Act.03-2:六月の二十六夜月-2

朝起きてシャワーを浴びてすっきりすると、少し遅い朝食を取りながら新聞に目を通す。それは志穂の通年の休日スタイルでもあった。勿論、仕事柄休日らしい休日になるのは年の半分程で、残り半分は休日出勤になるのが常であり、さらにその半分は前日に深夜残業だったりするので実際には通年といっても休日になるのは三ヶ月程度ということになる。
ある程度新聞に目を通すと歯磨きをしてからしたことは、今日着る服の選定だった。休日は基本的にパンツスタイルでいることが多いけれども、それでもいつものようにふわりとした会社に着ていくような服を手にして鏡の前に立つ。鏡に映る自分の笑みに気付いて、慌ててその服を志穂はベッドに放り投げた。
たかがヒロと会うだけで浮かれている自分なんて認めたくない。そう思うのに、気持ちと態度はすっかり裏腹なことになっていて、志穂としては面白く無い。
志穂が目指すのは格好良い女性像なのに、どうにも童顔が可愛い女性像になってしまうのは常日頃から納得いかないところでもあった。それでも、志穂は着たい物を着ると決めてしまうと、いつもの休日のようにパンツスタイルで髪をまとめてしまうと化粧を終える。姿見の前に立った自分は、やっぱり童顔で幾ら化粧をしても服に着られている印象で苦笑するしかない。
そして、いいところをヒロに見せたいと思ってる自分に気付いて、そんな自分を叩きのめしたい気分にすらなる。たかが二回会っただけの男のために良い格好をしようとする自分も信じられない。それなのに時間ばかりが気になってソワソワと落ち着かない自分がいて、それが更に腹立たしさを倍増させてくれる。
一層のこと普段着の方がいいんじゃないかと思ったけれども、そろそろ待ち合わせの時間のこともある。納得行かないながらも志穂は鞄を持つと家を後にした。
待ち合わせは午後一時、いつもの公園で、ということもあり十分前に家を出た。歩いて五分もしない内に公園に到着すれば、昼間ということもあり子どもたちの姿が目につく。そんな中で子どもたちと一緒になって遊ぶヒロを見つけた時には正直呆れた。けれども、そんな姿が妙に似合っていてつい口元が緩む。
「志穂さん!」
こちらに気付いたヒロが大きく手を振り笑顔を向けてくる。青空の下で子どもたちと戯れるヒロはどこか眩しく見えて志穂は微かに目を細めた。
「お待たせ」
こちらを見ているヒロに声を掛ければ、子どもたちに手を振ってから志穂に駆け寄ってくる。
「ちょっと手を洗ってきていいですか?」
そう言って差し出してきたヒロの手は砂にまみれていて、その手からも子どもたちと随分遊んでいたことが分かる。勿論、構わないことを伝えれば、ヒロは再び子どもたちと一緒になって公園の片隅にある水道で手を洗っている。
小さな子どもの袖を捲ってあげたりしてかなり面倒見もよく、近くにいる親御さんたちが申し訳なさそうにヒロに謝っている姿も見える。ポケットから取り出したハンカチで手を拭くと、近くに親がいない子どもの手を拭いてあげたりしていて、本当に面倒見がいい。少なくとも余り子どもの好きではない志穂としては、ちょっとした感動すらあった。
子どもたちに手を振りきちんと別れの挨拶までしたヒロは、ようやく志穂の元へ戻って来ると穏やかな笑みを浮かべた。
「すみません、お待たせしました」
「別に時間通りだから」
右手首にある時計を見せれば、針は丁度待ち合わせをしていた一時を指し示していて、ヒロが安堵の表情を浮かべる。そんな素直な表情が少し可愛い。
「お昼食べたの?」
「遅い朝ご飯を食べたので大丈夫です」
「それならお茶でも飲みに行く?」
一応、無難なところを上げて見ればヒロは首を横に振った。
「あの、プラネタリウム行きませんか?」
先日見たジャケットのポケットからヒロが取り出したのは二枚のチケットだった。これがもし、違う相手だったら人の意見も聞かないで勝手に、と憤ったに違いない。けれども、ヒロとプラネタリウムという組み合わせはあまりにもらしすぎて、志穂的には納得できるものだった。
