Chapter.VII:理想の結婚 Act.5

結婚式の話しが出てから半年近くが過ぎ、菜枝にとって日常が続いていた。普通に仕事をして、時折、嘉門や楠木に新居へ招いて貰ったり、一之瀬の家へ行ったり、そんな日々が半年。勿論、その間に結婚式の「け」の字も一之瀬の口から出てくることは無く、夢か幻か、という気持ちになり出した頃、再び楠木に家へ遊びに来なさいと誘われた。
別に一之瀬との約束も入っていなかったので楠木と嘉門の家へと遊びに行けば、珍しく嘉門の姿は無くお腹が少し目立ち始めた楠木が一人で出迎えてくれた。先月から産休を取った楠木は元気そうで、ホテルで会ってる頃と余り変わりなく、菜枝をリビングへ通すとすぐにハーブティーを用意してくれた。
妊娠してからコーヒーの匂いが駄目になって嘉門にもコーヒー禁止令を出していると聞いて、菜枝は思わず笑ってしまう。一通り、お互いに近況を話していれば一時間程経ってしまい、時計を見れば既に八時を回っている。
「先輩、遅いですね」
「今日は一之瀬と打ち合わせ。その調子だと、一之瀬もうちのも、本当に常磐には何も言ってないのね」
「は? 私ですか?」
「そうよ、今日は食事取りながら菜枝の結婚式の打ち合わせ」
「そっか、やっぱり夢じゃなかったか」
「何よ、その反応」
呆れたような楠木に菜枝としては笑うしかない。実際、一之瀬が結婚式について話しを振ってくることは無かったから、もうすっかり流れてしまったのだとばかり思っていたし、今更蒸し返すのも一之瀬との関係を壊しそうで口にすることが出来ずにいた。
「あんたねぇ、不安だったらきちんと一之瀬に聞きなさいよ」
「でも、一之瀬に投げたの私だし」
「それで不安になってたら一之瀬が救われないでしょ」
「えー、この場合、救われないのは一之瀬なんですか?」
「当たり前でしょ。丸投げしたあんたのためにどれだけ奔走してると思ってるのよ。しかも常磐の目につかない所でコソコソとよく動いてるわよ」
動いていたという事実にまず驚きだ。確かに一之瀬は有言実行を地でいくタイプだから動いて無くてもおかしくもない。でも、全く菜枝に何も言わないのは……あー、あれか、楽しみとか言ったから結局自業自得か?
そんなことを考えながら楠木が淹れてくれたハーブティーに口をつける。
「一之瀬、苦労してるわよ~。詳しいことは当日のお楽しみ、ということで色々言うつもりは無いけど、あんた、本当に夢多き女だったのねー」
「え? 何? 何のことですか?」
「うちのから色々聞いては微妙な顔してたって」
「はい? え? 一之瀬が先輩に聞いたんですか?」
「一之瀬としては常磐が丸投げしたんだから、常磐を知ってる人間から聞き出すしかないでしょ」
「でも、私、そんなに先輩に語ったりしたつもりないですけど」
「……呆れた。常磐、あんた人前で酒飲まない方がいいわ」
もの凄く呆れたという顔をした楠木に菜枝としてはどうしていいか分からない。確かに大学時代は何かあれば飲み会と称して飲まされた記憶はあるし、まだあの頃は自分の酒量が分からずに潰れたことだってある。でも、もしかして、自分は色々とやらかしてきたんだろうか。
「楠木さんは色々聞いてるんですか?」
「まぁ、あんたの武勇伝は幾つも聞いてるけど」
「幾つも聞ける程あったんですか……私」
「普段も凄いけど、飲んだらもっと凄いの典型ね」
記憶……記憶を取り戻したい。いや、一層、誰の脳内からも消し去りたい。
がっくりと肩を落とせば楠木はそれに対して笑う。
「そういえば、結婚したら常磐は名前変えるの?」
「あー、話してはいませんけど、仕事の関係からいって変えない方が楽だと思うんですよね」
「やっぱりそうよね。まぁ、この仕事、名前覚えて貰ってこそだしねぇ。うちは揉めたから、常磐もきちんと話ししておきなさいよ」
「揉めたんですか?」
「あいつが色々とごねてね」
「で、楠木さんが勝ったと」
「やーねー、まるでそれじゃあ私が尻に敷いてるみたいじゃない」
いいえ、間違いなく嘉門は尻に敷かれていると思います。菜枝はそうは思ったけど、口に出して怒りを買うような真似はしない。菜枝だって一之瀬との遣り取りで、口にしなければ問題無いこともあると学んでいた。
玄関から扉が開く音が聞こえて楠木と共に廊下へと視線を向ければ、丁度嘉門が帰って来たところだった。
「お帰り」
「お邪魔してます」
けれども、嘉門は疲れた顔で答えることもなく楠木の隣に座ると大きく溜息をついた。
「どうしたのよ」
「いや、おじさん、色々と疲れました」
「何よ、一之瀬と何かあった訳?」
「いやいや、そうじゃなくてなぁ」
そう言ってちらりと菜枝を見ると再び大きな溜息をついて見せる。
「何ですか、先輩! その思わせぶりな溜息!」
