Chapter.II:はじめの一歩 Act.02

都心に出てきたことは高層ビルを見れば分かったけれども、一体、笹塚がどこに向かって車を走らせているのか土地勘のない皐月には全く分からない。車内での会話は余り無く、閉塞感だけが皐月の気を重くした。

正直、どんな話題を振ればいいのかさっぱり分からない、というのが一番いけない。幾度となく溜息を呑み込んでいれば、笹塚の車は細い道へ入ると少し走ったところでコインパーキングに車を止めた。どうやら、ここが本日の目的地、ということらしい。

置いてきた健吾のことは気になるけれども、ついてくると決めたのは自分だから、今は忘れることにして車を降りる。既に三時を回ろうという時間にも関わらず日差しは強く、皐月は目を細める。同じように車を降りた笹塚は薄付きのサングラスを掛けていて、一応どこに視線を向けているのか辛うじて分かる。そんな笹塚と視線が交わる。

「それじゃあ行こうか」

促されるままに笹塚の後を突いて歩き出せば、数分歩いたところで大通りに出た。そして、通りに並ぶ鮮やかな色たちに皐月は再び目を細めた。そして、ここがどこだかを知る。

「ここがどこだか分かる?」
「日暮里、ですよね?」
「そう、布の問屋街と言われる場所。今日はここで俺とデートして貰うから。まずはここから」

そう言って笹塚が最初に足を踏み入れたのは、とにかく壁一面カラフルな布地が積み上げられた店内だった。ゆっくりと歩く笹塚の後をついて皐月も店内を歩く。スチール棚の中には一反丸巻きになった布地が所狭しと積まれていて、見たこともない布地も多くある。そんな中で前を歩く笹塚は足を止めると、一つの布を棚から少しだけ取り出した。

「皐月ちゃんに二つ問題。この布は何?」
「キルトです」
「正解。なら、この布を使って三つ、作れるものをあげて」

そう言われてもとっさに思い浮かんだのは子どもが持ち歩くレッスンバッグくらいしか思いつかない。けれども、光沢のあるサテンを使ったキルトは子どもが持つようなレッスンバッグには余り向かない気がする。

「ク……クロワッサン型バッグ、ベッドカバー、キルトジャケット!」

慌ててどうにか思い浮かぶ物を言えば、どこかおかしそうに笑うと棚に丸巻きの布を片付ける。

「ベッドカバーね、うん、確かにそういう使い方もあったね。でも、それは少しズルいかな」

恐らく笹塚が言う作れるものというのは、ベッドカバーのような単純なものではなかったに違いない。でも、扱ったこともないサテンキルトに答えられたこと自体、自分自身を褒めてあげたいくらいだ。笹塚に不機嫌そうな空気はなく、再びゆっくりと店内を歩き出す。

時折立ち止まり、布の性質やどういうものを作るのか笹塚が説明してくれる。でも、見たこともない布地や、知っていても触れたこともないような布地も多く、こんなに多くの種類があるのかと驚く。少なくともサテンやベルベットなどは母親が残した布にはなかったし、撥水加工生地やボアは既製品として見たことはあったけど、こうして生地として売っているのを見るとまた目先が変わる。

そんな中で思わず皐月が立ち止まってしまったのは、いかにも透ける編み目のはっきりした布地だった。少なくとも、皐月はこれを使われているものを目にしたことがない。皐月が立ち止まったことに気づいたのか、すぐに笹塚も足を止めると皐月の見ていた布を棚から少しだけ引き出す。

「これはチュールって言って、一番分かりやすい使われ方はウエディングベールに使われているかな。他にはパニエとか。うーん、パニエって分かる?」
「分かりません」
「パニエっていうのはほら、よく可愛らしいワンピースとかふんわりしているでしょ。あれの下にボリュームをつけるためにはくスカート」
「ふんわりしてるスカートはワイヤーかと思ってました」
「ワイヤー使う時もあるけど、ショーならともかく、ワイヤーだと椅子にも座れないから普段利用には向かないでしょ。今度できた物を見せてあげるよ」

途中、そんな会話を交わしながらも笹塚は二時間近く使って色々な布地の説明をしてくれた。デザイン画を提出することを前提にしている皐月にとって、それはとても為になることでもあった。何よりも手触りや布目、柄を見ているだけでも、色々なワンピースが思い浮かびそれが楽しい。

笹塚と店を出た時には既に夕暮れ時になっていて、店によってはすでに店じまいしている。そんな中、手近な喫茶店に入った休憩していれば、正面に座った笹塚は笑顔で恐ろしいことを言った。

