Act.02:五月の三日月

月曜日、すっかり気持ちを切り替えた志穂は会社に行くと、自分のチームに割り当てられた部屋の前に立つと首から掛けたネームプレートでセキュリティーを外し扉を開けた。

「おはよう」

声を掛ければ中にいた数名が挨拶を返してくれて、志穂は窓際にある全員を見渡せる机に鞄を乗せた。就業十分前に到着した志穂は椅子を引くと、足下にある箱に鞄を入れる。そのまま椅子に座ることはなく、出入り口に置いてある事務から届いた自分名前が張ってあるビニール袋を手にすると、自席へ戻り一つずつ確認しながら机の中へと片付けていく。

「おはよう、志穂。今回も宜しくね」

そう言って声を掛けてきたのはチーム内で唯一女性であり、長年の付き合いにあるのどかだった。フリーで社員ではないのどかだけど、すっかりうちの社のお抱えシナリオライターになっていて、打ち合わせなどは出社して貰っている。勿論、取材などで出てこないこともあるが、志穂にとっては遣りやすい相手でもあった。

「こっちこそ宜しく。それにしても、本当に代わり映えしないメンバーだわ」

室内を見渡しながら言えば、それぞれ席に座っていたメンバーから笑いが起きる。志穂の所属するサイドビジュアルという会社はゲーム会社で、志穂はここでゲームプランナーという肩書きを持つ。元々ゲーム好きが高じて社員になったけれども、まさか自分が作る側に回ることになるとは入社した当時は考えもしなかった。

「また志穂さんの下で働くとなると、スゲーこき使われるんだろうな」

ぼやき混じりに溜息をついたのはグラフィック担当の竹河で、学生時代からCGに触れていただけあって美麗なCGを描く。勿論、竹河の下には下請け会社が入り竹河の指示の元動くことになるけれども、基本は志穂から竹河への指示となることもあって、志穂としては竹河の表情に笑うしかない。

「ビシビシいくわよ。でも、あとで説明するけど、竹河の好きな戦闘シミュレーションだから戦車やバズーカ―砲、ガシガシ描いて貰うからね」
「マジっすか!」
「趣味に走っていいわよ。ダメだしもするけど」
「ですよねー」

ガックリ肩を落とす竹河に笑いながらも、手元にある文房具類を一通り片付けてしまうと、鞄から取り出したのは今回のプロジェクトに関わる書類の入った書類ケースだ。書類ケースから書類を取り出すと部屋の片隅に置かれているコピー機で人数分のコピーを取る。そうなると、それぞれが気になるらしくコピー機の周りにわらわらと集まってきて、コピーされた書類を手にするとそれぞれ各自で分配を始める。

プロジェクト規模としては大きなものではあるが、始動段階ではそれほどの人数はいない。

プログラマーの加納、CGクリエイターの竹河、外注シナリオライターののどか、同じく外注であるサウンドクリエイターの丸尾、そして今はいないけれども、営業宣伝の峰、そして企画の志穂という六人しかいない。実際、加納や竹河の下には下請けが入るし、丸尾は持ち帰りで社内分配作業になる。最終的な規模としてテスターも含めて数百人規模になるに違いない。

始業である十時のチャイムが鳴る頃にはコピーも終わり、それぞれが資料を手にしたところで押さえてあった第六会議室に移動すると即打ち合わせに入った。

金曜日の時点のプレゼンで、志穂は二つの企画を用意してあった。一つは女性をターゲットにしたロールプレイング要素のある恋愛シミュレーションゲーム、そしてもう一つが今回プロジェクトとなったロールプレイング要素のある戦略シミュレーションゲームだった。けれども、恋愛シミュレーションは同期の柿沼がほぼ同じような企画を出してきたこともあり、志穂としては戦略シミュレーションの企画を出すしかなくなった。比重としては恋愛シミュレーションの方に力が入っていただけに、悔しさはあったもののいつまでも引きずっていても仕方ない。

歴史もの、近未来もの、そして自衛隊ものなど戦略シミュレーションは業界として多くの物が出ているけれども、志穂は現代という設定にはやりでもある異世界を絡ませることで、現代を背景にファンタジー世界を作り上げようとしていた。

やる人間によって画面はスタイリッシュになったり、ファンタジーの可愛らしい世界になることで、男性だけではなく女性層も取り込もうとしたものだった。説明しながらも世界観の大切さと、難易度を上げすぎないシミュレーション、そしてターゲット層の確認をしてからそれぞれの議論に入る。

