匣から溢れ出る殺意 Act.07

少女の傍らにある椅子に芝浦は腰を下ろすと、口を開き掛けた少女を手で制してから樋口を見上げる。
「悪いが、一旦出て行って貰えるか?」
「でも、既に用意済みなんですよねぇ」
それだけ言うと樋口は視線を手元に落とす。その手には既に袋から出した注射器があり、恐らく採血でもしようと思っていたのかもしれない。注射器一本、どのくらいの値段がするかは分からないが、無駄にするには抵抗もある。
「一度、採血してから話しを聞いてもいいか?」
芝浦が少女に問い掛ければ、少し迷った様子を見せた後に小さく頷いた。すぐに芝浦は椅子から立ち上がり場所を譲ると、樋口は手早く少女の腕に注射をしたあと、何本か血を採ってから少女に「よくできました」と笑顔で声を掛けると、看護師と共に出て行ってしまう。そして部屋に残されたのは芝浦と中尾と黒澤、そして少女の四人になる。
改めて芝浦は椅子に腰掛けると少女に視線を向けた。
「さてと、話したいことっていうのは何だ」
「あの……助けて欲しいんです」
「君を?」
「いえ、家にいるあの子たちを」
「あの子? 他にも子どもがいるのか?」
しかし、本部から受け取った書類には少女は一人っ子で、他に兄弟はいない。だとすれば一体、他に誰がいるというのだろうか。
「違います。うちの家にいる大量の犬や猫です」
「大量? 大量ってのはどれくらいいるんだ」
「全部で五十匹くらい」
さすがにその数に唖然としてしまう。普通に家でペットとして飼う数では無いように思える。
「……家で飼ってるのか?」
「飼ってる……のかは分かりません。ただ、あの刑事さんは三日間、水がないと死んじゃうって」
「でも、親がいるんだ。面倒みるだろ」
「……多分、何もしないと思うから……私がずっと餌とか水をあげてたから、パパやママはしてくれないと思う」
拾ってきたとしても五十匹はどう考えても多すぎる数で、けれども、少女が必死になっていることだけは分かる。そして、何度も言いかけたことはこれだったのかと芝浦は納得したものの、その願いは困難なものでもあった。
幾ら本人に頼まれたからといって、犬や猫五十匹ともなれば、それなりのところで飼っているに違いない。けれども、家の中であれば芝浦には手出しはできない。
「気持ちは分かる……だが、おじさんにもできること、できないことがある」
泣きそうで泣かない、ギリギリで耐えた顔をしていた少女は、俯くとサイドボードの上に置いたままになっていた鞄を掴むと、そのポケットから小さな小瓶を取り出した。
「……これで、神田くんを殺しました」
「これは……」
「毒です。これをカレーに混ぜて神田くんを私が殺しました! 家宅捜索っていうのをするんですよね。その時に助けて下さい! お願いします! じゃないと、あの子たち死んじゃう……」
差し出す小さな小瓶を芝浦はハンカチを広げて受け取ると、電気の明かりに翳してみる。白い粉のように見えるが、中身が何であるかは分からない。だが、自白つきで渡されたら調べない訳にもいかない。
「中尾、科研に頼め」
「分かりました。一旦本庁へ戻ります」
「あぁ、そうしてくれ。それと報告を」
「了解です」
中尾はハンカチごと小瓶を受け取ると慌てて病室を出て行ってしまう。そして、病室には奇妙な沈黙が落ちた。もし、あの小瓶の中に入っている物が神田を殺害した毒と同じものであれば、これで事件は解決になるのかもしれない。ただ、芝浦の中にはどうにも釈然としないものが残る。
今もまるで、犬や猫を助けたいがためだけに少女は小瓶を取り出した。自白するのであれば、あれを最初から出せば良かったにも関わらず、少女は一度だってあの小瓶を出そうとはしなかった。何故、今このタイミングなのか。それは少女が言った通り、松永の言った「三日ほどしか生きられない」という言葉に突き動かされてのことだったのだろう。
だとしたら、やはり何故という疑問ばかりが芝浦の脳裏に浮かび上がる。