「俺はな、あいつと話してて悶え死ぬかと思ったぞ。色々と胸焼けする」
「はい?」
一体、何が何だかさっぱり分からない。けれども、嘉門は本気で疲れた顔のまま楠木が飲みかけだったハーブティーを一気に飲み干すと三度溜息を零した。
「先輩?」
「俺は結婚式の打ち合わせをしている筈なのに、お前らの盛大なのろけを聞いて胸焼けした。以上」
のろけっていうのはあれか、のろけと書いて惚気と書くあれか? いや、でもどう考えても菜枝には一之瀬と惚気が結びつかない。
「のろけ? のろけって何ですか」
「のろけはのろけだ! 菜枝、愛されてて良かったな」
「先輩、本気で訳が分かりません。っていうか、一之瀬がのろけるとは全くもってありえないんですけど」
「あー、奴はお前の前ではツンデレか」
「ツンデレ! ツンツンの間違いじゃないですか、それ」
「はは……だとしたら、お互いに無意識なんだろ。俺はお前らの会話を聞きたくない気がする」
思い返しても一之瀬との会話に甘さなんてあったかと毒づいてしまいそうになる。そりゃあ確かに、時折本音を見せてくれたりはするけど、少なくとも甘いという雰囲気じゃないし、好きとか言われても大抵投げやりだし、あれのどこが甘いんだか誰か教えて欲しいくらいだ。
「まぁ、お前のことよく見てるよ。多分、菜枝が思ってるよりもな」
「そうですかねー」
つい疑いのまなざしになってしまうのは、いまいち信じられないところがあるからだ。いや、確かにお互いに好きなことは分かってるつもりだけど、時々自分だけが一之瀬を好きすぎて空回りしてるんじゃないかとすら思う。
「あー、そうだ。菜枝に一つだけ忠告」
「何ですか」
「あいつ、既に引越の手配までしてたぞ」
「はいー? 引越って、え?」
「新居確保したって」
「ちょっと待って下さいよ! 確かに結婚式は丸投げしたけど、新居まで丸投げしたつもりは無いんですけど!」
「それは俺に言わないであいつに言え。取り敢えず忠告はしたから」
思わず菜枝が携帯を取り出したところで嘉門に呼ばれて動きを止めると、楽しげに嘉門も楠木も笑ってる。
「直接行ってくればいいだろ。どうせここから近いんだし」
「……確かに」
嘉門と楠木が構えた新居は一之瀬の家と五軒程しか離れていない。菜枝はソファから立ち上がると鞄とコートを掴むと二人に対して頭を下げた。
「お邪魔しました」
「あら、夕飯用意したのに」
「でも、気になるんで。それに先輩がいれば二人前くらいすぐに無くなりますから」
「気をつけて帰りなさいよ」
「大丈夫です。いざとなったら一之瀬が送ってくれますし。それじゃあ」
慌ただしく菜枝は部屋を出て行くと、エレベーターへと飛び乗った。
確かに結婚しても菜枝は働くつもりだけど、今までのように親に頼るような生活をされたら菜枝としては困る。だからこそ足早に一之瀬の住むマンションに駆け込むと、貰った合い鍵でエントランスの扉を開けた。エレベーターで上階に到着すると一之瀬の部屋の前で扉と合い鍵を少しの間、交互に見つめてから結局菜枝はチャイムを鳴らした。
一之瀬は確認することもなく扉を大きく開けると、無言で菜枝を中へと促す。まるで最初からここへ来るのが分かっていたみたいな雰囲気が少しだけ面白くない。
「取り敢えず座れ。なに飲む」
「何でもいい。それよりも話しが先」
器用に片眉を上げた一之瀬は、それでも文句を言わずに菜枝の向かいのソファへと腰を下ろした。
「用件は新居のことか?」
「そう、それ! 何で勝手に決めてる訳? 場所とか色々相談あってもいいでしょ」
「それに関してはこちらの手違いだ。悪いが三年でいい、そこに住んで欲しい」
「何だそれはー! じゃあなに、三年したら引越て構わないってこと?」
「あぁ、そういうことだ」
「説明して欲しいんだけど」
取り敢えず、少し会話しただけでも一之瀬自身、納得して決めたという雰囲気では無いから、どうにか怒りを収めつつも話しを促せば、一之瀬は少し考えた様子を見せたが溜息を吐き出した。
「……両親が勝手に用意した」
「はい? え? どういうこと?」
「結婚祝いにと両親が勝手にマンションを新居用に買って押し付けてきた」
「ちょっ、押し付けてきたって言い方はよくないと思うけど。だって、一応祝うために買ってくれたんでしょ? まぁ、承諾無しというのはちょっと困るけど」
一之瀬が勝手に用意したのだったら文句も言えるけど、さすがに両親相手に文句を言える筈も無い。しかもそれが好意からだと思えば菜枝の怒りもしぼんでしまう。しかも、マンションをお祝いで買うという感覚についていけない部分もある。
それは祝いとしてありなんだろうか。いや、確かに親から多少資金を出して貰って家を買うことはあっても、全額出すってありなのか? いや、実際にあるからありなのか?
