指示された中央病院の裏口に車を停めると、周りに人がいないことを確認してから、少女を囲むようにして建物へと駆け込んだ。扉の近くで待っていた職員に案内され、周りの目を気にしつつも一人部屋に足を踏み入れる。そこには既に連絡を受けていたらしい医師の樋口が立っていた。
「シバさん、お久しぶりです。調子はどうですか?」
「別に何ともねぇよ」
「たまには検診に来て下さいよ。もう年寄りなんですから」
「人をジジィ扱いするな」
人を脅しているとしか思えないと言われる目つきで睨み付けたけれども、樋口は全く気にした様子はない。
数年前、張り込み中に盲腸で腹膜炎を起こした芝浦は、この病院へと運び込まれた。その時の担当医師が樋口だったこともあり既に見慣れた顔でもあった。しかも、庁舎の人間に何かあればここに運び込まれるのが常だったこともあり、見舞いに来た際に樋口と顔を合わせることも多く、既に樋口とは遠慮ない間柄だった。
「そんな怒ると血圧上がりますから」
そう言って穏やかに笑うこの男が病院内でかなり遣り手だと聞いたのは、入院中のことだった。そして、噂通り頭は切れるタイプらしく、こちらがどれだけ脅したところでヘラリと笑って躱す様が腹立たしい。
そして、樋口と黒澤も面識があり、お互いに軽く頭を下げると、黒澤は落ち着く間もなくこちらに声を掛けてきた。
「シバさん、松永くん、飲み物でも買ってきてくれない。真利亜ちゃんは何を飲む?」
その問い掛けに言葉ではなく、少女は首を振ることで答え、代わりに声を掛けてきたのは樋口だった。
「あぁ、自分はアイスコーヒーブラックで」
そして少女には見えない位置で犬猫を払うかの如く軽く手を振った。恐らく、すぐにでもカウンセリングを始めたいといったところなのだろう。
「マツ行くぞ」
「えー、マジですか?」
「マジだ。缶コーヒーの一本くらいなら奢ってやる」
「それだけですか! 行きますよぉ」
情けない声を出す松永と共に廊下へ出ると、すぐさま松永の頭に拳を落とした。実際、松永は芝浦よりも背が高いので落とすというよりかは横から殴るの方が正しいに違いない。
「シ、シバさん?」
「いいから来い」
それだけ言って芝浦は説明することなく廊下を歩き出せば、背後からは渋々という雰囲気を隠さず松永もついてくる。エレベーターで最上階まで上がると、そのまま喫茶店へと足を踏み入れた。
「シバさん、飲み物いいんですか?」
「馬鹿野郎、飲み物は口実だ。それくらい分かれ」
「え? じゃあ」
「これから簡易カウンセリングをするんで体よく追い出されたんだよ。まぁ、こっちも報告しないとならないし丁度いい。何かあれば連絡くらい入るだろ」
松永と共にアイスコーヒーを頼むと、すぐさま携帯を取り出した芝浦は本部へと連絡を入れた。その間に向かいでは眠りのピークがきたのか船をこぎ始めた松永に苦笑しつつ、特別、これといったこともないという話しを聞き、こちらからは逆に松永を一旦休憩に入らせる旨を伝えてから電話を切った。
時計を見れば既に午後三時を回ろうとしている。既に二徹目なので、さすがに若い松永でも眠気に勝てない状況らしい。口から涎を垂らしそうな勢いで眠りにつく松永の脛を軽く蹴飛ばせば、飛び上がらんばかりに驚いた松永は目を大きく見開き辺りを見回してからようやく芝浦へと視線を向けてくる。
「お、俺、寝てました?」
「寝てたな、ここ、涎垂れてるぞ」
からかうように言えば、慌てたように松永はスーツの袖で口元を拭う。そんな松永に笑いながらも、軽く顎をしゃくった。
「お前は一度庁舎に戻れ、交代だ」
「え? 帰っていいんですか?」
「もう本部には言ってある。帰れ」
それで喜んで帰るのかと思ったけれども、松永は椅子から立ち上がる気配なく芝浦を見据えている。
「なんだよ」
「シバさんは? シバさんは交代しないんですか?」
「俺は別に眠くないからなぁ。適当な時間に仮眠でも取る」
「それなら俺も帰りません」
「……意地張るところじゃねぇだろ。別にいいんだよ。お前が仮眠とって深夜に戻ってきたら俺も一度家に戻る。さすがに風呂くらいは入りてぇよ」
呆れながらもこれからのことを説明してやれば、ようやく合点がいったのかようやく松永は腰を上げた。今までならそそくさと帰っていたのに、こうして残ろうとするところを見るとやはり成長はしているらしい。
「あっ……そういうことですか。えー、でも、それならシバさんの方が年ですし先に」
