Act.01:五月の二十六夜月

今日あった社内でのプレゼンで、同期の柿沼に似たような企画を先に発表されてしまい志穂は酷く憤っていた。腹立ち紛れに年甲斐もなく鞄を振り回しながら不機嫌さを隠すことなく家に足を運ぶ。家にへ帰ればいつものように年下の彼が甘えてくるだろうとばかり思っていた。けれども、帰った部屋は暗く、訝しく思いながら部屋の電気を点けると、この二年の間に増えた筈の彼の荷物は綺麗に無くなっていて、部屋の中央に置かれたテーブルの上には手紙が一通置かれていた。

荷物がない、その時点で予感はあったから手紙を読んでいてもそれほどショックは無い。ただ、最後に書かれていた言葉だけは耳に痛い。

僕は志穂さんのペットじゃない。甘やかすよりも甘えて欲しかった。

確かに彼はアルバイトをしていて、一応家賃も入れてくれていた。けれども、基本的に洋服や食事代は全て志穂が与え、志穂の好みを押し付けていた部分も多い。それでも、こうして言葉を交わすこともなく手紙一つで出て行かれるとは思ってもいなくて、志穂は長い溜息を一つ落とした。

基本的に志穂の好みの男性は年下で、そういう年下の男とばかり付き合ってきた。甘やかされるよりも甘やかす方が志穂は好きだったし、志穂の言うことを聞いてくれる年下の男は志穂を気分良くさせてくれた。ただ、こうして一緒に住むと大抵の場合、早ければ三ヶ月、長くても三年すると出て行ってしまうことが多く、今回のことも志穂にとっては諦めの境地でいなくなった男を探す気にもなれなかった。

それでも気分いいものでもなく、志穂は着替えることもせずに冷蔵庫を開けるとビールを取り出し、缶にそのまま口をつけると缶を呷り一気に半分程飲み干すと、静かな部屋でソファに勢いよく腰掛けた。途端に手の中にある缶から少しだけビールが零れたけど、そんなことは気にせずに再びビールを口にする。

家に帰れば用意されている夕食。笑顔で迎えてくれる彼。そして膝枕で甘えてくれる彼は志穂にとっても癒しだった。けれども、そんなヒモを家に招き入れていたら、いつか痛い目に合うと言っていたのは仕事仲間ののどかだった。社員ではなくフリーとして社に出入りしているのどかとの付き合いはもう十年近くなる。口も堅く、基本的に志穂とチームが組むことも多いので志穂にとって唯一気遣いせずに話しの出来る女友達という関係にある。だから、志穂の男癖の悪さを知ってる唯一の存在でもあった。こんなこと、親にだって言える筈も無い。

最後の一缶だったビールを飲み干すと、志穂は再び立ち上がり食器棚からロックグラス、そして下の棚からウイスキーを取り出すと、再びソファに腰掛けてからグラスにウイスキーを注ぐ。琥珀色の液体を八分目まで注ぐと、ウイスキーの香りを楽しむこともなく口をつけた。基本的に酒に強い志穂は酔って正体を無くすようなことは無い。だから、酔いの入り口に到着するまでにはかなりの酒量を必要とする。けれども、酔ってふわふわするようなあの感覚は好きなこともあり、酔いの入り口に辿り着くためにウイスキーを呷る。

時折、社内の飲み会では詐欺だと言われるけれども、見た目で酒を飲める分量が変わる訳では無いから詐欺でも何でもない。ただ、周りが詐欺だと言いたくなる気持ちは少しだけ分かる。

昔から志穂は童顔で、社会人になってしばらくは童顔であることが本当に嫌だった。けれども、あと三十手前になっても童顔というのは、ある意味お得なことが多い。少なくとも、それなりに可愛らしい顔に生んでくれた両親には感謝したいくらいだった。雑誌などに顔を出すような立場になってから、志穂は好みでは無いけれども可愛らしい服を身につけることが多くなった。化粧と服装で少なくとも五歳はごまかせるのだからこれを利用しない手は無い。

顔立ちが穏やかで可愛らしいという部類に入ることもあり、志穂を知らない人間であれば騙される。勿論、志穂も社外の人間にはおっとりした雰囲気という多大な猫を被って接している。それで相手が喜ぶのであれば、志穂としては騙される相手が悪いと思っていたし、客先が喜ぶのであればそれこそ儲けものくらいに考えていた。