時折喧嘩腰になったりすることもあるが、志穂は基本的にやりたいように意見を交わせるような空気を作ることにしている。その議論からまた新たな世界が生まれることもあれば、キーとなる小物が増えたり、見せ場が増えたりすることもある。だから、他の人間とは違い、志穂は初期討論に時間を掛けることにしていた。外注であるのどかや丸尾には一週間会社に拘束してしまい悪いとは思うものの、それぞれが全く違う視点から見えることが大切だったから無理をいって一週間の打ち合わせに参加して貰っている。

屋台骨が出来ていても、細かいところを詰めていけばまだまだ空洞化しているところは多く、飛び交う質問や議論を時折冗談を交えながら、時折衝突しながらもしっかりと骨格を作っていく。

それぞれ紹介が必要無いくらい顔を合わせていることもあり、お互いに遠慮は無い。一番年齢の高い加納は基本的に年齢でどうこう言うタイプでないこともあり、威圧感をこういう場では全く見せない。だから下からの意見なども上がりやすい。時折、書類の裏に竹河が鉛筆描きで世界を表してみたりしている内に、骨格ができあがるよりも先に昼食の時間になってしまう。

白熱した意見を落ち着かせるにはタイミングが良かったこともあり、志穂は再度一時から打ち合わせを行うことを伝えて一旦解散を宣言した。それぞれが散っていく中で部屋に最後まで残ったのは志穂とのどかで、二人一緒に会議室を出ると志穂は鍵を掛けた。

例え同じ社内の人間であったとしても、ゲームというものは情報漏洩が恐ろしい。この段階の情報はまだまだ高値で売買出来ることもあり志穂も慎重になる。実際、売買されてしまい他の会社に先手を取られプロジェクト自体がお蔵入りになることも珍しくない。

そういう意味合いでは今回のメンバーは志穂にとって信頼の置ける最良のメンバーでもあった。

「さてと、何食べようか」
「さき事務の子に新しく出来た店教えて貰っちゃった。変わり種スパゲティあるらしいから、そこ行こう」
「それじゃ、そこ行こうか」

そんな会話を交わしながら社外に出ると、のどかに案内されながら五分ほど歩くといかにも新装開店という花輪の飾られた店があった。混雑しているのは見て取れたけど、二人ということもありすぐに席に案内された。一階と二階に客席があるらしく、店内は広く清潔感に溢れていた。すぐにメニューを広げてのどかと二つスパゲティを決めてしまうと、あらためてのどかと向かい合う。

「そういえば、志穂、また柿沼とやりあったって?」
「あんた、それ誰から聞いたの」
「事務の女の子。名前は秘密」

外注であるのどかにそんなことを伝える事務の女の子に呆れもしたが、事実なので否定する気にもなれない。同期の柿沼は既に課長という立場にある。けれども、志穂とアイデアが被りプレゼンで驚愕したのは今回ばかりでは無い。

「もうさ、志穂は独立した方がいいんじゃないかって私は思うんだけど」
「独立って簡単に言うけど、資金だって必要だし、何より人間集めないといけないじゃない。無理に決まってるでしょ」
「そう? 今の志穂ならついてくる人間結構いると思うわよ。それに、アイデア盗まれたの今回だけじゃないじゃない」
「のどか、滅多なこと言わないで。誰が聞いてるか分からないんだから」

一応志穂は咎めてみたけど、言ってみてから白々しい気がした。実際、志穂自身も柿沼は志穂のアイデアを盗用していると思っているし、何度かそれで詰め寄ったこともある。けれども、柿沼自身はしらばっくれるし、上の人間は聞く耳を持たない。社の出世頭となっている柿沼に対して上は何かすることはないに違いない。実際、今回だって荒れに荒れて、日曜日には辞表だって書いた。

「でも、このままだとずっと志穂は柿沼にアイデア食われ続けるわよ」
「せめて証拠が掴めたら死ぬまで追い詰めるんだけどね」
「……あんたの顔でそれを言われると、さすがに私でも引くわ」

呆れた顔を見せるのどかに志穂は営業用の笑顔を浮かべると、のどかは更に溜息をついている。志穂自身もいずれ決着はつけなければならないと思うし、いつまでも柿沼に手柄を横取りされている状況に甘んじるつもりは無い。ただ、どうしても証拠が無ければ志穂としても動きようが無いという現実がある。

「で、話し変わるけど一緒に住んでる年下の彼はどう?」
「逃走した」
「また? 今回結構長かったから本命だったんじゃないの?」
「別に本命とか考えたことも無かった。あれ、ほらあれと一緒。アロマポット」

