青空の下で囁いて Act.4

元々、部屋でテレビを見る習慣は無い。それでもテレビがついている日は、大抵落ち込んだ日だと長い生活習慣から自分でも分かるようになってる。そして、今落ち込むとしたら梶のことでしかない。

慌てて逃げるように帰ってきたために愛用のノートパソコンを持って帰ってくることも忘れてしまっていたことに気付いたのは、日付が変わる頃になってからだった。それだけ梶のことを考えていたのかと思うと、少しだけ笑える気がした。

昔は人のことを考えて時間が過ぎるなんてことは数多く無かった。友達との付き合いも淡泊な方だったし、親相手ともなれば殊更考えることも無かった。だから、いつでもうさぎの世界はネットが大半で、そこから得られるのは文字情報ばかりで感情があったとしても基本は文字だった。共感出来ないものは考えず、共感出来るものでもどこか冷めた目で見ていたのは確かだった。

だから、ネット上にある恋愛相談なんてものは、うさぎにとって遠くの世界で興味の無いものだったし、よく見ず知らずの人に相談出来るものだと思ったりもした。でも、少しだけ今なら見ず知らずの人に相談する人たちの気持ちが分からなくも無い。

恐らく岡嶋や梁瀬に相談すれば、それなりの解決策を貰えることは分かってる。そして、沙枝や利奈に相談すれば困惑なり怒るなり、何らかの反応を見せてくれるに違いない。でも、多分、それじゃあ駄目なんだと思う。

ネットの中にある恋愛相談の多くは彼が、彼女が信じられないとか、このまま付き合うべきかとか、そんなことを多く目にした。でも、相手が大切であるなら自分で考えるべきこと、そして話し合うべきことだと学んだ。けれども、実際には何か言われるのが怖くて逃げ出してしまって携帯にも出られない自分が情けなくなってくる。

気にしてないと思ってたし、見合いくらい大丈夫だとうさぎは思っていたし、全然平気とすら思っていた。それなのに、実際、梶が他の女性と腕を組む姿を見て激しく動揺して逃げ出した。

しかも、梶が戻る前には梶の独占欲が昂じて社員と繋がりを持たせないなどと馬鹿な勘違いまでして、本当に恥ずかしくて仕方ない。それだけ物を考えていないということで、我ながら呆れてしまう。

不意に音楽が鳴り出し、うさぎの身体はビクッと震えた。この着メロに設定している相手は一人だけで、うさぎはテーブルの上に置いたままになっていた携帯に視線を向ける。着メロに合わせて緑色のランプが明滅していて、それをぼんやりと眺める。

信用していると思い込んでいたのは自分で、そんな思い込みで梶に大丈夫だと言ったのは自分だ。だったら、言葉の責任くらいは自分で取らないといけないと思う。

だからこそうさぎは携帯にゆっくり手を伸ばす。けれども、そんな一秒にも満たない間にすら電話が切れてしまえばいいと願う。話すべきだと思うのに話すべき内容は見つからない。そんな状況でうさぎは通話ボタンを押した。

「……もしもし」

声は微かに緊張で震えている。何か言われるかと身構えていれば、電話向こうから聞こえてきたのは溜息だった。

「あの……」
「もう、二度と電話に出て貰えないかと思っていた」
「す……すみません」
「いや、謝る必要はない。君のノートを預かっている。明日の昼休みに会社の方へ顔を出す」

いつも梶との電話はドキドキする。耳元で、梶の低い声がするとほとんど条件反射のように脈が上がる。けど、今日はいつもの比じゃない程ドキドキしていて、携帯を持つ手に汗までかいている。どこか緊張に満ちた脈の上がり方は何かと考えた時、それが恐怖なのだとようやく気付いた。

「今日の礼に食事をご馳走する」
「そ、んな、大したことしてませんから……あの!」
「明日、言いたいことも聞きたいことも全部聞く。正直言うと、君の話しを電話で聞くのは怖い。すぐに意地を張る」
「……張りません」
「そういうところが意地を張ってると言ってる。……顔を見て、きちんと話しをしたいんだ」

最初こそからかうような響きがあったものの、最後の言葉は真剣で、そしていつもよりも優しい声音でうさぎとしてもそれ以上、梶に言い募ることは出来なくなる。でも、梶の言い分も理解出来るだけに、うさぎが了承の返事をすれば、おやすみという声と共に電話は切れた。

