Chapter.II:はじめの一歩 Act.03

翌日、しっかりと家の前まで迎えに来た車に乗り込むと挨拶すれば、笹塚からも挨拶が返ってくる。ただ、続く会話もなく昨日の会話を思い出すと居心地が悪い。

笹塚はビジネスとして興味があると言ったから、恐らく迷惑ではないんだと思う。それに、ビジネスということは皐月の何らかのセンスは認めて貰えているということだと思うから、それをきちんと見極めたい。

「これから三日間、予定は空けた?」

窓の外を眺めながらぼんやりしていれば、不意に声を掛けられて慌てて笹塚の方へと顔を向ける。勿論、運転中だから笹塚がこちらを見ることはない。

「はい。でも明後日には兄が来ますけど」
「春樹が来るんだ。何時に来るの?」
「多分九時くらいになると思いますけど」
「そう、なら断っておいて。九時に帰れるとは思えないからね」

現時点で朝の八時半、それなのに夜の九時に帰れないということは本当にみっちりと教えてくれるつもりらしい。それは確かに賭けの件もあるから皐月にとっては助かる。けれども、一日の半分を教えることに費やす笹塚は仕事をしている訳で、夏休み中の皐月とは全く立場が違う。

「あの、笹塚さんはお仕事の方、大丈夫なんですか?」

問い掛ければ、ようやくちらりと笹塚がこちらへと視線を向けてきた。穏やかな表情と口元に浮かぶ笑みとは違い、その視線は冷ややかさすら感じる気がする。

「図々しいのかと思っていたけど、今頃になってそんなことに気付いたんだ」

笹塚の言葉に恥ずかしくなり、穴があったら入りたい気分になる。あっさり教えて貰えることに納得してしまったけれども、本来であれば社会人である笹塚の立場を考えれば断ってしかるべきだったのかもしれない。図々しいと思われていたことも恥ずかしいけれども、そんなことに気づけなかった自分が恥ずかしい。

「すみません」
「今時、子どもでもそういう気遣いはもう少しできると思うよ」

そこまで言われてしまうと返す言葉もない。そして、昨日言われた笹塚の考えてみろという言葉を思い出し、さらに恥ずかしさが増す。

「そもそも、昨日から思っていたんだけど、よく知らない人間の車にホイホイと乗るよね」
「それは笹塚さんは兄の友人ですし」
「春樹の友達はみんな聖人君子だと思っているの? これだと春樹が皐月ちゃんを友達に紹介しない理由も分かる気がするよ」
「すみません……」

これ以上、何を言えばいいのか分からない。嫌ってはいないと言っていたけど、間違いなく好かれていないことは分かる。俯いたまま膝に乗せた手を握り締めれば、これでもかというほど大きな溜息が隣から聞こえてきた。

「女の子なんだから少しは気をつけるべきだよ。そもそも、皐月ちゃんは俺がどんな仕事をしている人か知らないでしょ」
「一応、ファッションデザイナーってことは聞いてます」
「ならどういう物を作っているとか知ってる? もしかしたら、今だってそのままホテルに皐月ちゃんを連れ込むかもしれない」

想像もしていなかった発言に俯いていた顔を上げれば、視線の合った笹塚が苦笑した。

「そんなのありえないって顔をしているね。でも、充分ありえることだと思うけど。だって、皐月ちゃんは女の子なんだし」
「でも、私こんな格好ですし」

いつものように上にはTシャツと男物のパーカーを合わせただけだし、下はジーンズにサンダルを履いているだけで女の子らしい格好は全くしていない。髪は一応梳かしてきたけど、整えたとは言い難い。今までに女の子として扱われたこともないし、そういう危険なめに合ったことだってない。

「でも、女の子でしょ? 少しは危機意識を持たないといけないと思うよ。やっぱり色々と考えが足りないんだと思うよ」

いきなり女の子だと言われても、日々の生活で女の子として扱われていなかったから難しい。でも、笹塚が言うことは正論で、確かに皐月の考えが足りなかったのは確かだと思う。兄貴の友人だから、という理由だけで全面的に笹塚を信用しているけれども、それは悪いことなんだろうか。考えるとよく分からなくなってくる。

ただ、笹塚がどういう物を作っているのか、言われて初めて気になった。確かにオークションに出ていた商品を幾つか見たけれども、本来、ああいうナチュラル系の物を作る人なんだろうか。想像するくらいなら聞けばいいと思うけれども、何か言えばまた辛口な言葉が返ってきそうで質問を呑み込む。