「悪かった……ただ、俺も今日聞いたばかりだ」
困惑している間に一之瀬に頭を下げられてしまい、菜枝としてはそれ以上言い募ることも出来ない。ただ、一之瀬が勝手に決めたんじゃないということにホッとしたのは確かだった。
「ただ、菜枝にとって一つだけいいことがある」
「何かあるの?」
「嘉門さんたちの住んでるマンションの最上階だ」
「は?」
「うちの親も狙った訳じゃなかったんだろうが、最近この近辺に建ったのがあのマンションだから、ということで買ったらしい。ただ、菜枝が気に入らないなら親の建前三年は住んで欲しいが、それ以降は引越ても構わない」
「……あー、もういいや。分かった、いいよそこで」
「いいのか?」
「だって、買っちゃったものは仕方ないじゃない。それに悪気あってのことじゃないし。ただ、そんな高い物お祝いに貰ったら何を返せばいいか分からなくて悩むけど」
「問題はそこなのか?」
「だって、そこに住まないって今更言ったら悲しむでしょ。別に住む場所がもの凄くホテルから遠くなるとか言う訳じゃないし、問題無し。うーんお返しかぁ……」
少なくとも結婚式のお返しは半返しから三割返しと聞いてる。でも、新築マンションの最上階、どんな規模だかは分からないけどもの凄い金額で、それを三割と言われても菜枝には想像もつかない。
「菜枝が時折お茶を飲みに行くだけで納得するだろう」
「はい? 何それ」
「あの人たちはあれで菜枝のことを随分気に入ったようだからな。時折顔出してやってくれたらそれだけで満足するだろう。ついでに、親父にはホテルの問題点の一つでも振ってやれば大喜びだ」
「い、言える訳ないでしょ! 仮にもオーナー! 文句なんて言える筈ないじゃない!」
「別にオーナーとか従業員とか関係ないだろ。菜枝の親にもなるんだし」
いや、確かに結婚すればそうなるけど、いきなりそんな話題を振れる筈も無い。少なくとも、自分のホテルの悪いところを指摘されて喜ぶ人間なんているのか? 本当に喜ぶ人間はいるのか!
そんな葛藤が顔に表れていたのか、一之瀬はクツクツと笑い出す。
「なら聞くが、菜枝は自分の悪いところを指摘されて怒るか?」
「……本当に悪いと思ったら直す」
「一緒だ。ホテルだって悪いところを放置すれば客足は減る。気になる部分は気付いた人間に指摘して貰って直していかないといけない。そうだ、この間菜枝が言ってた予約客はアメニティブランドを選べるって案、あれ通ったらしい。来週には何社か集めてコンペをすると言っていた」
「凄い! 本当に? どれくらい選べるの?」
「一応、五社決めて、半年単位でコンペして見直すと言っていたな」
「うわーサバイバル。まぁ、確かに半年単位で化粧品も新製品が出て回転するしタイミングはいいのかな。気分によってアメニティブランド選べるってうっとりする。それにしても五社って凄い! さすがライクスって感じ」
「自社を褒めるな。まぁ、そういう意見、親父は欲しがってた」
「え? そういう話しでいい訳?」
「あぁ」
ただ、それだけで本当にお返しになるのか菜枝にはさっぱり分からない。
「菜枝は自分で気付いていないかもしれないが、面白い視点を持ってる。ただ、時折、突拍子も無いが」
「どうせ訳分からないこと言いますよーだ」
「ガキか……あぁ、そうだった、渡しておくものがあった」
そう言って一旦立ち上がった一之瀬は、片隅に置いたままになっていた鞄から一枚の紙を取り出すと菜枝へと差し出してきた。菜枝は渡された二つ折りにされた紙を開けば、それはエステの予約表だった。
「ちょっと待ってよ! 何でこんなに?」
少なくとも菜枝がお願いしたのは前日のエステだけだったのに、その表にはしっかり一週間分予約が埋められていた。
「エステ、やってみたかったんだろ?」
「いや、確かにやってみたかったけど、こんなにいらないって!」
「住むところ勝手に決めたからその詫びだ。受け取っておけ」
「いやいや、そうは言っても受けるの私だし自分で出すから! それに私と一之瀬、給料だってそんな変わらないんだし! こんな無駄遣いしてられないでしょ!」
「それくらいの余裕はある」
「余裕があるって言ったって」
まだ食ってかかる菜枝に対して、一之瀬は小さく溜息をつくと引き出しの一つから何かを取り出して菜枝の手元にそれを投げてきた。慌ててキャッチしたそれが銀行の通帳だと気付く。
「ちょっと、これをどうしろと」
「開けてみろ」
「勝手に開られる訳ないでしょ」