最後に聞こえてきたざわめきから、梶がまだ会社にいることが分かる。仕事の合間にうさぎに連絡をしてくれたことが分かると、うさぎとしては複雑な心境でもあった。

うさぎが梶を好きになったのは仕事に対する生真面目さと、仕事をするその背中だった。その背中が素直に格好いいと思ったし、キーボードを叩くあの瞬間、見とれてしまうくらいに目を奪われた。そんな梶の時間を奪ってしまったという罪悪感はある。それなのに嬉しいと思う自分もいて、そんな身勝手な気持ちが嫌になる。

恋をしたら、誰もが清廉潔白でなんかいられない。そう言ったのは誰だっただろう。少なくとも、今のうさぎは清廉潔白という言葉からは遠い所にいるような気がする。

結婚を申し込まれたのに断って、それなのに傍にいたくて、梶から別れの言葉なんて聞きたくない、ただひたすら我が儘な存在でしかなくて、そんな自分が甘い人間にしか思えない。相手に必要だと思えば、手を離すのも優しさや愛情だということは知ってるけど、それでも、一度掴んだ手を離す気になれないのは酷い人間ということなんだろうか。

そんなことを考えながらも、うさぎは身支度を整えてから眠りについた。けれども、考えていたことが後ろ向きだったことが災いしたのかもしれない。夢見は悪く、起きた時には酷く疲れていて鏡を見た瞬間、その疲れ切った顔に少しだけ笑ってしまう。

でも、少しだけふっきれた所もある。駄目だと諦めるばかりでは、何度も同じ事を繰り返す。何かを変えたいと思うなら自分も変わらないといけないのだと夢が教えてくれた気さえする。だからこそ、顔を洗って改めて自分の顔を見つめたうさぎは、ここ最近慣れてきた笑顔を浮かべてみた。

表情なんてものは無くても誰も気にしなかったし、うさぎも必要とは思っていなかった。けれども、仕事をすれば笑顔というものがどういう影響を与えるのか少しずつ分かってきた。何よりも、うさぎが笑うと岡嶋や梁瀬、そして梶が穏やかに笑ってくれる。それが嬉しくて更に笑顔は増えた。

誰かに影響を受けるのは嫌だったし、誰かに影響を与える存在だとは思ってもいなかった。でも、今は違うことを知ってる。人として生きていく以上、誰かの影響は受けるし、誰かに影響を与えることもある。そして喜んで貰えることもあれば、悲しませてしまうことだってある。それでも、いいんだとあの三人は認めてくれた。

これ以上、うさぎは恥ずかしい自分になりたくはない。逃げるような真似だってしたくないし、無謀な行動で心配を掛けるようなことはしたくない。分からないなら聞けばいいし、言うべきことはきちんと伝える。信頼している相手なら、なおさらそうするべきだと今なら思える。それくらいは前向きになった気がする。

いつもより早いこともあって、ゆっくり風呂に浸かり、それからいつもより時間を掛けて朝食を取り家を出た。いつもより早く出たけれども、日差しは強く日向に出た途端に濃い影が落ちる。

暑いとは思えるけど、時折吹き抜けていく風が生暖かいながらも気持ちのいいものだった。会社に向かうために角を一つ曲がったところで、少し先に立つその人物が目に入り思わず足を止めた。目眩のような感覚に足を踏みしめ耐えてから改めて正面に立つ人物を見つめる。ゆっくり近づくその人は、うさぎが忘れたくても忘れられない存在でもあった。

「久しぶり、元気だったみたいだね」
「……ラスト、何故ここに?」
「うさぎちゃんに会いに」
「何のために」
「うわー、そんな怖い顔しないでもいいじゃん。お別れの挨拶に来たんだから」
「……お別れ?」

元々、ラストとの一件があったからこそ梶たちに会えた。けれども、それを感謝したい相手かというとそんなことは全く無い。うさぎの二メートルほど前で立ち止まったラストの顔は、穏やかに笑い最後に見たあの時と余り変わらないように見える。けれども、よく見ればあの頃より笑うも口元にはわずかに皺が寄り、落ちくぼんだ目からも年を重ねたことが分かる。

「保釈金払ってくれるお偉いさんが海外にいてね、腕を買ってくれたんだよね。だから、実質、君の愛しの梶さんと正式にライバルになるかな」
「愛しのは余計です」
「おや、突っ込むのはそこ?」

実際、梶から聞いているからハッカーからセキュリティー会社に入る人間がいることは知っていた。ただ、あれだけのことをしたラストでさえ普通に雇い入れる会社があることに驚いた。別に、犯罪者の全てに対して社会復帰することを否定するつもりはない。けれども、昨日のことがあるからこそ、うさぎとしてはこの真夏日の中寒気を覚えた。

