うさぎは仕事を終えて家に戻れば、暗い部屋の中で明かりが明滅している。既にその怪しげな明かりも見慣れたもので、廊下に置いてあるポールハンガーにコートと鞄、そして白に近い淡いピンク色のストールを掛けるとまだ暗いリビングに足を踏み入れた。怪しげな明かりの原因は留守電のランプで、リビングの電気をつけてから留守電のボタンを押した。
音声ガイダンスの後に流れたのは既に耳慣れた声で、短く録音が残されていた。
「今晩の夕食は夏野菜スパゲティと、サラダ、コンソメスープ。時間は十時まで」
その声でうさぎは壁に掛かる時計を見上げて時間を確認すれば、丁度九時半になるところだった。急いで寝室に向かい着替えを済ますと、うさぎは鍵だけを手にして帰ってきたばかりの部屋を飛び出した。きちんと玄関の鍵を閉めるとエレベーターに乗り込み最上階である十五階へと向かう。エレベーターを降りた所にあるのは扉が二枚。一枚は屋上へ続く扉で、もう一枚の横には呼び鈴がつけられていてこの階には部屋が一つしかないことが分かる。
うさぎはためらうことなく呼び鈴を押せば、十秒もしない内に相手が出た。いつもより少し掠れた「はい」という短い声はうたた寝をしていたのかもしれない。その声を聞いてうさぎの顔には自然と笑みが浮かぶ。
「夕飯メニューに惹かれて来ました」
それだけ言えば玄関の鍵が二つ、続けて金属音を立てて開くのが分かる。最初こそ緊張したけど、今は慣れたもので扉を開くと「お邪魔します」という挨拶と共に玄関で履いていたミュールを脱いでからきちんと揃えて廊下奥にある扉へと向かう。
梶からの言葉に応えて一ヶ月後にうさぎはこのマンションに越してきた。新築のマンションはどこもまだ綺麗で、余り傷も無い。うさぎの部屋もまだ新築の匂いが残っているし、この部屋にも新築特有の香りがまだ残っている。
一緒にいたい、けど同居は嫌だといううさぎの我が儘ともいえる願いを梶は全て受け入れてくれた。同じマンションで五階に住むうさぎと、十五階に住む梶。そして結婚はしていない。
ここへ越す前に何度も不安になって、結婚はしなくてもいいのかと聞いたけれども、梶は何度でも必要無いと答えてくれた。結婚願望は無いのかといううさぎの問い掛けには少し黙った後、無い訳ではないけれども、無理強いしてまでしたいものでもないというものだった。ただ、結婚という繋がりで拘束したいということを言われた時には顔から火が出るんじゃないかと思うくらいに照れくさかったし、恥ずかしいものがあった。けれども、そこまで言ってくれた梶に喜びを感じたのも確かだった。
そして期待するのが辛いと伝えたうさぎに、梶は二人の間に約束ごとを作ってくれた。お互いに会える余裕がある時には連絡を入れること。それは単純なことだったけど、うさぎにとっては気が楽になれる一つの約束でもあった。基本的に梶を好きではあるけれども、うさぎは一人の時間も大切だと思っていたし、一人の時間が欲しいこともあった。だから、時間がある時には連絡を留守電に吹き込み、相手にも時間があれば家に行くという形に落ち着いた。そして、必ず何時までに到着と時間で区切れば、それ以上ジリジリと待つ必要も無く、それはお互いにとって快適なことであった。
今日はうさぎが梶に呼ばれて夕食を一緒に取ることになったけれども、うさぎから連絡を入れて梶と一緒に夕食を取ることもある。勿論、誘っても断られることもあるし、時間までに来ないことだってあった。けれども、待つ時間が決まっているので、それ以上の期待が無い分、うさぎには楽なものでもあった。
リビングに繋がる扉を開ければ、広いリビングダイニングになっていて中央にはダイニングテーブルがあり、奥にはソファセットが置かれている。すでにここも見慣れた風景になっているのは、たった一ヶ月という期間の間にそれだけうさぎがここに足を運んでいるという証明でもあった。家が近くなったことと、連絡を入れてから訪れるということをお互いに徹底していることもあって、うさぎの中で梶に対する変な遠慮が無くなったことも多分にある。
「もうすぐ出来る。座っていなさい」
「手伝いますよ」