「人を年寄り扱いする前に帰りやがれ」
吐き捨てるように言えば、松永は引き攣った笑いを浮かべると「お先に失礼します」と逃げるようにテーブルを離れていく。その逃走する背中に「〇時には戻れ」と声を掛ければ、一度足を止めて振り返った松永は敬礼して喫茶店を出て行った。
周りの目なんて全く気にしない松永に苦笑しつつもテーブルを見れば、松永の飲み残したアイスコーヒーはすっかり氷も溶けてしまいグラスの周りに水溜まりを作り上げている。
元々、事件が起きれば集中してしまうからなのか芝浦は極端に睡眠時間を必要としなくなる。それこそ、一日一時間も眠れば一週間位は余裕で現場に立てる。ただ、これには問題もあって、事件後、しばらくの間不眠になるのが困りものでもあった。
松永と交代してこちらに寄越されるだろう中尾を待つ予定で、今度はホットコーヒーでも頼もうかと思ってメニューを眺めてみる。けれども、注文するよりも先に携帯が鳴り出し、メニューを置くと同時に携帯を耳にあてる。
「芝浦だ」
「シバさん、悪いけど戻ってきてくれない。シバさんがいないと、あの子不安みたいで凄く気にしてるの」
「カウンセリングの結果は出たのか?」
「余り多くは話してくれなかったの。今度はシバさんにも付き合って貰うかもしれないわ。ただ、両親が何らかの形であの子を抑圧しているのは確かね」
「分かった。今すぐ戻る」
電話を切ると二杯目のコーヒーを頼むことなく喫茶店を後にすると、途中にある売店で約束通り何本かの飲み物を買った。それから病室に戻れば、扉を開けた途端にベッドに座る少女と視線が合った。相変わらず表情は余り無いけれども、それでも、小さくその唇から溜息が零れたのだけは辛うじて見て取れた。
「あら、松永くんは?」
「あいつは仮眠。ほらよ」
芝浦は袋の中から、黒澤と樋口に頼まれていた飲み物を渡すと、少女にも袋を向けた。
「どれ飲む」
袋の中にはまだ五本ほど飲み物が入っていて、紅茶からジュース、全てが違う種類のものだった。その中から少女は麦茶を選ぶと小さな声でお礼を言う。
少女くらいの年齢でお茶とは随分と渋いと思う。けれども、お茶が好きだという子どもがいない訳でもないから、余り気にせずに近くにある椅子に腰掛ければ、やはり何か言いたげな顔で少女がこちらを見ている。
「どうした?」
「あの……」
途端にポケットに入れていた携帯が鳴り響き、芝浦は内心舌打ちすると「すまん」と少女に声を掛けてから、座ったばかりの椅子を立ち上がり病室の外へ足を向ける。すれ違う際に黒澤が使えないとばかりに呆れた顔をしていたけれども、残念ながら芝浦の仕事が刑事である以上、携帯を無視する訳にはいかない。
「芝浦です」
「関根です。今回の殺人事件についてクラスメイトの一人が自首してきた」
「なに?」
「名前は立川祐紀、ただ殺害理由並びに殺害方法については黙秘してる」
それは新たな新展開ではあるものの、そうなると殺害したと自供する容疑者が二人になってしまう。この展開に、さすがに芝浦も鼻白む。
「それで、立川は」
「今は捜査員が問い掛けているが、全く返答なしだ。一応保護者も立ち合っているが、保護者の問い掛けにもひたすら黙秘だ。そっちはどうだ」
「ようやく落ち着いたところなんですが……その件、加賀見真利亜にぶつけてもいいですか?」
「精神的に安定はしてるのか?」
「先生はつきっきりです」
「一応、先生を通して了承を取ってからにするべきだろう。もし被疑者で無かった場合、精神破綻に追い込む訳にもいかない。下手したら補償問題に発展する」
少女が自白をしてから、ずっと引っ掛かっていることがある。親から逃げ出したいがために、彼女が自白をしたのではないのか。ずっとその考えは芝浦の胸に燻り続けている。一層、親に聞き込みをしたいところだが、順番を間違えれば大変なことになるのは目に見えている。
「加賀見真利亜の両親はどうしてます?」
「三十分置きに電話が掛かってきてる。娘はどこにいると」
「親の方、周りに聞き込みできませんかねぇ」
「どんな容疑で?」
「児童虐待の線で」
「それは俺たちの管轄じゃない。シバさんだって分かってるだろ」
それは芝浦にも分かっている。ただ、何もせずぼんやりとしていることもできない。少女のためにも、そして少女の口から事件について聞き出すためにも。