「本当に月とか星とか好きなんだ」
「あ、すみません、勝手に……」
「ダメとは言ってないから。ほら、行くんでしょ?」
途端にヒロの笑顔の消えた顔に満面の笑みが浮かぶ。それは志穂が無くした素直な気持ちを表に表す術をヒロが持ち続けている、ということでそれが少し羨ましく思える。
ただ、その頃に戻りたいかといえばそういう訳でも無い。ただ、純粋に羨ましいと思えた。
「はい」
元気な返事と共にヒロの手が志穂の手を掴むと、歩き出してしまう。いつもだったら、こんな恥ずかしいこと外では絶対にしない。
「ちょっと、駅はあっち」
「ここからだとバスの方が一本で行けるんですよ」
そのままヒロと共にバス停まで手を繋いだまま歩く。長いという程ではないけれども、癖のあるヒロの髪が歩くごとに跳ねる。日差しとの兼ね合いで時折薄茶に透けるのが綺麗で眩しく志穂の目には映る。
バス停につけばすぐにバスがきてヒロと一緒に乗り込んだ。その時には既に手は繋いでいなかったけれども、二人席に腰を落ち着けると酷く落ち着かない気持ちになってくる。
「そういえば、志穂さん、今日は髪をアップにしてるんですね」
「本当は髪を上げてる方が面倒なくて好きなの」
「長いと大変そうですもんね。でも、志穂さんの場合、化粧は薄めの方が可愛いですよ」
その言葉に途端にムッとなってしまう志穂は短気なのかもしれない。そう自覚してはいても、言われて面白い言葉じゃないからどうしてもムッとしてしまう。この際、その恩恵にあずかっていることは棚上げした。
「可愛いは禁句。可愛い自分が嫌いなの」
「あぁ、少し分かります。似合うものと目指す方向が違うことってありますもんね」
大抵の男であればここで可愛いといって何で怒るんだと言うけど、ヒロみたいなことを言った男は今までにいなかった。だからこそ、少し驚いてヒロを見上げれば、ヒロは相変わらず穏やかに笑みを浮かべている。
「何でそう思ったの?」
「え、違いました? 自分がスーツの似合う男になりたいと思ってるんですけど、周りからはそっちよりもこっちって言われるから、それと同じだと思ったんです。すみません」
「別に謝らなくてもいい。あってるから。でも、確かにヒロは余りスーツ似合わなそう」
想像してまるで学生がスーツを着ている姿しか想像できずに笑ってしまえば、ヒロは情けない顔になる。少し困ったようなその顔が可愛いと言ったらやっぱり志穂と同じように面白く無い気分になるんだろうか。そこまで考えて、志穂は言葉を飲み込んだ。
「本当はスリーピーススーツとか着たいんですよ」
「うーん……想像したけど微妙かも。私も人のことは言えないけど、ヒロも童顔だし」
途端に驚いた顔をしたヒロは、すぐにその表情を情けないものに変化させる。それから、どこか伺うような顔で志穂を見つめている。
「どうかしたの?」
「年齢、言いましたっけ?」
「別に言ってないけど、見た目大学生かと思ったけど仕事の話をした時に言ってたから学生じゃないんだなって思った程度」
「……大学生……そこまで若く見られたのは初めてですけど」
一気に落ち込んでしまったヒロに志穂は慌ててヒロの手を握りしめた。
「うん、大丈夫、最初の一瞬だけだから」
実際、最初の一瞬だけでなくこうした格好をしていると今でも大学生くらいに見える。けれども、志穂と同じか、それ以上に童顔を気にしているらしいヒロにそんなことは言えない。
「……本当ですか?」
「うん、本当」
徐々に落ち込んでいた顔から再び穏やかな笑顔に戻るヒロに、志穂は内心でホッとした。そして、ヒロの機嫌を伺うような自分をボコボコになるまで殴り飛ばしたい気分になる。どうにもヒロといるといつものペースを完全に崩されている気がして仕方がない。普段の志穂であれば泣き言を言う男なんて、それこそ完膚無きまでこき下ろしたに違いない。
