匣から溢れ出る殺意 Act.05

病室の扉を開ければ、床に座り込み少女の腰に腕を回して荒い息を吐く松永と、松永の腕の中で呆然とした顔をした少女がいた。ただ、その目からは涙が溢れて頬を伝う。そこに表情は無く、ただ静かに嗚咽も漏らさず泣く姿は酷く痛々しく見えた。内心、松永によくやったと声を掛けながら二人に近づくと、ゆっくりと少女の前に屈み込んだ。
「ここがどこだか分かるか?」
声を掛ければ、少女は辺りを見回してから嗚咽を漏らすこともなく小さく頷いた。
「どこだ?」
「……病院」
「そうだ、病院だ。ここでは毎日、死にたくないともがいて頑張ってる人間も多い。頼むから、そういう人たちに絶望を突きつけるようなことはして欲しくねぇんだ。本当はもっと分かりやすく説明できればいいんだけどなぁ……俺が言ってることは分かるか?」
芝浦はいつも以上にゆっくりと優しく諭すように語りかける。正直、こんな優しい声を自分でも出せるのかと自分でも驚いたくらいで、少女の後ろにいる松永辺りは目を丸くしている。けれども、分かって欲しかった。命は等しく大切なものだということを。
そして少女は小さく頷き、そのまま俯いてしまうとようやく堰を切ったように泣き出した。子供らしい泣き方にホッとしていれば、バタバタと廊下を走って担当医である竹河と黒澤が入ってきた。黒澤はすぐに少女の傍まで近づくと、芝浦と同じように少女の目の高さに視線を合わせると声を掛けた。
「真利亜ちゃん。よく聞いて。あなたの両親はここへ来ないわ。真利亜ちゃんが会いたくないなら、会わせないようにしてあげる」
その声に顔を上げた少女は、ただ真っ直ぐに黒澤を見ている。初めて見せる無表情以外のその顔は、まさに縋るような、助けを求める目だった。
「私は黒澤。この二人と違って刑事じゃないから、真利亜ちゃんを逮捕したりしない。真利亜ちゃんと一緒に幸せになる方法を見つけたいと思うの。うさんくさいかしら?」
「幸せ……? でも、私は……」
「誰にでも幸せになる権利はあるの。だから、私はその手助けをしたいと思うわ。それに、死ぬのはとても怖かったでしょ?」
優しい、柔らかな黒澤の言葉に、少女はしばらく迷いを見せたものの、小さく頷いた。それから不意に芝浦へと視線を向けてくる。相変わらず、その目はガラス玉のように意志を感じられないものだったけれども、芝浦と視線を合わせたまま唇を開いた。
「ごめんなさい」
小さく、まるで消えそうなほど小さな声で謝罪の言葉を口にする。表情から感情を読むことはできない。けれども、その謝罪が先ほどの芝浦の言葉に対してだとしたら、きちんと命の大切さを知っているのかもしれない。
色々と聞きたいことはある。けれども、黒崎の視線が今は何も聞くなとばかりに睨んでいて、少し悩んだ末に芝浦はゆっくりと手を伸ばすと、少女のボサボサになっている頭に手を乗せるとくしゃりとその頭を撫でる。
「よし、分かったならそれでいい」
もう何年も他人に意識的な笑みを見せたことなんてない。だから上手く笑えているか分からないが、芝浦にできる精一杯の笑みを浮かべれば、少女の口元が僅かながら笑みの形を浮かべる。その事にホッとした途端、内ポケットに入れたままになっていた携帯が派手な音を立てて着信を告げる。
最後にもう一度、少女の頭を撫でて立ち上がると、その少女の後ろにへたりこんでいる松永の頭も軽く小突くとそのまま廊下へ出てから携帯を取り出して通話ボタンを押した。
「はい、芝浦」
「関根です。黒澤先生も到着したでしょうし、できたら加賀見真利亜の身柄をこちらへと連れてきて欲しい」
「いつまでに」
「一時間以内に」
一時間以内とはまた随分と急かさす。だが、さすがに先ほどのことを考えると一時間以内の移動はできるだけ避けたい。
「それは……随分と急ですね。まだ落ち着いてないですし、今も自殺未遂を起こしたところです」
「それで?」
「松永が間一髪助けました。後で一言労ってやって下さい」
芝浦の言葉に電話向こうの関根が微かに笑う。