「だが、そうだな、児相に情報を流しておく。ただ、児相に流すにしてももう少しネタがないと向こうもすぐには動かない。児相にも優先順位はある」
「分かり次第連絡入れます」
予想外の展開に大きく溜息をついたところで、丁度黒澤が病室から出てきた。そして、芝浦を見た途端に大きく溜息をついた。
「松永くんならともかく、こんなジイさんの何が気に入ったんだか」
「何だ、藪から棒に」
「真利亜ちゃんが待ってる」
そう言って病室のスライドドアを開けようとした黒澤の手を掴み、その動きを遮る。
「今、事件に新たな展開があって、クラスメイトの一人が自首してきた。その件を彼女に伝えようと思う。先生の目から見て、ぶつけても大丈夫だと思うか?」
「ちょっと待ってよ。まだカウンセリングもきちんとできてないのに、そんなこと問い質されても私だって困るわ」
「だったら、今すぐカウンセリング可能か?」
「……シバさんがついているなら、多分、もう少し話しが聞けると思うわ」
「分かった。なら、今から頼む」
真剣な声で頼めば、黒澤は強張った顔で頷いた。移動していた分だけ、少女に対しての取り調べは随分と遅れを取っている。けれども、いずれは聞かなければならないことで、もう一人容疑者が現れたことで急がなければならない。少なくとも、どちらかは被疑者ではないし、まだ被疑者は第三者の可能性だってある。その可能性を潰していかなければ事件の解決にはならない。
そして、その鍵を握るのは間違いなく、この扉向こうにいる少女だと芝浦の勘は告げている。勿論、勘なんて曖昧なもので物事を進めるつもりは無かったが、ただ、毒を使ったという少女は何かしらの関わりはあるはずだ。
ノックをして病室に入れば、少し困ったような顔をする樋口と、やはり芝浦の顔を見て小さく溜息を零した少女がいる。芝浦自身、何故そこまで少女が自分を慕うのかはよく分からない。ただ、カウンセリングの結果、下手をしたらこの少女を傷つける発言をしなければならないと思うと、それが自分の仕事だと分かっていても胸は痛んだ。
「真利亜ちゃん、少し話しを聞いてもいいかな。大丈夫、シバさんもここにいるから」
「あの……」
「どうかしたの?」
けれども、少女の視線は問い掛けた黒澤ではなく芝浦に向けられていて、何かを訴えようとしている。何度も口を開いては閉ざし、それを繰り返す内にヒュッと喉が鳴る音が聞こえたかと思うと、少女は喉を押さえたまま目を大きく見開く。そんな中ですぐに動いたのは樋口だった。先ほど芝浦が買ってきたジュースの袋を逆さまにして中身全てを出すと、少女の口にあてる。
「な、なんだ?」
「過呼吸症候群です。いいかい、ゆっくり息を吸って、そう、今度はゆっくり吐いて。そう、上手だ」
樋口が何度も声を掛けて繰り返す内に、少女の呼吸は穏やかになりそのまま眠るように意識を失った。少女の背を支えていた樋口は、ゆっくりと少女を寝かせると、その顔を横に向けてから袋を取り去った。ガサガサと耳障りな音がするにも関わらず、少女が反応することはない。
「過呼吸症候群ってのはどういうもんなんだ」
「不安やストレス、それに伴い簡単に言うと二酸化炭素を吐き出しすぎて息苦しさを覚える症状です」
「この場合はストレスか、不安か」
「それは黒澤先生の方が専門ですから、僕には分かりません。どう思います?」
話しを振られた黒澤は酷く難しい顔をして顎に手を当てた。しばらく部屋に沈黙が落ち、ジリジリとした気持ちで芝浦は黒澤の言葉を待つしかない。
「移動中、ずっとシバさんに何か言いかけてたわね。恐らくストレスよりも不安だと思うわ。彼女を不安に落とし入れる要素が言葉を奪ったんだと思うけれども……せめて落ち着いてカウンセリングさせて欲しいわ」
「すまんな。だが、こういう場合はどうすればいい」
「薬を処方するのが一番早いと思いますよ。ただ、一つ気になってることがあるんですけれども、僕の所見で彼女は栄養不足だと思われます。現時点では点滴で栄養を補うのが先決かと」
「栄養不足? 普通の子どもに比べて大柄だと思うんだが」
「栄養失調一歩手前だと思います。栄養失調も様々な症状がありますが、大柄だから大丈夫というものではありません。確かに大柄ではありますが、これもスナック菓子などの大量摂取によっての高コレステロール食品の弊害だと思います。実際、こうして見ていると余り骨太という訳ではありませんし、先ほど血圧を測らせて貰いましたけど子どもにしては随分と低血圧でした」