それなのに、ヒロ相手になるとフォローまでしてるのだから頭が痛い。基本的に甘えてくる男は嫌いじゃないけど、泣き言を言う男は志穂としては願い下げだ。そう思っているのに、ヒロ相手にはどうにもそのスタンスが崩れるのが納得行かない。しかも、時折感じる気恥ずかしさがまた志穂をさらに納得行かない気分にさせる。
「今は童顔でもいつかはスーツの似合う男になりますから」
「それなら私はいつか格好いいパンツスーツの似合う女になる」
「それでも、志穂さんは化粧薄めの方が似合うと思いますよ」
そう言って笑うヒロにお世辞やごますりのような感じは全くなく、それを素直に言っている様子だから本当にたちが悪い。そして、それを嬉しく思ってしまった自分にも情けなさが募る。三十間際になって化粧薄めの方がいいと言われて浮かれる自分は一体、幾つなんだと自答自問をしてしまう。
その後は今日は満月だとか、今の時期だと南の空にはスピカが見えるなど星の名前を色々と聞く。星座について志穂が聞けば、ヒロは笑ってこれからプラネタリウムに行くからそこで色々と説明してくれるので星座そこで聞いて欲しいと言われた。そしてヒロは星座にまつわる話しには余り興味がないことも教えてくれた。
バスを降りて歩き出せば、自然と繋がれる手が志穂を酷く落ち着かない気分にさせる。けれども、ヒロは全く気にした様子なんてなくて、志穂も全く気にしてませんという顔を作って臨海線の下を二人並んで歩く。時折、陰日向になりながらのんびりと二人で歩くというのは少し新鮮な気持ちでもあった。
当たり前だけど学生時代ならまだしも、大人になってから手を繋いで誰かと歩くなんてことは無かった。それこそ寄り添って歩くのであれば手は腰か肩が当たり前だったし、密着度だって高かった。それなのに、密着度の少ない手を繋ぐということの方が遙かに恥ずかしいと思うのは大人になってしまったからなのか、その他の理由なのかよく分からない。
変わった形の建物に入れば、どうやらクーラーが効いているらしく程よく涼しく志穂は小さく溜息をついた。そのタイミングでヒロがわずかに屈み込み、志穂の顔を覗き込んでくる。
「まだ時間があるからお茶にしませんか?」
正直、その誘いは有り難いと思ったから素直に頷けば、ヒロは何度かここへ来たことがあるのかすぐにエレベーターに乗り込むと七階のボタンを押す。七階にはレストランがあり案内のままに窓際の席へと腰を落ち着ければ、窓から見える風景は思っていたよりも悪くないものだった。
「何度か来たことがあるの?」
「いえ、実は昨日調べました」
照れくさそうに笑うヒロに、思わずつられるように志穂の口元にも笑みが浮かぶ。この素直さが本当に羨ましい。もし、志穂が逆の立場であれば事前に調べたなんて言えずに来たことがあると嘘をつくに違いない。
アイスコーヒーを二つ頼むと、のんびりと窓の外の景色に視線を向ける。抜けるような青空に時折鳥が飛び立つ。
こうしたのんびりとした時間を持ったのはいつのことか、すでに志穂は思い出すことが出来ない。休みといえば部屋で寝てるか、ライバル社のゲームをするか、企画を立てるか、それくらいのことしかしていない。誰かと同棲していた時にもそれは変化しなかったし、基本的にそういう生活で文句を言うような相手であれば即刻追い出していた。
だから志穂の生活の中になかった時間でもあった。休みの日に外へ出るのは面倒くさいと思っていたけれども、これはこれで悪くないと思う。ただ、一人でこうして出掛けることがあるかというとはなはだ疑問ではあったけれども、それでも今、この時間は悪くないと思えた。
「そういえば、プラネタリウムは何時からなの?」
「三時からなんでまだ大丈夫ですよ」
その割には待ち合わせの時間が随分と半端だった気がする。壁際に張ってあるポスターに視線を向ければ、上映時間は二時と三時があり、本来であれば二時上映のプラネタリウムを見る予定だったのではないかと志穂は考えた。実際、二時上映であれば時間としては丁度いい。
「ねぇ、ちょっとチケット見せて」
「チケットですか?」
