Chapter.I:思いつきが全ての始まり Act.02

しっかりと朝の内に炊飯器にご飯をセットしてスイッチを入れると、皐月は気合いを入れて鞄の中から佐緒里に描いて貰った紙を取り出すとテーブルの上で広げた。それを見ながら、新聞紙を広げると型紙を作っていく。簡単な袋程度であれば型紙なんてものは作らないけれども、さすがに他人が使う物となればそれなりにきちんとした形に仕上げたい。

佐緒里の描いたスケッチと新聞紙を見比べながら型紙を作り終えると、ロータリーカッターでサクサクと新聞紙を切ってしまう。床に置いてあったグラスを手に取ると、入っていた麦茶を一気に飲み干して、皐月は大きく溜息をついた。本来であれば型紙に合わせて布を切っていくところだけど、佐緒里から受け取った布はいかにも高そうなもので、皐月は少し悩んだ末に部屋の片隅に積み上げたままになっている収納ボックスを開けた。

引き出し式になっている収納ボックスの正面は透明で、中に何が入っているのか一目で分かる。兄いわく、余り中身が見える収納引き出しは見栄えが悪いとブツブツ言っていたけれども、整理整頓が下手な皐月としては中身が見えることは有り難いことだった。いくつかの引き出しを開けたり閉めたりしている内に、ようやく目的の物が見つかり引き出しから取り出した。

それは一メートル百円以下の布で、主に皐月の練習用として使われている布だった。大抵、一度も作ったことがないような物の場合、この練習布で試しに作ってみてから本番に挑むことも多い。厚手の練習布をテーブルの上に広げると、そこに型紙を並べていく。

元々、皐月は手芸というものとは無縁だった。実際、中学生の時に授業で作ったパジャマは着れたものじゃなかったし、編み物だって目が飛んだりしていて酷い状態だった。興味がない、そして下手となれば、手をつけようという気にはならない。

そんな皐月に転機が訪れたのは両親の事故だった。あの事故でローンが多く残っていた家を手放すことになり、かなりの家具を手放した。その中で、どうしても母が前日まで使用していたミシンだけは手放すことができなかった。それでも、一年が過ぎた頃になって、母が作りかけにしていたエプロンを皐月は作り上げた。得意じゃないこともあり、出来は酷いものだったけれども、母が作ることができなかった物を仕上げた満足感は確かなものだった。

それ以来、小物類はミシンで作ることが多くなった。勿論、失敗作も多かったけれども、人間やっていればどうにかなるものらしく、徐々に形になりだした。家庭科の教科書を片手に、色々と用語を覚えたのは既に懐かしい思い出になっている。

練習用の布を全て型紙通りに切り終えると、縫う部分をまち針で止めていく。ある程度まち針で止め終えると、部屋の片隅に置いてある工業用ミシンに被せてあった布を取り払った。このミシンは十年以上前から家にあり、よく母は皐月の服なども作ってくれた。小学生の頃はまだ母の作ってくれたふわふわのワンピースや、フリルのたっぷりついたスカートをはいていた気がする。

家族全員がいた頃を懐かしく思いながら、ひたすらミシンを掛けていく。集中する内に徐々に余計なことが頭の中から消え去るその感覚が皐月は好きだった。

途中、ファスナーをつけたりしながら布を組み合わせミシンをひたすら掛ける。そして出来上がった化粧ポーチはオレンジと黒のツートンカラーで、我ながらいい出来だと思える。最後に針と糸でスナップをつければ、完成となった。

ただ、問題は化粧品を全く持っていない皐月としてはこれが本当に使えるものなのか分からない。一度、これを佐緒里に渡してサイズが大丈夫ということであれば、改めて佐緒里の布で作る予定だった。

気づけば既にポーチ一つ作るのに夕方になっていて、慌てて皐月は作ったばかりのポーチをテーブルに置くとキッチンへ向かった。冷蔵庫を開けて取り出したのは、昨日、兄が作り置きしておいてくれたミートソースだ。取り出したミートソースをレンジに入れてボタンを押す。それから平皿にできあがって数時間経つ白飯をよそうと、その上に大量のレタスと暖めたミートソースを乗せ、最後にスライスチーズをのせれば簡易ご飯のできあがりだ。

