昔から正義の味方に憧れて、それなりに身体は鍛えてきた。柔道に剣道、合気道だって子どもの頃からやってきたから、それなりに腕は立つ。何よりも困っている人を助けると、それだけで胸がすく思いだった。
ただ、問題が一つ。正義の味方である警察官になるには身長百五十四センチ以上。残念ながらそこに二センチほど足りない、高校二年の夏————。
学校からの帰り道、試験期間中だからといって真面目に家に帰って勉強する訳でもないのはいつものことだ。中学から一緒の桜と高校で仲良くなった百合と三人に向かう先はお気に入りのカフェだった。
「やった! 今日はフルーツタルトがまだある」
「悠の果物好きは相変わらずだね」
「いいじゃん、果物大好き。それに健康にもいいし」
メニューを見ながらそれぞれ好きなものを頼むと、ほおづえをついていた悠の頬を百合がつついてきた。その場所は今日怪我したばかりの場所で、思わず顔をしかめると百合は眉根を寄せて悠を見ている。
「今日も暴れたんだって?」
「人助けって言ってよ。それに体育倉庫に女子生徒連れ込もうとしたあいつらが悪い」
「確かに悪いことは認めるわよ。でも、悠が自ら出て行く必要はないでしょ? 先生呼ぶなり」
「だって、その方が早いじゃん」
「でも、女の子が顔に怪我するのは……」
言葉を挟んだのは桜で、おっとりした桜の心配そうな顔を見ると悠も申し訳無い気分になる。悠が怪我をする度に、桜は慣れることなく泣きそうな顔をしている。そんな顔をさせたくないと思うけれども、どうしても身体が先に動いてしまうからいつも後から謝ることになる。でも、そんな心優しい桜を悠は好きだった。
「ごめん……今度から気をつける」
「あんたの今度は一体何回あるのよ。ったく、そんなに血気盛んならうちに来ればいいのよ。そして段でも何でも取ればいいじゃない」
そう言う百合の家は道場をしている。先々代から続く道場で、それなりに名門だということは知っている。でも、悠はそれに口を尖らせるしかない。
「もう剣道はしない。段取ったら色々と面倒だし」
「犬の首に縄着けるのと同じ。あんたの場合はぜひとも段を取るべきだと私は思うわ。ただでさえ猪突猛進なんだから、首輪くらいはめておきなさいよ」
「何か酷い言われようなんだけど……」
「言われたくないなら暴れなければいいでしょ」
すっかり百合の説教モードになってしまい、悠としては非常に肩身が狭い。それでも、百合のきつい言葉も心配の裏返しだと知っているから強くも出られない。悠が押し黙ったところでケーキと紅茶が運ばれてきて、怒られていたことなど即座に忘れてしまう。
「いっただきまーす」
季節のフルーツタルトはこの店でも人気の商品で、試験期間中でもなければ食べられることは少ない。だからこそ、すぐさまフォークを握り切り分けると口に運ぶ。桃の甘さとさくらんぼの酸味が口の中で混じり合い、たまらなく幸せな気分にしてくれる。それに何よりも美味しいのはタルト生地で、サクサクとした歯ごたえがたまらなく悠好みだった。
「……本当に食べてる時は幸せそうよね」
「悠ちゃんの甘いもの好きは昔からだから」
「それで太らないのがムカつくわ。まぁ、あれだけ派手に暴れ回っていればエネルギーの消化率も高そうだけど」
「嫌味か!」
言われるままにしておけなくて揺りを睨み付けてみたけど、暖簾に腕押し、糠に釘。付き合いが長くなれば長くなるほど、睨んだくらいで怯んでくれたりしない。
「だったら、もう少し大人しくしてたら。そしたら悠が望んでやまない身長だって少しは伸びるかもしれないわよ」
「大人しくしててても、してなくても身長なんて伸びる時は伸びるんだから」
「あーあ、小さくて可愛いっていう男だっているのに。二組の田原に告白されたんでしょ?」
「あー、あいつ……」
つい苦い顔になってしまうのは、告白されたのがつい昨日のことだからだ。そもそも、悠は今現在、恋人が欲しいとは少しも思っていない。とにかく今喉から手が出るほど欲しいのは身長であって、絶対に彼氏なんかではない。
「断ったに決まってるでしょ。あいつ、あたしに何て言ったと思う? 小さくて子どもみたいに可愛くて好きなんです、だって。ロリコンだよ、ロリコン」
「あー……何て言うか、ご愁傷様」
「チビで悪かったわね、っての」
「まぁ、私としては十センチほど分けられるなら分けたいけど」
「それも嫌味かー!」
