青空の下で囁いて Act.1

室内に鳴り響くアラーム音に画面から顔を上げたうさぎは、音の鳴る方にいる岡嶋へと視線を向けた。

「本日の残業は終了。もう九時だからね」

岡嶋に言われてうさぎが時計を見れば、針は確かに九時を示している。けれども、手元で作業中のプログラムはあと三十分ほどあれば出来上がることもあって、うさぎは改めて岡嶋と目を合わせた。

「先に上がって下さい」
「約束」
「…………」

それを言われてうさぎは言葉に詰まると、岡嶋のファイルを閉じる音だけが部屋に響いた。
先月、風邪をひき岡嶋や梶に迷惑を掛けたことは記憶に新しい。その際、迷惑を掛けた二人に、そして梶の部屋で看病されている間に見舞いに来た梁瀬の三人にさんざんうるさく怒られ、一つだけ絶対的な約束をさせられた。

それが「緊急でない限り九時には退社すること」というものだった。

基本的にうさぎは集中してしまうと時間を忘れてしまうところがある。仕事が苦にならないこともあり楽しくもあるが、幾つもある仕事をこなしていれば一日というものはすぐに終わってしまう。楽しく集中しているうさぎとしては、仕事の終わり=仕事のキリがいい所まで、という感覚もあり時間が麻痺していたこともあった。

岡嶋がいる時はまだいいが、居ない時はそのまま事務所で寝てしまったことも何度かあった。体調管理は最低限で気をつけてはいるものの、締切間際ともなればそうも言っていられない。趣味として時間を費やしていた時には、具合が悪くなる直前には休みを取ったりして帳尻合わせをしていたけれども、仕事ともなればどうしても時間が取れないこともある。

その最たるうさぎの失態は先月の風邪だった。あれ以来、岡嶋には無理をすれば梶に会社へ来て貰うと宣言されている。しかも、その宣言を隣で聞いていた梶も大きく一つ頷いたものだからうさぎの立場はかなり悪い。

梶と付き合い出してからというもの、大きな変化は無かった。お互いに忙しいこともあったし、会う時間を作ることをしてこなかった。けれども、風邪で寝込んで以来、梶は殊更距離を詰めてきた気がする。無理をすれば前であれば苦笑程度だったのに、今なら急ぎの仕事が無ければ事務所に顔を出すし、岡嶋並に小言も落としていく。

それが煩わしいかと言えば、そんなことは無い。ただ、時折、紙一重に感じるのは、それまでうさぎが自由にやりたい放題してきたからこそ、他人に合わせるということが慣れていないせいかもしれない。

元々、うさぎは心配されることは嫌いでは無い。だから、小言を言われるのもそれだけ気にされているのだと思えば悪い気分はしない。それは梶に対しても、岡嶋に対しても同じことで、根底には信頼があるからこそ、その小言を受け入れられることは分かっている。

でも、いい大人だからと思うとやはり面白く無い気持ちも湧いてくるのも確かで、笑顔でこちらを見ている岡嶋に不満げな顔を向ければ、途端に岡嶋は笑みを深くすると机の上に置いてあった携帯を手にした。

脅しだと内心思いながらも、うさぎは渋々パソコンのファイルを保存してからパソコンの電源を落とした。振り返った時には既に岡嶋の机は綺麗に片付けられていて、うさぎはパソコン前にあるファイルを足下の棚に片付けてから立ち上がった。

「何だか孫悟空の輪を頭につけられてる気分です」
「そのつもり。じゃないとうさぎちゃん、いつまでもそこにいるでしょ? 俺は電話すると決めたら電話するよ」
「知ってます」

舞台が忙しい時には岡嶋もここへ来る回数も少なくなるが、そうなると今度は梶や梁瀬がここに来る。来られない時には電話で確認してきたりするから、手間は掛けられている。もう少しうさぎ自身が相手に手間を掛けないように行動するべきだと思っていても、仕事の波が乗っていたりすると面白くはない。

「面倒なタイプですみません」
「自覚してるなら直さないといけないよね」

少し八つ当たり気味な言葉だったのに、見事なカウンターを返されてうさぎとしてはもう何も言い返せない。そもそも、岡嶋に口で勝とうとするのが間違えているのかもしれない。