思いだせた言葉に軽く手を打てば、目の前ののどかはさっぱり分からないという顔をしていて、志穂は補足する。

「癒しなんだよね。でも無くても困らないみたいな感じ」
「探したりしない訳?」
「しないわよ。何で出て行ったもの追いかけないといけないのよ。面倒くさい」
「志穂、いつか刺されるわよ……」
「別に出て行くくらいだから向こうにもそう執着があるとは思えないけど。また新たな癒しどこかで拾えないかなぁ」

遠い目で呟けば、のどかは呆れたという声と共に再び溜息をついている。けれども、志穂としても溜息をつかれるようなことをしている自覚があるだけに反論はしない。

学生時代にはきちんと恋愛だってしていたし、好きになった相手だっていた。けれども、どうにも志穂が考える甘えてくる男というのは皆無で、やたらプライドだけは高く見栄を張る男ばかりで最終的にげんなりして終わった。

だったら自分で探せばいいと思い探してもそんな男はいないとなるれば、どうしても今の形になってしまい気づけば恋愛とは違うフィールドに立っていた。もう、こればかりは自分ではどうしようもなくて志穂自身もやるせなさを感じてはいた。

「いっそSMクラブでもいって探してくるか」
「志穂が言うと冗談に聞こえないから止めて」
「半分本気」
「もっとたち悪いわよ」

のどかの嫌そうな声に志穂はからりと笑うと、タイミングよく頼んでいたスパゲティが届いた。キムチのスープスパゲティとお茶漬け風スパゲティの二品と共に、小皿を四枚置いていってくれる。確かに変わり種スパゲティではあるけれども味はなかなか美味しく、食べながらも今度はのどかの彼について話しを聞く。相変わらずの仲良しぶりに半ば呆れながらも、幸せそうな顔で話すのどかを見るのは悪い気分じゃなかった。

食事を終えてコーヒーを飲み終えると再び会社に戻り打ち合わせに入る。妥協を許さないメンバーということもあり、白熱した議論となり解散したのは深夜を回っていた。けれども、このメンバーになるといつものことで、仕事をしたという充足感は志穂にもあった。

それから四日は深夜に帰ることを繰り返し、その日は中休みということできりのいい所時間に全員上がることにした。翌日は祭日ということもあり男連中はこれから飲みに行くと言っていたけれども、志穂はこの休日中に上がった意見を書類に纏めたいこともあり断って帰路についた。飲むのは嫌いじゃないし、やることがなければそれこそ朝まで一緒になって飲んでいたに違いない。

ちょっと勿体ないことをしたかもしれない、などと思いながら駅から帰る途中でコンビニに寄り、翌日の朝食となるサンドウィッチを買うとコンビニを後にした。

いつもの帰り道、公園の脇を通る瞬間、木々の合間から見えたその人影に足を止めた。ベンチに座り空を眺めるその男は先日、志穂がビールを渡し三日月について色々教えてくれた男だった。ふと空を見上げれば僅かに顔を出す三日月が見える。あの時の月は二十六夜月と言っていたから、今見える月は三日月に違いない。

風が吹くと男の癖のある髪がふわりと揺れる。そして視線に気付いたのか男が振り返り、目が合った途端に口元に優しげな笑みを浮かべた。ベンチから立ち上がった男に対して、志穂は公園に入ると男の前に立つ。

「先日はごちそうさまでした」
深々と頭を下げる男に志穂としては苦く笑うしかない。志穂がビールを空ける間に男はビールに数口しか飲んでいないことは気付いていた。

「苦手なら苦手って言いなさいよ。ビール、苦手だったんでしょ」
「すみません。でも、気持ちが嬉しかったんで」
「まぁ、私のことじゃないからどうでもいいけど」

呆れながらも再び月に視線を移してポツリと呟いた。

「三日月」
「えぇ、今日は三日月です。あぁ、そうだ、これ忘れない内に」

そう言って男は志穂が持っているコンビニ袋と同じ物から缶ビールを一つ取り出した。

「何これ」
「この間のお礼です。美味しそうに飲んでたから好きなんだろうなと思って」

差し出してくる缶ビールは先日志穂が飲んでいたものと同じもので、少し考えた後にそれを受け取る。思ったよりも冷えていて、男がここに来て間も無いことをが分かる。

「ずっとここで待ち伏せしてた訳?」
「いえ、今日ようやく時間が空いたので、もしかしたら会えるかなと思って何となく買っちゃいました」
「ナンパ?」
「そんな! いや、確かに好意はありますけど、ナンパとかそういうつもりはなくて……ただ、会えたらいいなくらいの感じで」

確かに男からはナンパ男特有の軽いノリは無く、好意ごり押しという感じもしない。実際、志穂もこうして男を見て公園に入ってきたくらいだから嫌悪は無い。まさに何となく、という感覚に近い。

