Chapter.II:はじめの一歩 Act.04

島崎のチェックを受けてオッケーを貰った時には、既に十時を回っていて小さく安堵の溜息をついた途端お腹が鳴り出し島崎に笑われてしまう。既に室内には島崎と皐月の二人だけになり、そこらに散らばった布を畳んで片付け始めた。

「色々と有難うございました。凄くためになりました。まさかアイロンがあんなに重要だと思いませんでした」
「縫い目とかも大切だけど、想像通りに形を作るにはやっぱりアイロンは基礎の基礎。でも、皐月ちゃんの場合センスはいいのね。きちんとできあがりを頭に想像できているから、ここをこうしたいという意見が出るのはいいことよ」
「そう言って貰えるのは嬉しいです」

アイロンの掛け方では散々ダメ出しをされたけど、ダメの理由を島崎はきちんと教えてくれる。だから分かりやすいし納得もできる。家に帰ったらアイロンの復習をもう一度しておくべきかもしれない。そんなことを考えながら、使っていたミシンにカバーを掛けた。

「あの、このミシンって工業用ミシンですよね」
「工業用とか業務用とか色々言われるけど、針の進みが早くて怖かった?」
「最初は驚きました。でも、家庭用ミシンよりも下手になる気がします」
「工業用ミシンは、腕がそのまま反映されると思うわ。家庭用のように補正が余りないから。でも、その代わりスピード重視。本格的にやりたいなら、こっちの方が進みは早いわよ」

存在自体は知っていたけど、こうして工業用ミシンを触ったのは初めてで色々驚きもあった。島崎の指導は厳しかったけれども、力強い工業用ミシンの動きは楽しかったし、厚手の布でも縫いやすいことに本当に驚かされた。

ただ、本格的と言われると皐月としては悩む。少なくとも工業用ミシンを使いこなせるレベルまでは到達していないから、欲しいとまでは思えない。それでも、今日一日で随分と色々なことを知った気がする。

「あの、今さらなことを聞いてもいいですか?」
「何かしら」
「島崎さんの上司が笹塚さん、ということになるんですよね」
「えぇ、上司よ。正確に言えば私の立場はチーフアシスタント。先生のデザインに惚れ込んじゃって、デザイナーからアシスタントになったのよ」

正直、秘書のような風格すらある島崎がデザイナーだったことに驚いた。そして、島崎がどんなデザインをするのか気になる。

「あの、最終日で構わないので島崎さんのデザインを見せて貰えませんか?」
「私の? 先生のじゃなくて?」
「笹塚さんのは……何て言うか、見たらもの凄くへこみそうな気がするというか、今は見たくないというか……」

それなら何故見たくないのかというと、自分でも理由はよく分からない。へこむから、という理由だけではなくて、とにかく今は見てはいけない、そんな気がする。何故いけないのか、やっぱり理由は分からないけど、他人のデザインにそんなことを感じたのは初めてのことで、本当に自分がよく分からない。

「先生のことが嫌い?」
「好きとか嫌いとか以前の問題で、自分でもよく分からないんですけど、ただ見ちゃいけない気がするんです」

途端に島崎は微かに笑うと、足下に置いてあった皐月の鞄を机の上にのせた。

「普通は勝負するなら相手の手の内を見たくなるものじゃないの?」

その言葉で何で見てはいけないのか、その理由が心の中にストンと落ちてきた気がした。

「あ……だから、見たくないのかもしれません」

一瞬、唖然とした顔をした島崎だったけれども、次の瞬間には声を立てて笑い出した。けれども、それはとても上品な笑いでそこに嫌味はない。ただ、楽しげな顔を見ていると、皐月としてはおかしなことを言ったのかと心配になってくる。

「あの……」
「そういう考え方、先生は絶対嫌いじゃないわ」

凄く楽しそうに晴れ晴れとした顔で言われて、一瞬ポカンと間抜けな顔になってしまう。けれども、言葉の意味を考えて苦い気持ちになるのは、先日笹塚から言われた言葉を思い出したからだ。

「でも、好かれてもいません」
「今はね。でも、まだ会ってそんなに経ってないんでしょ? それなら気持ちはどんどん変化するわ。それに、最初からこの人好きだと思う人はごく少数よ。お互いに知れば気持ちも変化する。今は嫌われていないし、嫌いじゃないということでいいんじゃないの?」
「でも……正直、笹塚さんは苦手です」

何でこんなに素直に心情を吐露しているのか自分でもよく分からない。でも、最初とは違い、穏やかになった島崎には少しだけ兄と似ている。何よりも、今日一日真剣に手抜きせず教えて貰ったことも大きいのかもしれない。

「でも、嫌いじゃないんでしょ?」
「……はい」
「先生の口の悪さは業界では有名だし、昔からそうだったみたい。だから、誰に対しても容赦ない言葉を向ける。でも、そこに学ぶべきことは一つもない?」