「俺が許可してる。結婚するんだ、知っていてもいいだろ。特に菜枝は無駄遣いするタイプでも無いからな」
気にならない訳じゃないから、しばらく悩んだ末に菜枝は開き癖のついているページを取り敢えず開いてみた。残高に表示されるゼロの数にクラクラする。基本的に仕事で数字を扱うからすぐにゼロの数を数えなくても数字は理解出来る。出来たけれども、思わず菜枝は数えてしまった。
「……ありえないんだけど」
「うちのホテルの株配当と、学生時代に買ってた外貨がここ最近で高騰した」
「だからってありない金額なんですけど!」
「昔は親父への反感もあって、毎月送られてくる金は全て外貨につぎ込んでいたからな」
「じゃあ、生活は?」
「バイトで賄ってた」
「あんた、一応苦労してたんだ」
「一応は余計だ」
何だか一之瀬が親に対して反感を持っていた時期があったことにも驚いたけど、バイトしたりした過去があることにも驚いた。でも、少しずつでもこうして一之瀬のことを知ることが出来るのは嬉しい。過去には戻れないけど、知っておきたいことはある。別に全て知る必要は無いけど、それでも大切なことは知っておきたい。不用意な一言で傷つけたりしないためにも。
「取り敢えず、エステがこの日ってことは、来月結婚式ってこと?」
「あぁ。そうだ、来週中に佐伯がサイズ合わせに来いって言っていた。来週は衣装室に詰めてるそうだ」
「優とも連絡取ってた訳?」
「佐伯がどんな心境かは知らんが、菜枝は着たいんだろ、あいつのドレス」
「……着たい」
「だったら着ればいい」
「いいの?」
正直、余り一之瀬と優は相性良くないにも関わらず、連絡を取っていると思ってもいなかった。しかも、優が菜枝を好きだと言い出したことでおかしな方向にいっていたにも関わらず、一之瀬が優のドレスを着て構わないということに驚いた。
「その方が奴も諦めがつくだろ」
そう言って笑った一之瀬の顔がここ近年まれにみるあくどさで、菜枝は乾いた笑いしか出てこない。
それから一之瀬から結婚式に呼びたい人を聞かれて菜枝は嘉門と楠木の名前を挙げた。本当は優や優の母親も呼びたかったけど、一之瀬との関係が微妙ということもあり名前を挙げることはしなかった。
来月の結婚式、ようやく菜枝の気持ちにも結婚というものに欠片ほど実感が湧いた瞬間でもあった。
* * *
翌週になり衣装室に顔を出せば、一之瀬が言うように優がいて仮縫い段階のドレスに袖を通すことになる。ただ、優は前に菜枝のためにドレスを作ったと言っていただけに不思議に思って問い掛ければ、きっぱりと言われてしまった。
「あれは僕の横に立って似合う菜枝のドレス。だから、あのドレスは一之瀬くんの横に立つ菜枝には似合わないから」
「じゃあ、これは一之瀬の横に立てば似合う訳?」
「これは菜枝に一番似合うドレス」
「ごめん、優、言ってる意味が分かんないんだけど」
「誰の傍に立っても菜枝が一番映えるドレスってこと」
笑顔なんだけど微妙な言い回しをする優に、菜枝は乾いた笑いしか出てこない。そんな会話を交わしている間にも、優は菜枝の周りをぐるぐると周りながらピンを打っていく。まだ仮縫い段階だからはっきりとした形にはなっていないけど、シンプルなドレスの上からウエスト周りだけ背後に少しオーガンジーが巻かれていて背中で止められている。そのオーガンジーのウエストから足下に向けてギャザーの入ったオーガンジーが中央は短くサイドに行くほど長くなり背後で綺麗なドレープを作っている。
絶対にフリルのドレスなんて着たくないと言っていた菜枝の希望を優はしっかりと覚えていたらしい。本来であればマーメイドドレスを着たかったけど、さすがに自分の身長を考えれば優ですら無理と判断したのだろうことは分かった。
「まぁ、何かあれば幾らでも相談にのるから」
「何かって何よ」
「一之瀬くんと何かあればってこと。ただ、惚気だったら聞くつもりはないから。あぁ、何だったら一之瀬くんが嫌になったらいつでもおいで。菜枝ならいつでも歓迎だから」
「ちょっと、結婚前から縁起でもないこと言わないでよ」
そんな軽口を叩きながらもドレス合わせを終えると、優は脱いだばかりのドレスをさっさと仮縫いしてしまう。
「え? 仮縫いまでしていいの?」
「あぁ、これはいいの。菜枝専用だから」
「はい?」
「聞いてないの? 僕は一之瀬から菜枝のドレスをオリジナルで作れとしか聞いてないけど」
「はいー? そんな一回しか着ないしレンタルでいいよ!」
「まぁ、そう言わないでよ。折角ここまで作ってるんだし。菜枝がそう言っても僕がプレゼントするし。今更一之瀬くんが注文を覆すとは思えないけどね」