「どうして神田を殺した?」
問い掛けに答える声はない。ただ、長い沈黙が続いた後、少女は俯いたままポツリと呟いた。
「……いじめたから」
「本当に? 本当にそれが理由か? もし、ここで嘘をついているなら止めた方がいい。神田は死んだにも関わらず、殺されるほど酷い虐めをしたというレッテルが貼られることになる。それは神田自身だけじゃなく、その両親にも及ぶ。恐らく、同じ土地には住んでいられない状況になる」
一瞬、少女の身体がビクリと震えた。けれども、それ以上、何も言わない。ただ俯いて顔を上げようとはしない。
「本当にいじめたから殺したのか?」
芝浦の問い掛けに、少女は頷くことも、顔を上げることもせずにそのまま布団を握り締めている。どうにも、こうして見ていると少女が神田を殺したいと思うほど恨んでいるようには見えない。むしろ、どうして進んで殺人者になりたがるのか理解できない。
そんな芝浦の脳裏にするりと入り込むようにして浮かんだ言葉は「牢屋に入れますか?」という少女の小さな声だった。そう、確かに最初から少女はそれを望んでいた。恐らく親に会いたくないがための言葉だと思っていたけれども、これではまるで会いたくないというよりも逃走という方が近い。
どうしたら親から逃げ出さないといけない立場になるのか、芝浦の経験では分からない。いくら親を殺したいと思っても、普通であればそれを実行することは難しい。それともそれだけの虐待を受けていた、ということなのだろうか。ただ、それ以前におかしなことは多々ある。
「質問を変えるぞ。どうやってあの薬を手に入れた?」
それに対しても少女は答えることをしない。ただ、黙ったまま俯いている。助けを求めるべく黒澤に視線を向けたけれども、黒澤は小さく横に首を振っただけだった。恐らくお手上げということなのだろう。
基本的にカウンセリングだって、本人に答える意志が無ければ成り立たない。こうして沈黙を守られてしまうと黒澤にも、そして芝浦にも手の出しようがない。もうこれ以上、何も話すことはないとばかりに黙り込んでしまった少女に芝浦は内心溜息をついた。
扉をノックする音に視線を向ければ、職員がトレーを片手に病室へと入ってきた。
「ちょっと失礼するわね」
声を掛けてから少女のベッドに備え付けてあるテーブルを引き出すと、その上に食事の並べられたトレーを置くと一礼して部屋を出て行った。温かな湯気の出る夕飯は、その昔、芝浦も食べたことがある。少なくとも不味いと思った記憶はない。
「とりあえず飯だな。きちんと食べて、それからきちんと眠れ。先生、あんたも食事に行ってくるといい。俺もあんたが戻ってきたら交代で食事に行く」
「分かりました。それではお先に」
昨晩から動いていることもあり、黒澤の顔にも疲労が色濃い。今晩は芝浦がついて、一度黒澤には家に戻って貰い、それから出直してきて貰おう、そう考えると黒澤の背中を見送った。
結局、少女は余り食事を取ることはなく、芝浦に言われてどの皿にも手はつけたけれども、どの皿も完食するこは無かった。せめてこれだけは全部食べろと言ったプリンだけは、どうにか苦労して食べているように見える。元々食が細いのか、それとも家にいる動物が気になるのか、はたまた殺人犯となる自分に恐怖しているのか、芝浦には分からない。
ただ、どこか張り詰めた空気が少女が纏っていて、余り無駄口を叩くような真似はせず、静かな時間を過ごした。黒澤と交代で芝浦も病院内で食事を取ると、再び少女のいる病室へと戻る。
扉を開ければ、やはり少女はこちらを見て、それからホッとしたような顔を浮かべるのが印象的だった。でも、そこまで芝浦を気にしてくれるのであれば、事実を全て伝えて欲しい気持ちになる。どちらにしても、少女に色々聞くのは明日、あの小瓶に入ったものが何であったのか分かってからになるに違いない。それは気の重い作業に思えた。
「先生、今日はもう帰ってくれ」
「シバさんは?」
