論、全くもって嬉しくない。

「悠ちゃん、お邪魔してます」
「本当にお邪魔ですね」
「……冷たい」

イジイジとテーブルにのの字を書くふざけた男に蹴りを食らわせたくなるのはいつものことだ。お調子者で軽いこの男が、どうして兄貴と友達をしているのかよく分からない。

「あいにく今日の愛想は売り切れました」
「いつも売り切れじゃない。販売中だったら買うのに」

ぼけぼけとした笑顔を見せるその顔を殴りつけたくなるのは、既に兄貴を通じて長い付き合いになるからだ。

兄貴が警官になってから、初めて家に友達を連れてきたのは夏休み中だった。年の離れた兄貴は年中仏頂面で、そんな兄貴とずっと暮らしていたから笑顔の優しいこの男は悠にとって確かに新鮮で、不覚にも格好好いなどと思ったのは裏のドブ沼に捨て去りたい過去だ。

「日高、書類片付けろ」

兄貴の言葉に機嫌良く返事をした男は、テーブルに広がる書類を無造作に纏めて手近にある鞄の中へと片付ける。

恐らく、いつもの如く兄貴に何かしら意見でも貰いにきたに違いない。昔からこの構図は変わらない。いい加減迷惑だと兄貴も言えばいいのに、寡黙な兄貴はそれを口にしたことは一度も無い。

相変わらずヘラヘラと笑いながら書類を片付けている日高も見ているのも腹立たしい。だからこそキッチンに向かうと、兄貴の用意してくれた夕食をトレーで運ぶ。

リビングに戻れば、書類を片付けた日高がテーブルを布巾で拭いている。でも、まるで家に溶け込むような日高がまたムカつく。

両親が死んでリビングの丸テーブルには最初は椅子が二つしかなかった。でも、ある頃から三つに増え、それがそのまま日高専用の席になりつつある。それが何故か嫌だった。

何度か往復してテーブルの上に食事を並べると、最後に兄貴が味噌汁を運んできて三人とも席につく。いただきますの声で箸を持つと、それぞれが食事に取り掛かる。

こういう場で話しをするのはもっぱら日高で、兄貴はうんとかいやとか短く相づちをうつ。だからできるかぎり会話に混じらないようにしているのに、日高はやたらと声を掛けてくる。

「悠ちゃんは今日何か面白いことあった?」
「別にありま……」

言葉途中で止まったのは、日高が刑事課暴力犯係だと思い出したからだ。

「そういえば、友達の知り合いがヤクザに脅されたらしいんだけど轟木って知ってる?」

途端に日高だけでなく兄貴の箸も止まりお互いに顔を見合わせている。そして珍しく口を開いたのは兄貴の方だった。

「一般人を脅すような奴か、あれが」
「同姓同名だと思うけどねぇ。さすがにあの轟木ではないと思うよ」

予想以上の反応に驚いたのは悠の方だ。組長と呼ばれていたのだから、むしろ二人がいう轟木が正しい気がする。

「ヤクザに轟木って人がいるの?」
「……そういうことはお前は知らなくていい」

兄貴に正面切って言われてしまうと反抗しがたい。元々、兄貴には悠が暴れ回った尻ぬぐいを幾度となくさせていることもあり、どうしても頭が上がらない。

それに兄貴はこういうことに首を突っ込むことを極端に嫌がる。実際、警官になりたいという悠の進路についても反対こそていないが、賛成は絶対にしていない。

「まぁまぁ、壱哉もそんな頭越しに牽制するなって。その友達から轟木って人の人相とか聞いてない?」
「鋭い目つきで、黒髪オールバック。身長は百九十くらいで……あぁ、高そうなスーツ着てた。それで組長って……」

