部屋に戻ってからはひたすらクロッキー帳に向かう。ワンピースなんて、もう何年も着た記憶がない。一番最新の記憶は、それこそ両親の葬式の時に着たもので、あれは母親が作ってくれたものだった。何かあった時のために、と作ってくれたものだったがそう言った本人に何かあったのだから笑えない。
クローゼットを開けて唯一持っているワンピースを取り出し、姿見の前で自分にあてて見る。でも、中学三年の時に作ったワンピースはもう既に皐月には子どもっぽすぎて似合わない。ただ、あの頃の自分であれば似合っていた気がする。それに髪を短く切ってしまったことで、おうとつの少ない皐月が着るとまるで女装でもしているようで顔を顰めた。
黒いポリエステル生地なのは、皺がつきにくいから選んだと言っていた。大きな襟は髪が長かった時には似合ったけれども、今の皐月には似合わない。ウエストや袖口にはしっかり芯地が入り形崩れはしない。スカートの裾はピンタックが幾つか入っていて、細かい部分でも手抜きしない母らしいと思う。そして、母が作ってきたものを考えてみると、あの人は皐月が思っていたよりもずっと少女趣味だったことに気づく。
フリルやタック、レースをあしらったものも多く、ワンピースなども子どもの頃にはよく着ていた。残念ながら今となってはそういう少女趣味なものは好きではないから、余り細かい部分までは覚えていない。けれども、市販の服に似ていると思ったことは一度もないので、あれは母なりのオリジナリティだったのかもしれない。
だったら、私にとってのオリジナリティというのは一体何になるのか、そんなことを考えていれば携帯が鳴り出し通話ボタンを押した。
「皐月、明日暇か?」
「何かあるの?」
「佐緒里が明日、美術館巡りをしないかって」
「でも、健吾は昨日も行ったんだじゃないの?」
「一人で行くか、面倒くさい」
そういうものなのだろうか。大抵、キャンセルするのは佐緒里であることが多く、皐月がキャンセルすることは殆どない。そして、健吾は一度だってキャンセルしたことがないから、皐月一人ということは一度だって無かった。けれども、皐月であれば一人でも予定通り美術館巡りをしたに違いない。だから、健吾が一人で回ることはしないということに少しだけ驚いた。
「一人だと寂しいとか?」
問い掛ければ、健吾からの言葉はない。余りの無言時間に思わず声を掛ける。
「健吾?」
それに対して返事はなく、代わりに大きな溜息が電話口から聞こえてきた。
「その溜息の意味は?」
「いや……昔から鈍いのは分かってたから、今さら驚いたりしないがなな」
「それは私のこと?」
「それ以外に誰がいる」
そういえば、前に佐緒里にも鈍いと言われたことがある。一体、何をもって鈍いと言われているのかよく分からない。
「どこが?」
「……もういい。それよりも、明日はどうなんだ?」
「無理。ちょっとしばらくはデザインに打ち込みたいから」
「それってこの間の」
「そう、それ。もの凄くボッコボコにされた。悔しいから、さらにデザイン画持ち込むことにしたの」
口にしてみれば単純だ。笹塚に言いたい放題言われたことが悔しい。何よりも、あれで甘く言われたのだとしたら、次は一体何を言われるのか知りたいと思った。酷評は身につくことだって多い。ジャンルは違うけど、それでも認められるだけの何かを探し出したかった。
「デザインって何のジャンルなんだよ」
「ファッション系」
「……お前と一番縁遠いところだろ、それ……それじゃあついていく訳にも行かないか」
「ついてくるつもりだったの?」
「プロ相手だったらそりゃあ気になるだろ。まぁ、余りにもジャンル違いだからさすがについて行かないけど。でも、佐緒里だったら喜ぶんじゃねぇの」
「……もしかして、心配されてる?」
「まぁな」
あっさりと返事をされてしまい、皐月としては苦く笑うしかない。恐らく笹塚が言っていた甘やかされている、というのはこういうことも含まれるのかもしれない。
「大丈夫。別に落ち込んだりしないし」
「そこは心配してない。ただ……まぁ、いいか。皐月の場合、色々な人と話した方がいいのは確かだろうし。それで、どんな人だったんだ?」
