Act.03-1:六月の二十六夜月 1

しばらくは忙しかったこともあり、志穂はヒロから連絡が無いことを余り気にもしていなかった。けれども、ある程度仕様と方向性が固まるとしばらくの間は残業することは無くなる。
だからといってすることが無い訳でも無く、志穂は会社帰りにあちらこちらの電気屋に立ち寄り学生たちがゲームソフトを手にして会話するその内容に聞き耳を立てる。あのゲームは面白かったけどここがいまいちだったとか、そのゲームはクソゲーだった、などと情報を集めることも志穂にとっては大切なことでもあった。
確かに新しいプロジェクトは始まったばかりだけど、そのプロジェクトが終わる前には次作の企画をある程度詰めておかなければならない立場でもある。それにこういう場所で聞ける忌憚なき意見というのは、上手くいけば現在動いているプロジェクトにだって取り入れ可能な段階ということもあって、聞き耳立てるにも真剣になる。
それでも、余り同じ場所にいると怪しく見えることもあり、友人同士で現れる大型家電店や本屋の併設されている店舗を巡る。途中、カフェなどで意見を手帳にまとめながらも閉店まで巡り、家に帰るということを繰り返している。
勿論、あの公園の前を通るけれども、あれ以来ヒロの姿を見ることは無かった。一週間、二週間と経てばさすがに志穂の中にも期待という気持ちは薄れてくる。日常に戻っただけだと思いながらも、帰り道に空を見上げてアルクトゥールスを見るたびにヒロを思いだしてしまい、志穂としては舌打ちしたい気分だった。
それでも仕事中はヒロを思い出すことも無く、その時も第一稿を持ってきたのどかと打ち合わせをしている最中に携帯が鳴り出し机の上に置いてある携帯を手に取る。そこに表示された名前に慌てて携帯を広げれば、週末に食事をしたいという誘いの言葉が書かれていて酷く慌てた。勿論、そんな志穂を見逃してくれるのどかじゃない。
「ちょっと、何そんなに嬉しそうな顔してるのよ。さてはまた新たな男登場?」
「男は男だけど、そういうのじゃないの」
「じゃあ、何があるのかなー。そうじゃないと言う割には嬉しそうな顔してるし」
「連絡先教えた人から食事の誘いがあっただけ」
その言葉にのどかは心底驚いたという顔をしてから長い溜息を吐き出した。のどかの表情はわずかながら笑み含みで志穂としては溜息の意味すら分からない。
「何よ、呆れてる訳?」
「逆かな。だっていつもの志穂だったら、それこそ男から食事の誘いなんてあったらウザッとか言って、速攻縁切りコースだったでしょ。それなのに、嬉しそうってことはその人は特別なのかなと思って」
「別に特別とかじゃなくて」
「普通に恋愛っぽいよ」
恐らくのどかは何気なく言った言葉だったに違いない。けれども、志穂にとってはかなり衝撃あるもので続く言葉すら出てこない。確かに気になる相手ではあったけれども、幾ら気になる相手であっても食事に誘われたら確かにのどかの言うようにウザいと切り捨てたに違いない。
よく考えてみればヒロに関しては今まで無かったことだらけだった。わざわざ公園で二度会っただけの男を探すようなことをしたのも初めてのことだったし、これだけ長い間、連絡が来ないことを気にしていたのも始めてのことかもしれない。しかも、男に対して不満なのはいつものことだけど、ヒロに対してはいつも以上に否定的に考えるところもあった。それは、ヒロに対して絶対そういう関係にならないという自己防御みたいなものだったのかもしれない。
でも、ヒロと会ったのはたった二回。まさかそれだけで好きになるなんてことは志穂にとってはあり得ないことだと思えた。いや、あり得ないと思いたい、というのが正解かもしれない。
「……違うから」
「そう?」
のどかは余り深い意味無く言ったらしく、余り突っ込んでくることはしない。けれども、どこか落ち着かない気分で携帯を机に置こうとしたところで、再び電話が鳴り出す。今度の着信音はメールではなく電話で、慌てて相手を確認すれば相手はプログラムリーダーの加納からだった。一応のどかに断りを入れてから、志穂は通話ボタンを押して耳にあてた。