「俺はここにいるさ。深夜になればマツも戻るし、そしたらそこで仮眠を取る」
芝浦が指さした先には三人掛けのソファがあり、テーブルの上にはまだ誰も手をつけていないペットボトルが並んでいる。
「シバさん、年寄りなんだからそろそろ身体大事にした方がいいわよ」
「揃いも揃ってジジィ扱いしやがって。俺はまだまだ元気だ。早く帰れ」
きっぱりと芝浦が言い捨てれば、黒澤は肩を竦めてから少女へと近づいた。
「真利亜ちゃん、また明日来るわね」
ようやく顔を上げた少女はしばし迷うように視線を彷徨わせてから小さく頷いた。そして部屋から黒澤が出て行ってしまうと、芝浦はベッドのかたわらにある椅子に腰掛けると、背もたれに身体を預ける。
「そろそろ消灯時間になる。歯磨きして寝ろ。明日には樋口に言って風呂に入れる手配をしてやる。風呂って言ってもシャワーくらいだがな」
「……有難うございます」
相変わらず小さな声だけど、二人しかいない部屋ということもあり、その礼は芝浦の耳にも充分届いた。少女はベッドから一度足を下ろし立ち上がると、鞄の中から歯ブラシセットを取り出し、部屋の片隅にある洗面所へ向かう。開けたままになっている鞄を芝浦は少女に気づかれないように横目でちらりと中身を確認する。
洋服の詰められた鞄の隙間から、何枚もの千円札が見え隠れする。ざっと芝浦が見ただけでも二十枚以上あるように見えた。貯金で電車に乗ったと言っていたから別におかしな話しではない。けれども、そのどれもが小さく折りたたまれた跡があり眉根を寄せる。親に虐待されていたと思われる少女が貯金となれば、どうやってお金を用意したのだろうか。それは小さな謎として芝浦の中に残る。
けれども、それを顔に出すことはせず、歯を磨き終えた少女は芝浦を気にした様子もなく歯磨きセットを鞄にしまうとチャックを閉じた。そして、再びベッドに寝転がると、身体をこちらへと向ける。
「どうした?」
問い掛ければ、おずおずと手が伸びてくる。延ばした手が何を求めているのか知り、芝浦は苦笑しながらも小さな手を握り締めた。
「俺の柄じゃないんだがな」
「……ごめんなさい」
「別に責めてはないさ。眠れるか?」
「はい……おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
声を掛ければこちらを見ていた少女の瞼が閉ざされる。けれども、握り締めた手を離すことはせず、静かな部屋はどこか穏やかな空気が流れていた。掌から伝わってくる小さな手は温かく、子どもがいればこんなこともしたのかもしれない、と芝浦はぼんやりと考えた。
しばらくすれば、眠りに落ちたのか少女の呼吸が一定のものになる。病院で倒れるようにして意識を失っていたけれども、それでも子どもには睡眠が足りていなかったらしい。
少し悩んでから芝浦はポケットから携帯を取り出すと、四苦八苦しながらマナーモードにしてサイドボードの上に置いた。できることなら、この眠りを妨げることはしたくなかった。
消灯になり、一斉に電気が消えると、サイドボードに取り付けられた照明がぼんやりと灯る。そんな中で、芝浦は少女を見つめながら小さく溜息をついた。
もし、少女が渡した小瓶が神田を殺したものと同種のものであれば、恐らくこのまま少女は逮捕、勾留、そしてその後、殺人ともなれば少年院へと身柄を移すことになるに違いない。いや、親の虐待を考慮して児童自立支援施設が妥当と家裁は判断する可能性もある。だが、どちらにしても普通の生活に戻るまで月日を費やすことになる。自白が曖昧なままでも、あれが同種であれば物的証拠になるに違いない。
果たしてこのままでいいのか、そう考えた時、芝浦が現在打てる手は少女を説得すること、そして真犯人を捕まえることくらいしかでいない。そしてそのどちらも難題であった。
現時点で少女は自白していて、それを否定するつもりは全く無いらしい。何故、牢屋に入りたいと願うのかといえば、やはり問題があるのは親の存在なのだろう。そういう意味では親から攻めるのも一つの手かもしれない。
