「えっと……うさぎ、もう一回言って」
「だから、梶さんからのプロポーズ、断った」
「貴弘さんのこと、好きだよね?」
「うん、好きだよ」
「だったら、どうしてプロポーズ断るの!」
拳をテーブルに叩きつきた利奈の手を、慌てて沙枝が押さえて咎めるように利奈の名前を呼んでいる。
昨日、何となく二人にメールをすれば、土曜日ということで休みだった沙枝と、珍しく休みだった利奈は二人で昼食時間に会社へと突撃してきて、岡嶋さんに見送られながらランチへと連れ出された。元々こうなることは予想していたから驚きは無いし、うさぎ自身、自分の臆病さを誰かに責めて欲しかったのかもしれない。
「結婚が怖いから」
「うさぎちゃん、結婚が怖いって、余り聞いたことが無いよ? 普通、結婚って言ったら幸せの象徴のような気がするんだけど」
「する時はよくても、別れる時を考えると辛くて無理」
「何でそこで別れること前提な……もしかして、私たちのせい?」
不意に利奈の怒ったような顔が真剣な顔になり、隣に座る沙枝からもスルリと笑顔が抜けてしまい、うさぎは慌てて首を横に振った。あの時のことを引きずっているのは、むしろうさぎよりもこの二人の方かもしれない。
「違うから。うちの両親離婚してるでしょ。結婚という事実に依存しすぎて、もし別れることになった時には辛いから」
「だから、何でそこで別れること前提な訳よ。普通、付き合ってる時に別れることなんて考えないわよ」
「そうよねぇ。私も彼との別れを想像することはあっても、前提にしたこと無いかな」
「うさぎ、ちょっと考えすぎ。それに、梶さんの立場だと結婚だって必要じゃないの?」
「それも分かってる。だから別れるのも仕方ないかなって納得もしてるし」
言いながらも胸が痛んで、それを誤魔化すようにカップを手にすると利奈に言われた感じた苦みを紅茶で流し込んでしまう。好きなだけで全てが丸く収まる訳じゃない。自分がいて、相手がいるからこそ、合わないのであれば別れなければならないことだってある。好きだし別れるのは嫌だけど、でも、結婚を必要としている梶に対してそれを貫き通すだけの強さはまだうさぎに無い。
「うさぎちゃん、それ変だよ! だって、梶さんのこと好きなんでしょ?」
「でも、納得出来ないならそういう選択しかないでしょ?」
「好きなのに離れるって訳? それって本末転倒というか、色々選択間違えてない?」
利奈の指摘にうさぎは黙り込むしかない。間違えているとしたら、一体、どこで自分は選択を間違えているのか、それが分からない。結婚したい梶と結婚したくないうさぎでは、話し合っても平行線を辿るだけで消耗戦になるに違いない。そしてお互いに疲れ切ってやっぱり別れることになる気がする。
「今からきついこと言うよ、いい?」
「言って」
「前にうさぎの諦めの良さが嫌いって言ったでしょ。でも、もっと根本的なものが見えた気がする。うさぎってある意味頑固で、ある意味後ろ向き思考。後ろ向きに考えてるから諦めることが前提にあるんだと思う。それは一人でいる時にはいいかもしれないけど、相手がいる時には相手に失礼。凄く腹立つ」
「……ごめん」
「謝る相手違うでしょ」
利奈は本気で怒っているらしく腕を組んで憮然としたまま、椅子の背もたれに身体を預けている。多分、利奈が言ってることは正しいと思うし、うさぎも自分が臆病だという自覚はある。
けれども、どうしても梶と一緒に生活するという未来図が描けない以上、結婚という選択はうさぎに無い。何よりも付き合いが長い分だけ、どれだけ梶が忙しいのかも分かっているし、一緒に住んでいていつ帰ってくるか分からない梶を待つというのはうさぎにとってかなり辛いものがある。
両親の仲が冷えていくのと平行して、家の中にはうさぎ一人という状況になった。もしかしたら、どちらかが帰ってくるかもしれないと思って待つ時間は、十分うさぎの中にトラウマとして苦く残っている。自分では無い者の空気を感じながら一人で待つ、というのはうさぎにとって苦しいものでもあった。