ただ、大体においてこの顔立ちはお得ではあったものの、志穂好みの男を選ぶとなるとかなり面倒でもあった。大抵の男は志穂を見ればおっとりした人間だと思うらしく、甘やかしたい気持ちになるらしい。それは志穂にとって煩わしいことでしかなく楽しいことじゃない。

そして今日出て行った男も、結局はそっち側だったということだ。面白く無い気分でグラスのウイスキーを空けると、再び瓶からグラスにウイスキーを注ぐ。

気が強いのも図太いのも昔からだし、メソメソ泣くよりも十倍返しするくらいの性格はしてる。それを勝手に勘違いするのは男の方で、志穂としては騙そうとしている相手以外には、猫を被ったことは一度だって無い。けれども、周りは勝手に勘違いをしたり、夢を持ったりするから面倒だと思う。

男運が悪いのか、志穂自身が悪いのか、それは分からない。ただ、面白く無いのは確かでしっかりグラス三杯分のウイスキーをストレートで空けてから志穂はソファに投げ出したままだった鞄から財布を取り出すと、五千円札を取り出してポケットの中に無造作に入れる。勢いよくソファから立ち上がると、フワリと酔い独特の感覚があり微かに笑う。

この感覚が一番楽しい。そう思いながらしっかりした足取りで再び玄関に向かうと、先ほどまで履いていた踵の高いミュールではなく近場の買い物に利用するバレエシューズを履くと部屋を後にした。

街灯に照らされながら酔い独特の浮遊感を楽しみつつ徒歩五分のコンビニに入ると、志穂は買い物カゴを手に店内を回る。まず最初にビールを六缶、それから酒棚からウイスキーとブランデーの瓶をカゴに入れると、つづいてつまみのコーナーで乾き物を幾つか買った。

今日一日だけでも面白く無いことは沢山あったのだから、こういう日こそ景気付けにお酒を飲んでも構わないに違いない。そんな思いから志穂はレジを済ますと重いビニール袋を片手にコンビニを出た。ただ、ここ最近、お酒の買い出しと言えば大抵一緒に住む誰かが一緒だったから、これはこれでかなりきつい。歩いて五分、その距離が今の志穂にはとても辛いものに感じる。

だから、途中で面倒くさくなって道沿いにある小さな公園に入るとベンチにビニール袋を置いて大きく溜息をついた。基本的に肉体労働には向いていないことは自分でも分かってる。少し悩んだ末に、志穂はベンチに座るとビニール袋の中から缶ビールを取り出すとプルタブを開けると口をつけた。

家に持って帰るのが面倒くさい。だったらどうせ飲むならここで飲んでも同じことだと思えた。それに公園といっても小さな公園で、周りは住宅街ということもあり、何かあれば叫べば何とかなる。それに自宅の鍵には防犯ブザーだってついている。一応、考えた末の結論でもあった。

ただ、そんな自分の姿が回りにどう映るのかを考えた時、志穂の口元には自然と笑みが浮かんでしまう。見た目二十歳半ばで、おっとりめの自分が一人公園でビールを飲んでる風景は、さぞかしシュールな光景に違いない。ベンチの背もたれに身体を預けて空を見上げれば、そこには雲一つ無い空が広がっていて、綺麗な形をした三日月がそこにいた。

まだ低い位置にある三日月は細く鋭いエッジで、普段の志穂なら間違いなく見逃していたに違いない。ただぼんやりと眺めていれば不意に手元が翳り、そちらへ顔を向ければ、背の高い穏やかな顔をした男が一人立っていた。

「声掛けようか迷ったけど、こんな所で一人で飲んでると危ないと思うんだけど」

見るからにぽやぽやとした男は間違いなく志穂より年下に違いない。不躾な視線を投げてから、志穂は手にしていた缶ビールに口をつける。

「もしかして、酔ってる?」
「全然酔ってない。だから放っておいてくれて結構」
「確かに口調はしっかりしてるみたいだから大丈夫そうだけど」

男を放置したまま、三日月を見ていれば男の視線も三日月へと向けられた。

「あぁ、二十六夜月だね」
「……どういう意味?」

聞いてみたくなったのは志穂の完全なる気まぐれだった。けれども、男は気分を悪くした様子もなく志穂に穏やかな笑みを向けてくる。

「三日月と反対に出ている月を二十六夜月って言うんだ」
「どっちも三日月じゃないの?」
「広義では三日月と呼ばれるけど、実際には反対側に出ている時が三日月。今の月は二十六夜月」
「そうなんだ」