途端に慌てた様子でチケットをポケットで探り出したヒロは、チラチラとポケットを確認している。テーブルで見えないけれども、チケットを確認しているのは分かる。少しするとチケットを二枚取り出しテーブルの上に置いたけど、その拍子にひらりと志穂の足下に一枚の紙が落ちてきた。
「何か落ちた」
「あっ……」
ヒロが腰を上げるよりも早く志穂が拾い上げておもてを見れば、それはプラネタリムのチケットだった。そしてテーブルの上にもチケットは二枚。志穂の手にある分を数えれば合計三枚のチケットがあることになる。けれどもよく見れば、テーブルの上に置かれたチケットは三時のチケット、そして志穂の手元にあるのは二時のチケットだった。
「ヒロ」
「あの、実はこれ友達に貰って……片方だけでいいって言ったんだけど、何が起きるか分からないから両方貰っておけって言われて」
「でもそれだったら二時でも良かったじゃない」
「志穂さん、少し疲れてるみたいだったから。どうせなら慌ただしく見るよりものんびり見たかったし」
確かに少し休憩が欲しいとは思ったけれども、志穂もそこまで疲れていた訳じゃない。けれども、伺うような視線を向けてくるヒロの様子に思わず笑ってしまう。
ヒロの友人というのは中々にしていい勘をしているのかもしれない。もしくは、余程女遊びに慣れた相手なのか素晴らしい先読み機能がついている人物なのかもしれない。
「あの、最初に言えば良かったですね。つい格好つけたくなって」
どこか決まり悪そうなヒロの様子に志穂としては穏やかな気分にすらなってくる。そういうヒロの気持ちも分からなくは無い。
「別にいいわよ。結局、こうしてヒロがネタばらししてるし。それに気遣ってくれたことが嬉しかったから」
「そう言って貰えるとホッとします。えっと、ちょっといいですか?」
それだけ言うとヒロは志穂の手からチケット取ると一旦席を立ってしまい、丁度斜め前にいた二人組に声を掛けて手にしていた分とポケットから取り出したチケットの二枚を二人組に渡してしまう。何度もお礼を言われながら席に戻ってきたヒロは満足そうな顔をしていた。
「良かったの?」
「いいですよ。どうせ持っていても使わないですし、あれ特別券で今日の二時しか利用できないんです。だったら見たい人に見て貰った方がいいですし」
確かにチケットには日時指定がされていてその時でないと利用出来ない券らしいことをテーブルの上に置いてあるチケットで志穂は知る。そして、斜め前に座っていた二人組は、折角ここまで来たのに予約が一杯で入れなかったと愚痴っていた声が志穂にも聞こえていた。満足そうなヒロの表情と言葉に志穂は納得すると、グラスを手に取ると涼しげな音を立てるアイスコーヒーに口をつけた。
それからは、ヒロの友人であるショウという男の話しで少し盛り上がり、しばらくすると再び星の話しになる。けれども、不意にヒロの話しが止まり、視線が包帯の巻かれた左手に注がれる。それに気付いて志穂は苦く笑う。
「これ、ちょっとぶつけちゃってね」
「すみません、聞いていいのか分からなくて」
「別に大したことじゃないわよ。もう治りかけ。湿布貼ってるだけだし大したことないの」
そう言って志穂は軽く振って見せれば、明らかにホッとした顔をヒロがいて志穂は微かに笑う。いまだ誰かに怪我の原因は言っていない。そして心配性らしいヒロには絶対に言えないと思っていた。だからこそ気にする必要はないことを伝えてコーヒーを口にした。実際、もう痛みは殆どない。ただ、包帯を変える際に見た時には赤黒い痣になっていて、痛みはなくとも視覚で痛みを訴えてくる気がするくらいになっていた。
コーヒーを飲み終える頃には丁度三時前になっていて、ヒロと一緒に店を出るとプラネタリウムのあるドームシアターに向かった。
大規模な施設ではなく、席数は百あるかないかというところだった。席は自由でヒロの隣で座ると、数分すればプラネタリウムは始まった。