改めてよく見ればオーガンジーには刺繍もされていて、見るからに高価そうな布だということは分かる。
「値段、聞いてもいい?」
「……菜枝には教えない。教えたらお金払うとか騒ぎそうだし」
「普通騒ぐでしょ! だって、ドレスって高いんだよ! しかも着るの私だし!」
「いいじゃないの。一之瀬くんがプレゼントしたいって言ってるんだから。それに、元々結婚式について彼に任せたのは菜枝でしょ?」
そう言われてしまうと菜枝としては言葉に詰まる。確かに丸投げしたのだから今更どうこう文句を言える筈も無い。しかも、楽しみにしている部分もある訳で……。でも、断じて金を掛ければいいというものでもない。勿論、今更一之瀬がそんな初歩的なバカをするとは思えないけど、こうしてドレスを見ると不安になってくる。
「それにさ、このドレス。一之瀬くん、何度も事務所の方に足を運んで僕のラフ見て何回も修正してから決めたんだよ」
「嘘! そんなことしてた訳?」
「そう、してたの。だから実際には僕だけのアイデアって訳でも無いんだ。全く、彼もいい性格してるよ」
「何が?」
「何でもない、こっちの話し。取り敢えず、寸法も採れたからもう仕事に戻っていいよ。そろそろ行かないと昼休み終わるよ」
優に言われて腕時計を見れば、確かに休憩終了まで残り十五分もない。急いで戻ってこれから昼ご飯だって食べないといけないから、菜枝は慌てて鏡で制服をチェックするとパンプスを履いた。優にお礼を言って立ち去ろうとした直前になって優に呼び止められて足を止める。
「菜枝、一つ忠告」
「なによ」
「当日、首から肩、腕まで素肌になるのは分かる?」
「それは今合わせたから分かってる」
「キスマークなんて無粋なものはつけてこないように」
言われて一瞬にして顔が赤くなったのが分かった。まさか今、キスマークが残っていたのかと考えてしまったけど、一之瀬としたのはかれこれ一ヶ月近く前のことだから残っている筈も無い。
「そんなの言われなくても分かってる!」
一人でオロオロした恥ずかしさもあって怒鳴るように優に言うと、優はさも楽しそうに笑い、菜枝は勢いのままに衣装室を飛び出した。
結局、その日は一之瀬を捕まえることは出来ず、菜枝も残業だったこともあって一之瀬に文句を言うことも出来なかった。けれども、結婚式を丸投げした手前、翌日になれば一之瀬に文句を言うことも出来ず、結局普段と代わり映えの無い生活を送っていた。
結婚式一週間前になると業務後ホテル提携のエステでばっちり三時間、至福の時を過ごすことが出来た。お陰で肌もツルピカで菜枝としては化粧ののりもよくてご機嫌でもあった。けれども、結婚式に一日、また一日と近づいてくると不安にもなってきた。
一之瀬の家であれば、客人だって多く来るに違いない。そんな中、自分は失敗せずに結婚式を終えることが出来ずのか。また、両親がいないことで一之瀬が何か言われることは無いだろうか。そんな不安が首を擡げてきた。今更といえば今更な不安に菜枝は落ち着かない気分で報告書を片付けていた。勿論、隣の席である一之瀬は報告書なんてものは早々に片付けて既に帰宅している。
「どうした、来週には念願の花嫁さんだっていうのに怖い顔して」
「先輩……ヤバいです、マリッジブルーです」
「菜枝、お前のどこがマリッジブルーだ」
呆れたように言う嘉門の口調で菜枝は思わず嘉門の腕を掴んでいた。
「だって、何か凄く不安です!」
それは菜枝が思っていたよりも強い口調だったらしく、驚いた顔で嘉門は菜枝を見ている。それから宙を仰いでから菜枝の頭を軽くポンポンと撫でてくれる。それは昔と変わらない嘉門の落ち着けという合図でもあった。
「もし話したいなら聞いてはやる。でも、俺が聞いて解決するとは思えない。その不安は一之瀬と話すべきじゃないのか」
「でも……」
「取り敢えず、飯でも食いに行くか。今日は特別おごってやる」
そう言って嘉門は更衣室へと向かってしまい、菜枝は慌てて報告書を片付けるべくボールペンを走らせた。十分もしない内に報告書を片付けると、既に更衣室横にある喫煙所で嘉門は煙草を吸って待っていた。
「別に急がなくてもいいぞー」
そんな嘉門の声を聞きながらも菜枝は更衣室で手早く着替えると、五分とせずに更衣室を出た。喫煙所に足を向ければ、嘉門は煙草をくわえながらも携帯で誰かと電話している様子だった。すぐに菜枝に気付いた嘉門は電話を終わらせると、改めて菜枝の肩を軽く叩く。