「分かった。だが、移動は早急に行って欲しい。加賀見真利亜の両親がそちらへ向かった」
「こっちにですか?」
「あぁ、どこかの記者がその病院名を教えたらしい。警視庁管内であれば警備も立てられるが、さすがに新潟県警に頼むには時間が掛かりすぎる。何せ上を通さないとならないからな」
「分かりました。できる限り急いで移動します。目処がついた時点で連絡入れます」
いつものように挨拶して携帯を切ると、大きく溜息をついた。これはさすがに芝浦としてもどう伝えていいものか困惑する。相手が大人であればストレートに言っても構わない。だが相手は子どもで、幾ら憎まれ口を叩いても親を求める子どもは多い。どう切り出すか、少し悩んで言葉を決めると扉をノックしてから病室の扉を開けた。今までとは違い、きちんと少女はこちらへと視線を向けた。
先ほどまで少女は床に松永と共に座り込んでいたけれども、今はベッドの上に座っている。その少女の前に立つと、視線を合わせるために屈み込むと、先ほど考えていた言葉を切り出そうと口を開いた。けれども、芝浦が声を掛けるよりも先に少女の口が動いた。
「私が神田くんを殺したんです」
どこか透明さを含んだ小さな声を、芝浦は聞き流しそうになり、そして内容を聞いて大きく目を見開いた。
「……どうやって」
「毒を入れて」
その言葉で一瞬にして病室内の空気が緊張に包まれる。誰も何も言わない。静かな空間で誰もが次の言葉を待つ。けれども、少女はそれ以上語り出さない。報道協定を引いている関係で、殺されたという情報はニュースや新聞で流れているが、毒殺だったという情報はまだどこの報道機関でも取り上げていない。
それを何故この少女が知っているのか。本当にこの少女が神田を毒殺したのか困惑する。拙い芝浦のあの言葉で「ごめんなさい」と言える少女は間違いなく命の大切さを知っている。それなのに、そんな少女が人を殺したりするのだろうか。困惑しながらも、それでも言葉は自然と長年の習性で続く言葉は出てきた。
「どうやって毒を入れたんだ?」
「給食のカレーに混ぜました……私、牢屋に入れますか?」
その問い掛けに酷く違和感を感じた。入れますか、という言葉ではまるで牢屋に入ることを望んでいるような、そんな響きがある。思わず黒澤を勢いよく見上げれば、酷く固い表情をしたまま少女を見下ろしている。どうやら、現時点で黒澤からの助言は難しい状況らしく、芝浦は改めて少女と視線を合わせる。
真っ直ぐに、けれども感情の乏しい目が自分を見ている。
「一度、東京に戻って色々と話しを聞きたい。一緒に東京へ来てくれるか?」
途端に少女の顔は強張り、何度も首を横に振る。どこかロボットじみたその動きに手を伸ばすと、小さな子どもの頭を両手で止めて、もう一度視線を合わせる。
「君の両親がこちらに向かっている。会いたいならここにいるのもいい。だが会いたくないなら一緒に東京へ戻ろう。そしたら、俺の仲間も沢山いる。君が両親に会いたくないというなら、きちんと会わないように手配する」
止まったと思っていた涙が再び頬を伝っている。そんな少女を痛々しく思いながらも言葉を紡げば、動きを止めた少女は悩んでいる様子が窺える。もしかしたら、芝浦の言葉を信じるべきか、信じないべきか迷っているのかもしれない。
「真利亜ちゃん。とりあえず、私の友達がやってる病院に行きましょう。そこならおじさんたちも警備がしやすいし、真利亜ちゃんも家に帰る必要はないから。罪を犯したからって、すぐに牢屋い入れる訳ではないのよ。大丈夫、おじさんたちも私も一緒に行くから、東京へ戻りましょう」
黒澤の言葉で、ようやく少女が家に帰されることを怖がっていることに気づく。嘘は言いたくない。けれども、このままでは時間もない。
「いざとなれば、おじさんの家に来ればいい」
「シバさん!」
慌てたように声を掛けてきたのは松永だ。確かに被疑者である少女と一緒を家に連れ帰れば問題になることは分かっている。けれども、今は少女の迷いを解いてやりたかったし、本当に家へ連れ戻されることが嫌だというのであれば、それを聞き入れてやりたかった。どちらにしても今月末には定年になるのだから、今の芝浦に怖いものはない。