「昨日……システムセキュリティーに」
「あぁ、やっぱりうさぎちゃんだったんだ。一層、大打撃でも面白いと思ったから彼がいない間に仕掛けたのに、あっさり片がついておもしろみ無かったよね」

楽しそうに笑うラストに沸々と怒りが湧き上がってくる。こんな、面白いからとか、面白く無いからという理由だけでウイルスを仕掛けてくるような男が社会復帰することには反対したい。

「笑い事じゃありません」
「はっきり言うようになったねー、成長というか、馬鹿正直というか。まぁ、どっちにしてもしばらくは大人しく飼われてることにしたから、君たちと遊ぶ暇は無いと思うよ。だから、昨日のあれは俺なりのご挨拶」
「そんな挨拶いりません」

うさぎが言えば再びラストは笑い、殴りかかりたい気分にだってなってくる。通りに人影は無い。肩から掛けていた鞄に手を入れると、少し躊躇してから記憶を呼び起こすとボタンを押した。

「昨日のこと……ラストが裏で手を引いてたってこと? ハッキングしてきたのはラストじゃなかった」
「だって、ここで捕まったら困るでしょ」
「幇助だって罪になる。共犯者なんだから」
「証拠は? ほら、証拠」

そう言ってラストが掌を差し出してきて、うさぎは一歩下がる。そこで背後から腕を捕まれて振り返れば、途端に緊張していた身体から力が抜けた。

「梶さん!」

そのまま腕を引かれると背後から抱き締められて、せっかく力が抜けた身体に緊張が走る。何か言おうとしたうさぎの言葉を遮るように梶の声が低く響いた。

「何しに来た」
「んー、ご挨拶みたいな。これでしばらく海外だし、会うこともないからね」
「挨拶なんて必要ない。とっとと失せろ」
「別にあんたに挨拶するつもりは無かったんだけどね、ディンブラ」

薄い笑みを浮かべるラストの目は、酷く冷たくうさぎの背後にいる梶に向けられている。背後の梶がどんな顔をしているのか見たくて振り返ろうとしたけど、抱き締める腕に力が籠もり頭の上に顎を乗せられてその表情を見ることが出来ない。いや、もしかしたら、見るなという梶の意思表示だったのかもしれない。

「過保護だねぇ。ま、しばらくは遊べそうにないからどうでもいいけど。また、数年後にはここへ戻ってくるよ」
「二度と戻ってくるな」
「やーだよ、もっと遊びたいし。あぁ、ディンブラと上手くいかなかったらいつでも声掛けて。うさぎちゃんのためならどこからでも飛んでくるから」
「絶対に声なんて掛けません」

いつも以上に強い口調でうさぎが言えば、ラストは驚いた顔で目を見開いてから、次の瞬間、うさぎが見たこともないほど穏やかに破顔する。その笑みの意味が分からず一歩を踏み出そうとしたところで、緩んでいたうさぎを抱きしめる腕に力が篭ったのが分かる。

「それじゃぁ、また今度」

笑顔でそれだけ言ったラストは軽く手を挙げて背を向けると振り返ることなく大通りに出ると、その姿は消えた。ただ、うさぎは動くことなくラストが消えた方向をぼんやりと眺めていると、頭上から溜息が落ちてきた。

「もう、会うことはないだろうな」
「そうなんですか?」
「昨日調べた限りではラストは米国で就職が決まっている。ハッキングの腕を買われたこともあり、ラストにとっては離れがたい職場になるだろう」

そういうものなのだろうか。うさぎにはよく分からない。ただ、ラストともう会わないというのは奇妙に予感めいたものがあった。

「と、とにかく、腕を離して貰えると嬉しいんですけど」

それだけ言って前に回る梶の腕を軽く二度叩けば、ふとその腕から力が緩んだ後にきつく抱き締められる。

「梶さん? あの……」
「……一緒に行きたかったのか?」
「そんな訳ありません」

きっぱりと返事をすればようやく梶の腕から解放されて、うさぎは梶を見上げる。梶はうさぎを見ることなく、先ほどのうさぎと同じようにラストの消えた通りを眺めている。

「もう、あいつがハッキングすることもないだろう」
「どうしてですか?」
「君も梁瀬も就職してからはハッキングをしていない。ハッキング自体が暇つぶしだったこともあるだろうし、守るものが出来ると無謀なことは出来なくなる。君には会社、そして梁瀬には家族」