「私だったら絶対、うさぎみたいな面倒なタイプとは付き合わないわ」
「ちょっと、利奈ちゃん!」
「だってそうでしょ? それなのに付き合うってことは、梶さんだってそれなりに本気なんじゃないの? だったら、うさぎは逃げてばかりいないで考えないといけないんじゃないの? 考えてどうしても怖いなら梶さんと話し合うべきじゃないの?」
「確かに、うさぎちゃんはもう少し貴弘さんと話すべきじゃないかなぁ。貴弘さん、うさぎちゃんのこと本気で好きだよ。その気持ちも信じられない?」
幾ら何でもうさぎだってそこまで信じられない訳じゃないから、首を横に振れば沙枝がホッとした顔をする。別に梶を信じられない訳では無い。でも、結婚を踏み切れない時点で信じられないということなのだろうか。分からなくて、うさぎはそれ以上、梶について何か言うことをしなかった。
沙枝と利奈は話し合えということをもう一度言うと、少し先にある沙枝の社員旅行に話しをスライドさせた。昼休みということもあり、長時間話し込んでいる訳にもいかず、うさぎはある程度話しに付き合ったところで、声を掛けて席を立った。
会社に戻るまでの間、ぼんやりと過去を振り返る。確かに、梶とは色々あってお互いに好きだと知った時には舞い上がる程嬉しかった。実際、こうして付き合い出した今でも、ささいなことでドキッとすることも多いし、好きだと思える時がある。一番好きなのは仕事中の梶だけど、勿論、そのほかでも色々と好きなところはいっぱいある。
でも、好きだけじゃどうにもならないことがあるんだとうさぎは知ってる。そうでなければ、離婚したり、家庭内別居なんてことにはならない。
ただ、先日の話し方からすると、梶は別れる方向に傾いているのかもしれない。別れるのも仕方ないと言った時、梶はそうか、としか言わなかった。それはうさぎの提案を受け入れたようにも思えるし、実際、今度の約束をしていない。昔であればともかく、この一年はお互いにスケジュールの分からない時以外、次の約束をしないことは無かった。
少し、駄目だった時のことを考えておいた方がいいかもしれない。今から別れることを想定しておけば、酷く傷つくことは無い。ただ、忘れられるかというと、それはありえない気がした。
梶と別れて四年近く合わない時期があった。色々やることのある時期だったにも関わらず、うさぎは梶を忘れることも出来ず、色々想像して辛かったことを覚えている。だとしたら、あの日々と同じことを繰り返すのだろうか。そう思えば、うさぎの気持ちは憂鬱にもなり、溜息をついて事務所の扉を開けた。
「お帰りー」
その声は二つ重なっていて顔を上げれば、出迎えてくれたのは岡嶋と梁瀬の二人だった。ここへ来る時の梁瀬は大抵スーツ姿で、私服のラフな格好を見るからに今日はオフということなんだと思う。
「お久しぶりです」
「本当だよー。たまには遊びにおいでよ。うちでも、社の方でもいいから」
「会社になんて遊びに行けませんよ。下手に行ったら手伝いさせられそうで」
「あら、見抜かれた?」
「……させるつもりだったんですか?」
思わず呆れた声になってしまえば、梁瀬は豪快に笑い出し岡嶋は苦笑気味ながらもうさぎにもコーヒーを用意してくれて、手渡される。
「そういえば、うさぎちゃん梶さんから聞いてる?」
梁瀬から問い掛けられて、一瞬、うさぎはギクリとして身体が強ばる。けれども、梁瀬は気付いていない様子だったので、そのまま誤魔化すように笑みを浮かべた。
「何のことですか?」
「いや、梶さんがさー、いきなりマンション買ったんだよね。丸ごと」
「丸ごとって、分譲マンションじゃなくて、マンションごとお買い上げしたってこと?」
「そうそう。元々、そういうのに興味無い人だから驚いてさ」