迷いを見せていた少女が俯き掛けていた顔を上げて、芝浦を見つめる。ガラス玉のような目に感情はない。けれども、全ての嘘が見透かされそうなそんな真っ直ぐさがあった。
「本当に?」
「あぁ、刑事だから嘘はつかない。病院を出て、それでも行くところがなかったら、おじさんの家に来ればいい」
「……なら、戻る」
ぽつりと呟いた声に、芝浦は先ほどと同じように頭を撫でると、隣から声が飛んできた。
「ちょっと、シバさん! 折角、髪を直したのに何するんですか!」
「そうなのか? すまん」
慌てて手を離せば「そうじゃなくて!」と怒った顔をする黒澤は、芝浦の手を掴むと、もう一度少女の頭に乗せる。そしてゆっくりと髪の流れに会わせて芝浦の手を動かす。
「こうして髪の方向に向かって撫でればいいんです。シバさん、本当にがさつなんだから」
「そりゃあ悪かった」
肩を竦めながら黒澤に謝り、それから少女にも視線を合わせて同じ言葉を伝えれば、少しだけ首を横に振った。
「頭……撫でられたの、初めてだから……嬉しいです」
ポツリポツリと呟くように囁かれる言葉に内心驚きはしたものの、ポーカーフェイスを崩すことはしない。ただ芝浦は「そうか」と短く答えて何度も繰り返し頭を撫でてやる。
親がいて、それで頭を撫でられたことがないということはあるのだろうか。確かに芝浦自身も父親から頭を撫でられた記憶などないが、あの頭の固い親父がそんなことをするとは思えない。けれども、そんな父親の分とばかりに、褒めてくれるのは母親だった。そして、芝浦の記憶でも良いことをして母親が自分の頭を撫でる記憶は微かながら残っている。
子どものいない芝浦に子どもの扱いは分からない。けれども、精一杯過去を振り返り、そして少女の頭から手を離すとその手を差し出した。
「おじさんと一緒に戻ろう」
少し迷った様子を見せた少女は、ためらいながらも芝浦の手に小さな手を乗せてきた。ぽっちゃりとした小さな手は、子どもらしさ溢れる手に見えた。その手を握り締めると、ゆっくりとベッドから立ち上がらせる。
「マツ、車回せ!」
「了解しました」
勢いよく病室から出て行った松永に続いて芝浦も歩き出す。病院側に挨拶してくると言って黒澤も離れてしまい、少女と二人、手を繋いで廊下を歩く。
芝浦には定年になったら海外旅行へ行こうと約束していた妻がいる。子ども好きな妻だったが、一度たりとも芝浦は「子どもが欲しい」と望まれたことはない。だから余り気にしたこともなかったが、もしかして、妻である充子はずっと望んでいたのかもしれない。芝浦が刑事という、いつ命を落としてもおかしな職業についていなければ……。
思考の底へ沈んでいたことに気づいて慌てて少女へと視線を向ければ、こちらを見上げる少女と視線が合う。
「どこか、痛いんですか?」
小さく怯えたような声で、それでも芝浦を気遣うような声を掛けてくる。ポーカーフェイスは得意だし、思考の底へ沈んでいたからといって表情に出したつもりはない。それでも、何かを読み取ったらしい少女の言葉に、芝浦は微かに笑う。
「大丈夫だ。さぁ、行こう」
改めて病院の廊下を二人、手を繋いだまま歩き出す。
果たして、こうして他人を気遣う少女が人を殺したのだろうか。芝浦には俄に信じがたい思いだった。けれども、誰しも心の底に裏がある。それはいつでも表に現れている訳ではなく、ふとした拍子に現れる。憎悪や嫉妬や嫌悪、醜いとされる感情は誰にでも持ちうるもので、それは恐らくこの少女にだって存在する。
信じがたいと思っていても、存在する感情を否定することはできない。東京へ戻って少し落ち着いたら、きちんと少女の口から真実を聞かせて欲しいと願う。両親から逃げるための嘘だったのか、それとも本当に殺してしまったのか。今の芝浦には、判断すべき証拠が何一つ存在しない。
病院の正面に松永は車を停めて待っていた。その後部座席を開けると、途端に警察無線が飛び込んでくる。
「マツ、無線切っとけ」