岡嶋と共に仕事場を出ると、その場で別れてうさぎは家に向かって歩き出す。とは言っても大した距離でも無く、夕飯も既に岡嶋と共に会社でお弁当を食べ終えていることもあり、寄り道する必要も無い。だからこそ、五分もしない内に家へと戻ったうさぎは、服を着替えることなくソファへと座り込んだ。

基本的に岡嶋は細かい小言を言うことは少ない。けれども、言う時にはかなりストレートにうさぎに取って厳しいと思える言葉を伝えてくることが多い。風邪を治して仕事に出てきたその日に言われたのは「経営者としての自覚が足りない」という一言で、うさぎにはかなり厳しい言葉だった。体調管理についてもそうだけど、余裕あるスケジュールを組めていない現実から出た言葉だということは分かっていた。

うさぎがいなかった一週間、納期遅れなどは無かったものの、それでも細かな質問等に岡嶋では答えられず客先に迷惑を掛けたのは確かだったし、たかが一週間、されど一週間。その一週間を休んでしまった為に、厳しいスケジュールが今月は更に厳しくなっているのが現状だった。

本来であれば岡嶋はうさぎに付き合って残業する必要は無かったけれども、忙しさで岡嶋の手を借りるしか手が無い状況だった。残業について岡嶋は文句を言うことも無いし、構わないとは言っていたけど、さすがに岡嶋の言葉を痛感するところだった。

梶に言わせると、うさぎは技術者タイプで経営者向きでは無いと、違う面から同じことを言われた。そして続く梶の「だからシステムセキュリティーに入ればいい」という言葉をうさぎは聞こえなかったことにした。

梶との精神的距離は確かに前に比べたら近づいてはいる。けれども、うさぎにとってそれ以上踏み込まれるのは酷く怖いことでもあった。もし、踏み込まれることに慣れてしまい、けれども上手くいかなくなって離れることになった時、その痛みに耐えられる自信が無かった。

人から言わせると臆病と思われるのかもしれない。実際、うさぎ自身も臆病だと分かってる。けれども、どうしても、もう一歩を踏み込むことだけはうさぎに出来なかった。

だから今ある距離、近くにいてすぐに会話が出来る距離、けれども確実な何かが無い距離というのが一番うさぎにとって居心地のいい恋人としての位置でもあった。ただ、梶がそれでは満足していないことは知っている。

恋愛のゴールは結婚で、結婚は新たなるスタートだということは沙枝や利奈からうるさいくらいに聞いている。そして、恐らく梶が求めている繋がりだろうことも薄々分かっている。けれども、うさぎにとって結婚は決して恋愛のゴールでは無いし、スタートとは思えなかった。

ただ、このままでいれば、いずれ梶は結婚を諦め、うさぎとの恋愛も諦めるのではないかという恐怖は常に付きまとっていた。だからこそ、これ以上、梶との距離を詰めることはどうしても出来ずにいた。

そして、そんなことを梶に言える筈も無く、ただ、少しずつ近づく距離をこれ以上は踏み込ませないとラインを引いているのはうさぎであって、梶から見たらそれがどう見えるのか、考えるだけでうさぎは憂鬱でもあった。

梶のことはずっと好きだった。離れていた間もずっと好きで、傍にいたいとあれほど願った人はいない。けれども、好きに続く恋愛、恋愛の先にある結婚なんてものについてうさぎは考えてもいなかった。けれども、あの風邪で寝込んだ日以来、遠回しに伝えてくる梶の気持ちに、恋愛のゴールが透けて見えてこの一ヶ月、息苦しく感じていた。

好きな相手だからこそ嫌な気持ちは無い。結婚を求められることに嬉しさが全く無いかと言えば嘘になる。それだけ必要とされていると思えば、殊更嬉しい。けれども、うさぎの中に結婚というものに対する夢は爪の先ほども無い。

梶が結婚というゴールを求めているのであれば、このまま関係を続けることは期待を持たせることになるのではないかと考えると、うさぎは梶を独占していていいとは思えなかった。そうなれば結論として出されるのは梶との別れであって、うさぎはそれを好きというエゴだけで引き延ばしている気がして気が重い。

ふと鞄の中から携帯の振動が伝わってきて鞄から取り出せば、画面にメール一件という表示がされている。携帯を操作してメールを開けば梶からのもので、明日の晩に食事へ誘う言葉が並んでいた。