「さてと、飯、なに食うかねー」
「何でもいいです」
「うーん、重傷か?」
「それよりも楠木さん、家で待ってるんじゃないんですか? 先輩は早く帰らないと」
「いや、それがあいつ今、つわり酷くで食事作れないから外で食べて帰る約束になってるんだわ」
「うわー、何か大変そうですね。じゃあ、本当に早く帰らないと」
「だから何食べるんだ」
「え、何でもいいですよ。あ、あそこでいいです」
そう言って菜枝が指さした先はファミレスのチェーン店で、お互いに顔を見合わせて肩を竦めると二人してファミレスへと入った。注文を早々にしてしまうと、ようやく嘉門はテーブルに肘をついて菜枝へと視線を向けてきた。
「で、不安って何に対する不安だ? 俺が思うにお前の不安くらい一之瀬なら見抜いてると思うけど」
「見抜かれてる……んですかねぇ」
「見抜いてるだろ。じゃなければああいう式には……」
そこまで言って嘉門は慌てたように口を閉ざした。
「無し、今のは無しで!」
「ああいう式って、どういう式なんですか? 余程変わった式ってことですか?」
「俺は何も言わない。一之瀬には口止めされてる」
「先輩と私の仲じゃないですか!」
「それでも俺にとっては仕事だから守秘義務があるんだ! それに気になるなら一之瀬に聞けばいいだろ!」
「だって、あんな大見得切ったのに今更一之瀬に聞くのも……」
多分、聞けば一之瀬は答えてくれると思う。でも、それは一之瀬を信用していないみたいで菜枝としてはしたくない。でも、こうして嘉門から聞けば、やっぱりそれはそれで後悔しそうな気がする。
「……やっぱりいいです。聞きません」
「あー……、あのな、菜枝が思ってるよりも一之瀬は菜枝を大事にしてるし、お前のことずっと分かってると思うぞ」
「そうですかね」
「信用していいぞ。一之瀬はそれだけのことはしてるからな。絶対に菜枝の悪いようにしたりはしない」
「断言するんですか!」
「おう、するとも! 出来るだけの根拠が俺にはあるからな。まぁ、菜枝には言えないけど。だから大船に乗ったつもりで残り四日、独身生活を謳歌しとけ」
「謳歌するほどの独身生活でもないんですけどね……私、一之瀬と釣り合って無い気がするんですよね」
結構、菜枝としては真剣に言ったつもりなのに、正面に座る嘉門は腹を抱えて笑い出した。さすがに菜枝としても納得がいかない。
「何で笑ってるんですか!」
「お前、それこそ今更だろ。つーか、そう思われること自体、一之瀬は嫌がりそうだぞ。実際、一之瀬はその部分を一番気にしてたからな」
「釣り合わないから?」
「違う、自分が上に立つ人間にはなれないから」
「別に私は一之瀬が上に立つかもしれないから好きになったんじゃないです!」
「そらそうだ。それはあいつだって同じだろうよ。だから、菜枝が考えていること自体が今更な話しってことだ。好きになれば、今更ってことは沢山あるだろ」
「そうかもしれませんけど……」
何だか上手く丸め込まれている気がしないでもない。でも、今更不釣り合いだからといって好きじゃなくなるかといえば、そんなことは無い。でも、好きだから不安になることだってある訳で……。
「うー、後四日。四日間もこんな気持ちでいるの嫌な感じですよ」
「信用してやれ。絶対に菜枝が不安になるようなことにはならないから」
「なったらどうしてくれます?」
「そしたらうちのホテルでフルコース奢ってやる」
「本当ですか?」
「おう、奢るぞ。それくらい俺には自信がある」
そこまで嘉門が言うのであれば、菜枝としては残り四日、一之瀬を信用して待つべきなんだろうとは思う。実際に今も嘉門が言うには結婚式に向けて一之瀬は走り回っているらしい。だとしたら菜枝は落ち着いて待つべきなんだろうということは分かる。
料理が運ばれてきて菜枝は渋々料理を口に運び始める。そんな菜枝に嘉門は苦笑しながらも一つだけ予告をしてくれた。
「菜枝、荷物纏めておけよ」
「は? 荷物、ですか?」
「家の荷物。結婚したら帰る家が変わるんだぞ」
「でも、そこら辺の話し合いも全然してないんですよー」
「全部一之瀬が手配してあるさ。ほら、早く食べろ。今日は八時からエステなんだろ」
「うー」
そんな他愛もない会話を交わしつつ食事を終えると、菜枝は最初に言った通り嘉門に奢って貰うと、その足でエステへと向かった。そして結婚式の前日は福永の計らいで休みにして貰ったものの、菜枝としてはやることなんてない。ただ、休みの前日、結婚式の三日前になって一之瀬から連絡があり、明日は朝から菜枝の家に来るということだった。
