朝起きて食事を作る。前まではとにかく食べないと行けないという気持ちで作っていたけど、今は自分以外にも食べる人がいると思うとそれだけでやる気になれる。菜枝が朝食を作っている間に、一之瀬はベランダで洗濯物を干していて、その背中を見て菜枝はつい口元が綻ぶ。
結婚式が終わるとそのままタクシーに乗せられて、荷物も持たずに新婚旅行に一週間行ったのはつい一ヶ月前のことだった。戻ってきてから、改めて一之瀬の両親とお兄さんに挨拶をして、それから結婚式に出てくれた嘉門や楠木、そして優へとお礼に行った。相変わらず一之瀬と優の間には何ともひんやりとした空気があったものの、一之瀬は優に対して礼を言っていた。
菜枝にとって夢のような結婚式、あれは大学のサークル時代、飲んで酔った菜枝が嘉門に全てぶちまけたものだったと後から一之瀬に聞かされた。種明かしされてしまえば何てことは無い。けれども、それを根掘り葉掘り聞かれた嘉門としてはかなりげっそりという気分だったらしい。勿論、しっかりと家以外での禁酒令も言い渡され、菜枝はがっくりと肩を落とした。
そして、いつものように仕事に戻れば、一週間で山積みになった仕事と格闘する羽目になり、一ヶ月も経った最近になってようやく落ち着いてきたところだった。勿論、一之瀬はもっと前に既に日常へと戻っていたりした辺りは結構ムカついたりもした。
コーヒーにトースト、そしてサラダにスクランブルエッグとウインナー、それが平日の朝食だった。休日の時には出来る限り和食を用意しているけど、一之瀬は料理に文句をつけたことは一度も無い。
菜枝はトーストにマーガリンを塗る自分の指先を見て、再びにんまりと笑う。左手の薬指、そこには確かに銀色に光る指輪が存在していた。
「菜枝、時間が無くなる」
「ごめん、ごめん」
素直に謝って出来た皿から一之瀬に渡して運んで貰うと、最後に菜枝はコーヒーを二つ淹れて自分も席についた。
「いただきます」
最初こそ挨拶なんてしない奴だったけど、ここ最近は食べる時にはきちんと挨拶するようになって菜枝は満足だった。菜枝も同じように挨拶してからトーストを囓っていると、一之瀬が声を掛けてきた。
「そういえば、プランニングの発表、今日だったな」
「えー、忘れてた訳?」
「終わったことに興味は無いからな」
「でも、結果気になるじゃん」
「結果なんて後からついてくるものだ。今更ジタバタしてもどうなるものでもないだろ」
「そりゃあそうかもしれないけどさ、私としては一之瀬をぎゃふんと言わせる数少ない機会だから気になって、気になって」
「今時ぎゃふんなんて言う馬鹿がいるか」
「でも、負けたら言って貰うからね」
「負けたらな」
そう言った一之瀬は余裕の表情で、どうやら菜枝に負けることなんて考えてもいないらしい。それはそれでかなりムカつくものがあるが、ここで言い募ったところで結果が分かるものでもない。だからこそ菜枝は黙り込めば、一之瀬が小さく溜息をついた。
「そこ、朝から溜息つかない!」
「……菜枝はいつになったら俺の名前を呼ぶ。一応、結婚して別姓ではあるが、菜枝も一之瀬なんだが」
「そ……それはいずれ」
「ほー、いずれ。いずれというのはいつだ」
「いや、その、いずれ?」
「何故、問い掛け?」
「何となく」
この話題になると、どうやっても菜枝の方が分が悪い。実際に菜枝にだって分かってる。でも、家で名前呼びしていれば、いずれ職場でもポカしそうでどうしても菜枝としては名前呼びに移行することが出来ずにいた。というのは建前であって、ただ単に菜枝が名前で呼ぶことが恥ずかしいだけだった。
「職場でも名前で呼べばいい。実際、俺も嘉門さんも菜枝のことは名前呼びだし」
「でも、やっぱり一之瀬は一之瀬だし」
「お前、それ俺の身内の前で絶対にするなよ。色々と疑われそうだ」
「確かに……努力はします」
「あぁ、もしかして俺の名前を知らないとか?」
「それくらい分かるわ!」
「名前」
別に一之瀬はこちらを見ている訳じゃない。ただ、無言の圧力を感じて菜枝としては白旗を上げた。
「……くま」
「聞こえない」
「一之瀬拓磨! これでいいか!」
「相変わらず色気が無いな」
「悪かったわね! 私に色気を求めるな!」
「ベッドの上では悪くないんだがな」
「こんな朝っぱらからいかがわしい話しをするな!」
「ほぉ、いかがわしい? 今のどこがいかがわしい話しだ? 別にベッドの上と言っただけだが?」
確かに一之瀬はそんなことを言っていない。ベッドの上と言われて菜枝が過剰反応しただけだということは分かる。ただ、何だかしてやられた気分で、菜枝はウィンナーをフォークで突き刺すと口の中へと放り込む。
「今度の休みまでに名前が呼べなかったら、呼べるようになる方法を考えないとな」
そう言ってこちらを見た一之瀬は悪魔の笑みを浮かべた。その笑みを見た時、菜枝にとって大抵良いことは無い。
「い……家出してやる!」
「それで臨月間近の楠木さんに泣きつくか? それとも佐伯のところへ駆け込むか?」
「い、一之瀬?」
「一度でも佐伯のところに駆け込んでみろ。俺は間違いなく菜枝を鎖に繋いでこの部屋から二度と出られないようにするだろうな」
「……一之瀬、そういうことを真顔で言われたらさすがに怖いんですけど」
「冗談だと思うか?」
そう言って笑う一之瀬の顔は凶悪顔で、菜枝はがっくりと肩を落とした。
結婚して一ヶ月、一之瀬は本人が言う通りそれなりに嫉妬するらしいということを知った。ついでに言えば、優に対しては並々ならぬ嫉妬心があることも知った。
「家出しません! これでいいか!」
言い捨てるようにして叫べば、一之瀬はコーヒーを一口飲んでから、いつもの無表情で言い放った。
「菜枝、早くしろ。遅刻する」
その言葉で改めて見れば、一之瀬の皿は既に空になっていて、菜枝は慌てて朝食をかき込む羽目になる。
何だか毎日、一之瀬の言動に振り回されている気がしないでもないけど、それはそれで楽しい。実際に、一之瀬が言うには菜枝が振り回しているということだからお互い様なんだと思う。
二人並んで歯磨きをして、玄関で靴を履くと菜枝が玄関の扉を閉めて一之瀬が玄関の鍵を掛ける。それから、二人並んで職場まで下らないことを話しながら、日によっては仕事の話しをしたりしつつ歩く。そして仕事が終われば同じ部屋に帰るという日常の繰り返しは一人で暮らしていた時に比べたら倍楽しい。
お互いに左手の薬指にはシンプルながらも同じデザインの指輪があって、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。それはこれからも一緒にいるという約束の証。
別に穏やかであることは望んでいない。ただ、好きだという気持ちをなくさずに大切にしていきたいと思いながら、菜枝は隣を歩く一之瀬を見上げる。
健やかなる時も、病める時も 絶対に負けない!
そして一生、好きでいてやる!
一之瀬と視線が合ったところで笑みを浮かべれば、器用に片眉を上げた一之瀬も口元に不敵な笑みを浮かべた。
The End.