キッチンに入れば、梶はパスタ用の大きな鍋の前で文庫本を片手に菜箸を持ち中のスパゲティをかき回している。こうしてキッチンに立つ梶を見るのもここに来てから目にするようになった。最初こそ違和感を感じたけれども、今はもう気にならない。そして、梶は意外なほど本を読む人だと知ったのも最近のことだった。
「冷蔵庫にサラダが入ってる。適当に皿に入れてくれ」
「分かりました」
食器棚から皿を取り出すと、冷蔵庫を開ける。そこにはステンレスボウルに入れられたサラダがあり、取り出して皿に盛りつけていく。トマトにアボカド、そして黄色いパプリカと細かく刻んだたまねぎが入ったイタリアンサラダらしく、彩り鮮やかなサラダを見ているだけでお腹が空いてくるから不思議に思える。
サラダを皿に盛りつけてダイニングテーブルに並べると、次は箸置きと箸、フォークを用意してテーブルに並べていく。食後のお茶用にポットに水も足して、梶の隣でコンソメスープの入った鍋を温めるために弱火にしてお玉でかき回す。コンソメスープの中にはきゃべつやニンジンが多めに入れられていて、こちらも野菜たっぷりとなっている。コンソメの香りと一緒にしょうがの香りがするところからも、多少入っているのかもしれない。
「そういえば、今度、岡嶋さんがここに来たいって言ってましたよ」
「こっちは梁瀬と麻紀がうるさい。……一度呼べば満足するか?」
どこかうんざりという空気を漂わせる梶にうさぎはつい笑ってしまう。本気で嫌がっている訳ではないのだろうけど、面倒くささが先立つのかもしれない。
「すると思いますよ」
隣に立つ梶の手が伸びてきたかと思うと、指先が頬に触れ、ゆっくりと頬から移動した指先が唇を撫でる。それだけでうさぎは落ち着かない気分になるし、心臓がうるさいくらいに走り出す。
「一層、二度と来ないように見せつけるか?」
「……私が遠慮します」
そうかと小さく呟いた梶は屈み込んでうさぎの頬に口づけを落としてきて、うさぎは羞恥心で逃げ出したい気分になってくる。そんなうさぎの様子を楽しんでいるらしい梶はクツクツと笑い、うさぎは悔し紛れに睨み付けてみるけど赤い顔で睨み付けたところで全く効果は無いらしい。
「前は絶対こんなことしませんでしたよ」
「怯えられたら手なんて出せない。それだけ大事だったからな」
さらりと言われた言葉に更に顔が赤くなっただろうことは分かったけど、言い返すことも出来ずにうさぎは少し乱暴にお玉でスープをかき混ぜる。
こうして部屋を行き来するようになって、随分と距離感は変化したと思う。少し前まではお互いに気遣って距離を詰めるようなことはしなかったけど、こうした何気ないところでの接触が増えた。そのたびにドキドキさせられてはいるものの、うさぎ自身も前に比べて梶に対して緊張は無くなっている。
「今は……怯えてませんからね」
「知っている」
梶の指先がうさぎの髪を指に巻き付けて遊んでいるけど、文句の言いようもないうさぎは黙るしかない。少しずつ慣れて欲しいとは言われたけど、逆に慣れすぎて平然とされても面白く無いと、とんでもないことを言っていたのは一週間ほど前のことかもしれない。一緒に住まなくても同じ時間を過ごすというのは、本当に偉大なことかもしれない。
すっかり温まったスープの火を止めると、隣で梶も指を離して流しにおいてあるザルに鍋を空ける。湯切りしたスパゲティにバターを絡ませる手は慣れたもので、どちらかといえばうさぎの方がぎこちないに違いない。いつまでもその手を眺めている訳にもいかず、うさぎも慌てて皿を取り出しスープを入れてしまう。その間に梶はフライパンでなすを手早く炒め、ベーコンや茹でたニンジンを入れていく、スパゲティを足して塩こしょうで味を調えると、最後に大葉を刻んだものを入れる。その手際の良さにうさぎとしてはいつも目が離せなくなる。
梶のどこが好きかと問われたら、あの器用に動く指先はうさぎの中でのトップスリーに入るに違いない。皿にスパゲティを盛りつけると、最後に刻み大葉の残りを皿の端に乗せている。恐らく足りなければそれを足すということらしい。
既にスープも運び終わったうさぎは、自分の分を一皿、そして梶も一皿を持ち、既に決まった席に腰を落ち着けるといただきますと挨拶をしてフォークを手にした。食べた瞬間に広がる大葉の爽やかさは暑い夏にこそとても合うものだった。コンソメスープも薄味だけど野菜のうまみが出ていて、とても美味しい。