「俺は仕事があるから、俺の部下が皐月ちゃんには教えるから仕事は気にしなくていいよ。分からないことがあれば、きちんと聞くこと。分からないことをそのままにしないこと。これができないなら、明日からは来なくていいから」
「気をつけます」
「まぁ、分からないことを放置できるタイプじゃないのは春樹からも聞いてるけど、一応言っておくね」

ようやくこの段階になって、兄貴が笹塚に自分のことをどう言っていたのか気になってきた。人見知りすることは知っていたし、分からないことを放置しないことも知っていた。他に一体何を聞いているのか笹塚に聞いてみたい気がする。けれども、これ以上質問を重ねてはいけない気がする。

それでも、一つだけ確認しないといけないことがある。

「分かりました。あの、それで明後日の話、兄に笹塚さんのことを伝えてもいいですか?」
「別に構わないよ。やましいことは何もないしね」

確かにやましいことは何一つない。けれども、笹塚のことを伝えれば兄貴が何を言うのか、想像するだけで面倒なことになりそうな気がした。いや、それ以前に皐月がどうこうよりも、笹塚の方にしわ寄せがいきそうな気がしてならない。

「……やっぱり黙ってます」
「少しは頭を働かせたみたいだね。人に言われたから素直に聞くんじゃなくて、自分でそうして決断することは大切だよ」

笹塚に言われて、ようやく自分にそういう気遣いが足りないのだということに気付かされる。それだけ何も考えずに言われるまま納得して行動していた。けれども、よく考えれば人は気遣って嘘をつくことだってあるし、建前ということもある。それを考えることなく今まで鵜呑みにしていたのかと思うと恥ずかしいものがある。

「あの……もしかして、兄の友人だから私を面倒見てくれているんですか?」
「いや、それはないよ。昔見せて貰ったデザイン画からずっと気になっていたけど、春樹の許可が下りなかったから接触する機会が無かっただけだよ。昨日も言ったけどビジネス的に興味があるのは本当のことだから。少なくとも俺は嘘はつかないよ、多分」
「多分、なんですか?」
「今のところはね。でも、絶対とは言い切れないかな。仕事上で必要な嘘が出てくることもあるかもしれないしね」

物言いは厳しいし、本人が言うように容赦もない。けれども、間違いなく甘やかされている自分に気付かせてくれたのは笹塚で、その点については感謝しているし、ビジネス的に興味あると言われて嬉しい自分がいる。

「色々、有難うございます」
「ははは、お礼言われちゃったよ。でも、俺が飽きたら即刻お付き合い返上させて貰うから、余り有り難がらないで欲しいかな」
「でも、色々気付かせてくれましたし」
「それも俺の都合だから。ただ単に俺がイライラしそうだったから言っただけ」

そういえば、昨日、兄貴のことも色々と考えろと言われたことを思い出す。昨日の言い方からも、兄貴と笹塚が友人というよりも親友なんだということは分かる。いや、笹塚を紹介してくれたことだけでも兄貴からしたら、かなり異例のことだ。

自分が兄貴に友人を紹介しないのは、ただ単に兄貴が紹介してくれないなら自分も、という理由だった。それなら、兄貴が自分に友人を紹介できない理由は一体何なんだろう。ただ馬鹿可愛がりされているだけだと思ったけれども、それ以外にも理由があるんんだろうか。いや、あるから笹塚はあんな含みある言い方をしたんだと思う。

でも、それを笹塚に聞けば、今度こそ幻滅される気がした。もう少し笹塚から色々学びたいと思うと、それだけは避けたい。だからといって、兄貴に聞いて素直に答えてくれるとは思えず、心の中で溜息をついた。

車で一時間もすれば先日デザイン画を届けたビルの駐車場に車が滑り込む。地下の駐車場には見るからに高級車が並び、家の近くにある駐車場とはレベルが違う。笹塚と共にエレベーターに乗り、十二階で降りるとエレベーターホールから扉は一つしか無かった。曇りガラスで覆われた扉を開くと、中にはスチール机が幾つか並び、数名が席に座っている。笹塚と共に中に入れば、一瞬にして視線が集まるのが分かった。

「お……お邪魔します」

辛うじて緊張した掠れ声で言えば、それぞれ「おはようございます」という挨拶だけが返ってきた。けれども、それは笹塚に対してなのか皐月に対してなのか分からず、笹塚の背中を追いかけて隣の部屋へと移動すれば、会議中なのかホワイトボード前に立つのが一人、そして席につくのが四人、全員で五人の人間がいた。年代はバラバラで下は二十代、上は四十代に見えた。

