気づけば、周りに誰もいなくなっていた。五年生の時にクラス替えがあって、それまでよく話していた友達とクラスが別れた。友達ができる間もなく、クラスのリーダー的な男子が私のことをブタと呼ぶようになった。
その時まで余り気にしたことがなかったけれども、周りの子に比べたら私は太ってる。だから、ブタと言われても返せるだけの何かがなかった。体重六十五キロ、それは六年生の平均体重を大きく上回るものだった。
最初の頃はそういうのはよくない、と言っていた女の子たちも六年生になる頃には、男子たちがブタというと冷ややかに笑っていた。それでも、女の子たちは何かをしてくることはない。
クラスのリーダー的な神田くんは、毎日、私のことをブタと呼ぶ。そしてそれを聞いて、神田くんと仲のいい大久保くんと立川くんは笑う。その後ろでクラスのみんなが笑っている。
教科書を破いたり、靴を隠したりするのも神田くんのグループだった。酷い時は、ランドセルごと側溝に捨てられていたこともあったけれども、それは新任の先生が探してくれて、それからは派手に物を壊すようないじめは無くなった。
誰かに声を掛けても返してくれないことはもう知ってる。だから、私はクラスで黙ったまま席に座る。学校でいじめられていると言えば、ママは絶対に怒る。だから、教科書を破かれたことも言えず、破れたままの教科書を使っている。
先生はいじめに気づいているはずだけど、何も言わない。先生になって一年生と言っていたから、どうすればいいのか分からないのかもしれない。でも、何も言わないということは、ママの耳にも入らないからそれは私にとっては、とても良いことだった。
今日は給食でゴミを入れられた。でも、ゴミを出せば食べられるから、ミートソースの中に丸めて入れられていた紙団子を取り出すと、それをゴミ箱に捨てた。同じ班の女の子たちがヒソヒソと何か言っていたけど、もう全然気にならない。
私にとって、給食は大切な食事だったし、給食をきちんと食べておかないと、丸一日何も食べられないことになる。だから、例えゴミが入っていても、食べないという選択は考えたことも無かった。
給食で班ごとに分かれて食べる時、班の全員で机をくっつける。けれども、私の机だけみんなといつも一センチだけ離れてる。でも、遠くからみたらくっついているように見える。だから、誰も何も言わない。
それがみんなにとっては普通のことで、私にとっても普通のことだった。班のみんなが会話をする。けれども、私に声をかけてくる人はいない。どうしても、必要があって声を掛けてくる時は、神田くんと同じように「ブタ」と呼ぶ。
でも、私はそこに苦しみを感じることはなくなっていた。確かにに、物を隠されたり、壊されたり、無視されたりする。でも、いじめはそれだけで、ニュースみたいに脅されたり、殴られたり、蹴られたりすることはない。
五年生になってすぐの時は、陰口を言われたりするのはイヤだったし、ブタと呼ばれるのも本当にイヤだった。でも、クラスメイトは無視をしていても、私の存在そのものを無視することはしなかった。
話し掛けても無視はされる。それは今でも変わっていない。でも、班で一緒になれば存在を無視することはできないし、神田くんたちはいじめるために無視することもしない。
いじめられている。でも、私にとって学校は安心できる場所だった。
班でやる放課後の掃除は、私一人の仕事になっている。でも、家に帰らなくてすむから、それを誰かに文句言うつもりはなかった。
いつものようにゴミ捨てを終わって教室に戻ると、そこには委員長の渋谷くんがいた。渋谷くんもクラスの人と話すことは余りない。いつも休み時間になると、自分の席で難しそうな本を読んでいることが多い。頭がよくて、クラスの誰かが中学受験することを言っていた。
「一人でやらずにみんなに言えばいいだろ」
余り抑揚のない声は、誰に掛けられたものか分からなかった。それでも、教室には私と渋谷くんの二人しかいないから、ようやくそこまで考えて私に言っているのだと気づく。
「別に、いいから」
「言わないと、ずっとこのままだ」
それだけ言うと渋谷くんはランドセルを背負うと、そのまま教室を出て行ってしまう。五年生から同じクラスだったけど、渋谷くんと話したのはこれが初めてだった。それが少しだけ不思議な気がする。
ゴミ箱を元の場所に戻し、それからランドセルを背負う。外を見ればまだ昼と変わらない日の強さで、諦めに似た気持ちで教室を出た。誰もいない廊下を歩きながら、校庭で遊ぶ人たちを見る。