「それはまた……随分思い切ったことをしたというべきか、羨ましいと言うべきか微妙に悩むところだね。投資ってことは?」
「まぁ、無い訳じゃないと思うけど、あの人、既に株とかやってたからなぁ。それよりも」
そう言ってうさぎの方へと梁瀬は身を乗り出すとニンマリと笑う。そんな笑みを向けられたうさぎは思わず、微かに身を引いてしまう。梁瀬がこういう顔をする時は、大抵爆弾発言で手にしていたカップを落とさないように握りしめた。
「な、んですか?」
「結婚の予兆……とか?」
その言葉で一瞬にして身が強ばってしまえば、梁瀬は岡嶋と視線を合わせてから再びこちらへと顔を向けた時には唖然とした顔をしていた。
「マジで?」
「……うさぎちゃん、分かり易すぎ。そうか、そういう話しになってたんだ」
「いえ、なってません!」
思い切り否定すれば、途端に岡嶋の顔は怪訝なものへと変わる。
「それなら今の反応は何? プロポーズされたとかじゃないの?」
「されたけど結婚は無しというか……」
確かに断ったのはうさぎだけど、でも、一緒にいたいことまで否定したい訳じゃない。だから、それを他人に言うのは気が引けてそのまま言葉を飲み込んでしまう。
こういう時、上手く言葉にならないのはもどかしい。仕事になればうさぎの口もよく回るけど、いざプライベートのことを話すとなると、元々話すことを得意としている訳じゃないから仕方ない。
「プロポーズ断っちゃったの?」
驚いた顔で声を上げる梁瀬に、うさぎは少し迷ってから素直に頷いた。実際、断ったのは確かだから嘘をついても仕方ない。
「梶さんのこと好きだけど、結婚には不向きとか思ってる?」
「いえ、そうじゃなくて……私が不向きなんです」
「えー、だって、結婚したら一緒にいられるんだよ? 同じ家に帰るって結構幸せじゃない?」
確かにそう言われたら幸せな気がするけど、うさぎにとっては幸せよりも家で待つ寂しさの方が大きくて素直に頷くことは出来ない。
「馬鹿、誰もがお前みたいに単純な訳じゃないだろ。結婚に対する夢なんて今までどんな生活環境にいたかで変わってくる。少なくとも、俺も結婚願望ないしね」
「何だよ、二人とも! 結婚して幸せな俺が、無茶苦茶鈍いみたいに言うなよ」
「鈍いだろ。まぁ、あの人ほどじゃないけど……」
どこか呆れ混じりの溜息をついた岡嶋と視線が合い、岡嶋は呆れを苦笑へと変化させる。
「俺も両親と距離があったからうさぎちゃんの気持ちが分からなくも無いけど、普通の人には感覚的に分からないと思うよ、こいつみたいに」
そう言って岡嶋は梁瀬を指さし、指さされた梁瀬はいかにも納得行かないという顔をして岡嶋をじっとりと見つめている。
「でも、人によって感覚はそれぞれなんだからきちんと話しをしないと」
「先、利奈と沙枝にも言われました」
恐らく三人が言ってることは正論だとうさぎにも分かる。ただ、話すことによって決裂して上手くいかなくなった時が怖い。うさぎとしては既に、前にも後ろにも動けない状況で困ってもいた。けれども、自分のことだから自分で解決するしかない。
「うーん、でもさ、俺としては梶さんと結婚してくれたら嬉しいかなー。だって、あの人、今、あちこちから見合い進められていて結構躱すのに大変そうだし」
「梁瀬、そういうプレッシャー掛けるな。誰もが結婚して必ずしも幸せとは限らない」
「でも、好きな人となら幸せじゃないのか?」
「そうじゃないこともあるだろ。まぁ、子ども出来ても新婚と変わらない誰かさんには分からないだろうけど」
「何だよ、幸せならいいじゃんかー」
「だから、誰もがそうなれるとは限らないってこと少しは分かれ。少なくとも、俺は自分の親を見てて結婚したいとは思えないからね」
そこでようやく梁瀬は何かに気付いたのか、ばつの悪い顔をすると岡嶋から視線を逸らしてしまう。そんな二人を見ていると、岡嶋も実家にいた時に余り楽しい生活をしていた訳じゃないとうさぎにも分かる。けれども、こうして分かってくれる人がいるのは単純に嬉しいし、救われる気がする。