「榛名? ちょっとトラブル発生」
「何がありました?」
「今、どこにいる?」
「第八会議室でのどかと打ち合わせ中です」
「今そこに行く」
余程慌てているのか、こちらの返答を聞くこともなく加納は電話を切ってしまう。基本的に落ち着いていることの多い加納にしては珍しいことでもあった。それだけ切羽詰まった問題だとしたら、志穂としても落ち着いていられない。
「どうかしたの?」
「何か加納さんのところでトラブル起きたみたい。今からここに来るって」
「あらら、それじゃあ私は席を外した方がいいかな」
「のどかがここにいることは言ったけど来るって言ってたから、来た時に席を外した方がいいかは聞いてみる」
そんな会話をしている間にも扉がノックされ、返事をすれば加納が部屋に入ってきた。加納を見てのどかが腰を上げようとしたけれども、加納はそれを手で制してのどかの隣に腰を落ち着けた。
「もしかしたら秋山にも関係あることかもしれないから聞いていて欲しい。俺は今日フレックス使って今出社したばかりだったんだが、うちの連中が言うには下請けに出す予定だった仕様書がごっそり消えたらしい」
「仕様書が? 消えたって」
「パソコン上から削除されていたらしい。ファイルにロックは掛かってたしバージョン管理もしてるから昨日作った分が消えた程度なんだが、最新のファイルが削除された。基本的にファイルにロックが掛かっていても削除は出来る。ただ問題が一つ。それが榛名のパソコンから消されてる形跡がある」
「私? そんなことしませんよ。第一、もう仕様書段階に入ってることも知らなかったくらいだし」
「いや、俺はあんたを疑ってる訳じゃない。話しには続きがあってな、こういうことが初めてじゃないんだ」
予感めいたものがあって、ひやりとその場の気温すら落ちた気がした。足下から血の気が引くような落ち着かない気分にさせられる。
「どういう意味?」
「前に榛名と組んだ時、あの時にもプログラムが突然消えたりしたことがあった。正直、その時はうちの新人のパソコンから消されてたから、新人が間違えて消したんだと思って報告はしなかった。けれども、よく考えてみれば榛名のプロジェクトに入った時だけそういう現象が何度かあった。心当たりあるか?」
恐らく言うように加納は志穂を疑っている訳では無い。基本的に志穂は進捗を確認することはあっても、仕様書やプログラムに関しては加納を信頼して完全に任せている。それは加納も分かっているし、お互いにそういう信頼で成り立っている。
ただ、心当たりがあるかと問われるととっさに出てくるものでもない。仕様書を削除する、それはプロジェクトの遅れを意味する。遅らせて得をするような人間に志穂は心当たりが無かった。
「秋山も何かあったことはないか?」
「私は特に何も……いや、そんなことは無いかな。何度か確認のメールを出してるけど志穂から返信が無かったことがある。てっきり忙しいからだと思って気にもしなかったし、こっちも基本的に電話での確認をするから気にしてなかったけど……」
「私、報告メール以外には全て返信してる。こっちもデータがきてたからメール無くても気にしてなかったけど、まさか」
「今、榛名のパソコンどこにある」
「部屋に置きっぱなしだけど、パスは掛けてあります」
「でも、消されたのはログ見た感じだと朝の九時から十時の間だ」
「それなら、もうここで打ち合わせしてた。部屋には誰もいない」
一瞬、静まりかえった後、志穂は慌てて立ち上がると会議室を飛び出した。けれども、加納に呼び止められて会議室にロックを掛けるように言われて慌てて戻りロックを掛ける。今はのどかも一緒に出てきてしまい会議室には誰もいない。しかも、会議室には書類を置いたままなのでロックを掛けないということは命取りになる。
「榛名、落ち着け。誰が見てるか分からないから走らないで部屋に戻るんだ」
加納に言われて志穂は小さく頷くと焦る気持ちを抑えながら長い廊下を歩く。途中、色々な人たちとすれ違いはしたけれども、誰一人声を掛けてくることは無い。元々、志穂がチーム外で無駄口を叩くタイプではないことと、女性社員にはどうも敬遠されていることも大きかった。