その中にはいつも私をいじめる神田くんや大久保くん、そして立川くんの姿もあって、みんな楽しそうに笑っている。その風景を見て羨ましいと思ったのは、いつのことだったか思い出せない。
五年生になった頃は、まだ、みんなと遊べたらいいのにと思った気がする。でも、気づけば、クラスに自分が呼吸する空間がある、ということで満足するようになっていた。
家に帰る事に比べたら、あんなささいないじめであれば、学校にいる方がずっといい。家にいると、沢山仕事をしなければいけない。私にはそれが一番怖くてイヤだった。
重い足取りで家に帰るとポケットに入っている鍵で玄関の扉を開ける。一旦、部屋に戻り荷物を下ろすと、キッチンで水を飲んでから一つの扉の前に立った。
それは三年前、開けてはいけないと言われていた開かずの扉だ。けれども、あの日から、扉の鍵は掛けられていない。扉を開けると、三年前と変わらず匂いは酷い。
部屋の入り口にある靴をはいて、入り口近くにある棚の中からノートと鉛筆を掴むと中に入る。鳴き出す子もいれば、チラリとこちらを見ただけで興味なさそうに目を逸らす子もいる。そんな中で私は一つ一つの檻を覗く。
そして子どもが生まれた子をチェックして全ての檻を見ると、改めてノートに視線を落とした。子猫は全てで二十匹、子犬は十一匹。今日、新たに生まれた命はない。
けれども、今日、生まれて三日になる子犬が四匹いる。確認はしたくないけど、確認しないといけないことがある。見ないといけない、でも、見たくない。そんな気持ちでノートを棚に戻すと、今度は手袋をはめてから、籠を片手に生まれて三日経つ子犬の檻へと近づく。
檻を開ければ親犬は警戒した様子を見せたけど、私が手を伸ばしても吠えることはしなかった。ただ二つの目で私をジッと見ている。その目を見ていられなくて、視線を子犬に移すと、子犬は起きているらしくモソモソと動いている。
その中から子犬を一匹抱き上げて、まずはその顔を見る。目、それから口、そして足などを確認すると最初の一匹を檻に戻して小さく息を吐き出した。
そして次に抱き上げた犬は、顔をみた瞬間に泣きたい気持ちになる。片方だけ白い目をした子犬。それは今、私が一番会いたくないと願っていた命でもあった。それでも、私の仕事はそうしなければならないから、泣きたい気持ちで足下に追いてある籠に子犬を入れる。
次々と子犬を確認すれば、四匹の内、二匹はママ曰く難ありという状態で、その二匹を籠に入れる。親犬の不思議そうな目を感じながらも檻を閉めると、子犬の入った籠を手に扉近くの入り口まで戻ると籠を置いた。
棚の中から瓶を取り出すと、蓋を開けて小さなスプーンで粉をすくい取る。この段階で、既に涙が込み上げてきて視界が滲む。それでも震える手でどうにか小皿に薬を入れると、棚の中に入っているボトルから水分を足す。
鉛筆立てに入れられたスプーンを取ると、小皿の中身をくるくる回して、薬を溶かす。それが大体溶けたところで、スプーンを鉛筆立てに戻すと、代わりに注射器を手に取った。
震える指先で溶けた薬剤を吸い上げると、籠の中にいる子犬を見下ろす。途端に涙が床に幾つも粒になって落ちていく。
いやだ、こんなことはやりたくない。けれども、仕事をしなければこの家にはいられない。無一文で生きていけるほど世界は優しくないし、甘くもない。
もう少し、もう少しだから……。
指先でつまめるほどの小さな細い子犬の手を持つと、ゆっくりと注射針を刺した。そして半分まで薬剤を注入する。そして、もう一匹の子犬にも注射針を刺すと、残り全ての薬剤を注入した。
もがき始めた子犬を見ていることはできず、薄暗い部屋の中で流れる涙を手の甲で拭う。けれども、この時に一度だって涙が止まったことはない。
もし、色々と難があったとしても、大切に飼ってくれる人がいるかもしれない。ここで私が殺さなければ、もしかしたら……。
いつも命を絶つ自分の手を止めたいと願っていた。けれども、それを願えば、命を絶つことになるのは自分だということも分かってる。何かを犠牲にしないと生きていけない、そんな自分がイヤでたまらなかった。
しばらくして籠を見下ろせば、よりそうようにして口から泡を吹く二匹の子犬がいる。生まれて三日で終わった命にまた涙が出る。
全て終わらせてしまえば楽になる。分かっているけど、死ぬのは怖い。それでも、棚の上にある薬剤に目がいったのは魔が差したからなのか、自分でもよく分からない。
棚の中には雑多に物が入っていて、その中から小さな蓋のついた風邪薬の空瓶を取り出すと、その中に瓶に入った薬剤をスプーンで五杯掬って入れる。こんなことをしているのが見つかれば、またママに怒られる。