言われてみれば、忙しいこともあったからハッキングをしようという気にはなれなかったけど、梶の言うような側面もあるのかもしれない。うさぎにとって、ハッキングすることで生じるネット空間は自分の存在を確かめる場所の一つでもあった。でも、今はこうして近くに梶もいて岡嶋たちもいるから、存在意義や確認をする必要も無い。何より、仕事を通してうさぎを必要としてくれる人がいると思えば、迷惑の掛かるようなことはしたくない。

「これからも第二、第三のラストが出てくるかもしれない。水面下ではまだグレーのことを探る動きもある。だが、もう君は動くな。今の仕事が大切だと思えるなら、絶対に動くな」

今の会社が大切かと言えば、三年もすれば愛着も湧くし、大切に思っている。何よりも、そこで知り合った人たちに助けられているし、助けたいと思う。うさぎにとって今なら無くせない場所で、ある意味、楽しくも厳しい場所だった。確かにハッキングしていた時のようなスリルは無いけれども、それ以上に経験が積み重なって自分の力になる自分の会社が好きだった。

不意に梶がうさぎへと視線を向けてきて、梶と視線が絡み合う。

「それにしても、どうしてここへ?」
「轟麻紀を覚えているか? あいつに梁瀬がラストの調査依頼をしてあった。朝一に連絡があって、見失ったと聞いてもしかしてと思って君の家に行った」

言われてみれば、梁瀬はあの時、誰かに連絡を取っていたけど、どうやらあの電話の相手が麻紀だったらしい。だとすれば、このタイミングで現れるのも納得ではあった。むしろ、タイミングとしては良すぎるくらいに思えた。

「少し怖いと思っていたので助かりました。有難うございます」
「礼を言われる程のことはしてない。それに、私も君に話しがあった」
「何ですか?」
「一緒に暮らさないか」

一瞬、その意味が理解出来ず梶を見上げたけど、梶の表情は変わることなくうさぎを見つめている。聞き違いかと思ったけどそういうこともないらしく、すぐにうさぎも言葉が出てこない。

「別に今日でなくとも構わないが、三日以内に答えを考えておいてくれ。昼休みには迎えに行く」

梶はそれだけ言うと背を向けて歩き出してしまい、うさぎは慌ててその背中に声を掛けた。

「三日ですか?」
「あぁ、三日だ。既に君の中に結論はあるのだろうがな」

振り返ることもなくそれだけ言うと、梶は角を曲がりその姿を消してしまう。しばらく呆然と立ち尽くしていれば、うさぎの横を梶の車が走り抜けて行く。車のガラス越しに見えた梶はこちらを見ていて、微かに笑みを浮かべていた。

自分の中に結論がある、と梶は言ったけど果たして結論はあるのかうさぎは考えてみるけど、今は混乱していてすぐに答えが浮かぶはずもない。それ以前に、つい先日結婚を断った時の反応も気になるし、その延長としての同棲なのか、結婚は全く別物としての同棲なのかわからない。

鞄の中に入れていた携帯が鳴り出し、慌てて携帯を取り出してボタンを押して耳に当てれば、そこから聞こえたのは聞き慣れた声だった。

「うさぎちゃん、何かあったの?」
「え?」
「随分と遅れてるみたいだけど」

言われて左手に填めている腕時計を見れば、時計の針は既に九時を回っていて慌ててうさぎは歩き出す。

「すみません。すぐに行きます」

とにかく今は仕事優先と気持ちを切り替えると、うさぎは携帯を切って徒歩五分の距離にある会社へと向かい前を向いて歩く。強い日差しの中で歩きながらも、今日片付けるべき仕事を頭の中に並べていく。割り切った筈なのに、ふと気を緩めた瞬間に梶の言葉が蘇り、そのたびに顔が熱くなるのが分かり頭を振って思考を切り替える。

会社に到着するまでの間、そんなことを数度繰り返しようやく会社の扉を開けば、既に仕事を始めている岡嶋が一人いた。

「おはよう」
「おはようございます」
「何かあったの? 複雑な表情してるけど」
「色々ありました」

梶の同棲話しは別にラストと会ったこと、そして梶が現れたことを説明すれば岡嶋は少し考えた様子を見せてから肩を竦めて見せた。

「確かに、就職したとしたら梶さんの言うようにもうラストはハッカーとして現れることは無いかもしれないね。余程、馬鹿な失敗をしない限り」
「無くせないものが出来たから、ですか?」
「そういうこと。梶さんからの受け売り?」
「はい、そう言ってました。でも、すぐに信じられない気がして……」
「まぁ、ラストは現れないかもしれないけど、第二、第三のラストは現れる可能性はあるよ。だから、うさぎちゃんもきちんと身辺には気をつけた方がいいと思う。もし、今後もシステムセキュリティーの仕事を手伝うつもりがあるなら」