そこまで言ったところで、二人の視線がいつもとは違うことに気づく。そして、自分の失言に気づいて続く言葉はない。

「悠……」

多分、もしオーラが見えたら兄貴の背中から立ち上る炎のようなオーラが見えたに違いない。いつもより低い声で名前を呼ばれた瞬間、恐ろしさの余り首を竦めた。

「どういう理由で轟木と会った。今すぐ状況を説明しろ」

怒った兄貴相手に沈黙など守れる筈がない。基本的に兄貴は殴ったり叩いたりしたことは一度だってない。ただ、正座させられその目の前で沈黙するのみ。

そんなこと兄貴相手でなければ何とも思わないし、時間が勿体ないくらいに思うに違いない。でも兄貴相手だともの凄く緊張する。そして何よりもその沈黙が怖い。

ありのまま全てを隠すことなく説明すれば、相変わらず兄貴は黙ったまま睨んでくる。そして日高は力なく笑いがっくりと肩を落とした。

「貰ったっていうメモも出せ」

食事中にも関わらず慌てて席を立つと、制服のポケットに入れっぱなしになっていたメモを取り出し不機嫌丸出しの兄貴に差し出す。

「これどうだと思う」

そのまま横に座る日高に差し出し、日高はメモを見て肩を竦めた。

「さすがに携帯の番号までは把握してないよ。悠ちゃん、轟木は暴力団の組長だ。できる限り一般人が関わるべきじゃない。確かに幹部だから一般人に馬鹿なことしたりはしないけど近づかないに限るよ」

日高に説教されるのは面白く無い。でも、ここで返事もせず無言を貫けば兄貴が黙っていないのは分かりきっている。いや、黙られて無言の圧力を掛けてくるのは目に見えている。

「これから気をつける」
「連絡とか入れた?」
「入れてない」
「それならいいけど、今後接触があるようなら必ず言うこと。轟木組といえばここら辺では一番顔利かせてる暴力団なんだから」

確かに偉そうではあった。その顔を思い出しただけで腹立たしさ倍増だ。

「壱哉、悠ちゃんも反省してるし今回は人助けだった訳だし……」

そこで言葉を止めた日高は、そのまま考え込む様子を見せる。こういう日高を見るのは凄く珍しい。

「どうした」
「いや……ちょっと悠ちゃんと轟木の遣り取りが気になったというか。まぁ、気にする必要はないと思うけど」

そう言っていつものようにヘラリと笑うと、再び箸を動かし出す。すっかり日常モードに戻った日高に兄貴は溜息をつくと、悠に最後の一睨みを忘れない。

これは多分、日高に助けられたということかもしれない。横目でちらりと見た日高は視線に気づいたのか、目が合いヘラリと笑われる。

その府抜けた笑いが本気で嫌だ。殴り飛ばしたい。こんなヘラヘラした奴が刑事をやってるんだから世も末だ。

お礼をしなきゃいけないと思いつつ、つい睨み付けてしまいさらに日高は笑み崩れる。

絶対にこの男は死ぬ間際までこうしてヘラヘラ笑ってるに違いない。

そう思いながら兄貴の作った肉じゃがを口の中へと放り込んだ。

食べ終えた後、洗い物を済ますと食後のコーヒーを二人に用意する。自分の分はカップを持って部屋に戻った。

別にリビングにいても良かったけど、先の今だと風向きが怪しくなる可能性も高い。学校の課題もあり、悠は部屋に戻ると課題に取り掛かる。

課題を終え、すっかり冷えてしまったコーヒーを飲んでいると扉をノックする音がして返事をすれば日高が顔を覗かせた。

「お邪魔しました。今日はもう帰るから」

言いたいことは分かる。でも、こうして部屋を訪れてまで挨拶していくことは珍しい。

「兄貴は」
「今ソファで寝てるから一応声だけでも掛けて帰ろうと思ってね」

時々兄貴はそういうことがある。仕事柄忙しいのは分かっているけど、さすがに友達相手に寝落ちはちょっと酷い気がする。

「そのまま寝かせておいて。壱哉、今ちょっと忙しいし明日から泊まり込みだから」

まるでこちらの気持ちを先読みしたように言われてしまい、複雑な心境で椅子から立ち上がると日高を玄関まで見送る。

「あの、さきはありがとう」
「ん? あぁ、でも本当に轟木には近づかないで。ヤクザなんて近づけばそれだけで危ないこともあるから。何かあったら連絡入れて。轟木の件に関しては俺の方が専門だし」
「……ん、分かった」