「まぁ、いいわ。頂きます」

志穂はベンチに腰掛けると、声を掛けてからビールのプルタブを開けた。別にビール一本くらい志穂にとっては水みたいなもので、明日に響くようなものでもない。開けたビールを男に向かって軽く掲げると、男は困惑したように志穂を見ている。

「私一人に飲ませる訳?」
「あ、あぁ、ちょっと待って下さい」

慌てて男はビニール袋からもう一つ缶を取り出すと照れくさそうに笑った。

「これなら飲めるんです」

そう言った男の手にあるのはりんごの缶チューハイで、思わず志穂は笑ってしまう。基本的に志穂の周りにいる男は缶チューハイなんて飲む人間はいない。恐らく今日飲みにいったメンバーだって、最初こそビールだろうけど、後には水割りやら日本酒に移行するメンバーばかりで甘いチューハイを好む男を初めて見た気がする。

男は缶を手に志穂の隣、けれども適度に距離を空けて腰を下ろすとプルタブを開けた。そして、志穂のビール缶に軽くあててくる。

「えっと、再会に乾杯、でいいですかね?」

志穂の機嫌を伺うような男に思わず笑いながらも「そういうことにしとこ」と志穂は答えてビールに口をつけた。確かに志穂は酒が好きではあったけれども、毎日晩酌する生活はしていない。だから、ビールを手にしたのはこの男と飲んで以来のことだった。

「やっぱり、仕事上がりのビールは美味しい」
「それは良かったです。あ、そろそろ沈みますよ」

その言葉で志穂も月に視線を向ければ、丁度ビルとビルの谷間に三日月が身を隠そうとするところだった。お互いに話すこともなく、ただゆっくりと沈んで行く三日月を眺める。それは静かで、どこか厳かな時間でもあった。

だから月が全ての姿を隠した瞬間、志穂は自然と溜息をついてしまった。

「何か夜なのに月が沈むって変な感じ。月って夜にあるものだとばかり思ってたから」
「でも、昼にも月は昇ってますよ」
「うん、それは知ってたけど。子どもの頃に読んだ絵本とかの影響なのかな。夜の空には月があるって」
「あぁ、確かに必ず描いてありますよね」

穏やかな口調で話す男は確かにチューハイなら飲めるらしく、幾度となく口をつけている。改めて顔を見れば、少したれ気味の目が優しげな風貌を更に優しげにしているのだと分かる。そして服装はデニムにTシャツ、そして上からパーカーとトレーナー地のジャケットを組み合わせていて、見た感じでは大学生のようにも見える。

そうやって見てみるとこの男は志穂の好みに近いものがあった。ただ、そこはかとなく漂う育ちの良さみたいなものが垣間見えて、志穂の遊びに安易に巻き込んでいいタイプでないことは分かる。

「名前、聞いてもいい」
「く……ヒロヤです。でもヒロって呼んで貰えると嬉しいです。あの」
「志穂。志穂様でも志穂殿でも好きに呼んでいいわよ」

途端に男の顔が困ったようにへにゃりと崩れ、志穂はその変化に思わず笑ってしまう。まさに本当に困ってますという顔をここまで表現出来るものなんだと始めて知った気がする。

「冗談よ。志穂でいいわ」
「それじゃあ、志穂さん」
「うん、悪くない感じ」

そこでお互いに視線を合わせて軽く笑う。

酷く早い時間の中で生きている感覚だったのに、こうしてヒロと会う時間は志穂にとってゆるやかな時間へと変化する。それはヒロの持つ独特の穏やかな雰囲気にあるのかもしれない。

「いつもこんな時間までお仕事なんですか?」
「今日は早いほう。泊まり込みとか普通にあるし、下手するとシャワー浴びに家に帰るだけの時もある」

答えてから志穂は色々と話しすぎだと思い、ごまかすように缶に口をつける。

けれども、いつものペースに比べたら飲むペースは遅いらしく、まだ缶には半分以上のビールが残っている。

「お仕事、好きなんですね」
「馬鹿ね、仕事しないと食べていけないでしょ」
「でも、それだけじゃ続けていけませんよ、仕事なんて」

その言葉を聞いて見かけは大学生でも、やはりヒロは社会人だと知る。ただ、仕事を離れた場所でならありだけど、もし仕事に関わるのであればヒロみたいなタイプは志穂としては無しだ。恐らく一分一秒を争うようなリリース前であれば、ヒロみたいなおっとりしたタイプはイライラするに違いない。