「布の特徴は掴んだと思うから、ここでワンピースのデザイン画十点、今すぐ描いて」
「は? 今すぐ……ですか?」
「そう今すぐ。制限時間三十分ね」
「そ、そんな無茶なこと突然」
「でも無理とは言わないんだからできるよね」

笑顔だ。もの凄く笑顔だけど、その言葉の裏に「とっとと描いて出せ」という言葉の裏が透けている。確かに色々見て思いついたものはあるけれども、まだ形にできるようなものではない。でも、無理だと最初から諦めることはしたくない。

だからこそ、泣き言を呑み込んで鞄の中からクロッキー帳と鉛筆を取り出すと、とにかく鉛筆を走らせる。本当は家に帰ってもっと色々試行錯誤して描きたかったのに三十分という時間がそれを許さない。細かい描き込みは抜きに、ひたすら思いついたワンピースのデザインを幾つも描き上げていく。次々とページを捲り思いつくまま鉛筆を走らせる。

基本的に集中してしまえば、細かい部分まで描き込みたくなる。だから、とにかく思いつくままクロッキー帳に描いていけば、二十点も描いたところで笹塚から声を掛けられた。

「ここで三十分。随分描いてたみたいだけど、十点選んでここに出して」

言われるままにクロッキー帳に描き上げたデザイン画の中から、満足度は高くないものの、それでも出来がいいと思えるものを十点選びクロッキー帳から破り取りテーブルの上に並べた。

それを一枚ずつ手にしては、説明を求められて皐月は説明していく。細かい部分なんて描き切れていないからどのデザイン画も説明は必要で、柄はこんな感じとか、色はこんな感じと説明していく。そして十点全ての説明を終えると、最終的に笹塚はデザイン画を全て重ねてテーブルに置くと優しげな笑みを浮かべた。

「まぁ、及第点かな。どれにも物足りなさはあるけど」
「……精進します」
「こういうのは慣れだからね。色々言いたいことはあるけど、自分で気づかないといけない部分については何も言わない。でも、これとこれとこれ」

そう言って笹塚は皐月の描いたデザイン画から三枚を抜き出すと並べる。

「少しアレンジしただけで面白みがない。少なくとも、この三点、量販店で売ってるものでしかない。この中にオリジナリティは全くないね」

やっぱりばっさり切られる部分は切られるらしい。でも、笹塚は自分で気づかないといけない部分があると言っていた。この指摘以外にもまだ問題はあるということだ。

皐月は笹塚に言われたデザイン画の隅にバツ印をつけると、改めてデザイン画をひとまとめにすると小さく溜息をついた。

「疲れちゃった? もうやめる?」

もの凄く楽しそうな笑みを浮かべて問い掛けてくる笹塚に、皐月は少し迷ってから首を横に振った。プロ相手なのだから皐月が敵う訳がないのは分かっている。でも、得られるものがまだある気がした。何よりも、自分で気づかないといけない部分、というものが気になった。

それはいずれ自分で気づけるものかもしれないけれども、気づけないものかもしれない。もし、気づかないままでいれば、笹塚のなら遠回しなんてことはせず、ばっさりと切ってくれそうな気がした。それは甘えかもしれないけど、笹塚にデザイン画は見ない、と言われたらそれはそれで一つの指針にもなる。だから自分から切り捨てる気にはなれなかった。

「やめません」
「そう」

途端に笹塚の笑みが深くなり、その笑みがどこか企み含みに変化するのを見て皐月は少しだけ後悔した。多分、笹塚という人はオブラートもないけど、本気で容赦もない気がした。そう思うのは、今日の健吾との遣り取りを見ていたせいかもしれない。

「一つ勝負をしようか」
「勝負って一体どんな」
「明日も暇だよね。春樹からバイトはしていないって聞いてるし」
「確かに暇ですけど……」
「明日から三日間、みっちり洋裁のいろはを教えてあげる」
「有難うございます」

でも、勝負というのだからそれで終わる筈がない。伺うように笹塚を見れば、楽しげな様子で笹塚は言い放った。

「オークション勝負」
「勝負って、勝負になりません」
「うん、かもしれないね。でも、俺が出す商品より、一つでも高値がつけばこれからも皐月ちゃんが望むだけデザイン画は見てあげる。でも、一つも高値がつかなければ今日で終わり」
「唐突すぎませんか、それは。第一、ハンデが欲しいです」
「それならハンデは一つ目、俺は新規にオークションIDを取る。これでいつものお得意さんが入札することは恐らくない。二つ目、皐月ちゃんよりも先に出品する。三つ目、五千円以内で作品を三点作る。随分とハンデつけたけど、これ以上何かある?」