フローリングの床に座り込むとあぐらをかいて、フォークでそのまま空腹のお腹を満たすために掻き込んだ。恐らく、こんな姿を兄が見たらさぞ嘆くに違いない。分かっていながらも、皐月はそのまま全てを食べ終えると、皿をシンクに置いて空いたグラスに麦茶を満たすと一気に飲み干した。

兄は女らしくしろと言ったことは一度だってない。ただ、人として恥を忘れてはいけない、と何度も口にしていた。そういう兄は、確かにお箸を持ち口に運ぶ動作すら優雅な人だ。そんな兄に反発するように男らしくふるまう自分は、色々な意味で兄にコンプレックスがあるのかもしれないと自己分析している。

携帯を確認すれば、集中している間にメールがきていたらしく、ボタンを操作してメールを開けば健吾からだった。メールは短いもので、待ち合わせの場所と時間だけが書いてあり、十時という時間に首を傾げた。大抵、待ち合わせする時には午後からというのが通例だっただけに、午前十時というのは本当に珍しい。だからといって、それに反対するつもりもないから、皐月も短く了承の返事を送った。

翌日十時、待ち合わせ場所に到着すれば、既に健吾と佐緒里は駅前の改札横で待っていた。健吾はともかく、皐月よりも佐緒里が早く現れるのは非常に珍しい。

「……傘、持ってきてないんだけど」

顔を合わせた途端にそれだけ言えば、佐緒里は頬を膨らませた。よく見れば、いつもの美術館巡りだというのに、随分と服装に気合いが入っているように見える。膝丈のスカートは今まで見たことない新作だし、上はカシュクールのノースリーブで、肩先には通気性の良さそうなショールを掛けている。

「ちょっと、失礼じゃない?」
「本当に珍しいから仕方ないだろ。ほら、行くぞ」

あっさり健吾に言われて佐緒里は頬を膨らませながらも、言葉に詰まる。今日も綺麗に化粧された顔は美人で、髪は服装に合わせたのか軽く巻いてある。健吾を先頭に佐緒里と並びながら駅に入ったところで、皐月は佐緒里に声を掛けた。

「もしかして、夕方からデート?」
「そうなの。今回のお相手は何と企業の重役様」
「それって……おじさんじゃないの?」
「違うわよ! 今年二十九歳になる油の乗ったお兄さん」
「おじさんじゃん……」

呟いた皐月の声はしっかり佐緒里の耳に届いたのか、軽く肘で小突かれた。でも、よく考えてみれば、二十九歳になる男は皐月の身近にもいた。

「うちの兄貴と同じ年かぁ」
「皐月のお兄さんって、あのこうキリッとした感じの、ミスは何事も許さないみたいな人?」

実際、中身がそうかと言えば、皐月は一度たりともそんなことを感じたことはない。ただ、兄に会った人は誰もがそう言うところ見ると、そういうタイプに見えるんだろうことは分かる。ある意味、シスコンでれでれの兄ではなく見えるのであれば、それはお得なことかもしれない。

「多分、それのこと。うち、兄貴一人しかいないし」
「皐月のところの兄貴、怖そうだよな。予備校通ってた頃に、一度遠目で会っただけだけど、睨まれた覚えがある」
「あの人、超近眼だから。余り気にしなくて良いよ。っていうか、体格的には健吾の方がでかいんだから怖いとかないでしょ」
「いや、何て言うか……底冷えするくらい冷たい視線を向けられてさ」

健吾にそこまで言われて、そう言えば、あの頃から健吾や佐緒里を紹介しろと言い出した気がする。

「あの兄貴だと、結婚する時に大変そうだな」
「大丈夫、そんなもの一生縁が無いから」

きっぱりと言い切れば、途端に健吾はホームに入ってきた電車に目を向けてしまい、それに対するコメントはない。その横顔が、どこか痛そうな顔をしていて隣に立つ佐緒里に視線を向ける。けれども、佐緒里は健吾を見上げて少し泣きそうな顔をしていた。そんな二人に皐月は声を掛けることもできず、三人で電車に乗り込んだ。

三人でいると、時折、こういう微妙な空気が流れることがある。こういう時、話しが上手くない皐月としてはどう声を掛けていいのか分からない。電車が動き出す頃にはその微妙な空気は消え去ってしまい、すぐに佐緒里が健吾に今日行く美術館のことを聞いている。それに応える健吾も既に普通の顔をしていて、佐緒里もいつもと変わらない。だからこそ、余計に皐月としてはどうしていいか分からなくなる。