「仕事嫌いなの?」
「……しなくて済むならしたくありませんよ。でも、そういう質問をすることを考えても、志穂さんはやっぱりお仕事好きなんだと思いますよ」
「どうだろうね。ただ、仕事は一番結果が分かりやすいから頑張るだけかもね」
「結果が分かりやすい……少し、志穂さんが羨ましい気がします」

学生の頃であれば成績表という形で結果が残った。社会人になれば誰かに認められるとか、仕事を取ったとか、そういうことでしか計れなくなる。ただ、結果が分かりにくいけれども無くては困る職業というものは多くある。

恐らく経理や事務なんて仕事はその最たるところかもしれない。ただ、ヒロが経理や事務をしているところは想像がつかないこともあり、志穂はこれ以上ヒロの職業を探るような真似は止めた。そうしないと、ヒロの雰囲気もあって志穂自身も話さなくていいことまで話してしまいそうな気がする。

「そういえば、ヒロは月とか星とか好きなの?」
「好きですよ。月とか星だけじゃなくて自然そのものが好きです。例えばあそこにある星、何だか分かりますか?」

そう言って月の無くなった空をヒロの指先が指し示す。ヒロとの距離がある分、ブレはあるだろうけど恐らくヒロの指さす辺りにあるオレンジ色の一番明るい星のことを言っているに違いない。

「星とかさっぱり。今まで興味も無かったし。あれ、有名な星なの?」
「有名と言えば有名ですかね。アルクトゥールスという星で太陽の百倍以上の明るさがある星なんです」
「百倍、何か想像できない明るさ」
「えぇ、距離があるからあれくらいの明るさですけどね」

説明するヒロの顔はやっぱり穏やかなもので、先ほど仕事の話しをしていた時のどこか影のある雰囲気とは違う。それは本当に星や月が好きなんだとその表情からも見て取れる。

背後で車が止まる音が耳につき志穂は何気なく振り返った。この公園に立ち寄ったのはこの間と今日の二回だけだったけれども、こうして車が通ること自体滅多に無い。だから余計気になったのかもしれない。

志穂と同じように背後へ視線を向けたヒロの穏やかだった表情が強ばるのが見て取れた。

「知り合い?」
「……そうです。あの、また会って貰えませんか?」

問い掛けてくるその表情は真剣そのもので、さすがの志穂も笑い飛ばすようなことは出来ない。志穂は少し悩んだ後に鞄からメモ用紙とボールペンを取り出すと携帯のメールアドレスを書き連ねる。その紙をヒロに差し出せば、途端に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ただし、忙しい時は返信できないから」
「分かりました、有難うございます。今日はここで失礼します」

慌ただしく一礼するとヒロは志穂に背を向けた。車の方へ改めて視線を向けると、車の前ではきっちりとスーツを着た女性が立っていて志穂のことを遠慮なく見ている。その視線を面白く無いと思いつつも志穂はその女性から顔を隠すように正面を向くとビールを呷る。しばらくすると車の走り去る音が聞こえ、振り返った時には女性も車も、そしてヒロもいなくなっていた。

黒塗りの一目で高級車と分かる車を見た限り、あんな格好をしていてもヒロがそれなりのお坊ちゃんなんだということは分かった。だとしたら、ますます志穂とは違いすぎる。もしかしたら、メールアドレスを教えたこと自体失敗したのかもしれない。

そんなことを考えても時間が遡る訳でもなく、志穂は諦めの境地でビールを口にしながら先ほどヒロが説明してくれたアルクトゥールスという名前の星を見上げる。オレンジ色の星はよく見ると瞬いているのが分かる。

この公園で偶然出会ってヒロに教えて貰ったことは三つ。二十六夜月、そしてアルクトゥールスという星とヒロという名前。

少なくとも月や星については今まで志穂には興味の無い分野のことだった。それでも、これからは空を見上げるたびにヒロのことを思い出すのかと思うと少しだけ癪な気分で、志穂はビールを一気に飲み干すとゴミ箱に入れるとベンチから立ち上がる。

今後ヒロから連絡があるかどうかは分からない。実際、こちらが教えてもヒロは連絡先を教えることが無かったことからも、社交辞令だったのかもしれないと思えば、少し気が楽でもあった。元々、待つような可愛い性格でもないし、会えたらラッキーくらいに思っておけばいい。

……ん? 会えたらラッキー?

自分の思考に一瞬問い掛けたけれども、それを突き詰めるのは開けてはいけない箱の蓋を開けるような気がして志穂は無理矢理思考を放棄するともう一度空を見上げる。月の無くなった夜空にオレンジ色の星はやけに目立って存在していた。

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