いきなり三つあげてくるということは、笹塚は最初から考えていたことだったのかもしれない。正直、そこまで譲られないと勝てる可能性が見込めない自分が悔しくもあるが、実際、プロである笹塚にハンデなしで勝つことは難しい。当たり前だ、しかも笹塚はその道のプロだから分かっている。けれども、そこで諦める訳にはいかない。まだ、笹塚から教えて貰いたいことは沢山ある気がする。こんなチャンスを易々手放すことはしたくない。

「因みにどういう布を俺が買うのか、皐月ちゃんは見ていて構わない」
「そこまでしたら、笹塚さんが作る物の想像がつきますけど」
「うん、だからハンデ。まぁ、皐月ちゃんが想像した物を作るとは限らないと思うけどね。それで、勝負する?」

勝負するも何も、ここまで明確にハンデまで言われてしまえば断ることもできない。断れば、これ以降笹塚にデザイン画を見て貰うことはできなくなる。勝負に負けても見て貰えないのであれば、ここで断ろうと勝負を受けようと何も変わらない。

「しません、っていう選択ありませんよね、それ」
「そうともいうね。どうする?」

楽しそうな笑顔だけど、今、笹塚の笑顔は悪魔の笑みにも見える。一体、何を考えてこんな勝負を持ち出したのか笹塚の意図は分からないけど、はっきり言われてしまえばどうしようもない。

「分かりました、受けます。勝って、絶対に笹塚さんがイヤっていう程デザイン画提出させて貰います」
「そうこないと面白く無いよねぇ。じゃあ、買い物に行こうか」
「え? 今日ですか?」
「勿論。皐月ちゃんが考える時間だって必要でしょ。だから今日中に布を揃えるよ」

既に会話をしながらもグラスの中身は無くなっている。立ち上がる笹塚に慌ててクロッキー帳やペンケースを鞄に入れると、笹塚と共に店を出た。自分が飲んだ分は払うと言ったけれども、友達の妹から金を取るほど鬼畜じゃないよ、と笑顔で躱されてしまい渋々取り出した小銭は再び財布の中へとしまった。

閉店間際の店に入ると、笹塚はすぐさまいくつかの反物を選び出すと店員に頼んで必要な分量だけ生地をカットして貰う。その他にボタンやファスナーを手にして最後に会計をすれば、五千円弱のレシートを皐月に差し出してきた。

「一応、買った布を見ていたと思うけど、証拠として写真でも撮っておく?」
「いえ、そこまでは」
「でも、もしかしたらズルをするかもしれないよ?」
「するんですか?」
「まぁ、しないかな」
「だったら必要ありません。それに、どういう生地を買ったかは覚えていますし」

兄の友人ということもあり、疑うような真似はしたくない。けれども、皐月の答えに笹塚は満足したらしく、白いビニール袋に入った生地類を持ちながら歩き出す。皐月も慌てて笹塚から受け取ったレシートをポケットにしまうと、後を追うようにして歩き出した。

笹塚が買った布は夏向けのリップル生地などで、色も落ち着いた色合いのものが多い。無地もあったけれども、チェックや花柄が多かったことからも女性向けの服を作ることだけは想像ついた。

「あの、明日から洋裁について教えてくれるって言ってましたけど」
「あぁ、迎えに誰か寄越すから作業場に来て貰うよ。今は少し暇な時期だし、きっちり俺が教えてあげるから」

ニコニコと笑うその顔が怖い。一層のこと、他の人にして下さいと言いたいけど、言える筈もない。曖昧に返事をしながら皐月はそこで足を止めた。人の気配に敏感なのか、すぐに足を止めて笹塚は振り返る。

「どうしたの?」
「いえ、駅も近いみたいですし電車で帰ろうかと」
「家まで送るよ。どうせ近いんだし」
「近いって、うちとですか?」
「そう皐月ちゃんの家と。だから春樹が皐月ちゃんを紹介してくれたの。何かあった時に皐月ちゃんが連絡取れるように。そうじゃなければ、あの春樹が妹紹介したりする訳ないでしょ。春樹が皐月ちゃんに友人紹介したことある?」

首を横に振ることで、皐月は笹塚の言葉を否定する。確かに皐月自身、兄の友人を紹介されたことは笹塚が初めてでそれ以外にはどんな友人がいるのか全く知らない。けれども、あの兄であれば皐月に紹介しないのも納得でもある。

「やっぱりね。皐月ちゃんの家から車で五分くらいのところに住んでるんだ。だから、何かあれば俺に連絡くれるといいよ。それに、ここで皐月ちゃんを放り投げて帰ったら、俺は間違いなく春樹に殺されると思うんだけど、どう思う?」