「という訳で皐月もそれでいい?」

不意に名前を呼ばれて慌てて佐緒里へ視線を向ければ、どうかしたのかと言わんばかりの目でこちらを見ている。

「ごめん、話し聞いてなかった」
「お前、いつもぼんやりしすぎだ」

溜息混じりに手を上げた健吾は軽く頭を小突いてくる。別にぼんやりしていた訳でもなく、これでも色々と考えていたというのに、そういう風に見られるのは何だか納得が行かない。

「美術館の近くに安くて美味しいイタリアンがあるの。だからそこに行ってもいい、って聞いたの」
「別に安いならそこでいいよ」
「よし、今日の昼は決まりね。午後からはどうする? 少し足延ばして近代美術館にも行ってみる?」
「今だとドローイングやってたな」
「それなら私も行きたい」

皐月も賛成してしまえば、それに異議を唱える者もいない。既に家を出てきてしまっているから、これからどこを回ろうと結局一緒、ということなのかもしれない。代々木に到着して、当初から予定だったタイポグラフィを見て回る。正直、余り興味の無い分野ではあったけれども、ただポスターになっているだけではなく、文字に立体感を持たせたモニュメントにしてあり、皐月としてもかなり楽しめるものだった。

そして佐緒里の言っていたイタリアンでランチメニューを注文した後、皐月は先日作った化粧ポーチを鞄の中から取りだした。

「一応作ってみたんだけど、サイズの確認して」
「うわぁ、凄い可愛い。私、これでいい!」
「それ練習用、布もいい布使ってないし。それよりもサイズ確認してよ」
「ちょっと待ってて」

そう言って佐緒里は鞄の中からやたら大きなポーチを取り出すと、その中から次々と化粧品を取り出し皐月が作った化粧ポーチに入れていく。とにかくポーチの中から筆やらはけみたいのやら、口紅やらファンデーションやら、とにかくそのポーチにどれだけ入っているんだというくらいに出てくる。半ば唖然としながらそれを見ていたけれども、ポーチの中身を全部詰めて筆やらを差し込んだ外側の布をくるりと巻いて、最後に佐緒里はスナップを止めた。

「凄い、サイズピッタリ。っていうか、私これでいい」
「いいって、あの布の方が絶対にいい布だよ」
「ううん、絶対にこっちの方が好み! あの布は皐月にあげる」
「それならそれでいいけど……」

正直、佐緒里が持ってきた布に比べたら間違いなく質が落ちるもので、皐月としては申し訳無い気持ちが残る。一層、佐緒里がよく大学に通う時に持っているトートバッグにでもしてお返ししようかと悩んでいれば、横から口を出してきたのは健吾だった。

「佐緒里、自分が気に入ったからって元々それは皐月のだろ。そうやって気に入ったからって勝手に貰うな。もしかしたら、皐月だって使うつもりだったかもしれないだろ」
「あ、そっか、ごめん」

化粧ポーチを鞄にしまおうとしていた佐緒里は、慌ててポーチをテーブルの上に置いた。

「いや、別に気に入ってくれたなら貰ってくれて構わないから」
「でもお前」
「そもそも、これ化粧ポーチ。化粧もしない私が持つ訳ないでしょ。よく考えてよ」

そう言って、改めて化粧ポーチを指させば、何とも言えない気まずげな顔で健吾はフイと顔を反らした。

「と言うわけで、佐緒里は遠慮なくこれを貰って。預かった布はまた違う物でも作っておくから」
「本当に! 凄い楽しみ! 皐月、ありがとー! もう、皐月のこういうセンス、本当に好きなんだよね。とくにこのポケットの切り替えとか、凄く手が込んでる」
「佐緒里の好みはがっつり掴んでるから」
「もう、本当にありがとう! 愛してる!」
「大げさ」
「でも、確かに皐月の色彩センスは抜群だよな。正直、ここまで皐月が作れるとは思ってなかった。もし、これが店に並んでいても違和感ないな」

テーブルの上に置いてあったポーチ手にした健吾は、しみじみとスナップを開けたりしながら中の作りも確認している。

「ねぇ、皐月。こういうの、もっと沢山作ってオークションで売ったら? 趣味と実益兼ねてかなりいいところまでいくんじゃない?」
「オークション? ネットとかの?」
「そう、別に顔を合わせる必要も無いし、コミュニケーションだって余り必要ないじゃない」
「あぁ、これなら売れそうだよな」