だから五杯だけ入れると、きちんと小瓶の蓋をしめてポケットの中へと入れた。途端に、何故かホッとした気分になり気持ちが少しだけ軽くなるのが分かる。
棚の上に置いたままになっていた注射器や、薬瓶を片付けると足下に置いた子犬の入った籠を手に持って庭から家の外に出た。チラリと見た子犬はもうピクリとも動かず、再び涙が出てきた。
ママもパパも庭に興味がないみたいで、いつでも庭は荒れている。時々、業者の人がきて草刈りをするけど、そこに何かを植えたりすることはしない。
庭の一角には物置があり、その横には一つだけ大きく穴の空いた場所がある。私はその穴の中に死んでしまった子犬を抱き上げると、ゆっくりと落とし入れた。
穴は深くて私の手だと届かない。だから、どうしても穴の底に入れる時には死んでしまった、いや、殺してしまった子犬から手が離れてしまう。泣きながら二匹の子犬を穴に入れると、重いスコップで少しだけ土を被せる。
パパはある時言った。
「動物はペットだ。物と一緒だから泣くな、ウザい」
でも、私には先まで命があって動いていた犬や猫を物だとは思えなかった。
今日入った子犬の下には一昨日私が殺した子猫が埋まっている。そしてその下にはまだ沢山の犬や猫がいて、殺してしまった命に謝ることしかできない。
雑草といわれる花を庭の片隅で摘み取ると、土を被せたその上に落とし入れた。何度ごめんなさいと言っても、殺してしまった罪は消えない。分かっていても、そうすることが今の私にできる精一杯だった。
しばらくその場で泣いて、日が翳る頃に立ち上がると籠を持って再び家に戻る。あの薄暗い部屋で籠と手袋を片付けたけど、親犬を視界に入れることはできなかった。
棚に片付けたノートを再び取り出すと、そこにある番号づけされた犬の一覧にマイナス二と数字を書き込んだ。そして逃げるようにして自分の部屋へ戻ると、ベッドに上がり布団の中へと潜り込む。
細い小さな手だった。それでも温かくて、ふわふわしていて、それを思い出すと涙が止まらなくなる。壊れてしまいそうな心を保つために、いつものように心の奥底にある匣を開ける。
そして、その中に今日あった辛いこと、悲しいこと、楽しかったこと、全てを思い出しながら詰め込むと蓋をしめる。その想像だけで、私の気持ちは感情の全てを切り捨てることができた。
何もない空っぽな気持ちで目を瞑ると、穏やかに眠りが訪れる。泣き疲れた後はいつもそうで、ゆるやかな眠りについた。
そして目が覚めた時、既に窓の外は暗くなっていた。おぼつかない足で部屋の電気を点けると、机の上にはいつものようにお金が置いてあった。夕飯代わりの千円、そして子犬を二匹殺したから二千円。
合計三千円を手に持ち、本棚の裏にあるお菓子の箱を取り出すと、その中に入れた。お金の詰まった箱は、私にとって夢の箱で、今日の三千円を合わせると、全部で七十万と少しある。本当なら既に百万円くらいたまっていた筈だった。
けれども、どうしても月に数回、貪るようにお菓子が食べたくなる時がある。そういう時にこの箱からお金を持って、コンビニに走る。大きなビニール袋いっぱいにお菓子を買って帰ってくると、それをただひたすら食べた。
そういう無駄遣いがあるから、どうしても百万には届かない。百万円になったら、この家を出ようと思っていた。だから、これは私にとっての夢の箱だ。
箱の蓋を閉めると時計を見る。既に八時を過ぎていて、今から外に出たら怒られる。ママやパパに睨まれたら、それだけで私は動けなくなる。
私が外に出ていい時間は学校へ行く時間と、七時から七時半の間、たった五分の時間だけだった。それを過ぎると、ママかパパは私のに部屋に鍵を掛けて閉じ込めてしまう。トイレにも行かせて貰えず、おもらしして部屋を片付けるのは勿論自分だった。それがイヤだから時間を守ってる。
そして八時を過ぎたら一階に下りてはいけないことになっている。そうなると、行けるのは自分の部屋かトイレくらいしかない。二階にはもう一つ部屋があるけど、そこは物置部屋となっている。
両親が二階に上がってくる時は、お金を渡す時だけ。もう何年も会話らしい会話をした記憶はない。それでも、ママは周りの目が気になるらしく、授業参観には絶対参加するし、洋服はきちんと買いそろえてくれる。
暴力を振るう訳でもないから、多分、私はまだマシなんだと思う。ニュースを見ていると、もっと凄い目にあってる子もいる。あれよりマシだと思えば、少しだけ心が落ち着いた。
三年前は捨てられるという言葉が怖かった。今は死んでしまうかもしれないことが怖かった。