「でも」
「いざとなれば携帯もある。今は切っとけ」
「分かりました」
松永が無線を切る間に少女を後部座席に促すと、少女は抵抗することもなく車へと乗り込んだ。一旦扉を閉めてから、芝浦は携帯を取り出すと本部に連絡を入れ、これから東京に戻る旨を伝える。そして、新たな情報として、四日前に神田に加賀見真利亜が階段から突き落とされたことを聞く。
階段から突き落とすとは随分と穏やかではない話しだった。結局、怪我らしい怪我はなかったらしいが、恨みが増幅した可能性は確かにあったのかもしれない。そして、怪我をして二日、少女は学校を休んでいた報告も受けてから電話を切った。
電話を終えたところで黒澤も病院から出てきて、芝浦を見るなり軽く肩を竦めた。
「何よ、私が必要ないくらい懐かれてるじゃない」
「助かったよ。今だって、こうして病院側に挨拶してくれて」
「その為に来たんじゃないんだけどね。あぁ、医師から言われたわ。一度、彼女は精密検査を受けさせた方がいいって」
「どこか悪いのか?」
黒澤の言葉で眉根を寄せた芝浦は、幾分低くなった声で問い掛ければ黒澤は小さく溜息をついた。
「それは調べてみないと分からないけど、私も少し気になったのよね、彼女の爪。爪の表面が子どもにしては随分ガサガサだし、顔色も青白い。まぁ、こんなことがあった後だし顔色は何とも言えないけど、精密検査に関しては私も同意よ」
「どちらにしても病院にいることになるんだ。精密検査も受けて貰おう」
「それがいいと思う」
そこで会話を打ち切ると、芝浦は助手席、黒澤は後部座席、それどれの扉を開けると乗り込んだ。時計を見れば既に九時を回ろうとしている。始発に乗ったとしても少女の両親がここへ到着するのは十時近くになるだろう。頭を撫でたこともない両親、どちらにせよ、いずれ二人にも話しを聞かなければならないに違いない。
車に乗るともっぱら話しをしていたのは松永と黒澤の二人だった。高速に乗ると上越ジャンクションから上信越自動車道へと入る。騒がしい二人の会話を聞いていれば、しばらく走ったところで黒澤が声を上げた。
「ちょっと、そこのパーキングに寄ってよ!」
「黒澤、お前なぁ」
「いいじゃない、私、朝ご飯も食べてないのよ。一日一食でも生きていけるシバさんたちと一緒にしないでよ」
よく考えてみれば、確かに朝食なんてものを取っていない。実際、朝食を取りたいのは黒澤ではなく、少女を気遣っての発言だろう。黒澤の遠回しな意見に納得して、気遣いを無にしないために渋々という声で答えた。
「分かったよ。マツ、そこのパーキング寄ってやれ」
「了解です」
ミラーで確認しながら車線変更した松永は、危なげもなく現れたパーキングの道へと入ると適当なところで車を停めた。四人で車を降りれば随分と緑が多く、まるで公園のように見える。そして随分と広いパーキングエリアらしく、四人でのんびりとレストランへと向かう。高速のパーキングの割に犬を連れた人が目立ち、つい視線を向けていれば松永が一人ぼやいた。
「あー、うちの猫大丈夫かなぁ」
「何だ、お前、猫なんて飼ってたのか?」
「家の前に捨てられてたのを拾って飼ってますよ。おかげで寮を追い出されました」
「この職業でペットを飼おうってのが間違えてるだろ。昨日帰れなかったのに、どうするんだ」
「近所に姉が住んでいるので、少しお金渡して餌とトイレを変えて貰ってますよ、出費が痛すぎます」
「だったら、他の奴に譲ればいいだろ」
「そんなのできませんよ! あれはうちの可愛い我が子です」
力説する松永に呆れていれば、隣を歩く少女がチラチラと松永を見上げている。その視線に気づいて、軽く松永を肘で小突けばようやく松永も気づいたらしい。
「ん? 何か俺に質問?」
「あの……犬とか猫って……どれくらい餌を食べないと死んじゃいますか?」
松永相手に初めて少女が声を掛ける。それに対して、松永は眉根を寄せて本気で悩んでいる。
「どうだろう。水があれば一週間くらいは大丈夫だと思うけど、水がなければ人間と一緒で三日くらいじゃないかなぁ」