ただ、今現状、関根からも言われている通り、芝浦が動くには管轄が違う。関根は児相に口を利いてくれるとは言ってくれたが、保護を求めている子どもは幾らでもいる。緊急を要するのはどうしても命が脅かされる子ども優先で、他は後回しにされがちなことを、畑が違う芝浦でも知っている。
それなら拘留中に芝浦が単独で動くことも考えたが、何せ芝浦にも刑事でいられるだけの時間が残り少ない。その間に親の虐待事実を認めさせることまでできるかと言えば、酷く難しいことのように思えた。虐待するのに愛情があるのであればまだいい。問題は全く愛情が無い場合、犯罪者となった子どもを親は見捨てる確率の方がずっと高い。そうなれば親だって口を噤むし、虐待事実を素直に漏らすような真似はしないだろう。
そんなことを考えていれば、遠慮がちなノックの音が聞こえゆっくりと扉が開く。顔を出したのは樋口で、少女を見て、それから繋がれた手を見て意地の悪い笑みを浮かべた。
「そうやってると孫を大切にするお祖父さんみたいですよ」
「うるせぇよ。何度も言うが、人をジジィ扱いするな。それで、何の用だ」
「ただの見回りですよ。よく眠っているみたいですね」
「そうだな」
改めて少女へと視線を向ければ、体勢は変わることなく眠っていることが分かる。先ほどよりも手を握る力は弱くなったものの、離れたりはしない。それだけ何か縋るものを求めているのかもしれない。
「明日、血液検査の結果がでたら報告します。結果によっては内蔵も細かく調べないといけないかもしれません」
「そんなに悪いのか?」
「少なくとも血液成分はかなり悪いですね。どういう食生活を送ればここまで酷くなるのか知りたいくらいです」
答える樋口の顔は医師のもので、先ほど芝浦をからかっていた顔とは全く違う。その樋口が言うのだから、余り良くないのだろうことは分かる。ふと、その樋口の表情が和らぐと、少女から芝浦へと視線を向けてきた。
「そういえば先ほど松永くんを見掛けたので、そろそろこちらへ来るんじゃないですか」
そう言った樋口の声に被るように小さくノックの音が響き、扉を開けて顔を出したのは松永だった。壁にかかる時計を確認すれば十一時で、約束していた時間よりも一時間ばかり早い。
「〇時って言っただろ」
「本部長に叩き起こされたんですよ。電話に出た瞬間、心臓止まるかと思いましたよ」
「で、何だって?」
「〇時から捜査会議を始めるから、シバさんにも参加して欲しいって」
「そうか……マツ、ここに座れ」
芝浦は少女の手を動かさないように立ち上がり、座っていた椅子に松永を座らせる。それからゆっくりと少女の手を離すと、座った松永にその手を握らせた。
「シ、シバさん?」
「心細いそうだ。俺がいない間、握っててやれ」
「俺、そういうキャラじゃないんですけど」
「俺の方が余計そういうキャラじゃねーだろ。いいから黙ってそこに座ってろ。報告は聞いたか?」
「はい……今科捜研が必死に調べてるみたいです。遅くとも明け方には結果が出るようなことを本部で会った中尾が言ってました」
「そうか。俺は一旦本部に戻る。何かあれば連絡入れろ。捜査会議後、一旦家に帰って風呂入ってからにここに戻る。眠いだろうけど、寝るなよ」
「分かってますよ」
笑いながら答える松永から鍵を受け取ると、芝浦は少女の眠る病室を後にした。深夜ということもあり閑散とした駐車場から車を見つけると、芝浦は運転席に乗り込みエンジンを掛けた。こうして芝浦が単独行動をすることは少なく、移動といえばはもっぱら一緒に行動する若手に運転させることが多い。けれども、家に戻れば妻である充子の買い物に付き合い運転手をすることも少なくない。だから運転は手慣れたものでもあった。
タクシーの多い道を走り十五分もすれば捜査本部の立つ上村署に到着する。駐車場に車を止めて署内に入り、捜査本部の置かれた会議室に向かう。途中、中尾と一緒になり会議室に到着すれば既に多くの人数が集まっていた。