「梁瀬の言うことはともかく、うさぎちゃんはきちんと梶さんと話しをすること。好きなんでしょ?」
素直に返事をするには恥ずかしくて頷きで答えれば、岡嶋の手がうさぎの頭をくしゃりと撫でてくれる。昔と変わらないその仕草にホッとしてしまうのは、やっぱり甘えなのかもしれない。社会人になって、そういう甘えはもう捨てたと思っていたけど、いつまでもずっと残ることなのかもしれない。
そして、もし梶と別れたとしてもこうして残るのだと思えば、後悔するようなことはしたくない。
「今晩にでも電話してみます」
「あ、折角のところ水さして悪いけど、梶さん、明日朝一で接待ゴルフ。今日は泊まりでいないから明日にした方がいいかも。明日なら梶さん休みな筈だから」
確かに明日であれば日曜日だから、うさぎも休みだし丁度いいのかもしれない。上手く説明出来るか分からないけど、きちんと出来る限りの説明をして、それでも結婚と梶が言うのであれば、またその時に考えればいいのかもしれない。実際、梁瀬が言うように、結婚したらしたで幸せになれるかもしれないし、少し前向きに考えてみるのもありなのだと思える。ただ、前向きに考えても駄目なものは駄目かもしれないけど、その時にはきちんと梶に伝えればいい。
「もし、梶さんと駄目になっちゃったら慰めて下さいね」
「えぇっ! ありえなくない?」
驚いた表情のままうさぎを見て、それから岡嶋を見た梁瀬に対して、岡嶋は小さく肩を竦めて見せた。
「さぁね。なるようにしかならないから。でも、もしそんなことになった時には全力で慰めるから」
笑顔を向けてくる岡嶋に、うさぎも少しだけ笑みを返した。不安が無いと言えば嘘になる。けれども、うさぎも梶もお互いにプライベートではどちらかといえば無口な方で、色々と会話が足りていないのかもしれない。
それに、うさぎとしても、もっと梶のことを知りたいと思うことも多い。それがお互い様であれば、うさぎとしては嬉しいし、もう少し会話も出来るようになるかもしれない。
「頑張ってみます」
「うん、出来ることは自分でやらないとね」
笑顔の岡嶋に笑顔で返せば、反対側からも手が伸びてきて少し乱暴に頭を撫でられる。
「大丈夫だから、落ち着いて話しするんだぞ」
こういうことに慣れていないのか、少し照れくさそうな顔でうさぎの頭を撫でる梁瀬にうさぎは元気よく返事をした。その日は午後から家族で出掛けるという梁瀬と別れ、岡嶋と二人月曜日にあるリリースの為に最終確認をして夕方には家に帰った。
メールくらいはするべきあか悩んだうさぎだったけれども、結局、メールをすることもなくメールが来ることもなく眠りに落ちた。
翌日、日曜日だというのに目が覚めたのはせわしなく鳴り響く玄関のチャイムの音が耳についたからだった。ベッドから起き上がったうさぎはパジャマに軽くカーディガンを羽織っただけでチェーンが掛かった状態で扉を開ければ、そこに立っていたのはいつもの笑みが無い岡嶋だった。
少なくともこんなことは一度だって無いだけに、うさぎも寝ぼけていた頭がすぐに覚醒する。
「うさぎちゃん、すぐ出られるかな」
「あの、何が」
「システムセキュリティーに大規模なハッキングがあった。でも、梶さんがいないから梁瀬と社員で頑張ってるらしいんだけど、どうにもならないらしくて」
「分かりました、すぐ行きます」
慌てて寝室へ戻ると手早く着替えてから、枕元に置いてあった携帯を手にすると鞄の中に入れる。玄関先に鞄を置くと洗面所で慌てて顔だけ洗うと化粧ポーチを持って、洗面所を出ると無理矢理鞄に詰め込んでミュールを引っかけて慌てて外に飛び出した。通りには岡嶋の車が止まっていて、階段を駆け下りると車の助手席へと乗り込んだ。
「状況はどうなんですか?」
「梁瀬の方が後手に回ってるみたいだ。俺もまだきちんと説明聞いてないから状況がよく分からない。ただ、梁瀬一人では手に余る状況らしく俺の方に連絡が来たんだ」