子どもの頃に社会科見学のようなもので見て以来だから実に数十年ぶりに見たプラネタリウムは、あの頃よりもずっと綺麗で壮大なものになっていた。間抜けにも口を開けて見上げていたことに気付いて、志穂は慌てて口を閉ざしてから隣に座るヒロを見れば、同じように口を開けた状態で星を見上げているヒロがいる。何だかその様子にホッとしながらも、志穂は再び人工的に作られた空に視線を向けた。
邪魔にならない音楽と共に説明される星座の数々は手を伸ばせば届きそうに錯覚してしまう。時折挟まれる星物語を耳にしながら、志穂の目に飛び込んできたのは先ほどヒロに教えて貰ったスピカという星だった。アルクトゥールスのオレンジ色とは違い青白い星の瞬きは、また違った趣がある。本来であれば春の星座ということもあり、もう少しで見えなくなってしまうものらしく教えて貰ったばかりということもあり少し寂しい気がした。
三十分ほどでプラネタリウムの上映は終わってしまい、ドームから出れば眩しさに志穂は目を細めた。隣を見れば同じように目を細めたヒロがいて、目が合うとすぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「久しぶりに見たけど凄かったです」
「うん、昔見たプラネタリウムよりも色々と進化してて驚いた」
「少し散歩しません?」
「外を?」
「いえ、この館内です。興味あるか分かりませんけど、折角だから」
二人並んで志穂にとっていつもの半分の速度でのんびりと歩く。展示を見ながら時折興味ある部分では足を止め、じっくりと解説を読んだりする。待たせてしまったかと思いヒロを見れば、同じように文字を追っていたりするからホッとしてしまう。そして、ヒロに対していつも以上に気を遣っている自分を笑い飛ばしたくなる。
それでも常に穏やかな気分で色々見て回り、笑いながら会話を交わして夕方になれば場所を移動して少し早めの食事を取ることになった。ここら辺は全く分からないと照れながら言うヒロに変わって、志穂は幾つか店をピックアップして説明すれば、ヒロが選んだのは海辺で食事の取れるバイキングだった。快晴ということもありテラス席も解放されていて、バイキングで好きな食べものを持って席につくと瞬きはじめた星を見ながら夕食を取った。
今ある星の話し、プラネタリウムの話し、そして何気なく見た館内の展示品の話しなど、それぞれ考えることが違って話しはつきない。話しながらの食事は二時間近く掛かり、既に店を出た時には八時を回っていた。
いつもであれば、これから飲みにいって、少しお酒が入ったところでホテルというのが普通だったけれども、それをヒロに求めるべきか志穂としては迷った。そういうことが好きかと言われたら面倒くさいというのが本音だったけれども、ある程度我がままを聞いて貰った相手に対してはギブアンドテイクだと思っていたから、誘われたら応じてきた。勿論、気に入らない相手であればそれ以前にさよならしているから、そうなる相手は志穂の気に入った相手でしかなかった。けれども、ヒロ相手では何か違う気がした。
「えっと、家まで送る?」
その言葉に志穂は考えていたことを恥ながら、それを全て捨て去った。
「別にいい。ここからならバス一本だし。ヒロはどうやって帰るの?」
「ここから電車で。それじゃあここで今日はお別れかな」
寂しそうな顔をするヒロとは逆に、志穂は極力笑みを浮かべた。そうでなければ、心情が表に出てしまいそうで怖くなった。
ヒロと自分は全く違う。確かに年下が好みではあるけど、純粋な相手は志穂に向かない。残念ながら志穂は年相応のしたたかさを身につけてるし、小狡さもある。そんな志穂がヒロに与える影響は決していいものでは無いに違いない。下手をすればヒロからその純粋さを奪う結果になることは避けたかった。
「そうね。また今度があれば」
「あります! また誘うから……その、また一緒に出掛けてくれませんか? 今度は泊まりで」
「泊まり?」
「そう、今度一緒に山に星を見に行きたいと思って。志穂さんと一緒に」