ようやく健吾はポーチをテーブルに戻すと、佐緒里はすぐにポーチを鞄の中へと片付けてしまう。そして携帯を操作してオークションのページを開いて皐月へと突きつけてくる。それを見れば、ハンドメイド品としてオークションにずらりと並んでいることを知る。まさか個人で作った物が売り物になるとは全く考えていなかっただけに、それはちょっとした衝撃だった。

「皐月のセンスなら絶対いけるって。どうせならチャレンジするだけしてみればいいじゃない。出品料金は多少掛かるけど、それでも昼ご飯代よりも安いんだし」
「でも、出品したらオークションの場合、手数料として何割か取られるだろ」
「確かに取られるけど、でも皐月の腕ならいけると思うんだよねぇ。勿論、割に合わないならオークションなんて簡単に撤退できるんだし、やってみたら?」
「それもそうか。ある意味、入札数とか金額で自分の価値を計ることができる、っていう意味で面白そうではあるな」

確かに今まで考えたことが無かっただけに面白そうではあった。基本的に服などは余り作ったことが無いけれども、小物類であれば皐月にもできそうな気がした。久しぶりにワクワクした気持ちで佐緒里に携帯を返すと、皐月は大きく一つ頷いた。

「面白そうだから、少しやってみる」
「お前、それで無茶しすぎて課題忘れるなよ」
「大丈夫。そんなことしたら兄貴に顔向けできないから」
「皐月はそういうところで馬鹿はしないわよ。私と違うし」
「あぁ、お前は男に現抜かして課題忘れるアホだしな」
「人の古傷抉らないでよ!」

二人のテンポのいい会話を笑いながら聞いている内に頼んでいた料理が届く。トマトとバジルの冷たいパスタは、暑さで疲れていた身体には美味しいものだったし、一緒に出されたイタリアンスープはかなり皐月好みの味だった。

美味しく食べた後には、再び電車で移動して近代美術館でドローイングの絵を見て、それぞれに意見を交わす。それぞれ好みが異なることもあり、あれがいい、これがいいと言っている内にあっという間に夕方になってしまった。

結局、慌ただしく佐緒里とは駅で別れ、健吾と二人電車に乗る。

「飯でも食いに行くか?」
「オークションについて色々調べたいから、今日はこのまま帰る」
「あっそ。でも、余り無理すんなよ。基本的に皐月は根詰めやすいタイプなんだし」
「多少無理しても夏休みだから平気。それに、今日のドローイング見てて課題のインスピレーションも湧いたし」

それからは課題の話題で盛り上がり、挙げ句の果てにはどの講師の評価が渋いとか、甘いとかそんな話しになったところで最寄り駅についた。大学傍ということもあり、家は多少離れているものの、佐緒里も健吾も、そして皐月もこの駅が最寄り駅でもあった。

改札を抜けたところで、まだ課題の方向性すら決まらなくて悔しがる健吾と別れると、皐月はマンションに向けて歩みを進める。けれども、頭の中は既に課題のことではなく、これから作るべき小物類のことでいっぱいだった。布については母が使い切れないほど大量に残してくれたものがあるから、元手は掛からない。佐緒里たちが言うように、皐月に掛かるのはそれこそ手数料の類だからさほど痛手を被る訳でもない。

家に帰るなりパソコンに向かった皐月は、先ほど佐緒里が見せてくれたオークションのページを開くと、ハンドメイドで出品された商品を一つ一つ確認していく。

けれども、その中で一人、出品した物全てが高値で入札されている人がいることに気づく。IDはナツとなっていて、商品だけでなくオークションのページ自体がナチュラル系で清潔さに溢れるものだった。また写真の撮り方も上手く、その写真やページを見ているだけでもセンスが良い人だということは分かった。

全体的に見た感じでは、ハンドメイド品は尖ったものよりも、よりナチュラル系の方が入札されやすいらしく、パソコンを前に皐月は腕を組んで小さく唸った。

正直、ナチュラル系というものには皐月に縁がない。それだけにデザイン性をどういう方向にすればいいのか、写真を眺めながら頭の中で湧き上がるアイデアを手近にあるクロッキー帳に描き留めていった。

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