「オブラートがない人」
「……何だ、それは」
「歯に衣着せぬ物言いをする人」
「……大丈夫なのかよ、それ」
「大丈夫。基本的に間違えたことは言われてない。指摘が正確すぎて刺さる部分はあったけど。でも嫌味じゃないから全然平気。むしろ数分しか見て貰えなかったのに、もの凄く基本的なことを改めて言われた。色々足りない物が沢山あるんだって分かった気がする」
健吾からは何だか気のない相づちが返ってきて、やっぱり興味ない話しだったかと思いながら携帯を握りなおした。
「そういう訳で、しばらくは美術館巡りは私はパス」
「次はいつ会うつもりなんだ?」
「分からないけど、二、三日中にはもう一度連絡入れられたらいいと思ってる。ただ、デザイン画がまだ全然できてないけど」
「そうか……なぁ、俺も一緒に行っていいか?」
どこか探るような声音で問い掛けてきた健吾に、皐月としては驚くしかない。佐緒里や健吾は、まだ目指す先はまだ決めていない。けれども、ファッション系に進むつもりは全くないだろうことは近くにいる皐月にだって分かる。
「え? だって、健吾だってジャンル違いだって言ったのに?」
「プロともなれば興味無い訳でもない」
「それは……一応聞いてはみるけど、ダメだったら諦めて」
「分かってる。そこまで迷惑掛けるつもりはない。とりあえず、佐緒里にはしばらく美術館巡りは中止って伝えておくぞ」
「お願いする。後で返事するから」
「あぁ、頼む」
そんなこんなで電話を切ると、皐月は大きく溜息をついた。健吾が一緒に来ると言い出すとは全く思っていなかった。ただ、身長が高い健吾の服装はラフながらも、いつも気遣われたものになっている気がする。ということは、全く興味が無いという訳ではないのかもしれない。
けれども、笹塚に言われた「甘やかされている」という言葉が気になる。恐らく、健吾と一緒に笹塚の元に行けば、やはり周りに甘やかされていると笹塚が受け取る可能性は高い。いや、実際、皐月自身が健吾に甘やかされていると思ったくらいなのだから、指摘されない訳がない。容赦できないタイプだと言っていたから、さらにきつく言われる気がする。
少し悩んだ末に、皐月は笹塚に聞いたことにして健吾に断りのメールを入れることに決めると、再びクロッキー帳に向かう。けれども、なかなかデザインは思い浮かばず、色々とネットで販売されている今時のワンピースを眺めてみる。それから大学で同じ専攻をしている学生の服装を思い出してみたけれども、ぼやけていて思い出せないのはそれだけ興味が薄いということでもあった。
教授には何事にも目を向けて、全ての物事に興味を持ちなさいと言われていたけど、皐月にはそういった精神が足りないらしい。自然にある色合いを見るのは好きだけど、作られたものに興味が薄い。改めて気づいたことではあったけど、それは皐月にとって酷く新鮮なことでもあった。
記憶が無いのであれば、新たにインプットすればいい。だからこそ、皐月は小さめのクロッキー帳を筆箱と共に、いつも持ち歩いているメッセンジャーバッグに詰め込む。穿いていたレギンスを脱ぎ捨ててジーンズを穿くとバッグを斜めがけにして外に飛び出した。
昼の日差しは強く、元々外出好きではない皐月はうんざりした気分で駅前まで出ると、駅前にあるカフェに飛び込んだ。空調の利いたカフェは涼しく、アイスカフェオレをカウンターで頼んで窓際の席に落ち着くと、手にしたままのカフェオレに口をつけて半分程一気に飲み干す。口を離した途端、自然と溜息が零れ、ようやくそこで一息ついてからクロッキー帳を取り出した。
街中を歩く人たちをクロッキーしていく。基本的に顔は余り関係ない。だから顔は描かず、髪型と着ているワンピース、それだけをどんどんと描き上げていく。後で色合いも分かるように時折文字を書き込みながらも、何枚も描き上げていればすぐ近くで氷の涼やかな音が聞こえて我に返る。
ふと正面を見れば、いつの間にか目の前には笹塚が腰掛けてこちらを見ていた。穏やかな笑みを浮かべながら、ただ真っ直ぐに皐月を見ている。正直、驚きで息が止まるかと思った。