「島崎さん、彼女を」
「はい、分かりました」

返事をしたのは最年長の四十代の女性で、引っ詰めた髪とスーツから秘書のような風格を思わせる。

「皐月ちゃん、俺はこれから会議に入るから後は島崎さんから色々と聞くといい。いいかい、分からないことは全て聞くこと。少し遅くなると思うけど昼ご飯は一緒に食べよう」
「分かりました」

返事をすれば笹塚はすぐに部屋から出て行ってしまい、残された皐月としては非常に居心地が悪い。何よりも周りからの視線が突き刺さるように感じる。しかも、その視線に含まれる感情がどう考えても良いものではなく、迷った末に笹塚に紹介された島崎に頭を下げた。

「お手数お掛けしますが宜しくお願い致します」

それに返ってきたのは、長い溜息だった。顔を上げれば、嫌悪感含みでは無かったけれども、その顔には面倒だと思われているのが分かる。そして、頭の先から足下まで見られて、再び溜息をつかれた。

「仮にも笹塚先生とご一緒するなら、もう少し服装に気をつけた方がいいと思いますが」
「すみません、普段着で構わないと言われたので……明日からもう少し気をつけます」
「美大の学生って聞いてますけど、専門は?」
「デザインです」
「……服飾じゃないの? 将来ファッション関係には?」

困惑を露わにした島崎と、その背後では残った女性三名がヒソヒソと何かを話している。でも、その内容は聞こえないけれども、その表情からも先ほどの嫌悪よりも困惑しているように見える。

「一応、今のところ広告代理店への就職を考えてますけど」
「ちょっと、どうしてそんな人が笹塚先生に弟子入りしてるのよ!」

怒ったような声で島崎の背後から女性の一人が声を掛けてきて、皐月としては困惑するしかない。少なくとも、皐月としては笹塚に弟子入りしたつもりはない。

「弟子入りはしたつもりないです」
「だって、あなたみたいな特別扱い初めてなんだけど」
「あ、それは兄と笹塚さんが友人だからだと思います」
「それじゃあ、コネ入社みたいなもの?」

そうなんだろうか? 少なくとも、皐月としてはこの会社に入社するつもりはない。そもそも、ここがどういう場所なのかも説明されていないし、笹塚の立場すら説明されていない。いや、もっと根本的なことを考えれば、笹塚がどんなデザインを手掛けているのかも知らない。

「あの……笹塚さんって、一体どういう立場の方なんですか?」

途端に部屋にいた女性全員がポカンとした顔をして皐月を見つめている。先ほどの嫌悪感露わな視線も痛かったけれども、これはこれで非常に居心地が悪い。

「皐月ちゃんって言ったわよね。あなた、知らないで笹塚先生に面倒見て貰っているの?」
「兄の友人としか……昔、デザイン画を兄が勝手に笹塚さんに見せた関係で、美大の予備校への推薦状を書いて貰いました。それまで兄を介してしか知らなかったので、会ったのは今月に入ってからですけど」
「デザイン見せて頂戴」

島崎に言われて慌てて鞄の中からクロッキー帳を取り出すと、先日、三十分で描き上げた内の二枚ほど取り出し島崎に手渡す。途端に島崎の背後にいた女性たちも駆け寄って来てデザイン画を覗き込む。

何だか審判を受けるような気がして落ち着かない。けれども、デザイン画を見た島崎の横に立つ女性たちの目が冷ややかなものになり、そのまま自分へと向けられて半歩下がる。一層、逃げ出したいくらいの冷ややかさで皐月としてはどうしていいのか分からない。

「大したデザインじゃないのに、何で笹塚先生が見てるのか分からないわね」
「確かに。こんなの幾らでもあるようなデザインだし。やっぱりコネ強しって感じ」

すぐに女性三人はクスクスと笑いながら再び机に戻ってしまう。全然ダメと言われるよりも厳しい声に、さすがに気持ちもへこむ。けれども、島崎だけはまだデザイン画を眺めている。まるで穴が空きそうな勢いでデザイン画を見ていた島崎だったけれども、それも十秒もすれば皐月に返してくれた。

「私は縫製部に行ってくるわ。後は頼むわよ」
「えぇ、島崎さんが見るんですか? そんなの縫製部の人間に任せれば」
「馬鹿ね。一度言われたことを守れなければ、先生がどう言うのか分かるでしょ」
「はーい。じゃあ、先ほどの件はまとめておきます」
「お願いね」