「……そうですか」
途端にその顔に影が落ちた気がした。思わず黒澤と目を合わせれば、黒澤が殊更明るい声で少女に声を掛けた。
「真利亜ちゃんは何かペットを飼っているの? 家に置いてきたから気になる?」
黒澤の言葉に勢いよく顔を上げた少女は口を開き掛けたものの、声を発することなくそのまま口を閉ざしてしまう。そして黙り込んでしまった少女に、声を掛けることもできない。そしてそんな空気に全く気づかないのか、松永が声を上げた。
「うわー、ドッグランまである! 凄いなぁ、ここ」
「最近はパーキングにドッグランついてるところ珍しくないわよ」
「そうなんですか。まぁ、でも犬は一日二回の散歩が義務づけられてるくらいですし、長旅になるならこういう場所があると犬を飼ってる人には助かるでしょうねぇ」
「何よ、猫だけじゃなくて犬も好きな訳?」
少し呆れた黒澤に口調に全く気づいていないのか、松永の声は殊更明るいものになる。
「動物全般好きですよ。警察じゃなければ動物園に就職しようかと本気で考えたくらいでしたから」
「全然方向性違うじゃない」
「だから人生の選択は楽しいんです」
生意気な口をきく松永に苦笑しつつ少女へ視線を向ければ、元々顔色のよくない顔が更に青くなっているように見えた。
「ん? 具合でも悪いのか?」
問い掛ければ、やはり何かを言いかけて口を噤むと、そのまま首を横に振った。問い掛けようとしたけれども、近くにいた黒澤が首を横に小さく振るのが見えて、そのまま芝浦も追求の言葉は掛けない。
「何か気になることがあれば聞けばいいさ」
それだけ言って頭をぐしゃぐしゃと幾分乱暴に撫でれば、再び黒澤から文句が出たが、それを無視してドッグランに張り付く松永の襟首を掴んだ。
「ほら、行くぞ」
引きずるように歩き出しレストランの中に入れば、カレーの香りが漂ってきて腹を刺激する。仕事中であれば気にならない空腹も、さすがに刺激的な臭いを嗅げば空腹を思い出す。
食券販売機の前に立つと、お金を入れて隣に立つ少女を促す。
「好きな物押せばいい」
「あの、お金」
「別にこれくらいごちそうした所で痛むほど痛い金額じゃないさ。遠慮しないで自分が食べたい物選べ」
しばらく悩んだ末に少女が一番安いうどんを選んだ。芝浦はポークカレーを選べば、黒澤が笑顔でこちらを向いて黒澤自身を指さしている。そのちゃっかりした様子に呆れながらも、販売機の前を譲れば、きのこスパゲティを押した。
「俺も、俺も!」
「お前は自腹だ」
「そんなぁ」
情けない声を出す松永を無視しておつりを出すと、しっかりと財布の中に小銭をしまった。結局、自分のお金で豚丼を選んだ松永と四人でカウンターに並び、トレーに渡された食事をそれぞれ持って窓際にある座敷の一角に腰を落ち着けた。
それぞれ「いただきます」と口にして食事に手をつける。基本的に時間の取れないことが多い芝浦と松永が先に食べ終わったけれども、黒澤はともかく少女の食事は余り進んでいないように見える。
「どうした、美味くないか?」
「……あの」
どこか縋るような目で見上げてきた少女だったけど、視線を落とすとそのまま黙ってしまう。先ほどから何か言いたげにしているけれども、それを口にすることはしない。けれども、その目が助けて欲しいと縋るような目で訴えてくるから放っておく訳にもいかない。
「言いたいことがあるなら言った方が楽になるぞ」
「……」
けれども、真一文字に口を引き結んでしまった少女は、言葉にすることはなかった。ただ、ジッとうどんを見つめている。結局、少女は半分ほどを残し、車へ戻ると再び東京に向けてのドライブが始まる。しばらくすると黒澤は眠ってしまった様子だったが、黒澤の隣に座る少女は眠ることもなくぼんやりと外を眺めている。
会話を振ってもそれに答えることなく、ただ、黙ったまま外を眺めている。何かを考えている様子の少女に、現時点で芝浦ができることは何一つ無かった。

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