一之瀬に不安をぶちまけそうになるのを何とか耐えて前日を迎えれば、一之瀬は予告通り九時には菜枝の家にやってきた。ただ、一之瀬以外の人間も連れて。
「ちょっと、こんな話し聞いてない!」
「あぁ、言ってないからな」
「普通、引越の予定くらいは教えておくべきでしょ!」
「言えば無駄に動きそうだからな。お前は何もするな」
「するなって、ここは私の家だー!」
叫びはむなしく一之瀬と一緒にやってきた引越業者はしっかりと荷造りをして、菜枝のアパートから全ての荷物を運び出してしまった。そして、菜枝は一之瀬の車でむっつりと膨れていた。
「ありえない」
「なら、菜枝は結婚した後もあそこに住むつもりだったのか?」
「そうは思わないけど」
「だったら聞けば良かっただろ。何でも思うことがあるなら聞けばいい」
正論だと思う。ただ、それに気付いたのが昨日で、でも、今一之瀬と連絡を取れば不満をぶちまけそうだから連絡を取ることを控えていたというのもある。
「到着したぞ」
そこは既に何度か来たことのある見慣れたマンションで、車から降りてマンションを見上げればベランダの一つからは楠木が手を振っている。菜枝は落ち着かない気分で楠木に対して手を振り返した。
新居となるマンションに菜枝の荷物を全て運び込まれたものの、新居には既に家具の殆どが揃えられていて、逆に菜枝の持ち込んだ食器棚などは引越屋に処分して貰うことになった。
菜枝の使っていたテレビは寝室に置かれ、その寝室にはキングサイズのベッドがあり菜枝としてはクラクラする。勿論、ベッドはその一つしかないわけで、今日からここで寝るのかと思うとそわそわと落ち着かない。
夕方になる頃には業者は帰ってしまい、新居で菜枝と一之瀬の二人きりになると更に落ち着かない気分になってきた。けれども、同じく今日越してきたという一之瀬は全く気にした様子は無い。
「お前も少しは落ち着け。借りてきた猫みたいにウロウロするな」
「仕方ないでしょ! いきなりここまで連れて来られて落ち着ける訳ないじゃない。しかも明日には結婚式だし」
途端に輸入家具の雑誌を見ていた一之瀬が菜枝へと視線を上げた。
「結婚式が不安なのか?」
ストレートに問い掛けられてしまい、菜枝としては嘘をつくことも虚勢を張ることも出来ずに一之瀬の隣に腰掛けた。
「……色々不安」
読みかけの雑誌を閉じた一之瀬は、菜枝の手を軽く握るとキュッと力を入れる。でも、痛いということは無い。ただ、その手から熱が伝わってきて落ち着かない気分にさせられる。心臓の音が徐々に加速してくるのが分かる。
「一之瀬、手」
「今更だろ。これくらい」
そう言われたら確かにそうだけど、でも、手を繋ぐという行為は何だかいつでも照れくさい。
「不安なら、明日の予定全て説明するが、どうする?」
多分、ここで説明して欲しいと言えば、今まで一之瀬がしてきたことの全てを菜枝に教えてくれるに違いない。けれども、それは今まで一之瀬が当日になるまで明かすつもりなく準備してきたことを踏みにじることになってしまうのではないかと思うと、菜枝は単純に頷くことは出来なかった。
「菜枝の嫌がることは絶対にしない」
「……うん、信じる」
最初こそ最悪だと思っていたけど、今は一之瀬の言葉を信じられる。長い付き合いでは無いけれども、一之瀬はきちんと言動で信用を積み重ねてきている。ただ、結婚式前ということで菜枝が少しナーバスになっているだけのことなのだと思う。
「何か、凄いことだよねー」
「何がだ」
「私たちの仕事ってさ、お客さんが信用してくれるから成り立つんだと思ったら、やっぱり凄いことなだなーと思ってさ」
「別に凄くは無いだろ。基本は結婚式のお手伝いでしかない」
「でも、打ち合わせだけで任せてくれるんだよ。それってやっぱり凄いことだと思う。自分では流れだって分かってるにも関わらず、こんなに不安になるのにさ」
「それは知ってるからこその不安だ。本当にいいのか?」
明日の予定について一之瀬が言っていることが分かって、菜枝は一つ頷いてから一之瀬を見上げた。
「うん、最初から任せたんだし、最後まで任せる」
「そうだな、女に二言は無いし?」
「それを言うなら男でしょ!」
「楽しみなんだろ、明日」
どこかからかい含みの声に菜枝の負けず嫌いが発動したのはいつものことだった。
「おう、そうさ! 楽しみで仕方ないね!」
「それは良かった」
そうさ、女は度胸だ! 明日は楽しむって最初から決めてたんだし!