そんなこと皐月としては聞いて欲しくないし、聞かれても困る。でも、殺されるは大げさにしろ、あの兄であれば文句の一つや二つは言いそうな気がする。

「とにかく、皐月ちゃんを送らせて貰う方が俺としても安心。という訳で送らせて貰えるかな」
「……分かりました」

何だか丸め込まれた気がしないでもない。けれども、既に帰宅ラッシュとなっている時間ということもあり、電車に乗れば混雑に巻き込まれるのは確かだったから、笹塚の申し出は助かるものだった。

再びコインパーキングに戻り、せめて駐車場代だけはお願いして皐月が払わせて貰った。そして再び笹塚の車で助手席に収まると皐月は大きく溜息をついた。

「どうかしたの?」
「私と会ってること、兄に言ってます?」
「うーん、今日は言ってないかな」
「……今から兄の反応が怖いです」

途端に小さく声を立てて笑う笹塚に皐月は苦い顔になってしまう。何しろ、兄のシスコンは年期入りで、中学時代から異性が近づけば排除傾向にあった。今現在も、健吾に対しては随分と警戒しているように感じる。

話し方からして兄と笹塚はかなり親密な友人らしい。果たしてあの兄がどういう反応をするのが怖い気がする。間違えても笹塚と仲違いするようなことだけにはなって欲しくない。

「皐月ちゃんはズルいね」

予想外の言葉に笹塚に顔を向けたけれども、運転中の笹塚がこちらに視線を向けることはない。ただ、その口元には穏やかな笑みが浮かび、やはり何を考えているのかよく分からない。

「ズルいですか?」
「うん、ズルいと思うよ。そもそも、どうして春樹がそうなったのか一度でも原因を考えたことはある?」

言われてみれば、原因なんてものは一度だって考えたことはない。ただ、妹を馬鹿可愛がりしているだけだと思っていたけど、原因となった引き金が何かあった、ということなのだろうか。

「何も知らずに迷惑だと切り捨てるのは簡単なことだろうね」
「もの凄く棘を感じます」
「うん、感じるように言ってるから」

そういう毒のある言葉を笑顔でさらりと言わないで欲しい。でも、笹塚の言葉から、まるで皐月は兄を迷惑だと言ってはならない立場だと言われた気がした。

「知らないふりでぬるま湯に浸かるのは楽だろうね。成長はないだろうけど」
「私は別に」
「ぬるま湯に浸かってないって言う? 周りに大切に守られて、自分で何も考えていないのに?」
「別に考えていない訳じゃ」
「俺は酷い人だからね、君のことは何度も見捨てろと、友人として春樹には言ってきたんだ。だから、皐月ちゃんに全く好意はない」
「だったら何でこうして……」
「ビジネスとして皐月ちゃんのセンスに興味が湧いたし、春樹から頼まれたからだよ。でも、春樹の妹だと思うと目障りにも感じる」

別に今まで嫌悪を突きつけられたことがない訳じゃない。けれども、こうして正面切って嫌悪を言い切られて鋭いナイフを向けられた気がする。それだけヒヤリとした空気が車内を充満しているのに、笹塚の表情は笑みのままで皐月はどうしていいのか分からない。

「皐月ちゃんのことだから、お友達にでも相談して慰めて貰うんだろうね。今日あった健吾くんとか」
「……それは悪いことなんですか?」

つい警戒するかのように低い声になる皐月に、笹塚は軽く肩を竦めて見せた。けれども、視線を皐月に向けることはしない。信号で止まってもこちらに視線を向けないことから、わざと視線を合わせていないことも分かる。

「慰めて貰うことは悪いことだとは思わないよ。ただ、皐月ちゃんの場合、周りに零せば誰かが何かをしてくれるでしょ。そして、それを皐月ちゃんは無意識に知っている。いつでも待っていれば自体が好転してきた人間なんだから」
「……とりあえず、笹塚さんが私をもの凄く嫌ってることはよく分かりました」
「あはは、別に嫌ってないよ。好意がないだけ」
「その違いが私にはよく分かりません」
「だったら考えてみなよ。もっと色々なことを。皐月ちゃんは知らないといけないことが沢山ある。自分に言い訳するのは簡単だけど、言い訳探しをしたいだけなら社会に出ない方がいい。皐月ちゃんが思ってるよりも社会は厳しくて理不尽なものだから」

笹塚は笑顔でそれだけ言うと黙り込んでしまい、反発心で言葉を探していた皐月自身も結局言葉が探しきれずに黙り込んでしまう。けれども、笹塚が最初言ったように兄の執着の原因なんてものは考えたことなど無かった。この言い方だと笹塚は原因を知っていて、尚かつ皐月に教えるつもりは無いということらしい。

窓の外に見えるのは高速道路の高い壁だけで、外界は見えない。けれども、それは今の皐月の心境とシンクロしているような気がした。

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