「捜査会議を始める」
その声にざわめいていた会議室は波が引くように静かになった。その中で報告されたのは、少女の自白と薬について、それから少女の両親は開店から閉店までパチンコ屋に毎日通っていることが報告される。多い日は二人で二百万近く使うこともあるらしく、無職の二人がどうやって金を手に入れていたのか、不審点も残る。親を調べる名目が無いなどと言いながら、関根はきちんと調べさせていたらしい。そんな食えない関根に視線を向ければ、視線の合った関根は口角を僅かに上げる。
そして、クラスメイトや担任から聞き出した内容から、ようやく現場の状況が分かるようになったらしく、正面の画面に教室内の様子が大きく映し出された。芝浦はその図面を取り出した手帳に手早く書き写していく。
教師は教壇にある机で給食を取り、生徒は六人ごとに一班となり、それぞれ机を寄せて男女向かい合って食事を取る。そして殺害された神田の隣に座るのは自首してきたという立川という生徒で、少女とは班が違うことから離れている。
けれども、配膳当番というものがあり、実際、その日の配膳当番でカレーを入れていたのは少女だったらしい。ただ、横に立つ同じ配膳当番だった生徒が言うには、器を持ちお玉を持つから毒を入れるのは難しいとの話しが聞けたらしい。けれども、こうして見ているとやはり、少女の容疑は一番濃いものに感じる。
「シバさん、加賀見真利亜の容態は?」
関根に問われ立ち上がった芝浦は、手帳を閉じながらその声に応える。
「まだ微妙なところだなぁ。取り調べが可能かというと、難しいかもしれん。そういえば、おかしなことを言っていた。家に五十匹ほど犬や猫がいるらしい」
「五十匹? それは狂言じゃなく?」
「調べた訳じゃないから分からん。ただ、その犬猫を助ける代わり、というのも変だがあの薬品を渡してきた。自分が犯人なら家宅捜査に入って犬や猫を助けて貰えるからと言ってな。どうにも、自白したから牢屋に入れるとか、微妙な言葉が多いこともあって、俺自身も困惑してるってのが正直なところだ」
「自白したら牢屋に入れる? 確かにおかしな言葉ではあるな。ただ、精神的におかしくなって虚言とか、他人事のように思っているという可能性は?」
「そこはまだ分からん。親からの虐待の可能性は高いが、そこまでカウンセリングが進んでいない」
「分かった」
芝浦が座れば、次々と聞き込みに回った捜査員からも報告が上がる。聞き込みに行った時点で、いじめを見て見ぬふりをしていたと泣き出す子どももいたらしい。
そして、自首してきた立川は、少年ということもあり勾留せず自宅にて事情を聞いているものの、やはり犯行については完全黙秘を貫いているらしい。親も神田とは仲良くしていただけに信じられないと言っていた。ただ、新たな情報としては、数年前まで立川は少女と遊んだりするくらいには仲が良かったらしい。
神田と共に少女を虐める側に回っていた立川の心境というのはどんなものだったのだろうか。もしかして、どちらかが、どちらかを庇い合っている可能性はあるのか、そんなことを考えている内に捜査会議は終了した。
帰り際、関根や中尾を少し立ち話をしてから、芝浦の代わりに中尾が病院に行くということで、病院の途中にある自宅近くまで乗せて貰い杉浦は自宅へと戻った。
深夜一時半、暗い家に戻れば物音で起きたのか、寝室から充子が顔を出した。
「お帰りなさい」
寝起きなのか目を擦りながら現れた充子は、それでも廊下や台所の明かりを灯してくれる。
「すまない、こんな時間に」
「いつものことだから気にしなくていいわよ。亭主元気で留守がいいって言うくらいなんだから。私は好きにさせて貰ってるわよ」
話しながらも充子はやかんでお湯を沸かし、湯飲みを二つ、それから急須に茶葉を入れてお茶の用意をしてくれる。本来であればすぐに風呂に入って病院に戻るつもりだったが、お茶を飲むくらいの時間はあるだろうと台所にある椅子に腰掛けた。