部屋に戻ればロックは掛けられていて、志穂はロックを解除すると部屋の中に加納とのどかの三人で足を踏み入れた。出た時と変わらず、物が移動するようなこともない。書類の類は全て持ち歩いていたこともあって、この部屋にある大切な物と言えばパソコンくらいの物だ。
すぐにパソコンに駆け寄るとスクリーンセーバーを解除する。途端にパスワードを求める画面に変わり志穂の手はそこで止まる。
「やっぱりパス掛かってます」
「パス、分かり易いものにしてないか? 誕生日とか電話番号とか住所とか」
「携帯の番号の下四桁を」
「そんな簡単なものにするな。覚えられないなら英文にでもした方がいい。携帯の下四桁なんて思いつきで打てば社内の誰でもロックを外せる」
志穂としては室内のセキュリティーには気を配っていたけれども、まさかパソコンのパスワードがそこまで大切なものだとは思ってもいなかった。基本的には部屋にセキュリティーが掛かっているのだから大丈夫だと思っていた部分もある。
「今度変更しておきます」
確かに企画段階での情報漏洩には志穂自身もかなり気をつけてはいた。けれども、まさか自分のパソコンでデータを消したり、メールを消すような悪意をぶつけられるとは思ってもいなかった。
「心当たり、一人だけいるじゃない」
静かな空間でぽつりと呟いたのはのどかだった。その声に志穂は胃が痛くなるような気分にさせられる。
「のどか」
それ以上は言うなという牽制を込めて名前を呼んだけど、志穂よりも遙かにのどかの方が怒っていたらしい。
「そんなことするの柿沼以外にいないじゃない! もう全部言っちゃえばいいのよ! あいつにアイデア盗まれたり、悪意ぶつけられてますって!」
「のどか! 証拠が無いこと口にしないで!」
「でも、プランナーにとってアイデアって仕事の核でしょ! 何で怒らないのよ!」
「怒ってる。でも、証拠がないと何も言えないのも分かるでしょ」
「そうだけど……だって、悔しいじゃない。私、志穂がどれだけ頑張ってアイデア出してるか知ってるよ? それなのに……」
言葉を詰まらせたのどかはそのまま泣き出してしまい、志穂としてはどう声を掛けるべきか分からない。確かに悔しいとは思うし、辞表を書くくらいの腹立たしさもある。けれども、結局は自分の脇の甘さがあるから何度もアイデアを盗まれる。盗む行為は許されることではないけれども、それでも自分の甘さに腹立たしさを覚えるのも確かで、仕事というものは全て正しいことだけではなりたたないことを知っている。
「……噂にはなってる。誰も知らない訳じゃない。秋山が泣くのは筋が違う。泣きたいのは榛名の方だ。先に泣くな」
「すみません」
鼻をすすりながらも謝るのどかに、志穂はその背中に手を回して軽く二度、三度と叩くと改めて加納に視線を向けた。大人なのだから庇護してくれる相手を期待してはいけないし、自分の身は自分で守らなければならない。
アイデアだって同じことだ。今までもそうしてきたけれども、アイデアは三度も盗まれている。だとすれば、社内ネットワークから盗まれていると考えて間違いないだろう。いつまでも、甘えた考えで盗まれ続ける訳にはいかない。
「加納さん、パスワードを変える他にやるべきことはありますか?」
「パソコンはとにかくパスワード変えるくらいだ。室内のセキュリティーに関しては調べるだけ無駄だろうが、いずれにしろどうやって出入りしているのかは突き止めておくべきかもしれないな」
基本的に企画部屋のセキュリティーは各プロジェクトの上位の人間にしか開けられないことになっている。だとすれば、柿沼は不正に扉を開けているか、もしくはもっと上の人間が絡んでいるということになる。
「取りあえず、データはこれに入れろ」
加納はポケットから小さな物を取り出すと差し出してきた。五センチほどの長さの小さな黒い物で、志穂はそれが何か分からない。
「何ですか、これ」
「USBメモリって聞いたことないか? こいつにデータが入れられる。いいか」