百合の身長は百七十近くあり、すらりとした体躯でそれこそ悠としては喉から手が出るほど欲しい身体だった。けれども、百合からすれば、百七十ともなれば隣に立つ男すら寄ってこないということらしい。悠から見れば格好いと思う百合でも、男からは敬遠されるらしく、百合は背が高いことを気にしているらしい。
「でも、貸し借りできるものなら、本気で借りたい」
「来年夏までにあと二センチ頑張れ」
警察官を志望していることは百合も桜も知っている。そして規定に引っ掛かることも知っているから、悠が本気で困っていることも分かっている。でも、二センチ足りない場合、悠はどうするべきか、まだ何も考えていなかった。
「大丈夫、悠ちゃん頑張ってるし。ほら、去年から今年の一年で一センチ延びてたし」
「でもねぇ、単純計算だと今年一年で一センチだと足りないんだよねぇ、どうしたもんかと」
「鉄棒にでもぶら下がってみるとか?」
「やってる。懸垂は毎日してるし」
「……呆れた。あんた、そんなに筋肉バカになってどうするのよ」
本気で呆れた顔をしている百合に、悠は頬を膨らませるしかない。別に筋肉バカになりたい訳じゃない。ただ、強くなりたいだけで、そのために必要なことは必要なだけやりたい。ただ、問題なのは思っていた以上に筋肉が発達しないことかもしれない。
「そういえば、試験で上位に食い込めたら悠ちゃん、ムエタイ習いに行くって言ってなかった?」
「十位以内。さすがに今回は厳しいかなぁ。クラスで十位以内なら確実なのにさ」
「それだけ悠の親も暴力沙汰は勘弁と思ってるんじゃないの? 心配だってしてるだろうし」
「分かってはいるんだけどさ……」
百合が言いたいことも分からなくはない。実際、親にはこれ以上格闘技系の習い事はして欲しくないと言われている。でも、何かを助けるためにはやっぱり力は必要だと思う。だから、もっと強くなりたい。そう願うことは悪いことだとは思えない。
「まぁ、あんまり問題起こして親と桜に心配掛けるんじゃないわよ」
「百合は? 百合は心配してくれないの?」
「してるから小言言ってるんでしょ! このバカ悠!」
途端に拳骨が飛んできて、余りの痛みに頭を抑える。容赦ない百合の拳骨はいつものことで、これも心配の裏返しだと知っている。だからこそ、謝りながらもいつものように学校であったことなど話し出す。三人でこうして他愛のない話しをするのは悠のお気に入りでもあった。
夕方になりカフェを出たところで悠は二人と別れた。お嬢の桜は運転手つきの車がカフェ前まで迎えに来て、百合はここから電車で三駅ほどはなれた所に自宅があるため駅に向かう。送るという桜の申し出を断って悠はのんびりと自宅に向かって歩き出した。
そして、何気なく通った裏道で出くわしたのはいかにも恐喝していますという現場。しかも、どう見ても学生同士のたかりという感じではなく、悠はダッシュで近づくとヤンキー風の男にダッシュの勢いを殺すことなく跳び蹴りを食らわせた。勢い余って二人ほど蹴り倒した後、すぐに残った一名と対峙する。
「あ……」
困惑したようなひょろりとした眼鏡男に悠は視線を向けることなく声を掛けた。
「早く、今のうちに逃げなよ!」
少しだけ逡巡した様子を見せた彼だったけれども、すぐに大通りに向かって走り出してしまう。
「お前! くそっ!」
男が追いかけようとしたけれども、その足下に持っていた鞄を投げて蹴躓かせるとその背中に足を乗せた。
「あんたらみたいに学生恐喝するような輩が一番許せないのよねぇ」
立ち上がろうとする男の背後から首筋に手刀叩き入れると男の身体が地面へと倒れた。そのまま悠は男の背中に体重を掛けて踏みつける。幾ら体格のいい男とは言えども、手刀入れられてすぐに起き上がることはできないだろうし、踏みつけておけばかすかに動いただけでもその動きが分かる。先ほど蹴り倒した男二人に目を向けたけれども、脳しんとうでも起こしているのか起き上がる気配はない。
「とりあえず、警察に電話かなぁ」
制服のポケットから携帯を取り出したところで、背後から破裂音が聞こえて鋭く視線を向ける。そこにいたのはスーツを纏った男で、口元には薄く笑みを浮かべながら拍手をしている。けれども、鋭い視線に笑みは無く、男が纏う空気に隙は見えない。
「中々見事な手際だ。君は逃げた彼のお仲間かな? それともただの部外者?」
落ち着いた低い声で話し掛けながらも一歩ずつ近づいてくる。途中、倒れている男二人を無造作に蹴り上げる。それはまるで、道ばたの小石を蹴るかのように感情ないもので、容赦もない。転がった男二人が呻きながら男を見て目を見開くと、慌てた様子で立ち上がった。