考えていたことが考えていたことなだけに、うさぎはすぐにメールの返信を出来ず、天井を見上げて大きく溜息をついた。

どうして、好きなだけでは駄目なんだろう……。

そんなうさぎの気持ちに答えは無く、しばらくぼんやりしていたうさぎは梶からきたメールに返信することなくソファから立ち上がると、シャワーを浴びるために脱衣所へと足を向けた。

* * *

結局、会えたら嬉しいこともあって梶との食事をすることになったうさぎは、翌日の仕事を九時で終えると会社の前で待つ梶の車へと乗り込んだ。連れて行かれた先は創作料理を出すところで、飲めないうさぎでも美味しく食べられる食事が多く揃えられていてサラダから魚料理、そしてデザートまで堪能させて貰った。

最後にコーヒーを飲んでいる最中、少し黙り込んだ梶がおもむろにテーブルの上に小さなリボンの飾られた小箱を差し出された時、うさぎのコーヒーを持つ手が止まった。

「私と結婚して欲しい」

何となく、その言葉は小箱を見た時から想像出来ていた。想像出来ていたにも関わらず、酷く焦る気持ちを落ち着かせるためにコーヒーを口にすると改めて梶へと視線を向ける。

真っ直ぐとこちらを見る視線は昔と変わらない。変わったとしたら、出会った頃に比べて更に威厳というか厚みのある雰囲気かもしれない。

立場的に梶は妻を欲するだろうことは分かっていた。実際、梁瀬からも奥さんがいないと年配相手の仕事だとあしらわれることもあると聞いたこともある。そして時折、仕事の延長として見合いを受けていることも知っていた。

だからこそ、ここで断ればどうなるのか、それを考えるとうさぎは指先からひんやりと冷えていくのが分かる。恐らく梶は、妻にならないうさぎと付き合うことは無くなるに違いない。

確かに好きだけど、結婚してどちらかの気持ちが変化してしまったら、その時にどうなるのかをうさぎは知っている。優しい気持ちを失い、半ば憎み合うようにして別れた時、うさぎに残るのは一体何だろう。そして、どれだけそのことによって人生が変化するかを知っている。

結婚は紙一枚だと笑う人もいるけど、恐らく梶相手ではそれだけでは済まない。今やシステムセキュリティーは有名な一企業であり、結婚でありうる変化、そして離婚でありうる変化、どちらも大きな物に違いない。

そんなことを考えている内に、うさぎにはきっちりと梶とうさぎの間に遮るようにして一本のラインが見えた気がした。そして、その気持ちも言葉も、うさぎの中へストンと落ちてきた。

それでもすぐに口にすることは出来ず、しばらく俯いていたけれども、改めて気持ちを立て直してからうさぎは梶を見上げた。

「すみません。お断りします」
「……私のことが嫌いか?」
「いえ、そんなことありません。むしろ逆です」
「それならどうして」
「結婚という形に幸せな未来を想像出来ません」

別れを切り出されるかもしれない、そう思っているのに出てくる言葉は酷く冷静な自分に驚く。けれども、最後になるかもしれないと小箱を見た時から予想していたからこその落ち着きだったのかもしれない。

「君は私からの物を受け取ってくれないな」

そう言って苦笑する梶の顔も落ち着いていて、どこかうさぎの反応を予想していたのかもしれない。

今まで梶に渡された物という物は全て梶本人に返している。好きな人の物が別れた時に自分の手元に残っているのは、うさぎにとって拷問のように思えた。恐らく処分も出来ず、けれども持っているのも辛いに違いない。普通の人であれば、別れた瞬間に好きな男から貰った物はゴミになると言われたけど、うさぎはそこまで割り切れそうになかった。

実際、今うさぎの家にある物は自分が選んで、自分が必要とした物しか置いていない。それこそ母親や父親から与えられた物は何も無いし、何も置きたくなかったし、実際に置いていない。

うさぎの家に遊びに来て排他的と言ったのは利奈だったか沙枝だったか、今となっては覚えていない。けれども、うさぎが傷つかないためには必要なことであり、どうしても変えられないものでもあった。