別に月や星に興味があった訳じゃない。ただ、志穂としては男の言う二十六夜月と呼ばれる月を肴にビールを飲んでいただけに過ぎない。午前三時の丑三つ時、こんな時間に声を掛けてくるような男はろくな男じゃないに違いない。そう思うのに、男の声が余りにも穏やかで耳に心地よいこともあって、志穂はビニール袋からビールを一つ取り出すと男に差し出した。

「飲む?」

男はビールと志穂の顔を交互に眺めてから、少しだけ笑うと志穂の差し出したビールを受け取りベンチに腰掛けた。あと一時間もすれば日も昇る。けれども男は気にした様子もなくプルタブを開けるとビールに口をつけた。

うっすらと遠くの空が明るんでくるこの時間に、見知らぬ男と酒を飲むのはさすがに志穂としても初体験だった。けれども、男に下心的なものは全く感じることなく、志穂は空になった缶をベンチの隣にあるゴミ箱に入れると二本目のビールに手を伸ばした。プルタブを開けたところで気分のままに男に缶を差し出す。

「えっと、今貰ったけど」
「違うわよ。乾杯」
「何に対しての乾杯?」
「さぁ。出会いに対してでもいいじゃない」

そう言えば男は苦笑しながらも、志穂の持っている缶に自分の持つ缶を軽くあてる。少し鈍い音がして、志穂も男も同時に缶へと口をつけた。ビールの苦みが喉にたまらなく美味しいと感じさせてくれる。

「そういえば、二十六夜ってことは月には色々名称があるってことよね。一夜から名前がついてる訳?」
「いや、そんなことはないよ。そうだな、よく聞くのは上弦の月とか下弦の月とか聞いたことない?」
「何となく聞いたことあるかも」
「そうやって色々名前がつけられてるんだ。数字がつけられてるのは二日月、三日月、十三夜月、十五夜月、十六夜月、十七夜月、二十三夜月、そして今日の二十六夜月。三十日ある内に数字がつけられてるのはこの八つだけなんだ」

月に対して志穂の興味がなさすぎたのか、それともこの男が詳しいのかどちらなのかは判断がつかない。ただ、男の落ち着いた穏やかな声で説明されるのは悪くないし、興味が無いこととは言えども、こうして丁寧に解説されると少しだけ興味も湧く。

「ごめん、少ししゃべりすぎたかも」
「別に謝る必要は全然ないと思うけど。聞いたのは私だし、こういう雑学的なこと聞くのは嫌いじゃないし」
「そう言って貰えると助かるかな」

そう言って男はやっぱり穏やかに笑うと手にした缶ビールに口をつけた。もしかしたら、余りお酒は強くないのかもしれない。だとしたら無理に勧めて悪いことをしたかもしれないと心の片隅に思ったりもする。けれども、嫌なら口があるのだから嫌だと断ればいい、と相反する気持ちもある。

ただぼんやりと二人でベンチに座り月を眺めていたけど、志穂は手の中にある缶ビールが無くなるとゴミ箱にそれを入れてから立ち上がった。

「色々聞かせてくれてありがとう。ちょっと楽しい時間だった」
「そう思って貰えたらなら光栄かな。大丈夫? 本当に酔ってない?」
「お酒には強いの。それじゃあ」

それだけ言うと志穂はビニール袋を手にすると公園を後にした。男が背後から追いかけてくるような気配は無く、男なりに気を遣っているのかもしれない。志穂は少し軽くなったビニール袋と気持ちに、偶然ともいえる男との出会いを感謝した。
結局、志穂は翌日が休みということもあり、家に帰ってからはそれ以上飲むこともなく、ベッドに入って眠りに落ちた。夢の中でも穏やかな落ち着いた男の声が、夜空を解説していた。

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