「く、組長!」
その声に足を止めた男は声を上げた男を一瞥すると、再び悠に向かって歩いてくる。組長という言葉で、悠もようやくヤバいものに関わってしまったという危機感が出てきた。
「ヤクザが学生相手に随分なことしてるじゃない」
さすがに四対一では悠の立場がまずい。しかも、組長と言われた男は相変わらず隙もなく、一対一でも勝つことは困難に違いない。何よりも、他の三人に比べて格が違う。
「このくそガキが!」
「やめとけ」
男の一括で悠に殴りかかろうとしていた男が足を止める。ゆっくりと近づいてきた男は悠の一メートル前で足を止めると、悠然と見下ろしてきた。ダークグレーのスーツはボタンが外されて、中に着ているベストが見える。黒のシャツに柄物のネクタイ、その格好だけではヤクザには見えない。
けれども、鋭い視線がどう見ても一般人のそれとは違う。何よりも視線だけでなく、そこに立つ、ただそれだけの態度が高圧的だった。何よりも百九十はありそうな身長が、悠にとって威圧的に感じることも確かではあった。
「今時のヤクザは学生相手にたからないといけない程切迫してる訳?」
絶対に今の悠では敵わない相手だからこそ、相手の隙を見出すために逆撫でしてみたものの、男の動く気配はない。
「それをいうなら、今時の学生はヤクザよりもあくどいってものだ。お前が逃がした学生、あれは薬の売人だ」
「は?」
いかにも真面目を絵に描いたような学生だった。黒フレームの眼鏡に分厚い鞄、制服からも近くにある進学校に通っていることも分かる。あんなにオドオドとしたあの態度で売人と言われてもピンとこない。からかわれているのかと男を見上げたけれども、男の目は思いの外真剣なものだった。
「単純に正義の味方気取りだったみたいだが、残念だな」
そう言って男が鋭かった視線を緩めると、先ほどよりも強く口元に笑みを浮かべる。決して馬鹿にした笑みでは無かったけれども、その笑みにカチンときたのは確かだった。
「あんたらヤクザに言われたくない!」
指さしてビシッと言い放てば、少し驚いた顔をした後にクツクツと男は喉で笑う。その笑いが不愉快でムカムカしてくる。
「何笑ってんよの!」
「跳ね返りなのもいいが、次に邪魔したら容赦しないぞ」
笑みを消した男が最後に見せた視線は今まで以上に鋭いもので、思わずビクッと身が強張る。
「お嬢ちゃん、悪いがその足をどけてやってくれ」
「け……警察に電話してやる!」
そういって携帯電話を突き出せば、やはり一瞬間の抜けた顔をした男は今度は豪快に笑うと笑みを浮かべたまま視線を向けてきた。今度こそ本気で楽しそうな顔をしていて、その顔が気に入らない。
「何笑ってるのよ」
「どういう理由で電話するんだ? ヤクザがいます、ってだけじゃ警察だって来ないぞ。あいつらも暇じゃないからな」
「恐喝してたじゃない!」
「被害者はどこに? 警察に被害届を出すには被害者がいてこそだ。それに、この状況だとお嬢ちゃんの方が過剰防衛で捕まるんじゃないのか?」
楽しげに視線だけで違うのかと促されると、男の部下を足蹴にしている悠としては言葉に詰まる。けれども、確かに男が言うように既にこの場所に被害者はいない。男が言うように警察に連絡したところで理由は成り立たない。
渋々足蹴にしていた男の背中から悠は足を降ろすと、男は慌てた様子で立ち上がる。
「行くぞ」
男はそれだけ言うと身を翻してしまい、男の後には悠が蹴り倒した男たちが続く。裏通りから少し離れた所にある黒いいかにもヤクザ風な車に乗り込むと、車はゆっくりと走り出す。そのまま通り過ぎていくのかと思い地面に落ちたままの鞄を拾い上げると、男が乗った車は悠の目の前で停まる。
スモークが貼られた窓ガラスから顔を出したのは、組長と呼ばれた男だった。
「何かあればここに連絡してこい」
「何もないからいらない」
「ならお前が捨てろ」
そう言って腕を掴まれ引き寄せられる。そして強引に制服の胸ポケットに紙を一枚入れられた。
「いらないって言ってるでしょ!」
文句を言いながらポケットに入れられた紙を引き出している間にも窓はしまり、再びゆっくり車は走り出してしまう。腹立たしく思いながらも手元に残った紙を見れば、そこには携帯の番号と轟木という名前だけが書かれていた。
別にヤクザの電話番号なんて自分には必要ない。けれども、この場で捨てる訳にもいかず渋々貰った紙をポケットにしまった。