「梶さんはそういえば泊まりでいないって」
「偶然なのか狙ってのことなのか、梁瀬も分からないらしい。梶さんにも連絡入れたらしいんだけど、梶さんも向こうからだと手を出せない様子で電話対応中」
基本的にあの事件からもう三年が経つ。梁瀬の腕も随分上がっていると梶から聞いているだけに、果たして自分がどこまで役に立つのかは分からない。
不意に鞄の中に入れてあった携帯が鳴り出し、慌てて取り出すと表示を確かめる。そこに表示された名前を見るとうさぎは慌てて通話ボタンを押した。
「朝からすまない」
「いえ、状況がよく分からないので説明が欲しいです」
「あぁ、基本的に拡散型ウイルスを埋め込まれたらしく、それの駆除と平行してクラッキングに対応しているらしく梁瀬の手だけでは押され気味ということだ」
それは確かに梁瀬一人の手ではどうにもならないに違いない。恐らく梁瀬が一人でクラッキングに対応して社員がウイルスに対応という形を取っているのだろうことは想像出来るが、新種のウイルス対応を現在いる社員だけで対応しきれているのか現状では怪しいところだ。
梶から聞いていた話しでは梁瀬と同等の腕がある人間は社員にまだいないと言っていたから大変なことになっているに違いない。
「私がするべきことは」
「梁瀬のフォローと言いたいところだが、梁瀬をフォローに回して君が動いた方が早く片がつくに違いない。梁瀬には既に伝えてある」
「分かりました」
「私も戻るまでに三時間程掛かる。休日にすまない。それから何かしら礼はさせて貰おう」
最後の一言が珍しく軽い口調だったこともあり、思わずうさぎは少しだけ笑ってしまう。
「別に必要ありませんよ」
「明日、食事でも」
「分かりました、楽しみにしています。けれども、それよりも前にきちんと後始末までしないといけませんし、終わってから改めて約束でもいいと思いますけど」
「そうだな、そういうことにしよう。あと三十分程で飛行機に乗る。到着まで一時間半ほど連絡が取れなくなる。すまないが頼む」
「はい、分かりました。こちらも後十五分もすれば到着します。一応、メールで近況だけは送っておきますので確認して下さい」
最終的にお互いの連絡方法を知らせ合ってから電話を切ったところで、信号で丁度止まった岡嶋と視線が合った。
「うさぎちゃん、楽しそうな顔してる」
「え? そんな顔してます?」
慌てて頬に手を当ててみたけど、自分でどんな顔をしているのかは分からない。でも、連絡があって次の約束があったのは確かに嬉しかったから、それが表情に出ているのかもしれない。
「すみません、緊急事態なのに」
「いや、多分、うさぎちゃんの緊張をほぐしたかったんだと思うよ。何だか安心したかな、梶さんと二人だけでいる所を見たこと無かったけど、うさぎちゃん凄くいい顔してるし」
「そうですか?」
「少なくとも、俺や梁瀬には見せない顔かな」
そう言って少しだけ笑うと、信号が変わり車がゆっくりと動き出す。既に岡嶋は前を向いて運転していて、うさぎは手元にある携帯に視線を落とした。
いつもよりも少し穏やかな口調で話す梶の声がまだ耳に残っている気がする。岡嶋が言うように、もしうさぎの緊張をほぐすためだったとしたら、それはとても嬉しいことかもしれない。
自分が指示するとなれば、それなりに責任だって負わなければならない。学生の頃と違って、責任の重さは十分に理解しているし、対応が出来なければシステムセキュリティーという会社は信用を失う。部外者だからという逃げ道は確かにあるけれども、対応に苦しむ梁瀬を、信頼を向けてくれた梶を裏切る訳にはいかない。
手の中にある携帯をグッと握りしめると、うさぎは改めて前を見据える。街路樹として並ぶ桜の木には青々とした葉が茂り、所々、濃い影を落としている風景は、うさぎにとってすっかり真夏のような光景として映った。