三年生だった冬、仕事がしたくなくて駄々をこねた。もう殺したくないって泣いた。けれども、そんな私を両親は庭の片隅にある防音のきいた物置に布団一枚と共に三日間閉じ込めた。
薄暗い狭い空間で、布団を巻き付けながら寒さを耐える。それは初めて死を間近に感じた瞬間だった。このままだと死んでしまう、そう思って、物置を出されてからはお金を貯めるようになった。
死にたくない。そう思うのに、ポケットの中にある毒は酷く自分を安堵させてくれる。それは最後の手段であったけど、救いはいつかあるのだと、まだ信じたかった。
ベッドから起き上がり、ランドセルの中から教科書とノートを取り出すと、今日あった宿題を片付けていく。成績が平均以下になれば、物置に閉じ込められる。そして宿題を忘れて先生から連絡があれば、また物置に閉じ込められる。
あの庭の片隅にある防音の物置は、私にとって恐怖の場所でしかない。だから、宿題だけは絶対に忘れないようにしている。宿題を終えると、何気なくカレンダーに目を向ける。
明日は水曜日だからお風呂に入れる日だった。本当は毎日入りたいけど、そんなこと怖くて口にできない。風呂に入る日は決まっていて、日曜日の夜、そして火曜日の夜、木曜日の夜と決まってる。木曜日から日曜日までは日が空くから、それが辛かった。
もうすぐ夏になる。そうなると汗かきな私は風呂に入らないと臭う。それを学校で指摘されるのは酷く恥ずかしかった。
結局、宿題を終えてしまえばやることもなく、私は再び部屋の電気を消すとベッドに上がる。布団を被ればもうそれが今日の終わりだった。
大丈夫、まだ大丈夫 。
そう呟きながら目を閉じれば、すぐに眠りは訪れた。それは現実から逃避することに少し似ていた。
* * *
朝起きて、犬や猫に餌をあげるのも私の仕事だ。だから、朝は六時に起きてあの部屋に足を運ぶ。全ての檻の中から水皿と餌皿を取り出すと、まず餌皿にドッグフードやキャットフードを入れる。犬用の皿は青、猫用の皿は黄色と決まっているから間違えようがない。
それを全ての檻に戻してから今度は部屋にあるホースで全ての水皿に水を入れると、それも再び檻の中へと戻す。そうして仕事が終わると、大体八時を過ぎる。
部屋に戻ってランドセルの中身を全て用意すると、昨日やった宿題も入れる。家にいるのか分からない両親を怒らせないために、静かに玄関の扉を開けると学校へと向かう。
近所のおばさんたちに会って挨拶はする。けれども、ママに余計な話しをするなと言われているから、挨拶以上のことをしたことはない。
時間に余裕もって学校につけば、朝早くから校庭でサッカーをしていたらしい神田くんたちと下駄箱で一緒になった。
「ブタ、もう来たのかよ」
「くせーよ、ブタ」
そんな言葉を投げかけられても、何も言い返そうとは思わなかった。少なくとも、両親に比べたら、まだ神田くんたちは私の存在を見ている。
「ブタは人間語がはなせねーってよ。行こうぜ」
そう言って神田くんたちを促したのは立川くんだった。時折、立川くんは遠回しに神田くんたちの矛先を変えてくれることがある。そんな立川くんの言動にいつもモヤモヤとした気持ちになる。
三年生になる前まで、立川くんとは家が近所だということもあってよく遊んでいた。でも三年になると、女の子と遊んでいると周りの男の子から立川くんはからかわれたりして、一緒に遊ぶことはなくなった。
それがあるから、立川くんは遠回しに私をかばってくれているみたいだけど、別に私はかばってくれなくても構わないと思う。だって、神田くんたちだけが、私がそこにいることを証明してくれる。
たとえ悪口だったとしても、ここにいるんだと認めてくれている。神田くんたちの悪口は、私にとって存在確認みたいなものだった。
結局、立川くんの言葉で神田くんたちはすぐに階段を上がって行ってしまい、また一人ぽつんと取り残される。でも、下駄箱の前で立っていても仕方ないから、上履きに履き替えて階段を上がる。
踊り場までついた時、既に教室に行ったと思っていた神田くんたちは、まだそこにいた。
「デブだから、ボールみたいに弾むんだろ」
そう言った神田くんが片足を上げる。慌てた様子で立川くんが止めに入ろうとしたけど、まるでスローモーションのように、神田くんの足が私のお腹を蹴りつけた。
最後の階段を上ろうとしていた足が外れ、視界が反転する。恐らく本気では無かったと分かったのは、蹴られた筈のお腹に痛みを感じなかったから。そして驚いた顔で自分に手を差し伸べる神田くんの手が見えたから。
そこからは何も分からなくなり、階段を転がり落ちた痛みを感じる。薄れていく意識の中で聞こえたのは、あちらこちらから聞こえる悲鳴だった。