正直、どれだけ考えていても笹塚は苦手で、今現在その気持ちに変化はない。けれども、笹塚は皐月には見えていないものを色々と見せてくれる。知らなかったことを、知れ、と教えてくれる。それは、皐月にとって悪いことではないと思える。

「あります」
「嫌いじゃない、そこそこ好きなら人間関係は上手くいくものよ。先生が皐月ちゃんが嫌いじゃないことは保証するわ」
「微妙に喜んでいいのか困ります」
「喜んでいいと思うわよ。ねぇ、先生?」

島崎の視線が皐月よりも後方にあることに気付き、慌てて振り返ればそこには苦笑しながら立つ笹塚がいた。

「俺は最初から嫌いじゃないと言っているんだけどね」

一体どこから聞かれていたのか、そう考えると皐月の背筋に冷や汗が流れる。少なくとも、本人がいるのに苦手などと言ったのであれば、さすがに問題があるような気がする。

「さてと、皐月ちゃんはこれから夕飯食べて家に送って帰るから」
「あ、その、自分で」

聞かれたかもしれないという気まずさもあり、近づいてくる笹塚に対して一歩下がる。けれども、背後から島崎に肩を掴まれた。

「大丈夫よ。先生が来たのは先だから聞かれてないわ」

耳元で囁くように言われて勢いよく振り返ると、楽しそうに笑う島崎と視線が合う。だからといって、苦手意識が消える訳でもなく、狼狽えていれば目の前まで来た笹塚に手首を掴まれた。

「それはダメ。もし春樹に見つかったら俺が本当に殺されちゃう気がするから」
「でも、あの」
「はい、鞄」

空いている反対の手に鞄を押し付けられて、慌てて受け取りながら渡してきた島崎に視線を向ける。多分、縋るような目だったにも関わらず、殊更島崎は笑みを深くした。

「大丈夫よ。先生も取って食いやしないから。そうですよね?」
「友人の妹に手を出すほど落ちぶれていません」
「でも、年下の女の子に対してはもう少し優しくされた方がいいと思いますよ」

笑顔の島崎に対して、笹塚は少しだけ困ったように淡く笑う。珍しいその顔を見上げてしまえば、すぐに笹塚は皐月に対していつもの穏やかな笑みを浮かべると歩き出した。勿論、皐月の手首を掴んだままに歩き出してしまい、皐月も慌てて歩き出す。

「皐月ちゃん、また明日」
「あの、今日は色々有難うございました」

引き摺られながらもどうにか一礼すれば、島崎は笑顔で小さく手を振ってくれた。そして笹塚と共にエレベーターに乗り込むと、笹塚の空いた手が一階のボタンを押した。微妙な空気の中でチラリと笹塚に視線を向ければ、ばっちり視線が合ってしまう。

どうせいつもと変わらない笑みを浮かべているのかと思っていた。確かに笹塚の表情には笑みも浮かんではいたけれども、困惑したような表情も同時にあって物珍しさについ見入ってしまう。

「島崎はうちでも三指に入る厳しさなんだけど、よくあそこまで親しくなれたね」

厳しいのは確かに厳しかった。でも、島崎さんは普通に優しくて……いや、最初は結構トゲトゲしかった気がする。だったら何が原因で優しくなったのかというと……。

「多分、余りにも色々知らなすぎて同情されたのかと」
「デザインについて?」
「いえ、笹塚さんについて」
「あー、やっぱり多少説明しておくべきだったのかな。でも、皐月ちゃん聞いてこなかったし」
「あ……」

結局、笹塚が言うところの周りに甘えているというのはこういう部分のことも言っていたのかもしれない。確かに兄の友人ということで安心して、それ以上深く聞こうとはしなかった。それは、皐月の落ち度というか、周りを見ていない証拠のようにも思えた。

「まぁ、正直言うと、うちのブランドを皐月ちゃんが知らないかもしれない、という気持ちもあったし」
「アネーロのことは知ってました。友達が好きなんで」
「健吾くん?」
「いえ、別の友人です」
「ふーん、そうだったんだ。でも、皐月ちゃんの友達にブランド好きな子がいるとは意外だね」

それは間違いなく今の自分の格好を見て言われているのだろうことは理解できる。実際、島崎にも言われていたし、自分自身ファッションに興味がないから言われても仕方ない。そう思うけれども、少しだけ当てこすりみたいなものを感じてしまうのは、自分が卑屈になっているのか、実際に当てこすられているのかよく分からない。

だからどう返答すればいいのか固まってしまえば、クスクスと小さく声を立てて笑われてしまう。やっぱり、笹塚と二人というのは居心地が悪い。

「うん、そうやって顔に出ちゃうところは嫌いじゃないよ」
「……すみません」
「別に謝る必要もないよ。言葉よりもずっと分かりやすいし」

エレベーターが地下に到着して、朝乗ってきた車の助手席を笹塚の手で開けられると再び困惑する。朝一番に言われた警戒しろという言葉を、自分はどうとっていいのか分からない。またここで素直に乗り込めば、何かを言われるんじゃないかという気がする。