「……すみません」
「いや、責めるつもりは無かった。ただ、私が何かをすると君には負担なのだろうと思ってな」
「そんなことは……」

無いですとはっきりとうさぎは答えることが出来なかった。冗談めかして返せる時はまだいい、けれども、そうでない時は苦笑の影にある落胆の心情が見えてうさぎも辛い物があった。だったら受け取ればいいと思うのに、梶の気持ちを考えた上でもうさぎは身の周りに誰かから貰った物を置くことは出来なかった。

もしかしたら、それはうさぎ自身過剰防衛に陥っているのかもしれないとは何度も思ったことはある。けれども、ここだけは譲れないというラインが誰にでもある。そのラインがうさぎは著しく前方にあるということかもしれない。

誰かが周りにいたら嬉しいし、楽しい。けれども、ある一定ライン以上踏み込まれるのは怖いし、恐ろしい。

ゆっくりと梶の手が伸びてきて、テーブルの上に置いた小箱を手にするとスーツの内ポケットへとしまいこんだ。それが見えなくなった途端に、うさぎは思わず安堵の溜息をついてしまい梶に苦笑される。

「一つ聞くが、君はこれから先、結婚を考えるつもりは全く無いということか」
「私には一生無理だと思います」

冷え切った指でカップを手にすると緊張で乾く喉を潤した。先ほどまで美味しいと思ったコーヒーは苦みだけがやけに舌に感じられて微かに顔を顰めた。一口でカップを置いたうさぎに梶は声を掛けてきた。

「家まで送ろう」

その言葉はいつもと変わらない締めの言葉で、うさぎは梶と一緒に立ち上がった。店を出た途端、強い風が吹いてうさぎは頬に掛かる髪を軽く押さえると空を見上げた。いつの間にか梅雨明け宣言はされていて、吹く風も生ぬるいものに変化している。

梶との付き合いは既に八年、大学時代会っていなかったことを考慮すれば四年と少し、それは一般的に結婚するには丁度良い、いや、むしろ遅いくらいなのかもしれない。既にうさぎは二十五になるし、十離れた梶は今年で三十五になる筈だ。結婚、という言葉がいつ出てきてもおかしな年齢では無かった。

分かってはいた。けれども、今、足は鉛でもついたかのように重い。見上げた空では風の流れで薄雲が足早に移動していくのが分かる。この分であれば明日も晴れるに違いない。

既に車の前で待っている梶に気付き、うさぎは慌てて車の助手席へと収まると、梶も車に乗り込みエンジンが掛かる。けれども、すぐに車が発進することは無い。怪訝に思い、梶へと顔を向ければ、梶は自分を見ていた。

「もう一度聞く。私と付き合う上で、結婚ということはありえないのか?」

別に梶相手だからということでは無く、うさぎにとって誰が相手でも結婚ということは考えられなかった。

「結婚はしません。それによって別れたい、ということでしたら仕方ないと思っています」
「……そうか」

その言葉にはどこか諦めの溜息含みで、うさぎは膝のうえにある鞄を更にきつく握りしめた。

もしかして、梶は結婚出来ないうさぎとの関係をこれで終わりにするつもりかもしれない。そして、別れたいなら、といううさぎの言葉に梶がそんなことはないと言ってくれるのを期待していたことに気付いて恥ずかしくなる。

誰かに期待することはずっと昔にやめた。それにも関わらず、虫の良い期待をしていた自分を笑いたくなる。相手を否定して、自分だけが肯定されるなんてことは大抵あり得ない。だからこそ、この場合、期待する方がおかしい。少なくとも、うさぎは梶の結婚申し込みを否定したのだから、期待出来る立場では無い。

梶のことは好きだけど、駄目なら駄目でまだ大丈夫だと思える。多少、時間が掛かってもまだ引き返せるくらいの位置にいる。そして、こうなった以上、梶にこれ以上踏み込ませてはいけないかもしれない。いや、むしろ現実を知って梶の方が距離を取るかもしれない。

心地よい距離感だけに、それが崩れるのはうさぎにとって物悲しく思えても、うさぎの我が儘でその距離が変わるのだからそれを表に出してはいけない。

溜息を飲み込んで窓の外を眺めるふりで、ガラスに映る梶の表情を盗み見る。けれども、そこに感情は無く、いつもと変わらない梶が何を考えているのか読み取ることは出来なかった。

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