「あぁ……そういえば、前にいた病院でも検査を受けるように勧められた」
「そういうことは早く言って下さい。過度の栄養の偏りは内臓に大きな障害を残すことも多いんです。いいですか、今から検査を行いますから、カウンセリングは後にして下さい」
それだけ言うと、樋口は怒ったように出て行ってしまい、眠った少女と芝浦、そして黒澤の三人が部屋に取り残される。
「まぁ、医者としては当然よね。カウンセリングすることに焦って体調を気遣う余裕が無かったわ」
「いや、急かした俺も悪い」
けれども、少女の意識が無いのであれば何かを聞き出すことは不可能で、芝浦としても完全な手詰まりに陥っていた。そこへ扉をノックする音が響き、黒澤と二人そちらへと視線を向ければ現れたのは中尾だった。
「松永さんの交代で」
「あぁ、聞いてる。入れ」
敬礼して説明しようとする中尾の言葉を遮り芝浦が声を掛ければ、ベッドに眠る少女を見て中尾は言葉を止めた。小さく「失礼します」と声を掛けて部屋に入ってきた中尾は、黒澤と面識が無いらしくチラチラと黒澤を見ている。
「あぁ、そうか。先生、これうちの新人の中尾。中尾、こちらは小児カウンセラーの黒澤先生」
間に入り芝浦が紹介すれば、お互いに軽く挨拶してから今度は芝浦を伺う。
「何だ、言いたいことがあるなら言え」
「あの本部長からの伝言がありまして」
「廊下で聞く。先生、少しここを頼みます」
それに対して黒澤が短く返事をするのを確認してから、中尾と共に廊下へ出ると辺りを確認した中尾はようやく口を開いた。
「新情報として、クラスの担任が今年で二年目の坂井由美という女性なんですが、どうも他の教師に神田のことを問題児として随分グチを零していたらしいです。時折、神田さえいなければうちのクラスは何も問題が無いとボヤいていたらしく、数名の教師から証言がありました」
「容疑者がこれで三人か」
思わず溜息混じりに芝浦が呟けば、隣に立つ中尾も小さく唸る。
「確かに小学生ではありますが、クラス三十人、教師含めて三十一人もいる中での殺人なのに、これといった証言が無いのは厳しいですね」
「飯を前にした小学生なんてそんなもんだろ。だが、不可解なほど何も見えてこないな。状況証拠でいえば確かに加賀見真利亜が一番被疑者としての線は濃厚なんだが、どうにもあの子はちぐはぐでな」
言葉にしながら芝浦は最近薄くなりつつある頭をガシガシと掻くと、もう一度溜息をついた。芝浦に残されているのは残り二週間。それまでに解決できなければ、芝浦は未解決の状態で捜査本部を抜けなければならなくなる。あの時、少女は何を言いかけたのか、それが聞ければ何か一歩進める気がした。
親から虐待を受けているだろう少女は、一体何を考えて自白したのだろう。ただ親から逃げるためだけに殺人犯の汚名を被ることにしたのだろうか。それとも少女が本当に殺人を犯したのか、まだ芝浦の目には何も見えてこない。
そして、警察に自首したにも関わらず黙秘を続ける少女の同級生である立川は、何のために自首したのだろう。少なくとも、自首したのであれば黙秘する必要はない。
クラス内でクラスメイトの誰もが認めるいじめに気づいていた担任は何を思ったのか。絡み合いそうで絡まない糸に、芝浦はもう一度小さく溜息をついた。
ふと人の気配が近づいてきて顔を上げれば、樋口が看護師を連れてこちらへ歩いてくる姿が見える。一度、芝浦の前で足を止めると、わざとらしく大きく溜息をついた。
「刑事だから事件を解決するのが仕事だというのは分かっています。けれども、救える命を見殺しにするような真似はしないで下さい」
「あぁ、分かってる……助けたいんだよ、俺も」
誰をとは言わない。助けたいのは無罪である全ての人たちだ。けれども、樋口との付き合いは長いこともあり、芝浦が言いたいことなど樋口にも分かっているのだろう。樋口はそれ以上何が言うこともなく、ノックをしてから病室内に看護師と共に姿を消した。
けれども、それから一分もしない内に扉は開かれ、樋口が顔を覗かせた。
「どうした」
「彼女がどうしてもあなたに言いたいことがあるらしいです」
その言葉に芝浦は気を引き締めると、小さく頷いて樋口の手で開かれた扉をくぐった。そして、やはりこちらを見ていた少女は、助けを求めるような、縋るような目で自分を見ていた。