「島崎も言っていたでしょ。俺は取って食いはしません」

友人の妹に手は出さないと言っていたし、実際に手を出された訳でもないから警戒するのもおかしい。でも、つい伺ってしまうのはそれだけ朝の空気が険悪だったせいかもしれない。

「春樹に殺されるのは嫌だから乗って」

そう言われてしまうと、兄の溺愛ぶりを思い出し車へと乗り込んだ。それに、ここまで警戒していまえば笹塚にも悪いし、自意識過剰な気もした。そして、それ以上に助手席の扉を開けて貰うという行為に恥ずかしさもあって、それをごまかすように車に逃げ込んだという心境に近い。

こういうことをサラリとできる辺り、笹塚という人がどういう人付き合いをしているのか見える気がする。そういうことをされて喜ぶ女性もいるかもしれないけど、自分には絶対に無理だと思う。少なくとも、こういうことをされただけで落ち着かないし、何よりもここまで女性扱いされるのは恥ずかしい。

運転席に乗り込んできた笹塚は全く気にした様子もなくエンジンを掛けると、ゆっくりと車を走らせた。駐車場を抜ければ既に歩道に人影はなく、ビジネス街でもあるこの辺りは酷く閑散とした様子を見せる。住宅街で人影がないのとは違い、ビジネス街で人影がないのは少しだけ冷たい風景のように感じる。

「笹塚さんの仕事は大丈夫なんですか?」
「ようやく俺のことを少しは気にしてくれるようになったんだね」
「いつまでも何も知らないままではいられませんし」
「あはは、うん、そうやって皐月ちゃんはどんどん強くならないと」
「弱いつもりは無かったから、そう言われると凄く複雑な気持ちです」
「弱いとは思わないよ。無知なだけで」

さらりと言われた言葉だったけど、もの凄く鋭い刃物で切られた気がした。絶対に無知は誇れることじゃないし、そこに胡座を掻いてもいいものじゃない。確かに知らないことはまだ色々あるけれども、もっと根本的なところを指摘された気がした。

「……やっぱり、笹塚さんのこと好きじゃないです」
「ごめんね、言葉選びが厳しくて。でも、本音だから」
「そういう所が……もういいです」

何を言っても笹塚には抉るような言葉を言われそうな気がして、そのまま黙り込んでしまう。多分、面白く無いという気持ちを反映した顔をしているのだと自覚していたけど、運転しながら笹塚が笑っているのが更に気分を下降させる。けれども、いつまでも笑いが止まらない様子の笹塚に、さすがに皐月も視線を向けた。

「いつまでも笑っていないで下さい」
「素直でいいなって思ってね。過敏なくらいの反応が楽しくて、つい、ね」
「それは意地が悪いと思いますよ」
「あれ? 今頃気付いたの?」

これを言った相手が健吾辺りだったら、今すぐこの場で鞄くらい投げつけていたかもしれない。楽しそうにチラリと横目で笹塚に見られて、すぐに窓の外へと視線を向けた。これ以上、感情を見られるのは腹立たしさ半分、恥ずかしさ半分という複雑さだ。

「さてと、何食べたい? 夕飯、ごちそうするよ」
「別にいいです。家に帰って食べますから」
「食材もないのに?」
「何で知ってるんですか」

思わず笹塚に再び向き直れば、やっぱり楽しそうに笑われて憮然とするしかない。

「春樹から聞いてるよ。いつ行っても皐月ちゃんの家の冷蔵庫には飲み物しかないって」
「た、たまには買います」
「コンビニ弁当?」
「お弁当屋さんでも買います」

途端に声を上げて笑われてしまい、自分の失言に気付いて唇を噛むしかない。普通、こういう場合であれば手作りしてますが妥当な線なのに、つい本当のことを言ってしまった自分が腹立たしい。

「たまには……作ったりもします」

一応、言ってみたけど何だか言い訳のようで、言った途端に恥ずかしくなる。実際、料理ができない訳じゃないけど、課題とかに追われているとどうしても食事は二の次になる。それこそ、栄養価の高いゼリーなどで代用してしまうこともある。だから、余り偉そうに色々言えるような立場じゃない。

「春樹がぼやいていたよ。せめて隣に住めば良かったって」
「嫌です。これ以上色々管理されるのは」
「だったら、きちんと生活しないとね」

いつものように穏やかな笑みで言われてしまうと、もうぐうの音も出ない。本当に笹塚は嫌なところをついてくると思う。でも、言われなければつい見過ごしてしまう部分でもあり、文句も言えない。

「まぁ、でも、この時間からだとファミレスくらいしか開いてないかな。それでもいい?」
「私にとっては豪華な夕食ですから!」

もうやけくそ気味にそれだけ言えば、やっぱりまた笑われてしまう。そして、ふと笹塚と普通に話している自分に驚いた。それだけ、笹塚の毒舌ぶりにも慣れてきたのかもしれない。でも、こんなに短期間で誰かとこんなにポンポンと会話を交わすのは初めてのことだった。

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