さらりと岡嶋から言われたことは、つい先日梁瀬に言われたことと同じものでうさぎとしては何も言い返せない。恐らく、うさぎは今後も梶や梁瀬から助けを求められたら駆けつけるだろうし、思っている以上に気をつけないといけないことなのかもしれない。

「まぁ、それはともかく、朝一から瀬川工務店から電話があったよ。経理システムが不調らしくて見に来て欲しいって」
「分かりました。折り返し電話してみます」

そこからは日常へと戻り、岡嶋もうさぎもラストの名前を出すことは無かった。そして、うさぎも仕事に追われていたこともあって仕事以外の思考を一旦切り捨てた。

昼前に出先から会社へ戻れば、岡嶋と梶の姿があり改めてうさぎは梶に今朝のお礼を伝えれば、岡嶋に追い出されるようにして外に出た。相変わらず日差しは強く、梶の車へ乗り込めばクーラーが効いていて涼しさに思わず一息ついてしまう。

車で五分ほど走った所で駐車場に車を止めた梶の案内で、そこから五分も歩かずに一つの店に入った。看板などない、外から見れば商業ビルのような佇まいだが、中に入ればそこは確かに店舗になっていた。出入り口で係の人に案内されて長い廊下を歩く。両サイドは障子で仕切られ個室となっているらしく、時折靴が置いてあるのが目につく。少し歩いたところで一つの障子を開けられて中に促されて入れば、そこは八畳ほどの個室となっていた。

床の間に飾られた生け花はスチールグラスとガーベラというシンプルなもので、華麗さは無いけれども、白いガーベラとシンプルさで涼しげなものだった。用意された座布団にテーブルを挟んで梶と向かい合わせで座ると、係の人はオーダーを聞くことなく立ち去ってしまう。テーブルの上にはメニューも無く内心首を傾げていれば、梶がランチは一つしか無いが美味しいことを説明された。

何となくそこから会話は無く、手持ちぶさたに部屋を見回していれば梶に声を掛けられた。

「質問に三つ答えて貰えるか?」
「それは構わないですけど」

唐突とも言える言葉に、うさぎは改めて居住まいを正すと梶と向き直る。

「答えはイエスノーの二択だけだ。素直に答えて貰えればいい。君は俺のことを好きか?」
「そ、れは……好き、ですけど」
「二つ目、傍にいて欲しいと思うか?」

一体、この質問にどんな意図があるのか分からない。何の意図もなく梶がこういう質問をするとは思えないので、出来る限り答えたいとは思う。

「いて欲しいと思ってます」
「三つ目、俺と一緒に住みたいと思うか?」

その質問にうさぎはどう答えるべきか酷く迷う。正直、梶のように時間に捕らわれない仕事をしている相手であるのなら、余り一緒に住みたいとは思わない。ただ、それは傍にいたいという気持ちと相反している気がする。けれども、梶はイエスノーの二択のみと言っていたのだから、ここは素直にノーと答えるべきなのかもしれない。

けれども、ここでノーということで変化するものは何かと考えると、梶との別れしか思いつかず気持ちが焦る。なるようにしかならないと分かっていても、恋人を解消したい訳ではない。

「あの」

声を掛けると同時に梶は大きな溜息をつくと苦笑してから、腕を伸ばしてきて手の甲でうさぎの頬を撫でる。ただ触れただけにも関わらず、一瞬にしてうさぎは自分の顔が赤くなるのが分かる。

「あ、あの」
「本当に信用が無いな。答えやすくなるように一つ言っておく。俺は君と別れるつもりは全く無い。その上で質問に答えてくれ。イエスかノーか」

梶の一言でうさぎとしてはどれだけ緊張感が和らいだか分からない。身体中から力が抜ける感覚に少しだけ笑ってしまうと、頬を撫でた梶の指先がうさぎの髪を軽くからませてくる。こうした接触は梶とは余りないことで、うさぎはもう梶の顔を見ることも出来ないくらい恥ずかしいものがある。

「……ノーです。あの、それには理由があって……その、子どもみたいなんですけど、一人家で誰かを待つのが苦痛で」
「あぁ、そうか。気付かなくて済まなかった。けれども、それなら一つ提案だ。同じマンションに住まないか? 同居ということではなく」

その言葉にうさぎは少しだけ目の前が開けたような気がした。そして、考える間も無くうさぎは一つ頷いていた。

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