会話を終えた島崎にならい一旦先ほどと同じ道順でエレベーター前まで出ると、島崎が大きく溜息をついた。

「皐月ちゃん、色の名前をどれくらい覚えているの?」
「和色と洋色でしたら全て覚えてます」
「そう……さすがに落ち込んでる?」
「正直言えば、色々と刺さりました」
「確かにデザイン画としては色々不足してるわ。こうして見ると色合いとか分からないから何とも言えないけれども、私は悪くないと思うわ。服飾デザインは全く習っていないのよね?」

それに素直に返事をすれば、少し困ったように笑みを浮かべると島崎はエレベーターのボタンを押した。

「先生が気に入るのも分かる気がするわ。先生がどういう立場が分からないって言ってたわね。どういう人か知ってるかしら」
「容赦ない人だと言うのは本人から聞きましたけど」

途端に島崎は噴き出し、小さく笑いながらも到着したエレベーターに乗り込む。続いて皐月も乗り込めば、島崎は十七階のボタンを押した。

「ブランドに興味は……余り無さそうね」

島崎の視線が皐月の服装を見ているのに気付き、少しだけ恥ずかしい気持ちになるのは、きっちりとしたスーツを島崎が着こなしているからかもしれない。

「すみません。正直、余り詳しくありません」
「アネーロというブランドは?」
「友人が好きで小物を持っています。ただ服は高くて手が出ないって言ってました……まさか」
「アネーロというのはスペイン語で憧れ。誰もが憧れを抱くようなブランドというコンセプトなの。そしてアネーロのトップデザイナーが笹塚先生よ」

説明されて理解はできる。けれども、いきなりそんな有名ブランドを上げられてもついていけない。そもそも、ブランドなんてものは皐月からみれば、手にすることもないもので、遠い存在でしかない。そこのトップデザイナーと言われても凄いとしか言いようがない。

「あ、の……すみません、色々と規模が大きすぎて正直、ついていけないというか、理解が追いつかないというか」
「先生、皐月ちゃんに何も説明しなかったの?」
「えぇ、全然何も。確かに聞かなかった私も悪かったのかもしれませんけど」

余りにも違う世界すぎて頭がクラクラしそうだ。そもそも、そんな別世界の人が皐月に付き合っているのか本気で分からない。いや、それ以前にどうして兄と友人をしているのかも理解できない。

エレベーターから降りると、やはりここにも扉が一つしかなく、扉を開ければ長い廊下が続いている。幾つか扉はあるけれども、その扉を通りすぎていく。

「お兄さんから先生については?」
「いえ、兄からもただファッションデザイナーとしか聞いてなくて……今回もその偶然というか」

さすがにオークションのことは伝えていいのか分からずにその経緯については濁した。普通はありえない。そんな有名ブランドのデザイナーがオークションに出品しているなんて、普通ならかんがえられない。

「それはそれで、ある意味カルチャーショックよねぇ。少し皐月ちゃんの立場に同情するわ。でも、私も仕事だから手抜きはできないの。とりあえず、先生からは皐月ちゃんにこの三日間でできる限りの縫製について教えろと言われているわ」
「はい、三日間お願いします」

一つの扉前で島崎は足を止め、皐月も同じように足を止める。振り返った島崎には先ほどのような冷たい眼差しではなく、どこか楽しげな様子で口元には笑みすら浮かんでいる。

「でも、三日って何かあるの?」
「色々あるんですけど、笹塚さんと勝負して今後のデザインを見て貰えるかどうかが決まるんです」
「勝負? それは災難ね。先生、恐らく手抜きはしてくれないわよ」

それは皐月にも充分理解している。恐らく笹塚の性格であれば間違いなく手抜きなどしてくれないに違いない。

「手抜きというかハンデは充分貰っています」
「とりあえず、あえて一つ忠告するなら、皐月ちゃんは色々聞かれても余計なことを言わない方がいいわ。勝負云々もそうだけど、先生が他人のデザインを見て指導するって初めてのことなの。だから、やっかみとか色々なものが渦巻いているわ。何か困ったことがあれば私に言って貰える?」
「分かりました」

返事を聞いた島崎は一つ頷くと、目の前にある扉を開いた。途端に幾つもの機械音が聞こえてくる。中に入れば、あちらこちらにミシンがあり、部屋の中には数人の男女がミシンに向かっている。一畳くらいありそうな机の上にミシンが一台乗っていて、ミシンの他には洋裁道具やアイロンが並べられている。

それぞれが島崎に挨拶して、背後をついていく皐月には訝しげな視線を向けられる。机の合間を縫って空いている机の一つに立つと、一つの椅子を勧められて皐月は腰掛けた。

そこから、島崎のスパルタといってもいい実践込みの授業が始まった。

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