「さ……さづかさん。いつ……」
「三十分くらい前からいるよ。やっぱり気づいていなかったんだ」
「何でここに」
「打ち合わせでちょっとこの近くに来ていてね。そしたら熱心に窓の外を見ながら何やら描いてる皐月ちゃんを見つけてね。少し見せて貰っていい?」
いるはずのない人がいる現実に呆然としながらも、別に断る理由もなく素直にクロッキー帳を差し出す。それを五枚、十枚と捲った笹塚の顔はやはり穏やかなもので、その表情からは良いのか悪いのか全く読み取れない。皐月は確かに人付き合いスキルが低い方ではあるけど、とりわけ笹塚は分かりがたい。
「色の名前、皐月ちゃんはどれくらい覚えている?」
「和色と洋色は大体覚えています」
「ふーん、っていうことは千色近くの色を名前で言える訳だ。ねぇ、このクロッキーだと色は指定してあるけど柄は?」
「ここからだと余り柄までは見えないので」
「なら布地は、例えばこれのこの部分、何の布地?」
「あ……分かりません」
穏やかな表情ながらもその顔から笑みを消すと、腕を組んで考える様子を見せる。声を掛けていいのか悪いのか、この時点で皐月には判断がつかない。いや、これが兄や健吾たち相手であれば、言いたいことあるなら、と声を掛けたに違いない。でも、笹塚はまだ皐月にとってよく分からない相手であり、迂闊に声を掛けられない。
別に自分に足りないものが沢山あることは分かっているし、既にこの間のデザイン画自体あれだけボッコボコにされたのだから今さら怯える必要はない。だとしたら、これはただ単に人見知りが発動されているだけに違いない。それでも、先日会った時には多少なりとも軽減された気がしていたけれども、兄の友人とはいっても皐月は余りにも笹塚のことを知らない。
「皐月ちゃん、これから暇?」
「え……はい、時間はあります」
「なら、デートに行こうか」
「…………はい?」
もの凄く間抜けな顔をした皐月と、にこやかに笑う笹塚。そんな二人を周りはどんな様子で見ているのだろう、とふと思う。そして、まるで思考をぶち切るかのようにテーブルの上にダンッと音を立てて手が置かれる。
一瞬、何が起きたのか分からないまま、腕の主を辿っていけばそこにいるのは健吾だった。
「皐月、何してる」
「話し中」
「ナンパ?」
「ナン……ち、違うっ! 健吾にも言ったでしょ、兄の友人のデザイナーさん!」
「どうも、笹塚です」
笑顔の笹塚と、まるで挑むように睨み付ける健吾という図は、先ほどの皐月よりもずっとシュールな光景だ。けれども、しばらく笹塚を睨み付けていた健吾だったが、大きく溜息をつくと皐月へと視線を向けてきた。
「知り合いなんだな」
「だから先からそう言ってるでしょ」
「どうせなら同席させて欲しいって言ってあっただろ」
「今日は偶然会っただけ」
探るような視線を向けてくる健吾を見上げていれば、しばらく視線を合わせていた健吾は小さく溜息をつくと笹塚に向かって頭を下げました。
「申し訳ありません。皐月の友人で椎名健吾と申します。お話し中失礼しました」
「別に気にしてませんよ。皐月ちゃんが見知らぬ男といたから気になっただけみたいですし。さしずめ皐月ちゃんのナイトって感じ?」
「ナイト……いえ、そういう柄じゃないんですが」
「充分ナイト気取りだったと思うけど?」
ナイトならまだいい。ナイト気取りと言った笹塚の言葉で空気が凍った気がする。実際、健吾の横顔は強張っていることもあって、皐月は何か言おうと唇を開いたけど、それよりも先に笹塚の言葉が飛び出す。
「皐月ちゃんの周りは大切にしてくれる人ばかりがいるんだろうね。でも、大切にすることと、傷つかないように隠すことは全く別物なんだけど、君にはそれも分からないかな」
「過保護、だと?」
「違う? 君は皐月ちゃんの何? 恋人? 友達?」
「……友人です」
「だったら彼女の了見を狭めるような真似は止めるべきだと思うけれどもね。彼女がどこで何をしていようと友人ごときが心配する必要はない」
「さ、笹塚さん! 言い過ぎです。健吾はただ心配して」