加納は志穂のパソコンの前に回るとどうせ後でパスワードを変更するならとスクリーンセーバーのパスワードを問い掛けてきて、志穂が答えるとそれを解除する。いつもの画面が出てきたところでパソコンにメモリを差し込んだ。
「ようは外部に持ち出せる小さいハードディスクみたいなもんだ。誰かに見られたくないデータはこいつに入れておけばいい。それで、こいつを繋げる時はこのケーブルを抜く」
そう言って加納が手にしたのは社内ネットワークを繋げるためのカラフルな色をしたケーブルで、加納はそれを手早く抜いてしまう。それから加納に説明されるままに使い方を聞き、加納は最後にそれをパソコンから抜くと志穂の手の中に落とす。
「いいか、絶対にこれを無くすな。それから秋山、お前はシナリオが上がったらしばらくの間は面倒でも手渡ししろ」
「分かりました」
既に泣き止みはしたものの、のどかはまだ震える声で加納の言葉に返事をする。まだ潤んだ目からは涙が零れ落ちそうに見えるけど、グッと握りしめる掌から我慢していることを物語っている。
「俺の方も何かあったら連絡は入れる。今日みたいにメールじゃなくて電話連絡を入れるから、電話は繋がるようにしておいてくれ」
「大丈夫です。いつでもどうぞ」
「お前さんの売りはその冷静さだな。さて、俺もそろそろ戻る」
言うことを言って加納は最後に志穂の肩を軽く叩くと部屋を出て行った。そして残された志穂とのどかは顔を見合わせると何とも言えない複雑な表情になってしまい、最後には二人同時に溜息をついた。
「ごめん、感情的になって」
「嬉しかったから謝る必要なし。取りあえず、打ち合わせに戻ろう。出来ることは全部やっていかないと」
殊更志穂は笑って見せれば、ようやくのどかの顔にも笑みが戻る。基本的にのどかには笑顔が似合うし、そういう顔をしていて貰えたら志穂としても安心できる。押し付けではなく笑ってくれることに、少しだけ救われた気分になりながらも貰ったばかりのメモリに必要データを全て移してから、メモリをポケットに入れるとパスワードを変更して最後にケーブルを繋げてから部屋を後にした。
会議室でシナリオの打ち合わせは続く。途中、グラフィック担当の竹河にも入って貰い打ち合わせは深夜まで続いた。竹河も加納から何かしら聞いたらしく、いつも以上に笑いを提供してくれて志穂も楽しく打ち合わせをすることが出来た。
終電間際に解散して志穂はいつものように帰り道を歩く。空には三日月の足りない星空があり、それをぼんやり眺めながら駅から家までの距離をのんびりと歩く。途中、公園を覗いたけどやっぱりヒロの姿はなく、週末の約束を思いだして自然と口元には笑みが浮かぶ。けれども、そんな自分に気付いて慌てて口元を引き締めたところで、背後から車の音が聞こえて振り返った。
細い滅多に車の通らない道で、もの凄い勢いで近づく車に志穂は慌てて電柱の影に身を寄せる。それでも躱しきれずに手が走り去る車のミラーにあたったけど、車は止まることなく走り抜けてしまう。
「ありえない、こんな狭い道で」
怒りも露わにぶつかった手の甲を見れば、現時点で既に赤く腫れていてついてないと思いながら歩き始める。けれども、五歩も進んだところで志穂は足を止めた。
確かに住宅街だから灯りはあるけど、あの速度で走る車がライトも点けずに走ってくるなんてあるのだろうか。それ以前にこんな狭い道であんなスピードで走り抜けるなんて無謀な運転をするものだろうか。
鼓動と同じく速い速度でズキズキと痛みを訴える左手を右手でそっと触れると、車が走り去った方向へと改めて視線を向ける。誰もいない普通の道にも関わらず、志穂は背筋を冷たいものを詰め込まれたような寒気を感じで身を震わせた。
その日以来、志穂は一人になる時には背後の気配に気をつけるようになり、行き帰りに聞いていたポータブルプレイヤーは使わなくなった。自分が狙われたという確信が持てず、志穂は誰に言うこともなかったけれども、あれ以来あの道で同じ車を見掛けることなく週末になった。

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