「何だかまだ負けてる気がします」
「ほとんど作っていなかったといっても、全く作っていなかった訳ではないからな。一人暮らしの長さは伊達じゃない」
「せめて美味しいものを作れるようになりたいです」
「それ以前に、君の場合は料理なら料理だけに集中するべきだな。だから焦げたカレーや、ししゃもを炭を作ることになる」
「耳が痛いです……」
基本的にうさぎは料理が余り好きでないこともあり、キッチンに入っても何かをしながら料理することが多く、大体、料理よりもそちらに力が入ってしまって失敗するのが常だった。
「仕事の書類はキッチンへ持ち込み禁止にすればいい。ついでに、うちにも持ち込み禁止にしたいところだ」
つい先日、うさぎは呼ばれた時に見直したい書類があって梶の家へと持ち込んでしまった。そちらに集中してしまい、梶の部屋を追い出されたのは記憶に新しい。
「……もうしません」
「そうしてくれ」
普段よりも軽い口調で食事しながらかわす会話はうさぎにとってはとても楽しいもので、向かい合う梶も穏やかな顔をしている。恐らく普通のから見たら奇妙な生活かもしれないし、実際、利奈と沙枝には変だと思い切り言われた。けれども、お互いに納得しているし、少なくともうさぎにとっては今がとても穏やかな気持ちで過ごせる。だから、毎日が充実している気がする。
そしてここに越してきて、色々と梶のことも分かるようになった。それだけ、お互いに遠慮があったのかもしれない。同棲しないけど、スープの冷めない距離で好きな人と暮らす。それはうさぎにとってとても幸せなことでもあった。
視線を落としたうさぎの薬指にはシンプルなプラチナのリングがはまっている。梶に渡された時に一度は返そうとしたけれども、虫除けだと言われて返すに返せなくなった。そして、全く同じものが梶の左手の薬指にもはまっている。
ずっと、このままであればいいと願うばかりだったけど、このままでいたいと願うのであれば努力しなければならないということをうさぎは知った。願うばかりでは叶うことも叶わなくなる。それを梶と付き合い始めてから教えられた気がする。
お互いの信頼だけの繋がりだから揺らぐ時だってあるかもしれない。それでも、この関係を維持する努力をうさぎはしていきたいと思う。それくらい、うさぎにとって梶という相手は大切な相手であり、好きな人で、傍にいたいと願う相手なのだから、努力は全く苦にならない。遠慮し合う関係じゃなく、突き放すばかりの関係でもなく、お互いを気遣いつつ傍にいる関係でありたい。
「梶さん」
「なんだ」
顔を上げた梶とうさぎの視線が重なる。うさぎは今できる精一杯の笑顔を浮かべると一言はっきりと気持ちを伝える。
「好きですよ」
唐突とも言える言葉に驚いた顔をした梶だったけれども、すぐに視線を逸らすと顔を背けた。
「知っている」
梶の声音も顔色は全くといっていいほど変わらない。でも、照れると耳だけ赤くなることを知ったのは本当に最近のことだ。だから、その反応に満足するとうさぎは再びフォークに梶の作ったスパゲティを巻き付けた。その間に梶は咳払いをして照れをごまかしてから、改めてうさぎに声を掛けてきた。
「明日の予定は?」
「休みです」
「明日は晴れるそうだ。一緒に出掛けないか?」
「それなら、明日は私がお弁当作ります」
「任せる」
基本的にうさぎも梶も人混みは余り好きではない。足を運ぶのはもっぱら美術館や公園をのんびり散歩することが多い。その時々によって昼食はどこかの店でランチを取ったり、うさぎがお弁当を作ったりすることもある。
眠って起きれば明日は快晴。雲一つない青空だった時には、今度は耳元で梶に好きだと言おう。その時、梶はどんな反応をするのか想像して、うさぎは微かに笑みを浮かべた。
梶と見る抜けるような青空の下で囁く言葉は、他の誰かに向ける声よりもずっと甘ければいい。そんな事を願いながら、うさぎは梶の作った料理を口にした。大好きな人と、大好きな人が作ってくれた夕飯のある空間、そして大好きな人と出かける約束、それはうさぎにとってとても贅沢でとても幸せなことだった。
The End.