「孝一さんもあと二週間で定年ね。旅行の場所、決めたわよ」
「ほぉ、どこだ」
「北極」
「……」
ニッコリと笑い答える充子に、思わず芝浦は口を開けたまま固まる。南極であればまだ分かるが北極に陸地はない。それとも南極点に船で行きたいのだろうか。そんなことを考えていれば、正面に座る充子は耐えられないとばかりに噴き出した。
「冗談に決まってるじゃないの。私は三ヶ月くらい掛けて北海道から沖縄まで楽しみたいわ」
「北海道と沖縄じゃなくて、日本全国を回るってことか」
「えぇ、楽しそうじゃない?」
話すだけでも笑顔になる充子に、芝浦もつられるように緩く笑う。こうして彼女の明るさに助けられているのはいつものことだ。時折、先ほどのようにとんでもないことを言い出すこともあるが、こうして充子の明るい笑顔を見ていると心がゆったりしてくるのも確かだった。
ただ、芝浦は学校を卒業して警察学校に入り、それから今までずっと警察官をしてきた。特に結婚して五年後には刑事になってしまったこともあり、充子に対して何もしてやれていない。それが今となっては少し後ろめたく思う。
「子どもが欲しいと思ったことは無いのか?」
「あるに決まってるじゃない。今でも欲しいわよ。まぁ、今からだと難しいのは分かってるし、育てるだけの体力も無いわねぇ」
「どうして言わなかった?」
「いやねぇ、何を今さら。昔の孝一さんは血の気も多くて、この人、いつ死んでもおかしくないわと思ってたのよ。だから、怖くて子どもなんて作れる訳ないじゃないの。でも、今ならやっぱり子どもがいたら良かったと思うわ。子どもと二人、あなたの定年を祝うのはとても楽しかった筈よ」
「……すまなかった」
途端に鳩が豆鉄砲を食ったよう顔をして充子は固まると、次の瞬間には口元に手をあてながらも声を上げて笑い出す。笑いながら立ち上がった充子は、やかんから急須にお茶を入れ、湯飲みに注ぐと一つを芝浦の前に置く。
「別に謝る必要なんて無いわよ。老後、孝一さんとの二人の生活が私は楽しみよ。でも、孝一さんがそんなことを考えるなんて想像もしていなかったわ」
どうにか笑いの収まった充子はそれだけ言うと湯飲みに口をつける。芝浦も淹れてくれた湯飲みに口をつければ、芝浦好みのほうじ茶だった。こういう心優しさが、家に帰って来たのだと芝浦を実感させてくれる。
「子どもと触れ合う機会があってな、事件の最中なのにお前のことを考えた。子どもがいれば、もう少し寂しい思いをさせなかったんじゃないかと思ってな」
「あら、私は好きなことを好きなだけ楽しくさせて貰ってるわよ。最近は絵手紙も始めたし、フラダンスだってやっているんだから」
「そ……そうか」
つい言葉に詰まったのは、充子がそんなに色々なことをやっていたのを芝浦が知らなかったからだ。けれども、笑う充子は本当に今が充実している様子で、それが少しだけ芝浦の心を救う。
「えぇ、だからあなたはあなたのやるべきことをやってくれたらいいのよ。残り二週間、悔いの無いように最後まで頑張って欲しいわ。そして定年したら、それから私たち二人で楽しめるものを見つけましょう」
正直、自分の嫁だが充子はよくできた嫁だと思う。充子の言葉で鼻の奥に痛みを感じながら茶をすする。二人で楽しめるもの、それを見つけられるのか分からない。けれども、充子と二人であれば探せそうな気がした。
残り二週間、それまでに今回の事件を片付け、それから今後のことを考えればいい。とにかく今は事件を解決しなければならない。そのために自分はどうするべきか、そう考えた瞬間に芝浦は椅子から立ち上がった。
「風呂入って仕事に戻る。もう寝てろ」
「分かりました。それじゃあ私はこれを飲み終わったら寝ますね」
「あぁ、おやすみ」
「おやすみなさい」
そんな会話を交わしてから芝浦は風呂に向かって歩き出した。

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