開き直りともいえる言葉を繰り返しながらも、菜枝は握ったままの一之瀬の手を強く握り返した。
* * *
顔なじみのメイクさんが菜枝の顔に化粧を施す。それはいつも菜枝がするようなメイクとは違い、まるで別人のようにも見える。
化粧が終わればドレスに袖を通す。出来上がったドレスは菜枝にぴったりしていて、着替えを手伝ってくれた衣装室の部長はとても満足げだった。背中に大きな花の形をあしらったオーガンジーをつけられ、最後に胸元に同じくオーガンジーで作られた花を添えられる。
白いパンプスに足を納めてから衣装室の子が持ってきてくれたキャスター付きの鏡の前に立つと、菜枝はフワフワとした気分で鏡の中にいる自分を見つめた。
「何か別人みたい」
その言葉に周りにいた数人が綺麗だと褒めてくれるけど、緊張もあるのかどうにもその声が上手く頭に入ってこない。頭につけられたティアラも、綺麗に結い上げられた髪も、そして夢にまで見てたウエディングドレスも全て夢のようだった。
なによりも夢みたいだと思ったのは、菜枝の手に収まるブーケだった。本来であれば白い花とグリーンで合わせたりするのだけど、今菜枝の手にあるブーケはひまわりのブーケだった。白いドレスに明るい鮮やかな黄色のブーケ。それは、菜枝の憧れのものでもあったけど、そんなことは誰にも言ったことは無い。
「そろそろ行きましょう」
介添えさんに付き添われて向かう先は、菜枝が憧れていた窓の大きな教会。本来であれば親族控え室などに顔を出すのが恒例だけど、今回、それはしないと言われた。介添えさんと共に廊下を歩いていけば、扉の前で濃いグレーのフロックコートを着て手袋をつけていた。それが悔しいくらいに一之瀬にはよく似合っている。一之瀬は菜枝に気付くと、まっすぐに菜枝を見て近づくのを待っていたが、菜枝が傍で立ち止まった途端に声を掛けてきた。
「どうかしたのか?」
「ヤバい、泣きそう。夢見てるみたいで……ブーケとか」
「後で種明かしくらいはしてやる。泣くなよ、式はこれからなんだから」
そう言って一之瀬がゆっくりと上がっていたベールを下ろしてくれる。その手が優しくて落ち着いたものだから、また泣きそうになる。
「分かってる」
差し出された腕に菜枝も腕を絡ませる。どうやって歩けばいいか、そんなことはお互いに分かってる。だからこそ扉の向こうにある風景を想像して、菜枝は少しだけ気合いを入れた。
もう腹は括った。女は気合い。
そんなことを何度も繰り返していれば、ゆっくりと扉が開く。最初、眩しいほどの太陽の日差しで何も見えない。穏やかな音楽の中で一歩を踏み出せば、すぐに視界は戻った。けれども、そこにあるべき人波はない。
ただ、ヴァージンロードを挟んで両サイドに立つ人は一番前に数人いるだけだった。思わず驚きで止まってしまいそうになった菜枝を一之瀬が先へと促してきて、菜枝は再び足を進める。牧師の前に立つとオルガンから賛美歌の演奏が始まり、オルガン近くにいるコーラス隊が賛美歌を歌う。勿論、参加している者たちも一緒に歌うと、続くのは聖書の朗読だった。
けれども、菜枝の頭の中には、なんで、とか、どうしてばかりが渦巻いていた。一之瀬の立場であれば、結婚式の参列者は早々たる人数になるとばかり思っていたのに、ここには見慣れた人たちしかいない。一之瀬の親族席には両親とホテルの社長である一之瀬のお兄さん。そして菜枝の親族席には嘉門と楠木、そして優がいた。
菜枝が混乱している間にも式は滞りなく進み、牧師に促されるままに制約を口にする。そして、神父が台に乗せて持ってきたリングピローは熊のぬいぐるみがついていて、菜枝があこがれているものでもあった。
そこに置かれた輝くリングを一之瀬が手にすると、菜枝は手袋を外した左手を差し出せば一之瀬が薬指へとはめてくれる。いつの間に計ったのか、それは菜枝の指にぴったりと合ったものだった。菜枝も同じように手袋を外した一之瀬の指にリングをはめると少ない人数の中で拍手が起きる。
薬指にはまるリングは間違いなく結婚指輪と言われるもので、何だかやっぱり夢見心地だった。まるで全て菜枝の夢を再現するかのような式に、夢か現実かそれすらも分からなくなりそうだった。
お互いに向かい合って、一之瀬が菜枝のベールを挙げる。少し屈み込んだ一之瀬は、普段では見ることのない優しい笑みを浮かべていて、そこで酷く緊張していたことに菜枝はようやく気付く。ゆっくりと近づく一之瀬に菜枝は目を閉じて待っていると、唇にされると思っていたキスは額に落とされて、菜枝は目を開けると同時に一之瀬を見上げてしまう。
もしかして、前に人前でキスするなんて冗談じゃないというあの言葉を一之瀬は覚えていたというのだろうか。だとしたら、やっぱり菜枝としては幸せすぎて泣きそうだ。
涙でぼやけた視界でどうにか誓約書にサインをすると牧師が結婚の宣言をする。その言葉は菜枝にとってようやく実感の湧くものでもあった。
家族がいなくなってから何年も経った。寂しく思った時もあった。悲しく思った時もあった。でも、今この時から新たに家族が出来たのかと思うと、菜枝の目からは自然と涙が零れ落ちた。
結婚式は親しい人たちだけで、本当に祝福してくれる人に囲まれて挙げたい。ずっとそう思っていた。だからまさにそれは菜枝の求めていた夢のような結婚式でもあった。
涙で滲む視界で一之瀬が腕を差し出してくる。誰もが拍手をしていて、菜枝はその一之瀬に腕を絡ませる。ようやく手にした家族と一緒にその第一歩を歩き始めた————。

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