いつもならヘラヘラしてる癖に、こういう時だけ真面目な顔をされると困る。でも、それだけ近づいてはいけない相手ということは分かる。

「それと余りもめ事に首突っ込まないこと。悠ちゃんの正義感はいいことだと思うけど、余りやり過ぎると壱哉が禿げるよ」
「余計なお世話。でも、ほどほどにしとく」

日高に言われるのはもの凄く面白く無い。でも、そのことで兄貴に心配掛けるのは不本意だから渋々返事をすれば、日高の手が頭を撫でる。

「いつまでも子どもじゃないんだから、そういうのやめて」

拒絶するようにその手を振り払えば、少し驚いた様子だったけど日高はやっぱりヘラリと笑う。少しは怒ればいいのに、そんな姿は一度だって見たことはない。

自分の態度が日高に対して失礼なことは理解してる。でも、いつでも日高は笑って許すからどこまで自分の我が儘を通していいのか分からなくなる。

「卒業して警察官になりたいんだって?」
「兄貴が言ったの?」

喰って掛かる悠に対して、日高も距離を詰める。近い位置で見る日高の顔は真剣で悠は息を飲んだ。

「それなら悠ちゃんに一つだけ本気で忠告。無茶と無謀が治せないなら警察官にはなれないよ」

それだけ言うと日高は背を向けてしまい、いつもの明るい声で「お邪魔しました」とだけ言って玄関を出て行った。

パタンと扉の閉まる音で我に返ると、腹立たしさと悔しさと恥ずかしさと全てが入り交じった感情が一気に爆発した。一瞬にして顔が赤くなったのは、玄関脇に置いてある姿見で分かる。

警察官になりたいことを日高に言った兄貴にも腹が立つ。日高に目指す物を知られて恥ずかしい。日高ごときに忠告されたことも悔しい。

でも、何よりも日高の一言は痛かった。まるで向いていないと言われたようで、兄貴の賛成しない姿よりも突き刺さった気がした。

感情のままいつもより足音高らかにリビングに戻れば、ソファで横になった兄貴がいる。兄貴の上にはしっかりとタオルケットが掛けられていた。

近くで見た兄貴の顔色は余りよくない。あの食欲なら体調が悪いという訳ではなく、日高がいうように忙しいだけなんだろう。でも、少しだけ不安になる。

もっと、もっと早く大人になれたら兄貴に負担を掛けることだってないのに。そう思ったところで時が早く進むものでもない。

毎日が物足りなくて、何をするにも中途半端な自分の立場が嫌になる。何か起きれば自己責任ではなくて、全ては保護者である兄貴に向かう。それは嫌だった。

兄貴は兄貴で凄く頑張ってるのに。親がいないのに高校にも通わせてくれて日々必要な物を買い揃えてくれる。でも、周りの評価は違うもので……。

高校卒業して就職すれば兄貴の庇護下ではなくなる。誰かに兄貴を悪く言われることはなくなる。

無茶で無謀なのは自覚してる。でも、何かをしていないと爆発しそうだ。

毎日がつまらないなんてことは思ったことはない。でも、早く、もっとずっと早く大人になりたい。

ふとテーブルを見れば、二人で飲んでいた筈のコーヒーカップがない。キッチンを見れば、二つのカップは既に食器棚に片付けられていた。

一層のこと、カップを放置していくくらい嫌な奴ならいいのに。

そんなことを思いながら、悠も自室からカップを持ってくるとそれを洗って食器棚へと片付ける。そしてリビングとキッチンの電気を消すと、眠るために自室に足を運んだ。

日高が来た翌日、悠は学校からほど近い場所にある進学校の前に立っていた。男子校ということもあり、そこにいるだけで視線が痛い。

昨日寝る前に色々と考えていた。その中で日高の言っていた言葉が気になった。それと平行して轟木が言っていた言葉が重なる。

轟木はあの学生が薬の売人だと言った。確かにここ最近、学生が麻薬絡みで逮捕されていることは学校の噂でも聞いている。実際、同じ学校の生徒が逮捕されたという話しも聞いた。