その言葉に志穂はすぐに答えられずにいた。恐らくヒロの中に不純さは全く無く、一瞬でもそんなことを考えてしまった自分が恥ずかしい。それと同時に、ヒロの誘いは魅力的でもあった。一緒に星を見たい、けれども、一緒にいることを良しとしない。そんな矛盾する気持ちで、志穂は口を噤んでしまう。
「志穂さん?」
「しばらく忙しいと思うから、予定が決まった後なら」
遠回しな断りだったけれども、ヒロ相手にはそんな遠回しな言葉は通じなかったらしい。一瞬にして笑顔を見せるヒロに志穂は罪悪感が湧いてくる。
「それじゃあ、絶対に」
ヒロの言葉に頷くだけで返すと、ヒロはバス停まで送ってくれて、しかも志穂がバスに乗り込むまで見送ってくれた。その優しさが嬉しくもあったけれども、辛くもあった。
一人バスに揺られながら窓に頭を預けて目を閉じると、ヒロの今日見せてくれた顔ばかりが浮かんでは消えていく。いつでも空気のように穏やかな存在で表情は豊かだけれども、余り揺らがないのが志穂のヒロに対する印象だった。最初は偶然、けれども話しを聞けば面白く、そして気付けばヒロと同じように自分も星に魅せられている。
目を開けて空を眺めれば大きな満月がそこにある。辺りが明るいこともあって星は見えないけれども、今日は満月だというヒロの声まで思い起こされて志穂は小さく溜息をついた。ヒロに出会ってから変化する自分に、志穂はついていけない気分で再び目を瞑ると、プラネタリウムで見た星と今見えたばかりの満月が重なって見えた。
休日から明けて月曜、会社へ行けば既に部屋にはのどかや加納、いやそれだけでなく志穂のプロジェクトに入っているリーダー全てが集まっていて驚きに目を見開く。
「お、おはよう。今日、打ち合わせ入れてないけど」
「志穂、それどころじゃないの、これ見て!」
そう言ってのどかが机に叩きつけたのは一枚の紙だった。白黒で写るのは志穂とヒロの姿で、どうやら先日プラネタリウムを見に行った日の写真だということはすぐに分かった。その写真にも驚いたけれども、何よりも驚いたのはその紙に書かれた見出しだった。
『企画部の榛名志穂とライバル社であるサークルファイブの社長久保寺宏哉は密接な付き合いがあり、企画データは横流しされている』
最初、それを読んでも意味を理解出来なかった。けれども、理解出来れば志穂の紙に触れた指が震え出す。湧き上がる気持ちは困惑と猜疑心で、ヒロが社長なんてことは知らなかったこと、そして騙されていたんじゃないかという気持ち、それからこんなことを書いたのは誰なのか、一気に湧き上がる感情に志穂はついていけない。
「榛名、この記事は本当か? いや、データの横流し云々は別だ。お前、サークルファイブの社長と恋人なのか?」
「……いえ、恋人ではありません。ただ、先日出掛けたのは事実です」
酷く混乱しているのに、志穂の声は落ち着いたものでまるで他人の口を借りているかのような感じがする。
「その様子だと相手がサークルファイブの社長だと知らなかったのか?」
「名前は聞いていましたけど、名字まで聞いていなかったので。サークルファイブがどんなゲームを作ってるのかは知ってますけど、社長の顔まで知りません」
「名前も知らない相手と出掛けたのか……いや、今はそこはいい。とにかく、これは不味いぞ。このメール、社内と外注に回されてる」
指先が震える。どうして自分が立っていられるのかもよく分からない。ただ情報過多で志穂は色々と情報が整理しきれず黙り込んでしまう。
そんな中で内線電話が鳴り響き、近くにいた竹河が電話に出て少し話しをした後に電話を切る。そしてこちらを見た竹河の顔はいつものおちゃらけた様子などなく強ばったもので、志穂はらしくない、などと見当違いなことを思ってしまう。
「社長から呼び出しです。今すぐ部屋に来るようにとのことです」
竹河のその声に志穂はすぐに返事をすることが出来なかった。

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