口を挟めば、片眉を器用に上げた笹塚は酷く面白そうな顔をして、それからチラリと健吾を見上げる。
「心配ね。まぁ、心配は心配なんだろうけどね。色々な意味で」
どこか毒を含む笑みを浮かべた笹塚はテーブル横に立つ健吾を見上げているけど、健吾は気まずそうな顔をして笹塚から、そして皐月からも視線を逸らしている。
「まぁ、いいけど。それで皐月ちゃんは俺とデートに行く?」
途端に健吾が皐月に鋭い視線を向けてきた。不機嫌そうな健吾と、楽しそうに笑みを浮かべる笹塚に挟まれて、皐月はどう返事をしたものか迷う。でも、ここで笹塚に断れば、もうデザイン画は見て貰えない気がした。流されるんじゃなく、自分で今、ここで決めないといけない。どうしたいのか、何をしたいのか。
「健吾、ごめん。明日にでも連絡入れるから。笹塚さん、行きます」
そうした皐月の選択に意外そうな顔をした笹塚だったけれども、本当に楽しそうな笑みを浮かべると椅子から立ち上がった。
「それじゃあ行きますか」
「皐月!」
「別に本当にデートな訳じゃないから」
「俺は本当のデートでも構わないけれども?」
「笹塚さん、混ぜっ返さないで下さい!」
皐月の言葉に肩を竦めると、笹塚はすれ違い様に健吾の肩に手を置いた。
「まぁ、そういう訳で本当のデートという訳じゃないから安心して。でも————」
続く笹塚の言葉は聞こえなかった。けれども、健吾の顔がその言葉で強張ったのが分かる。
「健吾?」
「皐月ちゃん、行くよ」
手荷物の少ない笹塚はトレーを片手に持ち、立ち上がった皐月の腕を掴むと歩き出してしまう。そして、元いた場所に、健吾はただ立ち尽くしている。グラスが二つ乗ったトレーを笹塚は棚に戻し、皐月は腕を拘束されたまま笹塚と共に店を出た。
健吾のことが気にならない訳ではない。けれども、この腕を振り解くこともできない。内心、皐月は健吾に謝りながらも数歩前を歩く笹塚を睨み付けた。
「笹塚さん、健吾に何を言ったんですか?」
つい声が低くなるのは、笹塚が必要以上に健吾へ絡んだせかもしれない。けれども、皐月の不機嫌さなど気にした様子もなく振り返った笹塚は笑顔だった。
「秘密。皐月ちゃんに聞かせられないから内緒話したのに教えると思う?」
「……思いません」
「あはは、よく分かってるねぇ」
「余り健吾のこといじめないで下さい。ただ心配してるだけですし」
「ただ心配してる、だけ、ねぇ。まぁ、いいけど」
やけに「だけ」というところを強調すると、皐月の腕を掴んだまま笹塚が連れてきたのはコインパーキングだった。機械で精算を済ませると、ポケットの中から鍵を取り出し、一つの車の前で立ち止まる。セダンタイプの車は、どういう名前のものか知らない。ただ、左ハンドルということから、その車が海外製の物というくらいしか分からない。そもそも、皐月は車に全く興味が無いのだから仕方ない。
「乗って」
「あの、どこへ行くんでしょうか」
「内緒。あぁ、でもホテル連れ込んだりしないから安心して。さすがにそんなことしたら春樹に殺されるの間違いないし」
「笹塚さん!」
声を上げて笑いながら笹塚は車に乗り込んでしまい、皐月は決めたにも関わらず逡巡する。言うことにオブラートなし。そんな笹塚と車に乗り込むには結構勇気がいる。しかもどこへ行くかも教えて貰えない。恐らく数日前の自分であれば、絶対にこんな選択はしなかったに違いない。
そんなことを考えながら笹塚の車に手を掛けると、勢いよく車の扉を開けた。途端に籠もった熱が溢れ出し、さすがに眉根を寄せる。
「ごめんね、ちょっと暑いと思うけどすぐにクーラー利くと思うから」
そう言う笹塚は既に暑い車にいるというのに、涼しげなものでその顔から不快さは全く見えない。だからこそ、笹塚との会話は少し怖い。
「笹塚さんは全然暑くなさそうですよね」
「暑くないよ、って言ったら信じる?」
「初対面だったら信じたと思います」
僅かに声を上げて笑う笹塚を横目で見ながらシートに座りシートベルトをつける。笹塚はそれ以上、何も言うことはなく車をゆっくりと走らせ始めた。