別に轟木が言うことを信じている訳ではない。ただ、日高のあの態度といい、轟木の全く悪びれた様子もない態度が悠を動かした。

分からないなら、あの場にいた学生に聞けばいい。そういう理由で悠は男子校の前で目的の人物を待ち構えていた。

無茶と無謀が治せないなら警察官にはなれないと言われた。でも、目の前にある犯罪を見逃せないくらいは無謀だし、今さらそれを治せる訳もない。

勿論、三年になれば治す努力くらいはする。でも、ここで見逃す言い訳にはならない。

一番てっとり早いのは兄貴たちに言うことだと思う。でも、学生は学生なりの横繋がりがあって、それは大人に全てをさらけ出すことはない。犯罪となれば報復が怖いから余計に隠す。

「ねぇ、ねぇ、誰待ってるの?」

声を掛けられて横目で相手を確認すれば、進学校にしてはやけに軽そうな男が二人いる。ガードレールに寄りかかる悠の両脇を陣取るとうるさいくらいに話し掛けてくる。

「うるさい、あたしが用あるのは黒縁眼鏡のいかにも真面目そうな男だけ」

途端に話し掛けてきた男たちが黙り込み、それから内緒話でもするように屈み込んで耳元で話し掛けてきた。

「もしかして、あれが欲しいの?」
「あれって何よ」
「ハーブとかアイスとか」

ハーブってハーブティーとかのハーブ? アイスはアイスクリーム? 別にそんな物は欲しくない。そもそも、何でいきなりそんな話題になったのかも理解できない。

「あれ、違ったのかな」
「馬鹿、あんまり余計なこと言うなよ」

二人で会話をしているけど、悠にはさっぱり訳が分からない。ただ、悠が探している男をこの二人は知っているかもしれない、ということだ。

「もしかして、黒縁眼鏡知ってるの?」

二人は顔を見合わせてそれからニタリと嫌な笑みを見せる。危険だと本能はいってる。

「会いたい?」
「……聞きたいことがある」
「俺たちと一緒に来てくれるなら会わせてあげる」
「どこに?」

問い掛けたけど二人は答えない。ただ、面白そうな顔で自分を見ているだけで、その顔を見ていると今すぐ蹴り倒したい気分になってきた。

確かにヘラヘラ意味もなく笑い奴は嫌いだ。でも、この二人の笑い方を見ていると日高の方が百倍はマシな気がしてくる。

ただ例の男から話しを聞きたかっただけなのに、おかしな方向になっている。でも、男子校に入り込む術はない。

「どうする? うちは東西南北出入り口があるからここにいればあいつに会える訳じゃないよ」
「……止めとく。だって、あんたたちが言ってる人とあたしが探してる人が一緒とは限らないでしょ」
「そんなことないと思うけどなぁ」

そう言って男の一人が鞄から写真を一枚撮りだした。クラスの集合写真らしく三十名ほどの生徒がのっている。

「会いたいのこいつだろ」

指さした写真の先には確かに悠が探している生徒が写っていた。でも、その三十名の中には黒縁眼鏡が他にもいる。

「どうして分かったの?」
「他校生が会いにくるのは大概こいつ目当てだからな。どうする?」

本能は危険だと訴えている。でも、ここまで来たからには毒を食らわば皿まで、そんな気持ちで悠は一つ頷いて見せた。

Post navigation